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■ Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/11/26 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

2020/04/30 UP
つづきです。

〔 信玄公の信仰 〕
つぎに信玄公が信仰されていた尊格という視点から、まとめてみたいと思います。
『甲陽軍鑑』には神社仏閣、尊格についての記述が数多くありますが、まだ読破していないので、現時点で情報がとれている寺院についてのみです。
わかり次第、追記します。

【 山梨岡神社 】

■ 山梨岡神社



山梨県神社庁資料
笛吹市春日居町鎮目1096
御祭神:大山祇神、高龗神、別雷神
旧社格:式内社(小)論社、郷社
授与所:境内社務所(TELにてお伺い)
御朱印揮毫:山梨岡神社

山梨岡神社は古代に創建され、式内社論社に比定される甲斐国有数の古社です。
御祭神は、大山祇神、高龗神、別雷神の三柱で、当初は背後の御室山そのものが神として崇められていたともみられます。

山梨県神社庁資料には「人皇十代崇神天皇の御代、国内に疫病の流行や災害が多発し、これを憂ひた天皇の勅命により背後の御室山中腹に創祀される。後十三代成務天皇の御代に麓の山梨の群生林を切り開いて現在地に遷座され山梨岡神社と号す。」とあり、「山梨」の地名発祥の地と伝えられます。
旧社地には御室山古墳があります。
御室山で行われる山焼き「笈形焼」は、日本有数の規模をもつそうです。

「古くは山梨明神・山梨権現・日光権現とも称せられ武田家累代の祈願所として篤く崇敬された。」「古来より伝はる太々神楽は、武田信玄公出陣の際戦勝を祈願して奉納された神楽として伝へられてゐる。」(山梨県神社庁資料)とあり、武田家や信玄公の尊崇の篤さがうかがわれます。

武田軍出陣の際に戦勝祈願の社参がなされたという記録が複数あり、躑躅ヶ崎館の氏神とする史料もあるようです。
笛吹市の資料にも「武田家累代の氏神として崇拝され、武田信玄が出陣のたびに、戦勝祈願をしたといわれています。」とあります。

当社には、「虁(き)ノ神」という神獣の像が祀られています。
「状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。」(『山海経』)
虁ノ神は、雷神、水神、魔除けの神として信仰を受け、徳川将軍家から夔ノ神の神札が大奥や御三家、旗本らに差し出されたという記録があり、夔ノ神信仰が広まったとみられています。

また、「山梨(やまなしの)岡」は、古来名所歌枕として知られ、
- 甲斐かねに咲にけらしな足引きの やまなし岡の山奈しの花 - 能因法師
という歌が残っています。

上の由緒を裏付けるように、信玄公ゆかりの宝物や行事がいまも残ります。
「武田家より譲り受けた『社参状』は、諏訪大社上社の神主あてに武田信玄が出した文書です。『穴山梅雪等が宝鈴を鳴らすために諏訪神社上社を訪れる』といった内容が書かれています。」「社参状とともに武田信玄から譲り受けた『椀』2個も保管されています。椀には武田菱(武田家の家紋)等が描かれています。」「『禁制を書いた板』には御室山でかってに木を切ったりする事を禁止すると書かれています。」(以上、笛吹市資料より)

また、当社に伝わる「太々神楽」(だいだいかぐら)二十四種の舞のうち、二十番目の「四剣の舞」は”信玄公出陣の神楽”とも称され、信玄公が戦さの勝利を願い奉納させた神楽だといわれています。(笛吹市資料)

国道140号からおくまった御室山の山裾に鎮座します。
参道右手に天然記念物「山梨岡神社のフジ」の藤棚。
参道橋を渡ると空気が変わり、式内社(論社)ならではの神さびた雰囲気が漂っています。

正面に桁行五間入母屋造桟瓦葺の拝殿、右手に神楽殿、その裏手には御室山信仰を思わせる一画があります。
本殿は室町時代末の建立とそれ国の重要文化財に指定されています。桁行二間の隅木入春日造杮葺、片流れ向拝付とのことです。

御朱印は境内社務所に連絡先が書いてあったので、TELするとご神職においでいただけ授与いただけました。
ご多忙のところ、ありがとうございました。

【 八幡神 (八幡大菩薩)】
八幡神は、源義家公が石清水八幡宮で元服して自らを八幡太郎と称されたことから清和源氏の崇敬が厚く、甲斐源氏の多くも氏神として祀りました。
Vol.1でご紹介した武田八幡宮や(甲斐國総社/宮前)八幡神社はその好例ですが、山梨市に鎮座される大井俣窪八幡神社もまた、武田家とのゆかりが深いお社です。

【 (大井俣)窪八幡神社 】
山梨県神社庁資料
 
 
 
公式Web
山梨市北654
御祭神:誉田別尊(中殿)、足仲彦尊(北殿)、息長足姫尊國魂大神命(南殿)
旧社格:式内社(小)論社、県社
元別当:八幡山 神宮寺(山梨市北)
授与所:境内社務所(不定期、事前問合せがベター)
朱印揮毫:大井俣神社 窪八幡宮 直書(筆書)〔令和元年5月拝受〕
朱印揮毫:大井俣 窪八幡神社 直書(筆書)〔平成28年9月拝受〕

社伝によると、清和天皇の勅願により貞観元年(859年)、宇佐神宮の八幡三神を音取川(今の笛吹川)の中島(大井俣)の地へ勧請、水害により現社地に遷座されました。
甲斐源氏、ことに本流武田家代々の氏神として崇敬され社殿が整えられました。

信虎公、信玄公の崇敬も篤く、信虎公は天文八年(1539年)の厄年に鳥居を寄進し、その際には信玄公が当社に代参されています。
天文十四年(1545年)には直筆とされる歌仙絵(板絵著色三十六歌仙図)を奉納、翌天文十五年には三条夫人も社参されています。
本殿の金箔は弘治三年(1557年)の川中島合戦に際して信玄公が捺させたものと伝わり、木造狛犬六駆、鐘楼も信玄公の寄進・再建によるものとされています。

当社は文化財の宝庫として知られています。
一の鳥居(室町後期、木造両部鳥居、重文、現存する国内最古の木造鳥居)
神門(室町後期、四脚門切妻造檜皮葺、重文)
摂社若宮八幡神社本殿(室町中期、三間社流造檜皮葺、重文)
拝殿(室町後期、桁行十一間切妻造檜皮葺、重文)
本殿(室町後期、桁行十一間流造檜皮葺、重文)
とくに本殿は三間社流造の三社を間に一間をおいて横に連結した形状で、わが国に現存する最大の流造本殿とみられているそうです。

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八幡神が武田軍の軍陣で祈願された例として、「三方ヶ原の戦い」前の信玄公自作とされる歌が知られています。
元亀三年(1572年)秋、西上の軍を起こした信玄公は伊那口から徳川領の遠江に侵入し、徳川方の本多・内藤偵察隊を「一言坂の戦い」で一蹴。
つづいて要衝・二俣城を落とし、家康公が拠る浜松城を素通りして西上をつづけるかの動きをとりました。

『甲陽軍鑑』によると、二俣城進発の際、信玄公はつぎのような歌を八幡神に捧げたとされています。
- ただたのめたのむ八幡の神風に 浜松が松は倒れざらめや -

武田軍の浜松城攻めを想定していた家康公は、城の目の前を敵軍が通過するという事態に直面しました。
浜松城籠城を唱えた家臣もいましたが、家康公は「たとへば人あってわが城内を踏通らむに、咎めであるべきや、いかに武田か猛勢なればとて、城下を蹂躙しておし行くを、居ながら傍観すべき理なし、弓箭の恥辱これに過ぎじ、後日に至り、彼は敵に枕上を踏越されしに、起きもあがらでありし臆病者よと、世にも人にも嘲られむこそ、後代までの恥辱なれ、勝敗は天にあり、兎にも角にも戦をせではあるべからず」との名言を発し、出撃を命じたと伝わります。(→東照宮御実紀附録巻二(国会図書館資料のP.28))

三方ヶ原の台地にのぼった武田軍は、徳川・織田連合軍の進撃を察知すると、やにわに軍の向きを変え、悠々と魚鱗の陣を敷いて徳川・織田連合軍を迎え撃ったとされます。
連合軍は武田軍に撃破され、浜松城に退いたというのが、家康公の数少ない敗戦といわれる「三方ヶ原の戦い」です。
「徳川家康三方ヶ原戦役画像(「顰(しかみ)像」)」(徳川美術館所蔵)は、家康公が三方ヶ原の敗戦直後に自戒のため描かせたとする伝承があります。
「慢心を戒めるために敗戦時の自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」という人生訓は、この絵とともに後世に広く伝えられ、信玄公の戦さの強さもまた、人口に膾炙することとなりました。

信玄公ゆかりの八幡神社は県内外にまだまだ事例があると思いますので、わかり次第追記します。

【 諏訪明神 】
信玄公の諏訪明神信仰をもっともよく示すのは、武田家の重宝であり信玄軍の軍旗である「諏訪神号旗」(御旗)でしょう。
「諏訪神号旗」は、「孫子の旗」とともに武田の軍旗として用いられたとされ、「諏訪法性旗」「諏訪明神旗」「諏訪梵字旗」と呼称される3種の旗の総称です。
なかでも「諏訪法性旗」は信玄公直筆と伝わります。
現在、「諏訪神号旗」甲州市塩山の雲峰寺、恵林寺などに所蔵されており、詳細は各々の記事をご参照願います。

側室とされた諏訪御料人は、諏訪大社上社の大祝、諏訪頼重公の息女であり、諏訪御料人が産んだ世継ぎの勝頼公もこの血筋を継いで、武田家の家督相続以前は諏訪四郎勝頼と称されました。
信玄公と諏訪大社大祝家はこのような結びつきもあります。

Web上では、信玄公が諏訪大社上社に度々戦勝祈願をしたという記事が複数みつかりますが、いまのところ史料が見当たらないので、確認できたら追記します。
(諏訪大社の御朱印は、別編の「武田勝頼公編」でのご紹介を考えているので、ここではふれません。)

2019年5月、長野県立歴史館は永禄十年(1567年)、信玄公が諏訪大社内にあった寺院に宛てて新たな寄付を約束した公的な文書(朱印状)の入手を公表しています。
寺院名の確認ができないのですが、この寺院が諏訪大社と深い関係にあるとすると、信玄公のお諏訪様信仰を間接的に裏付けるものになるかと思います。

■ 白華山 慈雲寺
公式Web
 
 
長野県諏訪郡下諏訪町東町中606
臨済宗妙心寺派 御本尊:千手千眼観世音菩薩
札所:伊那諏訪八十八ヶ所第18番、諏訪郡百番霊場西21番
朱印尊格:圓通閣 書置(筆書)
札番:なし
・中央に御本尊、千手千眼観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と中央に「圓通閣」の揮毫。
右上に扁額にちなむ?印。左には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

正安二年(1300年)、諏訪大社下社大祝金刺満貞の願意を受けて、来朝僧一山一寧国師により開山された下諏訪の名刹で、「下社春宮の鎮護を目的に建てられた鬼門寺」という説もあります。
寺伝によると、天文六年(1537年)の火災の折、当時の住職天桂玄長禅師は甲斐の恵林寺住職も兼務され信玄公の帰依を受けており、その縁により信玄公の支援復興がなされたため、信玄公が当寺の中興開基とされています。

また、信玄公が川中島合戦に向かう際に当寺を訪れ、矢を除ける念力のある石「矢除石」の御札を授かったという伝承もあります。
信玄公と諏訪大社との間接的なつながりを示す寺院とみられます。

■ 南宮大神社
山梨県神社庁資料
 
 
韮崎市大草町上條東割790
御祭神:大己貴命、事代主命、建御名方命、金山彦命
旧社格:郷社
授与所:若宮八幡宮社務所(韮崎市若宮1-4-14)
朱印揮毫:南宮大神社 直書(筆書)

韮崎市大草町鎮座の南宮大神社も信玄公ゆかりの神社とされています。
現地掲示の由緒書によると「諏訪明神すなわち建御名方命を主祭神とし、大己貴命・事代主命・金山彦命を配祀する」「社記によれば、新羅三郎義光が甲斐任国の時崇敬して社壇を造営したといい、武田太郎信義、その嫡男一条次郎忠頼も篤く崇敬し、武田一条氏が武川地方に封ぜられると、当社を産土神として崇敬し、その支族の武川衆諸氏も協力して当社に奉仕した史料を伝えている。また武田信玄は当社の禰宜(神主)に対し、 府中八幡宮に二日二晩参篭し、武田家武運長久と領内安穏の祈祷をすることを命じた。」

府中八幡宮は甲斐の総社的な神社で、こちらへの参篭依頼は直接的に諏訪信仰を示すかどうかは微妙ですが、信玄公と韮崎の諏訪系神社の交渉を示すものではあると思います。

■ 諏訪南宮大神社
山梨県神社庁資料
笛吹市境川町寺尾4023
御祭神:建御名方命、金山彦命
旧社格:村社
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は非授与の模様です。

山梨県神社庁の資料によると、治承年間(1177年~1181年)に沙弥厳尊が創建、その後曽根氏が代々造営し、天正年間までは二社別殿にて近在第一の社として栄えました。
天正以後に古宮の地より現社地に遷られました。

曽根氏は清和源氏・源清光公の子である曾禰(曽根)禅師厳尊を祖とし八代郡曾禰に拠った名族で、曽根内匠(昌世)は信玄公の側近、奥近習六人衆に数えられていますが、その嫡子・曽根周防守は永禄八年(1565年)の義信事件に加担した科で断罪されています。
曽根内匠(昌世)は武田家滅亡後も存命し、武田遺臣が家康公に提出した「天正壬午甲信諸士起請文」のまとめ役を果たしたとみられています。

武田家の信仰篤く、本殿扉には武田逍遙軒信網自筆寄進の松杉桜菊其外四季の草花を配した本殿扉絵があります。
信玄公の川中島戦祈願状一章は、本殿扉絵とともに市の文化財に指定されています。

■ 松原諏方神社
公式Web
長野県小海町大字豊里4319
御祭神:建御名方命、事代主命、下照比売命
旧社格:郷社
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

天智天皇600年代の御宇の創立と伝わる中信・松原湖の古社で、上社と下社からなります。
信玄公の崇敬篤く、何度も信玄直筆の祈願文が届き祈願し出陣したと伝わります。
上社境内には、国の重要文化財「野ざらしの鐘」(県下最古)があり、「武田信昌(信玄公の曽祖父)が佐久地方に侵入した際の落合慈壽寺からの戦利品で、松原諏方神社に奉納した物です。」(社伝より)

■ 船形神社
山梨県神社庁資料
北杜市高根町長沢2606
御祭神:建御名方命
旧社格:郷社
※未参拝です。参拝次第、追記します。
北杜市高根町には当社と小池の船形神社があり、小池の船形神社は本務社の諏訪神社(北杜市高根町蔵原1844 )で拝受できるようですが(要事前連絡)、当社については御朱印情報は得られていません。

北杜市高根町あたりは、武田軍が信濃侵攻の折に通過したエリアですが、高根町長沢には信玄公が武運長久を祈願し神領二石八斗を寄進したという(山梨県神社庁資料)、船形神社が鎮座しています。
御祭神は建御名方命、以前は諏訪明神と呼ばれたとあり、この寄進も信玄公の諏訪明神への信仰を物語るものとみられています。

■【 浅間神社 】

■ 冨士御室浅間神社
公式Web
 
 
 
 
富士河口湖町勝山3951(里宮)
御祭神:木花開耶姫命
旧社格::県社 別表神社
授与所:里宮境内社務所
朱印揮毫:里宮:冨士御室 直書(筆書)
朱印揮毫:二合目本宮:北口二合目本宮 直書(筆書)

文武天皇三年(699年)藤原義忠により霊山富士二合目に奉斉され、富士山最古の社と伝わります。富士噴火のため焼失し、その後しばしば再興・増設されました。
天徳二年(958年)には、村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖南岸に里宮が創建され、中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展したとされます。

戦国期には武田家三代に渡り崇敬を受け、信玄公直筆の安産祈願文をはじめ多くの宝物がいまも所蔵されています。
信玄公直筆の安産祈願文は、信玄公が武田・北条・今川の三国同盟のため北条氏政に嫁がせた長女黄梅院の安産を願って、弘治三年(1557年)当社に奉納された願文です。
また、富士河口湖指定文化財の武田不動明王(木像)は、信玄公の目刻と伝わります。

黄梅院は母を三条夫人とし、天文二三年(1554年)12歳で北条氏康公の嫡男・氏政公に嫁ぎ、氏政公との間に北条家五代目当主、氏直公をもうけています。
永禄十一年(1568年)12月、信玄公の駿河侵攻を受けて三国同盟は破綻し、黄梅院は甲斐に送り返されました。
甲斐では甲府の大泉寺住職の安之玄穏を導師に出家したともいわれ、永禄十二年(1569年)6月17日、27歳で逝去されました。

信玄公は巨摩郡竜地(現・甲斐市龍地)に黄梅院の菩提寺黄梅院を建立して葬され、墓碑が現存しています。
夫の氏政公は武田氏と再び同盟した後の元亀二年(1571年)、箱根早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬したと伝わります。

■ 北口本宮冨士浅間神社
公式Web
 
  
 


 
【写真 上(左)】 信玄公再建と伝わる「東宮本殿」
【写真 下(右)】 冨士登山道吉田口(北口)

 
【写真 上(左)】 諏訪神社
【写真 下(右)】 諏訪神社の御朱印

富士吉田市上吉田5558
御祭神:木花開耶姫命、彦火瓊瓊杵命、大山祇神
旧社格::県社 別表神社
授与所:境内社務所
朱印揮毫:北口本宮冨士浅間神社  北口本宮 直書(筆書)
朱印揮毫:諏訪神社:諏訪 直書(筆書)

景行天皇四0年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りして創建と伝わります。
天応元年(781年)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦七年(788年)、大塚丘の北方に社殿を建立。これが現社地で、浅間大神をお遷しし大塚丘には日本武尊をお祀りしました。

平安期以降、山岳信仰が広まり、各地で修験道が盛んになるにつれ当地でも富士講が組織されました。
大宝元年(701年)、初めての富士登山者は修験道の開祖とされる役小角(神変大菩薩)とされ、富士講の開祖とされる藤原角行師は天正五年(1577年)に登山されています。

貞応二年(1233年)北条義時公が造営し、永禄四年(1561年)に信玄公が再建されたという社殿「東宮本殿」が現存します。
信玄公は当社に安産や病気平癒を祈願するなど崇敬篤く、川中島の合戦の際には「東宮本殿」を再建され戦勝を祈願したと伝わります。

境内社の諏訪神社は「勧請された年代が明らかになっていない大変古いお社であり、この地域の元々の土地神とされています。当社周辺地域の字(あざ)名も「諏訪の森」と呼ばれており、さらに当社の祭典「吉田の火祭り」は諏訪神社の例祭でもあります。」(公式Webより)
こちらの諏訪神社と信玄公とのゆかりは、現在のところ情報がとれておりません。

信玄公は、調略活動に「透波」や「三ツ者」といった”忍びの者”を使いましたが、領内の山岳信仰の拠点の山伏や御師も登用したとされます。
吉田エリアの浅間神社は「富士御師」を組織していたので、単なる信玄公の祈願信仰の対象のみならず、調略活動とも切り離せないものだったかも知れません。

※甲斐国一宮 浅間神社については、Vol.2でご紹介しています。

■【 飯縄大権現 】

飯縄大権現とは、信濃国上水内郡の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰の本尊で、神仏習合の尊格です。
戦勝の神として、足利義満公、細川政元公、上杉謙信公、武田信玄公など中世のそうそうたる武将に深く信仰されました。

飯縄山に本拠する修験は「飯縄修験」と呼ばれ、「千日太夫」と称する行者が代々その長を務めました。
信玄公の時代の「千日太夫」は、信玄公により安曇郡から移された仁科氏が務めていたとされます。

仁科氏は、信濃国安曇郡の名族で、さまざまな流れが伝わっています。
戦国期の当主で森城主、仁科盛能(道外)は信濃守護・小笠原長時と縁戚関係にあり、当初は小笠原氏や村上氏と連携して武田に抗していました。
天文十七年(1548年)の塩尻峠の戦い(信玄公と小笠原長時の戦い)の前に戦線離脱して小笠原氏と袂を分かち、天文十九年(1550年)(天文二二年とも)に仁科上野介を介して武田氏に臣従しています。(『高白斎記』)

以降、仁科氏は武田方に帰属しましたが、永禄四年(1561年)第四次川中島の戦いの折の一族の内紛などで上杉氏についたとする説もあります。
このあたりの動静は不詳のようですが、仁科盛能(道外)、盛政と家督は嗣がれ、盛政の代で仁科氏嫡流は断絶したという説があります。

信玄公は、この仁科氏の名跡を自らの五男に継がせました(仁科五郎盛信)。
なお、「仁科氏系譜」によると、仁科盛政の子、盛孝と盛清は信玄公の許しを経て「千日太夫」の養嗣となり、天正六年(1578年)に勝頼公から「仁科勘十郎」を世襲名として与えられ、神官として明治維新まで存続したとされます。

すこしく話がとびますが、仁科五郎盛信は、武田家の戦いを語るうえで欠かせない人物なのでご紹介します。
仁科五郎盛信は、弘治三年(1557年)、母を油川夫人とし信玄公五男として生まれました。
油川氏は武田氏一門で、油川夫人は油川信守の息女とされます。
信玄公の側室として嫁し、盛信のほか葛山信貞・松姫(織田信忠婚約者)・菊姫(上杉景勝正室)をもうけました。

永禄四年(1561年)、信玄公の意向を受けて仁科氏の名跡を継ぎ、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継いで、勝頼公の時代も仁科一族を率いて信越国境を守りました。
勝頼公と織田・徳川勢力との対立が激化すると、居城の安曇・森城のほかに伊那の高遠城主を兼任しました。
天正十年(1582年)2月、織田軍による甲州征伐が始まり、盛信が守る高遠城は織田勢五万の大軍に包囲されました。
攻将、織田信忠は盛信に降伏を勧告しましたが、盛信はこれを拒否。高遠城は織田軍の猛攻を受け、盛信は奮闘の後、自刃したと伝わります。

享年26。墓所は高遠の桂泉院、高遠城鎮護の寺としても伝わる古刹です。

武田家の終焉に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続くなか、高遠城において最後まで奮戦、討死した盛信の戦いは、武田武士の気概を示すものとしていまに伝えられています。

信玄公の飯縄信仰を伝える史跡として、長野市富田の飯縄神社(皇足穂命神社)があります。
全国に祭祀されている飯縄神社の惣社で、奥宮は飯縄山頂上に鎮座します。

公式Webに詳しい由緒書が掲載されていますので、武田家関連の箇所を抜粋引用します。
「飯縄大明神は代々千日大夫と通称した修験者によって奉仕されていました。戦国争乱中の武将からも厚く信仰され、弘治三年(1557年)芋井の葛山城(長野市)を攻略した武田晴信(信玄)は、飯縄大明神の神官千日大夫に対し安堵状を与え、武田家の武運長久を祈らせました。また功績によって、元亀元年(1570年)には、芋井を中心に沢山の所領を寄進しております。また伝承では元亀頃飯縄神社里宮を荒安村に造営したといわれています。天正八年(1580年)閏三月、武田勝頼は千日大夫あての朱印状をもって、里宮の造営と遷宮を行っております。このようにして飯縄大明神の里宮が荒安村にでき、千日大夫もまた居を据え、門前百姓も定まりました。」

■ 飯縄神社(皇足穂命神社)
公式Web
長野県長野市富田380
御祭神:大己貴命、事代主命、建御名方命、金山彦命
旧社格:式内社(小) 郷社 
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は奥宮のものも授与されているようですが、期間限定とのWeb情報があります。

■ 金剛山 普門寺
公式Web
相模原市緑区中沢200
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:武相卯歳四十八観音霊場第25番
※授与されている御朱印は武相卯歳四十八観音霊場第25番のみとのこと。(御開帳時以外も授与。)


〔武相卯歳四十八観音霊場の御朱印(専用納経帳)〕
朱印尊格:聖観世音菩薩
札番:武相卯歳四十八観音霊場第25
・見開き綴じ込みのタイプです。右が御朱印、左が札所案内です。
中央上に聖観世音菩薩の種子「サ」の種子と「聖観世音菩薩」の揮毫。
右上に「武相第二十三番」の札所印。左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

相模原市中沢の普門寺も信玄公の飯縄信仰を伝える宝物を所蔵しています。
普門寺は天平年間(729〜748年)、行基により創立されたと伝わる古刹で、「額に武田菱の紋所を掲げ、信玄公に篤く尊信せられ、当山の栄隆を計らんがため信州飯綱山より持ち来たりて奉祀せらるると伝えられる『飯縄大権現』の尊像」(寺伝より)がお祀りされています。

地元中沢村の鎮守神の別頭寺院として、「中沢の普門寺」と称され親しまれてきたとのことです。


【写真 上(左)】 飯縄大権現堂の参道
【写真 下(右)】 飯縄大権現堂からの眺め

飯縄大権現堂は、観音堂左手奥の石段百四十七段を登った高みにあり、津久井湖方面の眺望が見事です。
このあたりは、甲斐の郡内から流れ下る相模川(桂川)が相模原に入るところで、戦略的にも要衝であった感じがします。


【写真 上(左)】 飯縄大権現堂
【写真 下(右)】 飯縄大権現堂の向拝部

御神木のスダジイなど、うっそうと繁る木立のもと、桁行四問、梁間三問の拝殿、一間四面の本殿からなる権現造銅板葺のお社が鎮座します。
拝殿の軒は深く、向拝柱は軒下に収まっています。
向拝脇の軒下には奉納された天狗と烏天狗のお面が掛けられ、正面桟唐戸の上には扁額(解読できず)が掲げられています。

飯縄大権現の尊像は、火焔を背負い白狐に乗られる飯縄大権現のお姿ですが、不動明王の顔立ちをされ、額には武田菱の紋所を掲げられています。
信玄公が信州飯綱山よりに持ち来たりて奉祀せらるると伝わり、信玄公の尊信篤かった尊像と伝わります。

戦の神、農業の神、繭の神として信仰され、一月十四日の例祭日には繭玉が奉納され、今日でも諸願成就の神様として信仰されています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 仁王門

普門寺は、相模原の西端、津久井湖の北側の複雑な地形の場所にあります。
山門から観音堂、本堂にかけては南傾の明るい境内です。

参道は玉垣に囲まれ、親柱は寺号標と「武相卯歳観音霊場 第二十五番目札所」の札所碑を兼ねています。
参道石段正面の仁王門は三百年前頃の造営で、三門一戸八脚の単層門で山号「金剛山」の扁額。
照りの強い堂々たる屋根の大棟には金色の武田菱が輝いています。
両脇間に御座す二体の仁王さまは、運派系の仏師、全慶の作といわれる力感あるお姿です。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 改修中の観音堂

仁王門の正面に観音堂、右手に本堂がありますが、観音堂は参拝時大がかりな改修中で仮囲いが組まれ、そばには近寄れませんでした。
掲示によると「本事業は2023年4月に行われる『第23回武相卯歳観音御開扉』に合わせた整備完了を目指します。」とのこと。

観音堂は市の登録有形文化財で、桁行三間、梁間四間(手前一間外陣、奥三間内陣)の宝形造で、見るからに観音堂の佇まい。
向拝は流れ向拝のように見えますが、一文字葺き簑甲と思われる端部の仕上げが印象に残ります。
水引虹梁両端に彫刻の木鼻と上に斗栱、中備に板蟇股、身舎斗間には間斗束らしきものが見えます。

観音堂御本尊の木造の聖観世音菩薩立像は、行基の作とも伝えられ、市の指定有形文化財です。
神奈川県に残るすぐれた藤原彫刻の一つともいわれ、「武相卯歳四十八観音霊場第25番」の札所本尊です。原則として卯歳の総開帳以外は秘仏とされているようです。

観音堂右手の本堂は桁行七間の寄棟造(入母屋造平入?)で、宝形造の観音堂とバランスのとれた対比を見せています。
御本尊の不動明王は江戸時代の作と伝えられ、背後山上の飯縄大権現の本地仏です。

庫裡玄関には武相観音霊場の汎用御朱印帳用の書置が用意されていましたが、わたしは専用納経帳で拝受しているので、奥から専用用紙のものをお出しいただきました。
なお、授与されている御朱印は、武相卯歳四十八観音霊場第25番のみとのことです。

■ 加賀美山 法善護国寺
公式Web
 
 
 
南アルプス市加賀美3509
高野山真言宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:甲斐百八霊場第88番、甲斐八十八ヶ所霊場第88番
朱印尊格:阿弥陀如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第88番印判
・中央に御本尊、阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と中央に「阿弥陀如来」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第八八番」の札所印。左には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

若草町加賀美(現・南アルプス市加賀美)にある法善護国寺(法善寺)は武田八幡宮の元別当寺で、武田氏の始祖、武田信義公の弟加賀美遠光公の館跡とされ、甲斐源氏(信濃源氏)とのゆかり深い高野山真言宗の古刹です。
弘法大師霊場の甲斐八十八ヶ所霊場では第88番の結願所となっており、甲斐国内の真言宗で重要な地位を占めていたことが。

こちらには寺宝として信玄公の祈願文が所蔵されています。
これは元亀三年(1572年)4月の祈願文で、「今年一年間は越軍(上杉謙信軍)が、信濃、上野の二国に兵を動かすことのないように」という祈願で、本願成就の暁には「法華経百部の読経をもって飯縄大権現に献じます」と結ばれているそうです。

元亀三年は信玄公が西上の兵をあげられた年です。
過ぎる元亀二年(1571年)10月、信玄公は北条氏政公と和睦し、武田・北条の同盟が復活しました。
西上にあたっての信玄公の懸念は上杉の動き(出兵中に背後をつかれること)だけになり、そのような状況を受けての願文とみられています。
「本願成就」は「上洛」をさし、これを「信玄公上洛の願文」とみる説もあります。

大寺の風格をもち、本堂、不動明王殿のほか諸堂を擁します。
甲斐百八霊場第88番の札所で、御朱印は雰囲気のある庫裡で快く授与いただけました。

■【 戸隠大権現 】

■ 戸隠神社
公式Web
長野県長野市戸隠3690
御祭神:天手力雄命
旧社格:旧国幣小社 
※以前参拝していますが、御朱印は未拝受です。参拝次第、追記します。

御神体を戸隠山とされると伝わる北信の古社。
ふるくから霊場として全国に知られ、平安末期末期の『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山…」とあります。
中世以降は、密教と神道の神仏習合の戸隠山 勧修院 顕光寺として隆盛、多くの修験者や参詣者を集めました。

戦国期には武田、上杉両軍の戦の影響が大きく、混乱を招いたと伝わります。
明治の神仏分離により、戸隠山 顕光寺は寺を分離して神社となりいまに至ります。

当社には信玄公直筆とされる「奉納祈願文(武田晴信願状)」が宝物として所蔵されています。
これは永禄元年(1558年)に奉納された「信濃一円の掌握と上杉の滅亡を戸隠中院大権現に祈願した願状」とされます。

■【 愛宕権現 】
愛宕権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号で、イザナミを垂迹神、(勝軍)地蔵菩薩を本地仏とします。
明治の神仏分離前は、軍神、塞神、天狗信仰が習合した複雑な尊格で、戦国時代にはことに(本地?)将軍地蔵菩薩が軍神とされ信仰されていたようです。

愛宕権現の総本社、京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社(江戸期以前は白雲寺)はその若宮に火の神であるカグツチ(迦遇槌命、火之迦具土神)を祀り、火伏せ・防火の神として尊崇を集め、全国の愛宕権現も火伏せ・防火の神として祀られる例が多いです。

愛宕町の愛宕神社は明治以前には「愛宕権現(社)」「愛宕勝軍(大)権現」「愛宕勝軍地蔵権現」などと呼ばれていました。
創祀年代は不明ですが、信玄公の命令により、古府中の聖道小道路に躑躅ヶ崎館の鬼門守護のため祀り、相模国愛宕山から地蔵菩薩を招来して安置したことが始まりと伝えられています。(現地看板、山梨県神社庁史料)
なお、甲府の北に連なる山々は「愛宕山」と通称されますが、この愛宕山と愛宕神社の関連は定かではありません。

甲府五山の円光院には信玄公が信仰された「勝軍地蔵尊像」が奉安されており、信玄公の勝軍地蔵尊像信仰を示すものとされます。
躑躅ヶ崎館の鬼門守護とあわせ、信玄公の軍神としての信仰も受けていたことが伺われます。

■ 愛宕神社
山梨県神社庁資料
 
 
 
甲府市愛宕町134
御祭神:火之迦具土神、建御名方神、日本武尊
旧社格:村社
授与所:境内下社務所
朱印揮毫:令和 愛宕神社 直書(筆書) ※改元記念の御朱印

■【 三宝荒神 】

■ 真如山 良林寺 華光院
 
 
甲府市元紺屋町33
真言宗智山派 御本尊:三宝大荒神
札所:山の手七福神めぐり(毘沙門天)
〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:本尊 三寶大荒神 直書(筆書)
・中央に種子の御寶印(火焔宝珠)。三寶荒神の種子は「バン」とみられますが、この御朱印の種子は「バン」ではありません。「バン」の荘厳体の「バーンク」にも見えますが、定かではありません。中央に「本尊 三寶大荒神」の揮毫。右上と中央の印判は不詳。左には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。
令和に入って3日目の拝受だったので、「奉祝」「天皇陛下御代替」の揮毫があります。
左上の「甲州修験道場」の印判は、修験寺としての歴史を示すものです。

〔山の手七福神めぐり(毘沙門天)の御朱印〕
・中央に種子の御寶印(火焔宝珠)。毘沙門天の種子は「ベイ」で、この御朱印の種子は「ベイ」のようにも見えますが、定かではありません。中央に「毘沙門天」の揮毫。左上に「甲府山の手七福神」の印判。左下には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。

由緒によると御本尊は弘法大師のお作と伝わる三宝荒神で、大永年中(1521年~1528年)に信虎公が荒神堂を建て、堂守に山伏を置いたのがはじまりとされています。
後に信玄公が現在地へ移され荒神堂と別当寺を建立、紀州根来寺の弘尊法印を別当寺住職に招いて祈願所とされたといいます。

三宝荒神は、火伏せの神、かまどの神として広く信仰される尊格で、仏教では守護神、護法神とされています。

神仏習合、山岳信仰、民間信仰の流れのなかでも広く信仰をあつめる尊格ということもあってか、すこぶる複雑な性格をもたれる尊格といわれます。
仏教では文殊菩薩、不動明王、歓喜天と同体(本地)とされる説があるので、(垂迹)神として祭祀されることがあります。

信玄公は荒神堂と別当寺を建立されたとありますから、神社(荒神堂)で三宝荒神を祀り、別に別当寺があったとみられますが、現在は華光院の御本尊が三宝荒神となっており、廃仏毀釈の折になにかしらの経緯があったのかもしれません。

信玄公は調略の名手であり、もっとも忍者を活用した戦国武将として知られています。
武田家の忍者(忍びの者)は、「透波」(すっぱ)と呼ばれ、天文十九年(1550年)の村上義清との戦さ「砥石崩れ」で透波を統括していた板垣信方と甘利虎泰の両名将を失ってのちに「三ツ者」(みツもの)として再編成されたといわれます。
間見、見方、目付の三つの任務を果たしたため「三ツ者」と呼んだとされます。

忍びの者は、各地を移動する僧侶や修験者に身を変えて(あるいは修験者・山伏を雇い入れて)活動したとされ、「透波」や「三ツ者」も例外ではなかったようです。
修験者や山伏は、山岳信仰や神仏習合と密接にかかわりますから、上で述べた、飯縄、戸隠、愛宕、そして三宝荒神などの尊格と信玄公の関係は、単なる祈願信仰の対象だけでなく、調略活動とも切り離せないものだったかも知れません。

まぁ、「透波」や「三ツ者」の詳細はほとんど残されていないので(残された時点で失格でしょう)、その裏付けは難しいのですが・・・。(『甲陽軍艦』には、「三ツ者」は信玄公の家臣である「諸国御使者衆」の配下にあったという記載があります。)

修験寺らしく、4月の第2日曜日には山伏による火渡り祈願が行われています。
太子堂は聖徳太子の像を祀ったもので、柳沢吉里が大和郡山に転封となったとき甲府城内より移したものです。現在は堂内に毘沙門天も祀られています。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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