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■ Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/09/18 UP
寺院をいくつか追加しましたので、リニューアル再UPします。

2020/09/14 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

※文中、”資料A”は、「武田史跡めぐり」/山梨日日新聞社刊をさします。

2020/05/04 UP
つづきです。

■【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】

笛吹市一宮町の慈眼寺には「信玄公の戦勝祈願依頼文」が残されています。
これは永禄十一年(1568年)信玄公が越後侵攻にあたって、信州・穂保の長沼城で、甲斐国内の真言宗・天台宗の11の諸大寺に先勝祈願を依頼されたものといわれています。
祈願先としてつぎの11箇寺が伝わっています。
〔 〕は現在の御本尊ないしは現況。

法善寺(法善護国寺)(南アルプス市) 〔阿弥陀如来、Vol.4にてご案内〕
普賢院(山梨市) 〔大井俣窪八幡神社別当・普賢菩薩〕
大野寺(御坂町の現・福光園寺) 〔不動明王〕
薬王寺(市川三郷町) 〔毘沙門天〕
大蔵寺(石和町の現・大蔵経寺) 〔不動明王〕
法光寺(甲州市)・・・現・放光寺とみられる 〔大日如来〕
明王寺(増穂町) 〔不動明王〕
天台宗の喜見寺 〔現況不詳〕
満蔵院(甲府市武田) 〔毘沙門天 or 千手観世音菩薩〕
安楽院 〔現況不詳〕
慈眼寺(一宮町) 〔千手観世音菩薩〕

この祈願ののち、信玄公は北信・飯山城の攻略に成功したため、慈眼寺には赤地金襴の七条袈裟、毘沙門天像、地蔵菩薩像と水晶の数珠が寄進されたとの記録があるようです。

↑の先勝祈願11箇寺の御本尊は、不動明王と毘沙門天が多くなっています。
そこで不動明王と毘沙門天を御本尊とする寺院を先にご紹介し、その後、Vol.6で不動明王と毘沙門天以外を御本尊とする寺院をご紹介します。

■【 不動明王 】

信玄公は不動明王を信仰されていたとされます。
菩提寺恵林寺の明王殿には、信玄公が大僧正位を受けた記念に京の仏師・宮内卿法(斉藤)康清を招き、自らの姿を模刻させて髪毛を像の胸に塗りこめたという「武田不動尊」が御座します。
信玄公の肖像や武田二十四将図には、信玄公を不動明王に模して描かれている例があります。
信玄公生誕の地である要害山城にも「武田不動尊」が祀られています。

不動明王の梵名の「アチャラ」は「動かないもの」、「ナータ」は「守護者」または「尊者」を意味し、「揺るぎなき守護者・尊者」の性格をもたれます。
右手に剣、左手に羂索を握られ、忿怒の形相をとられる力感あふれるお姿で、護摩の御本尊とされる例も多い尊格です。

身延の大聖明王寺の公式Webに、「武田信玄が護摩の本尊、弓箭(きゅうせん)の守護としてこの不動明王を深く尊崇しましたが、信玄の中にそうした勇ましい甲斐源氏の血が脈々として流れていることをよく知っていたからだと思います。」とありますが、まさにそのような流れからの不動尊信仰だったのではないでしょうか。

また、有名な信玄公の旗指物(軍旗)/孫子の旗(風林火山)に、「不動如山」(動かざること山の如し)とあるので、この「不動」の文字が不動明王と重なって、不動明王と信玄公のイメージ的なつながりが、後世さらに強まっていった可能性もあります。

以下、不動明王と信玄公とのつながりが伝わる寺院についてご紹介します。

■ 乾徳山 恵林寺



公式Web
甲州市小屋敷2280
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:甲斐百八霊場第9番、甲斐八十八ヶ所霊場第73番
〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:武田不動尊 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第9番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「武田不動尊」の揮毫。
右に「甲斐百八霊場第九番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
甲斐百八霊場の札所本尊は御本尊の例が多いですが、当寺では「武田不動尊」となっています。

〔令和改元記念の御朱印〕
朱印尊格:武田不動尊 書置(筆書)
札番:なし
・中央に不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「武田不動尊」の揮毫。左上に「武田菱」の紋、中央上におそらく青龍、右上に武田家の控え紋「花菱」の紋
右下におそらく朱雀。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
青龍と朱雀は四神の内ですが、改元にちなんでの配置と思われます。
この御朱印には「甲斐百八霊場第九番」の札所印は捺されておらず、「武田不動尊」単独の御朱印となっています。

(恵林寺の詳細については、別編でご紹介します。)
信玄公の菩提寺で「武田不動尊」が御座する、信玄公とすこぶるゆかりの深い名刹です。
「武田不動尊」は「明王殿」の奥深く御座し、拝観ができます。

当寺の資料には、「この不動明王は、信玄公が京から仏師康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたもので、伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を漆に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたといわれている。」とあります。
また、『甲陽軍鑑』『甲斐国志』には、信玄公の姿を写した像であるとする伝承が記されています。

『甲斐国志』巻第75原文(国会図書館DC、コマ番号70/75)
「洛ノ佛工康清ヲ召シ対面ニ彫刻セシム其與不動明王相ヒ肖タルヲ以テ螺髪結跏シテ羂索ヲ執ラシメ焼頭髪著色トス 宛然タル忿怒明王ナリ 遂ニ造 金迦羅(矜羯羅)誓多迦(制吒迦二童左右ニ侍立セシム 但し肉法ト與明王同カラス胸臂ニ長毫アルヲ為殊ノミ」

武田不動尊は左手に羂索、右手に剣、背に迦樓羅炎を背負われ、、矜羯羅、制吒迦の二童子を両脇に従えた儀軌どおりの端正なお姿ながら、力感にあふれています。

■ 大滝山 上求寺
山梨市Web資料
山梨市牧丘町倉科5919
真言宗醍醐派 御本尊:不動明王
未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

山梨市のWeb資料には、「本尊の不動明王は寄木造、童子像は一木造で、頭部は耳前で前後に二材を矧ぎ、童子像はほぼ全身を一材から彫出し、面部を矧いで玉眼を篏入したと思われます。面部は欠失しています。火災の光背を背負って立つ、通形の不動明王像です。上半身を強く左にひねる姿は、信玄の願主とする恵林寺武田不動尊像にみられる姿です。」
とあり、信玄公とのゆかりを示唆しています。

また、(財)歴史博物館 信玄公宝物館のWebに「倉科の上求寺の不動尊像も信玄が参拝したという。」という記述があります。

『甲陽軍鑑』品第四(国会図書館DC、コマ番号18/265)に「或時八卦の本尊不動なりとて恵林寺の奥上求寺の不動へ御まいり候由申さるゝ」とあります。
出陣前の卦の守護が不動明王とでたので、信玄公自らわざわざ牧丘・倉科の上求寺まで戦勝祈願の参拝に出向かれるということは、こちらのお不動様への帰依が篤かったとみられます。

『甲陽軍鑑』には、この後段で信玄公と恵林寺の快川和尚の交流を示す一節があります。
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大通智勝國師より使僧をたて恵林寺へ御立寄被成べく候由申さるゝ信玄公御返事に近日出陣にて候間歸陣の時分は是非共見舞致すべきとのことにて候重て快川和尚仰こされけるは両袖の櫻やうヽにて此花のもとに一所かまへ待つ奉る間御立より候へかしとかさねヽ使僧なり信玄公きこしめし花と承るにまいらぬは野なりとて恵林寺へ立よりさて國師と一禮なされそれにれうしすずり御座候土屋平八郎をめしてすずりをよせすみをすり候へと被御付其御筆と料紙をとつて則あそばしける

 さそはずはくやしからましさくら花 さねこんころはゆきのふるてら
 (誘引ずは くやしからまし さくら花 実こんころは 雪のふるてら)
 源 信玄

智勝國師此歌をとりて御覧じありてほめ給ひいただき其御短寮衆御覧しありほめて各僧達拝見ありことごとく則座にて和韻なさるゝ(中略)國師の御和韻ばかりかくの分かと承はり及候なり

 太守愛櫻蘇玉堂 恵林亦是鶴林寺
(太守櫻を愛す蘇玉堂 恵林もまた是れ鶴林寺)
 快川大通智勝國師 
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信玄公が恵林寺の奥の上求寺に参拝されると聞き、大通智勝國師(快川和尚)は使僧を遣わして「恵林寺へ立ち寄られるように」と誘われたが、信玄公は「近日出陣にて、(出陣から)帰ってのちにお訪ねいたしましょう。」と応えられました。
快川和尚は、「両袖の櫻がようやく咲きかかっているので、この花のもとに一席設けてお待ちいたします。」と重ねて誘われました。
信玄公は「櫻の花のお誘いとお聞きしてお訪ねしないのは野暮(無風流)なり。」と申され、恵林寺に立ち寄られ上の歌のやりとりとなりました。
なお、「鶴林寺」とは、お釈迦様が入滅されたお寺です。

信玄公の風流心と、和歌のたしなみを示す逸話として知られている一節です。
このときの信玄公の和歌はなかなか奥のふかいものとされ、論文(→ 武田信玄の和歌をめぐって - 恵林寺の花の歌 -)が書かれているほどです。

この論文の筆者は、「『伊勢物語』を愛し、その世界を自家薬籠中のものとした信玄は、(略)『和漢朗詠集』の漢詩、(略)『源氏物語』の(略)催馬楽の言葉まで織り込んで、巧みに当座の和歌を詠み上げた。その和歌は、信玄が『真実の国守』になるにふさわしい器量を、師である快川和尚に対して見せつけるものだった。」とまとめられています。

■ 三守皇山 長光王院 大聖明王寺


公式Web
身延町八日市場539
真言宗醍醐派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第100番、甲斐八十八ヶ所霊場第35番
朱印尊格:不動明王 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第100番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第百番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

長治二年(1105年)、新羅三郎義光公開基。曾孫に当たる加賀美遠光公が京で甲斐源氏秘伝の「鳴弦の術」をもって魔物を退散させた功により、高倉天皇から宮中清涼殿に御座し、弘法大師御作とも伝わる不動明王像と勅額を賜わり収めたと伝わる名刹。

皇室の繁栄や国家安泰の祈願寺として重用され、宮中からは祈祷のための勅使派遣が行われたと伝わります。
義光公の位牌や木造が祀られ、廟所もこの寺であるとされています。

寺伝には「信玄公は護摩の本尊、弓箭の守護としてこの不動明王を深く尊崇され、祈願寺の一つとして当寺に帰依された」とあります。
源氏正統系図、当時の寺領印書、朱印状、制札など数多くの文化財を擁し、義光公・加賀美遠光公・信玄公の木造および画像などが寺宝として残されています。

弘法大師御作とも伝わる不動明王像の霊験は広く知られていたらしく、江戸時代には三回にわたって当寺御本尊不動明王の江戸「出開帳」が行われたとも伝わります。
成田山新勝寺のお不動様の初回出開帳はこちらの資料によると元禄十六年(1703年)、当山の出開帳は山内掲示資料によると「元禄、宝永、安永そして昭和と過去四度、江戸(東京)に出開帳を行っている」とあるので、当山の出開帳は成田不動尊に匹敵する古さをもつことがわかります。

名刹を物語る広大な山内。寺号標には「高倉天皇 恩賜勅號 三守皇山 長光王院 大聖明王寺」とあります。
慶長三年(1598年)の大火で多くの堂宇を焼失し、現在は、本堂(護摩堂)、客殿(遍照殿)、庫裡などが残ります。
本堂、本堂外陣、庫裡は下山大工の石川杢左衛門によるものとされ(→身延町資料)、さすがに存在感を放っています。

■ 大聖金剛山 息障院 明王寺


公式Web
富士川町舂米2
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第83番、甲斐八十八ヶ所霊場第37番
朱印尊格:大聖不動明王 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第83番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「カーン/カン」の種子と「大聖不動明王」の揮毫。
右に「甲斐百八霊場第八三番」の札所印と「国指定重要文化財 薬師如来立像安置」の揮毫。左下には山号と寺号の印判が捺されています。

甲府盆地に半月形の大きな山容を見せる櫛形山は、古くは鷹座巣(たかざす)と呼ばれました。
奈良時代の天平神護年間(765年~767年)に伊豆国甲斐国に入られた儀丹行圓上人(藤原不比等ゆかりの人物と伝わる)は、鷹座巣山中の利根川上流にある大滝(儀丹の滝)で日夜苦行を重ね、不動明王の霊像を感得されました。
この御像を御本尊として宝亀元年(770年)開山されたのが明王寺と伝わります。

「平安後期から室町の頃は広大な寺域を誇り、本堂、金堂、五重塔など多くの伽藍が立ち並んでいたそうです。歴代の皇室の勅願を賜り、菊花紋の使用が許され、のちには武田・徳川の祈願寺となり、甲斐の真言七談林の一つです。」(『甲斐百八霊場』より)

永禄十一年の「信玄公祈願先11箇寺」に「明王寺(増穂町)」としてその名がみられ、信玄公の祈願寺の役割を担っていたものとみられます。

甲斐有数の名刹を裏づけるように、「薬師如来立像」(平安初期)「鰐口」(鎌倉時代前期)の寺宝は国重要文化財に指定されています。

■ 大野山 福光園寺



まちのお寺の学校Web
笛吹市御坂町大野2027
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第40番
朱印尊格:不動明王尊 印判
札番:甲斐百八霊場第40番印判
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(火焔宝珠)と「カーン/カン」の種子と「不動明王尊」の印判。
左上に「甲斐百八霊場第四十番」の札所印。左下には山号と寺号の印判と寺院印が捺されています。

古代から栄えた八代郡にある古刹。
創建時期は不明ですが、かつては駒岳山 大野寺と号しました。
山内の観音堂に御座す「香王観音立像」は行基(668年~749年)の作と伝わるので、創建は奈良時代に遡るのかもしれません。

〔山内由緒書より〕
「当寺は推古天皇、御代聖徳太子の創立で行基菩薩が当山に錫を留められ香王観音を彫刻し、仏法結縁の霊場とされた。其の後、弘法大師が留錫され、佛像・教典の名寶を遺された希有の古刹であった。」

平安時代後期の保元二年(1157年)にこの地の領主であった大野対馬守重包により再興とされ、重包を中興開基、賢安上人を中興開山としています。

この地は爾来、甲斐の在庁官人・三枝氏の支配地で、国重要文化財指定の「木造吉祥天及び二天像」は、鎌倉時代の寛喜三年(1231年)に中興三世の良賢を勧進、三枝氏を檀越とし、仏師・蓮慶(運慶の弟子)の作とされています。
坐像の吉祥天は、全国的にもすこぶるめずらしいものです。

永禄十一年の「信玄公祈願先11箇寺」に「大野寺」としてその名がみられ、信玄公の祈願寺の役割を担っていたものとみられます。

御坂の地は、『聖徳太子伝暦』にも「甲斐の黒駒伝承」が記され、当寺にも「甲斐の黒駒」に関する伝承が伝わっているようです。
中世も「御坂牧」「黒駒牧」として軍馬の補給地になっていたとみられ、その点からも戦勝祈願の地として選ばれたのかも知れません。

樹齢900年といわれる杉や樹齢200年の枝垂桜やソメイヨシノが枝を広げて、趣きのある境内。
甲斐百八霊場第40番の札所でもあり、御朱印は庫裡にて快く授与いただけました。

■ 松本山 大蔵経寺



公式Web
笛吹市石和町松本610
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:甲斐百八霊場第3番、石和温泉郷七福神(寿老人)
朱印尊格:不動明王 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第3番印判
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。右上に「甲斐百八霊場第三番」の札所印。左には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

奈良時代の養老六年(722年)、法相宗の行基菩薩を開祖として創建と伝わる甲斐有数の古刹。
かつては松本寺と呼ばれた大寺院で、山内に物部神社を鎮守として勧請したといい、弘法大師が不動明王を彫られ納められたという伝承もあるようです。

応安三年(1370年)、足利三代将軍義満公の庶子、観道上人が中興開山として入山の際、義満公が甲斐の守護武田信成公に命じて七堂伽藍を建立。この中興開山の折から武田家祈願寺になりました。
五層の宝塔を建て、大蔵経を奉納したのが寺号の由縁とされます。

永正十三年(1516年)9月、信虎公と駿河勢との「万力の合戦」にて焼亡、その後復興されました。
永禄十一年(1568年)の信玄公の「先勝祈願11箇寺」のひとつで、「大蔵寺」の寺名で記録されています。

当寺には、川中島合戦にあたり信玄公が戦勝祈願をされたという将軍地蔵菩薩像が祀られています。
御本尊の不動明王座像は伝智証大師作とされ、矜羯羅・制多迦両童子を脇侍に力感あふれるお姿です。

庭園・現代仏画の拝観には拝観料が必要ですが、札所の参拝には必要ありません。
背後に大蔵経寺山を背負って落ち着きのよい山内。
甲斐百八霊場、石和温泉郷七福神の札所であり、御朱印は快く授与いただけました。

■ 法性山 玄法院



甲府山の手七福神巡礼Web
甲府市天神町2-18
真言宗醍醐派 御本尊:不動明王
札所:山の手七福神めぐり(福禄寿)
〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:不動明王 直書(筆書)
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と揮毫と「不動明王」の揮毫。
左上に「法性不動尊」の印判。
左下には「甲斐古府中」と山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。

建久三年(1192年)創立の真言宗醍醐派の修験寺。
寺伝によると、大永年間(1521年~)、信虎公が巨摩郡下黒沢村(高根町)から府中峰本(甲府市相川地区)に移され、信玄公の法名「法性山機山信玄」から山院号を賜り法性山玄法院と称し、武田家三代領主が本尊不動明王に戦勝祈願をした寺とのことです。

「武田家滅亡後は、徳川幕府より現在地の御領を賜り寺を移築し、真言宗醍醐派京都三宝院の末として当山派修験の法流を現在につなげています。」(寺伝)とあり、保守本流?の当山派修験寺であることがわかります。

みずからの法名を賜るというのは、よほど崇敬が篤かった証とも思われ、信玄公の不動明王への信仰の篤さが伺われます。

甲州夢小路の「時の鐘」は、当寺の鐘楼を模し、残されていた写真・鳥瞰図・礎石を基に再現されています。
の外壁といった仕様で、忠実に再現されています。

天神町の住宅街の路地に面しますが、山内は意外に広さがあり、車も停められます。
門柱の寺号標には武田菱と「法性山 玄法院」の刻字。
右手に銘木「玄法院のイチョウ」と稲荷大明神、左手に金毘羅大権現と福禄寿尊が合祀されたお堂と修行大師像。
山梨県立図書館の情報によると、「1533(天文2)年、玄法院の第八代住職が四国讃岐の金毘羅宮にお参りして、その分岐したものを湯村山城の守護神としたと言われる。」とあるので、そちらの金毘羅宮さまとゆかりがあるかもしれません。

狛犬一対、灯籠一対、本堂右手にお前立ちとみられる石造立像の不動明王。
正面扁額は「不動明王」で、開け放たれた堂内には御本尊のお不動さまと護摩壇。いかにも修験寺らしいイメージがあります。

御朱印は本堂向かって右手の授与所にて拝受しました。
修験寺は総じて猛々しいイメージがあるのですが、意外と御朱印対応がフレンドリーなお寺さんが多く、こちらでもご親切なご対応をいただきました。

このほか、甲斐市竜地の武田社にも信玄公ゆかりの「武田不動尊」が祀られています。
甲府市元紺屋町の行蔵院の御本尊も「武田不動尊」と称され、御朱印も授与されていますが、こちらは山本勘助とのゆかりが伝えられているので、山本勘助編でご紹介します。

■ 龍本山 松井田院 不動寺



群馬県安中市松井田町松井田987
真言宗豊山派 御本尊:千手観世音菩薩
札所:北関東三十六不動霊場第4番、関東八十八箇所第2番、上州三十三観音霊場第21番、上野之國三十四カ所観音霊場第13番


〔北関東三十六不動霊場の御朱印〕
朱印尊格:不動明王 直書(筆書)
札番:北関東三十六不動霊場第4番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。
右上に「北関東三十六不動霊場第四番」の札所印。左下には院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔関東八十八箇所の御朱印〕
朱印尊格:千手観音 直書(筆書)
札番:関東八十八箇所第2番
・中央に千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+宝珠)と「千手観音」の揮毫。右上に「関東第二番」の札所印。左上に霊場開創二十周年の記念印。
右下に院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔上州三十三観音霊場の御朱印(御朱印書入/専用納経帳)〕
朱印尊格:千手大悲閣 直書(筆書)
札番:上州三十三観音霊場第21番
・中央に千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+宝珠)と「千手大悲閣」の揮毫。
右上に「上州第二十一番」の札所印。
右下に院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用納経帳は、片面に御詠歌が印刷されています。

西毛の名山、妙義山を望む高台に位置し、複数の霊場札所をつとめられる上州の名刹。
複数の霊場ガイドブックに「元亀天正年間に武田信玄公により寺領を賜り」とあり、山内の縁起碑には「元亀・天正年中、武田信玄公不動尊ノ帰依篤く、寺領ヲ賜リ租税ヲ免状シ武田家祈願所ト為ス」と記されています。
また、寺宝として「武田家書状」が所蔵されています。

御本尊は千手観世音菩薩ですが、安中市のWeb情報に「慈猛上人が立ち寄った雷雨の夜、松に大龍が登り、その下に井戸の形の清水が湧いた。そこで不動尊を安置、松井田院と名付けた。松井田の里のいわれという。」とあり、寛元元年(1243年)の慈猛上人による開山時に、すでに地名のいわれとなるような著名な不動明王が祀られていたことがわかります。

慈猛上人は後深草天皇より「留興長老」の号を賜わった高僧で、下野の薬師寺の上座(長老)、下野国司も務められたと伝わります。

当地の城、松井田城は永禄七年(1564年)武田氏の攻勢で開城し、武田氏滅亡までその支配下にありました。
『上野志』(国会図書館DC、コマ番号20/226)に「安中左近将監忠成、騎馬高百十八騎、武田信玄公へ降参。安中の城本領共に甘利左右衛門妹壻に仰せ付けられ候。信州・美濃信玄軍場に詰むるなり。」とあります。

松井田・安中一帯は安中市の領地で、武田氏進出ののちは安中左近将監忠成(景繁)が
信玄公の家臣、甘利左衛門尉(信忠)の妹を娶って武田勢の麾下に入り、信州、美濃方面へ出陣しています。

同寺に伝わる「武田家書状」、あるいは「祈願所」とした日付は定かではありませんが、永禄七年(1564年)以降、松井田・安中周辺は信玄公の支配下にあり、その頃の事柄と考えられます。

江戸時代、十五世秀算僧正は徳川家康公の命により、総本山長谷寺の第四世能化となられ、家光公からも朱印地八十九石余の寺領を拝領したという高い寺格の寺院です。

三門右手の年季入った看板には「北関東三十六不動霊場第四番、上野国観音霊場第十三番」の札所案内。
参道左手の覆堂内に異形の板碑、正面の仁王門(三間一戸切妻造柿葺単層八脚、阿吽二体の仁王像安置)ともに県指定重要文化財です。
仁王門の大棟に三つ置かれた菱紋は武田菱にも見えますが、どうでしょうか。

右手六地蔵の先、参道両側に不動明王三十六童子。階段を昇ると正面が不動堂、左手が本堂です。

本堂は入母屋造銅板葺向拝付で、欄間の龍の彫刻、木鼻の獅子の彫刻ともなかなかの迫力です。
御本尊千手観世音菩薩が御座し、右手の向拝柱に「関東八十八ヵ所霊場第二番」、左手に「上野国順禮札所第十三番」の札所板が掲出されています。

不動堂は入母屋造桟瓦葺向拝付で、大棟、降棟の意匠が見事。向拝欄間の彫刻も手が込んだもの。右手の向拝柱に「北関東三十六不動尊霊場第四番札所」の札所板。

不動堂に御座す不動明王は、鎌倉時代初期、中央仏師の作と推定される精巧なお像で、県重要文化財に指定されています。

御朱印は、北関東三十六不動霊場、関東八十八箇所、上州三十三観音霊場の3種を拝受しています。(上野之國三十四カ所観音については授与不明です。)
メジャー霊場の札所につき、御朱印授与は手慣れたご対応です。

【 毘沙門天 】
毘沙門天は、仏教では天部の仏神で、持国天、増長天、広目天とともに四天王の一尊に数えられます。

四天王は帝釈天に仕え、須弥山の中腹で仏法を守護する役割を担われています。
東方を持国天、南方を増長天、西方を広目天、北方を多聞天(毘沙門天)が守護しています。
単独で祀られることも多く、その場合は毘沙門天と呼ばれ、四天王の一尊や二天門で持国天とともに祀られる場合は多聞天と呼ばれます。
七福神の一尊でもあり、この場合は毘沙門天と呼ばれます。

梵名はヴァイシュラヴァナ。
これは「よく聞く」を意味し、「お釈迦様の説法をもっともよく聞かれた(尊格)」からきているようです。(”多聞天”はここからきているとされる。)
また、クベーラ(インド神話の富と財宝の神)と同体とされ、もともと財宝神の性格をもたれています。

「軍神」という性格は、「多聞天は四天王のリーダー格」「四天王のなかでもっとも強い」という説があり、ここから来ているのかもしれませんが、これは「軍神」の性格が確立されてから後に付会されたものかもしれません。

むしろ、毘沙門天が仕える帝釈天は、戦いの神インドラと同一であり、毘沙門天は夜叉や羅刹といった鬼神を眷属として従えるという立場から、「軍神」のイメージが定着していったのではないでしょうか。

わが国では、信貴山(朝護孫子寺)において聖徳太子が戦勝祈願をされ、毘沙門天王から必勝の秘法を授かり勝利されたという逸話が有名で、以来、毘沙門天=軍神信仰が広まったとされる説があります。
いずれにしても、軍神と財宝神の両面をもたれるすこぶる強力な尊格といえましょう。

戦国武将で毘沙門天信仰の例は少なくないですが、なかでも上杉謙信公が有名で、軍旗にも「毘」の文字をつかわれていました。

信玄公も毘沙門天をふかく信仰されたと伝わります。
「川中島の戦い」は軍神・毘沙門天を信仰する両雄の戦いともいえ、両者譲らぬ激しい戦さとなったこともうなづける感じがします。

信玄公は軍陣の守り本尊として刀八毘沙門天像を信仰されていましたが、この尊像は、現在円光院に所蔵されています。(Vol.3を参照願います。)
また、武田神社内に掲出されている「(躑躅ヶ崎館)東・中曲輪平面想像図」には、館の東北に不動堂と毘沙門堂が掲載され、躑躅ヶ崎館で日頃から両尊の供養がおこなわれていたことがわかります。

信玄公ゆかりの毘沙門天は、ほかにもいくつか伝わります。

■ 徳和山 吉祥寺



公式Web
山梨市三富徳和2
真言宗智山派 御本尊:毘沙門天
札所:甲斐百八霊場第7番、甲州東郡七福神(毘沙門天)
朱印尊格:毘沙門天 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第7番印判
・中央に札所本尊毘沙門天の御紋印と種子「ベイ」と「毘沙門天」の揮毫。
右上に「大百足」の印。右下に「甲斐百八霊場第七番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

もともと武田氏と毘沙門天のゆかりはあったらしく、武田信光公は承元年間(1207年~1210年)、甲斐源氏守護のため乾徳山のふもとに吉祥寺を建立し、御本尊として毘沙門天を安置されました。
この堂宇は永禄八年(1564年)に信玄公によって再興され、これを示す当時の棟札がいまも寺に保存されていることからも、信玄公の毘沙門天信仰が伺われます。

〔山内掲示/本堂永禄八年再興棟札〕
「大檀越源朝臣晴信奉為武運長久再興之 伏願 家門繁栄武門長久至祝至檮 敬白」

吉祥寺周辺は武田軍の伝令隊としてその名を馳せた「武田百足(むかで)衆」の本拠地で、吉祥寺内陣の欄間には2m以上もある大百足の彫刻があります。
「武田百足衆」を率いた真田兵部丞昌輝は武田二十四将の真田信綱の弟で、武田二十四将に数えられる例もあります。

■ 河浦山 薬王寺





(公社)やまなし観光推進機構Web
市川三郷町上野199
高野山真言宗 御本尊:毘沙門天
札所:甲斐百八霊場第95番、甲斐国三十三番観音札所第1番、甲斐八十八ヶ所霊場第28番、甲斐西八代七福神(恵比寿)
〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:毘沙門天王 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第95番
・中央に毘沙門天の種子「ベイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「毘沙門天王」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第九五番」の札所印。左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔甲斐国三十三番観音札所の御朱印〕
朱印尊格:十一面観世音菩薩 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第62番
・中央に種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。こちらの札所本尊は十一面観世音菩薩とみられますが、十一面観世音菩薩の種子「キャ」ではありません。
観音霊場発願寺につき、聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印をつかわれているのかもしれません。
中央に「十一面観世音」の揮毫。
右上に「甲斐観音第一番」の札所印。左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔甲斐西八代七福神(恵比寿)の御朱印〕
朱印尊格:恵比寿大神 書置(筆書)
札番:甲斐西八代七福神第5番(恵比寿)
・中央に恵比寿神ゆかりの持物「鯛」の印と「恵比寿大神」の揮毫。
右上に「甲斐西八代七福神第五番」の札所印。左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。

天平十八年(746年)、聖武天皇の命により行基菩薩が自ら多聞天像を彫刻し安置したのが始まりとされる古刹。観全僧都の開山とも伝わります。
天長九年(832年)に淳和天皇から、天治元年(1124年)には源義清公からの寺領の寄進の記録が残ります。
中世は武田家から信仰され、とくに信玄公は毘沙門天への帰依篤く、当寺で度々戦勝祈願が行われ、十二天画像や川中島合戦の図などが寄進されています。

御坂山塊が芦川に向けて山裾を落とす複雑な地形に位置し、Pは山内中腹にあるので、表参道から入山するには一旦降りるかたちになります。

複数の札所を兼ねられ、入口に札所を示す石碑があります。
急な階段の上に構える山門は入母屋瓦葺三間一戸の八脚門で風格があります。
めずらしいオハツキイチョウは、国指定の天然記念物に指定されています。
山内左手に甲斐西八代七福神(恵比寿)の御座。

正面の桟瓦葺の建物は、向かって右手が本堂、中央が客殿(八之宮良純親王御座所)、左が庫裡で、入母屋造だと思いますが、客殿は唐破風向拝、庫裡玄関は千鳥破風で棟が連続しており、正確な様式・規模はよくわかりません。

本堂右手のお大師様の前を進むと、観音堂があり、こちらは甲斐国三十三番観音札所第1番の発願所となっています。こちらの札所本尊の十一面観世音菩薩は、もともと町屋にあった大眞寺の御本尊で、明治初期の大眞寺火災ののち、本寺である薬王寺に観音堂を建立し安置された(戦後に再建安置)とのこと。


客殿の上段の間には、八之宮良純親王御座所(御座の間)の一部が保存されています。
親王は、後陽成天皇の第八皇子で京都知恩院の門跡となりましたが、寛永二十年(1643年)故あって甲斐に流され、明歴元年(1655年)から5年間当寺に居住されて後、京に戻られました。
親王が起居されたことからも、寺格の高さが伺われます。

現在、3つの現役札所を兼ねておられ、御朱印は手慣れたご対応にて拝受できます。

南側に隣接して東照宮が鎮座します。
甲斐国の要所、市川郷への東照宮鎮座はいささか不思議な感じもしますが、市川の表門神社は、天正十年(1582年)、家康公甲斐入国の折に本陣が置かれて武運長久を祈願され(御陣場御宮)、慶長十四年(1609年)、徳川幕府により社殿が寄進されているので、そちらとの関連があるのかもしれません。(市川三郷町資料より)

■ 宝塔山 吉祥寺 多聞院





埼玉県所沢市中冨1501
真言宗豊山派 御本尊:金剛界大日如来
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第36番
〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:大日如来 直書(筆書)
・中央に三つの宝珠と火焔を合わせた印。御本尊金剛界大日如来の種子「バン」の種子と「大日如来」の揮毫。
右下に「毘沙門天多門院」の印。左には「三富総鎮守 毘沙門天」の揮毫と寺院印が捺されています。

〔毘沙門天の御朱印〕
朱印尊格:毘沙門天 直書(筆書)
・中央に三つの宝珠と火焔を合わせた印。毘沙門天の種子「ベイ」と「毘沙門天」の揮毫。
右に「武田信玄公守本尊」の印。左には山号・印号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔奥多摩新四国霊場の御朱印〕
朱印尊格:不詳(不動明王) 専用納経帳に捺印
札番:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第36番
・中央に種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。こちらの札所本尊は不動明王とみられますが、不動明王の種子「カーン/カン」ではありません。五大明王の種子が「キリーク」なので、そちらの御寶印をつかわれているのかもしれません。揮毫(印刷)は不明ですが、「本尊」と「不動」の文字は読み取れます。
左上に御椅子御坐された真如親王様のお大師様の御影。右上に土佐國獨鈷山青龍寺にちなむ御影。右に「奥多摩新四国第三十六番」の札所印。左に多門院の山号印と青龍寺の寺院印が捺されています。
※こちらの札所は当初瑞穂町長岡の開山所内に安置されていましたが、「2013年に多聞院に移管され開眼法要が行なわれた。」との情報があります。(→情報元

埼玉県所沢市にある多門院には、信玄公ゆかりとされる毘沙門天が祀られています。
この地は江戸時代、川越藩主の柳沢吉保が新田開拓をおこなったところで、吉保は開拓農民の菩提寺多福寺を祈願所として、毘沙門社を建立しました。

寺伝では、毘沙門堂(社)後本尊の毘沙門天は信玄公の守り本尊で、信玄公が戦陣に臨まれるときはいつも兜の中にこの像を納めていたと伝わります。
「信玄公の戦陣守り本尊である毘沙門天像は、甲斐源氏の末裔を称した柳沢吉保の手に渡った」という伝承があり、その伝承ゆかりの御像とみられます。

はじめて参拝したときはこの由来を知らなかったので、境内で武田菱と「信玄公守り本尊」ののぼりを目にしたときは正直おどろきました。(武田軍は吉見の松山城を落としていますが、所沢までは侵攻していないはず。だからこの地に信玄公ゆかりの寺院があるのはナゾでした。)
境内で↑の寺伝を確認、川越藩主の柳沢吉保ゆかりということで納得がいきました。

このほか、塩山(甲州市)の熊野神社には、信玄公の寄進とされる「紙本著色刀八毘沙門天像図」が伝わり、これは信玄公が躑躅ヶ崎館で崇拝されていたものとされています。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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