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■ Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

つづきです。
※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社が多くなっています。参拝は、新型コロナ収束後にお願いします。

■〔 信玄公と甲府五山 〕

信玄公は神仏への信仰ふかく、宗派を越えて寺社を厚く保護されました。
「信玄」は、永禄二年(1559年)(天文二一年(1552年)説もあり)に39歳で出家された際の諱で、院号は法性院、道号は機山、別号は徳栄軒と伝わります。

『甲陽軍鑑』によると「玄」は中国の臨済義玄、日本では関山恵玄にゆかりで、得度式を務め「信玄」を授けたのは臨済宗長禅寺(甲府市愛宕町)の住持、岐秀元伯(ぎしゅう げんぱく)とされています。
岐秀元伯は京都妙心寺の学僧で、信玄の母大井夫人の招聘により鮎沢の(古)長禅寺、次いで愛宕の長善寺に住山されました。

岐秀元伯は信玄公の学問の師であったと伝わります。
伝灯は大応国師~大灯国師~妙心寺開山の関山慧玄と続く「応灯関」「関山禅」を嗣ぎ、とくに臨済宗妙心寺派への帰依が深かったとされます。

信玄公の葬儀で大導師を勤められた恵林寺の快川紹喜(かいせん じょうき)も臨済宗妙心寺派の高僧で、信玄公に「機山」の号を授けたとされます。

信玄公は京や鎌倉の五山制度にならい、甲府にも臨済宗寺院で五山を定めました。
長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺が甲府(府中)五山です。
円光寺の公式Web資料には、「信玄公は元より仏法信仰を重んじ臨済宗に帰依し、京都妙心寺の開山である開山国師の遺風を崇敬しておりました。その因縁により、京五山、鎌倉五山にならい、甲州の古刹の寺を城下に移しました。そして何れも妙心寺派に改め、それぞれに土地を寄付し、これらの寺を御城附御祈願所五山と号しました。」とあります。

また、法泉寺前掲示の甲府五山の説明書には、「戦国武将武田信玄公は臨済宗に深く帰依し、京都五山・鎌倉五山の制度にならって『甲府(府中)五山』を定めました。その五寺は、宝泉寺、長禅寺、東光寺、円光院、能成寺です。信玄は広く仏教を信仰し、宗旨のいかんを問わず、寺院・僧侶を崇敬保護したことが知られています。とりわけ臨済宗に対する帰依は深く、平素より多くの禅僧と親交を深めていました。諸国から禅宗の高僧を招いて師とし、その教えを民政や軍法に活かしたのです。代表的な高僧は、五山派の惟高妙安、策彦周良、妙心寺(関山)派の岐秀元伯、快川紹喜らです。特に岐秀は信玄幼少時からの参禅の師であり、学問・修養を通じて信玄の人格形成に深い影響を及ぼしたといわれ、信玄剃髪の際に大導師もつとめました。」とあります。

五山の所在地は甲府北部の住宅地から山手に点在し、「小松」といわれる一帯に宝泉寺、長善寺、円光院、「板垣」といわれる一帯に能成寺、東光寺があり、「北山野道」という遊歩コースが設けられています。

■ 瑞雲山 長禅寺
 
 
 
 

甲府市愛宕町208
臨済宗単立 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第58番、甲斐国三十三番観音札所第9番、甲斐八十八ヶ所霊場第64番、府内観音札所第9番
※御朱印は不授与です。

信玄公の母、大井夫人(瑞雲院殿)の菩提寺で、岐秀元伯が開いたとされる臨済宗の名刹。
創建は天文二一年(1552年)と伝わり(『甲斐国志』)、甲府五山の主座(筆頭)とされます。
長禅寺の前身は、大井夫人の出である西郡の国人、大井氏領する巨摩郡相沢(現・南アルプス市鮎沢)の長善寺(現・古長禅寺)で、大井氏の菩提寺でした。(古長禅寺は後述します。)

大井夫人は西郡の国衆(国人領主)で、武田氏一門の大井信達公の息女。
駿河に近い西郡の大井信達公は今川氏と結んで信虎公と抗争を続けていましたが、永正十四年(1517年)に信虎公と和睦。
このとき大井夫人が信虎公の正室として嫁いだため、政略結婚の意味合いが強いものとみなされています。

信虎公との間に嫡男信玄公、信繁公、信廉公(逍遙軒信綱)および長女をもうけました。
信繁公、信廉公ともに能く信玄公を補佐されたと伝わり、二十四将に数えられています。
大井夫人は賢母で、悟渓宗頓(大徳寺五二世住持、妙心寺四派の一、東海派の開祖)の法統を嗣ぐ、尾張国瑞泉寺の岐秀元伯を長禅寺に招き、若き日の信玄公に「四書五経」「孫子」「呉子」などを学ばせたといわれます。

天文十年(1541年)の信玄公による信虎公駿河追放ののちも甲斐に留まられ、躑躅ヶ崎館北曲輪に居住されました。
天文二一年(1552年)に逝去。法名は瑞雲院殿月珠泉大姉。
葬儀の大導師を務められたのは岐秀元伯と伝わります(『高白斎記』)。

大井夫人逝去の後、西郡の鮎沢では墓所が遠いため、亡き母を開基に、導師の岐秀元伯を開山に請じて新たに長禅寺として開かれました。
本堂左手手前に大井夫人の霊廟があり、本堂左手の坂の上に墓所があります。
参拝時には落枝の危険で墓所参道は通行禁止となっていました。

非公開ですが、「絹本著色武田信虎夫人像」「紙本著色渡唐天神像」の文化財を所蔵しています。
「絹本著色武田信虎夫人像」は大井夫人(瑞雲院殿)の肖像画で、画人としても知られた信玄公の同母弟・信廉公(逍遥軒信綱・二十四将の一人)の筆によるもの。
信廉公21歳、天文二二年(1553年)の作とされます。

なお、名門大井氏は嫡流信業公の三弟と六弟が武藤姓を名乗り、関ヶ原の戦いの際、上田城で秀忠軍を釘付けにした真田昌幸は、永禄年間にこの大井氏流武藤家に養子に入っていたと伝わります。
「武藤三郎左衛門尉のときに実子の武藤与次が早世したため、真田昌幸を養子にとった」という説があり、武藤喜兵衛尉昌幸は二十四将のひとりに数えられることもあります。(→関連資料

どことなく近寄りがたい威厳のある禅寺で、いくつかの霊場札所となっているものの、御朱印は一切授与されていないようです。

■ 法蓋山 東光寺(東光興国禅寺)
 
 
 
 

甲府市東光寺3-7-37
臨済宗妙心寺派 御本尊:薬師如来
札所:甲斐百八霊場第56番
朱印尊格:本尊 薬師如来 書置(印刷?)
札番:甲斐百八霊場第56番印判
・中央に札所本尊、薬師如来の種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に三寶印。中央に「本尊 薬師如来」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第五六番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

寺伝によると平安時代の保安二年(1121年)に源義光(新羅三郎)公が密教の祈願所として諸堂を整え、興国院と号したとされます。
その後鎌倉期に蘭渓道隆が禅宗寺院として再興、寺号を東光寺と改めました。

この寺に幽閉され終焉を遂げられた信玄公の長子義信公、諏訪から移られて自害された諏訪の領主諏訪頼重公の墓所であり、戦国の哀史を物語る史跡として訪れる人も多いようです。

〔武田義信公〕
義信公は、天文七年(1538年)信玄公の嫡男として生まれました。
母は信玄公の正室、公家の三条公頼公の息女の三条夫人です。
天文十九年(1550年)、若くして今川義元公の息女(従姉妹とも)を正室に迎えています。

初陣の知久氏攻めをはじめ、小諸城攻略、川中島での戦いなどでの華々しい武功が伝わります。
天文二二年(1553年)、将軍足利義藤(義輝)公より将軍家の通字である「義」の偏諱を受けて義信と名乗られ(『高白斎記』)、永禄元年(1558年)、信玄公が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けており、武田家嫡男としての道を順調に歩まれていました。

永禄八年(1565年)10月、信玄公暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉。(『甲陽軍鑑』)
永禄十年(1567年)10月19日に東光寺で逝去されました。享年30歳。
同年11月には正室の今川氏は駿河へ帰国しています。

この事件は「義信事件」と通称され、信玄公をめぐる謎のひとつとされています。
経緯がこみ入っているので詳細は省きますが、『甲陽軍鑑』によると、義信公の傅役である飯富虎昌以下の側近が処刑され、八十騎の家臣団が追放処分になっているので、これを受けた武田家臣内紛説がみられます。

永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元公の戦死、永禄四年(1561年)第4次川中島の戦いを経た北信地域の実質的な領有などを契機に信玄公は対外方針を転換し、永禄十一年(1568年)には今川氏の領国駿河への侵攻を始めています。

「義信事件」は駿河侵攻の3年前であり、今川氏に対する方針で親子、および家臣内で深刻な対立があり、これが事件の契機となったとする見解がみられます。
今川義元公の息女を正室としていた義信公が親今川派、「義信事件」後に駿河侵攻を進めた信玄公が反今川派という構図です。
また、永禄年間以降、信玄公と信長公とに同盟の動きがあり、信長公と敵対関係にあった今川氏との間に生じた軋轢を背景のひとつとみる説もあります。

信虎公の長女定恵院(信玄公の同母姉)は義元公の正室で、氏真公の母であり、娘の嶺松院は義信公の正室です。
永禄三年(1560年)5月、桶狭間の戦いで戦死した今川義元公の跡を継いだ氏真公は、家臣の掌握に苦しみ離反を招きました。当時今川家の食客となっていた信虎公は、今川家臣と謀って氏真公の追放を企図しましたが事前に露見し、駿府を追われ京に向かわれたとされます。
また、信虎公の子武田信友は今川家臣団に加わり、後に武田氏の駿河侵攻に呼応しています。
このあたりの今川家をめぐる複雑な事情も「義信事件」の背景にあるとみられます。

駿河に接する河内領の領主で武田御一門衆の穴山氏は、武田・今川の甲駿同盟を取次し、義信公と今川氏の婚姻も仲介しましたが、「義信事件」翌年の永禄九年(1566年)に当主穴山信君の弟、穴山彦八郎(信嘉、信邦)が身延山久遠寺塔頭において自害しており(『甲斐国志』)、これを対今川戦略対立説の論拠とする説もあります。
義信公の墓所は、本堂裏山の左手にひっそりとあります。

〔諏訪頼重公〕
諏訪頼重公は、諏訪氏第十九代当主で諏訪大社大祝。上原城城主であり、戦国大名として諏訪一円を治めました。
諏訪氏は神代以来の諏訪大社上社の大祝の家柄で、「神氏(みわし/じんし)」とも尊称された名族です。

信虎公の時代、諏訪氏は武田氏と抗争し、享禄元年(1528年)信虎公は諏訪に侵入して頼満公と対戦、享禄四年(1531年)には逆に頼満公が韮崎あたりまで兵を入れています。
諏訪氏との抗争を不利とみた信虎公は、天文四年(1535年)に頼満公と和睦(盟約)し、天文九年(1540年)には三女・禰々を頼満公の跡を継いだ頼重公に嫁がせています。
以降、小県郡侵攻などで武田家と連携していました。

甲斐から信濃へ向かうには、諏訪口(甲州街道)と佐久口(佐久甲州街道)の2つのルートがあります。
諏訪ルートは諏訪氏との盟約があってとれないので、信虎公の時代はもっぱら佐久ルートをもって信濃侵攻がなされました。
しかし、晴信公が当主となると方針を転じ、諏訪への侵攻を開始しました。

『甲陽軍艦』では、この時期の信玄公の戦として「瀬沢合戦」を記しています。
これは天文十一年(1542年)、信濃四将(中信の小笠原長時、北信の村上義清、木曽の木曽義康、諏訪の諏訪頼重)と信玄公の大合戦で、信濃勢一万六千を武田軍八千が瀬沢(現・長野県富士見町)で迎え撃ち、信濃勢は千六百二十一人の戦死者を出して敗走したというもの。
瀬沢周辺にはこれを示す史跡も残りますが、この戦いは『甲陽軍艦』のほかに確実な史料が認められないため、合戦そのものの存在が疑問視されています。

神代より、諏訪大社上社の大祝は諏訪氏、諏訪下社の大祝は代々金刺氏が継いできました。
この時代、金刺氏は諏訪氏の配下にありましたが、両氏は伝統的に対立関係にあったとされています。
また、諏訪氏の一族、伊那・高遠城主の高遠信濃守頼継も諏訪氏と対立関係にありました。
諏訪総領家の祖・安芸守信嗣は高遠氏の祖・信濃守頼継の弟であり、高遠氏が本来の上社大祝の家柄である、という自負があったためとみられています。

信玄公はこのような諏訪一族内の軋轢に乗じ、謀略の手を伸ばして金刺氏、高遠頼継をみかたにつけて諏訪に侵入しました。ときを合わせて高遠頼継も杖突峠を越えて諏訪に攻め入りました。

南方から武田、西方からは高遠勢の攻撃を受け苦境に陥った頼重公は、上原城を退き北方の桑原城に移りました。
桑原城にて、信玄公から「城を明け渡せば武田勢は甲斐に引き上げる」旨の和睦案を受けた頼重公はこれを容れ、城を渡して甲斐・府中に送られました。
頼重公は東光寺に幽閉され、その後自刃されました。
ときに頼重公27歳。辞世の句が残されています。
- おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ -

これにより諏訪惣領家は滅亡したとされていますが、上社大祝は叔父諏訪満隣の家系が継ぎ、その子孫は近世に中興されて諏訪高島藩三万石の大名となっています。

頼重公の墓所は、本堂裏山の左手にあります。
桑原城址そばには、頼重公の家臣らが公の遺髪を埋めたと伝わる頼重院があり、供養塔が残されています。

 
【写真 上(左)】 頼重院 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 頼重院 観音霊場の御朱印

信玄公はこののち頼重公の息女を側室として迎え、この側室は勝頼公を産んでいます。
よって頼重公は勝頼公の外祖父にあたります。
『甲陽軍艦』に「尋常かくれなき美人にてまします」と記されたこの美貌の側室(諏訪御料人)は、小説やドラマでは、湖衣姫(こいひめ)、由布姫(ゆぶひめ・ゆうひめ)として描かれています。

東光寺は甲府北部の住宅地の奥に、落ち着いたたたずまいをみせています。
室町時代の作とされる仏殿は、鎌倉禅宗様式の代表的な建築物として国の重要文化財に指定されています。
仏殿の御本尊は薬師如来。鎌倉時代作の檜材の坐像で、これを取り囲むように守護神である十二神将立像(檜材、伝鎌倉時代作)が安置されています。

本堂裏手には、蘭渓道隆(ないし当寺中興開山・大覚禅師)の作と伝わる北宋山水様式の池泉式庭園(東光寺庭園)が構えられ、鎌倉中期の特色を残す作例として知られています。

甲斐百八霊場第56番の札所であり、ご丁寧な対応にて御朱印をいただけました。

■ 定林山 能成寺(能成護国禅寺)
 
 
 

公式Web
甲府市東光寺町2153
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第57番
朱印尊格:釈迦如来(佛心) 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第57番印判
・中央に三寶印と「○」字と「佛心」の揮毫。右上に「甲斐百八霊場第五七番」の札所印。左下には「甲府五山」と寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

南北朝時代の貞和年間(1345年~1349年)に天目山棲雲寺の業海本浄(ごっかい ほんじょう)の開山、甲斐国守護・武田信守公(能成寺殿)を開基として、小石和筋八代村(現在の笛吹市八代町)に創建された古刹です。

信玄公のとき西青沼(現在の甲府市宝)に移され、さらに文禄年間(1592年~1595年)、甲府城築城の折に現在地に移されました。

創建時の御本尊は三尊阿弥陀如来(安阿弥作)でしたが、現在は釈迦牟尼仏。
本堂上間の間に富士山大息合結縁地蔵尊が奉安されています。

信玄公により甲府五山に定められ、寺宝として信玄公の家督相続を知らせる「信玄公制札」などが残されています。
参道右手の駐車場あたりはかつて大池で、これを伝える「宿竜の碑」と芭蕉の句碑があります。
- 名月や池をめぐりて夜もすがら -

愛宕山の山腹にあるこの寺の境内は広くはないですが、全体にしっとりと落ち着いて甲府五山の格式を感じます。

甲斐百八霊場第57番の札所で、「佛心」という豪快な揮毫の御朱印を快く授与いただけました。

■ 瑞巖山 円光院(円光護持禅院)
 
 
 
 

公式Web
甲府市岩窪町500
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第60番
朱印尊格:釈迦如来(佛心)
札番:甲斐百八霊場第60番印判
〔平成28年4月の御朱印〕
・中央に札所本尊、(勝軍)地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と中央に「信玄公守本尊」の揮毫。
右上に武田菱の印、右下に「甲斐百八霊場第六十番」の札所印。左には「甲府五山」と院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔令和元年5月の御朱印〕
・中央に札所本尊、(勝軍)地蔵菩薩と刀八毘沙門天の御影の印と中央に「信玄公守本尊」の揮毫。
右上に武田菱の印、右下に「甲斐百八霊場第六十番」の札所印。左には「甲府五山」と院号の揮毫と寺院印が捺されています。

信玄公開基、信玄公正室三条夫人の菩提寺として知られる名刹。
前身は小石和郷に甲斐源氏の始祖、逸見太郎清光(源清光)公が開創された清光寺で、室町期に甲斐守護武田信守公により再興され成就院となりました。

永禄三年(1560年)、信玄公が京より説三和尚を迎えて開山とし、当地に移され甲府五山の一つ円光禅院と改めました。
この時点では甲府成就院で、三条夫人(円光院殿)逝去ののち、その法名にちなんで円光院に改称されたという説もありますが、三条夫人墓所の説明書には「晴信公は夫人の生前、その牌所として府中五山の一、圓光院を宛て、夫人をその開基とした」とあるので、夫人の生前に円光院に改めたとみられます。(以上、境内由緒書などより)

三条夫人(三条の方)は、清華家の左大臣転法輪三条公頼公の次女で、母は高顕院。
姉は細川晴元室、妹は顕如の妻の如春尼という名流です。
天文五年(1536年)、今川義元公の媒酌で信玄公の正室として嫁し、義信公、黄梅院(北条氏政室)、海野信親(竜芳)公、信之、見性院(穴山梅雪室)の三男二女をもうけました。

三条夫人は度重なる不運に見舞われたと伝わります。
次男信親(竜芳)公は盲目。天文二十年(1551年)には父の公頼公が大寧寺の変(周防の大内義隆が家臣陶隆房の謀反で殺害)に巻き込まれて殺され、三男信之は夭折しました。
さらに永禄八年(1565年)の「義信事件」により長男義信公を失い、永禄十一年(1568年)、信玄公の駿河侵攻により黄梅院が北条氏から離縁され、その翌年に病死しました。

その人物像については諸説ありますが、Wikipedia記載の「円光院の葬儀記録」には、快川和尚の三条の方の人柄を称賛する「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄さまとの夫婦仲も、むつまじいご様子でした」と記された記録が残されているそうです。

境内にはこのようなお人柄を示す案内が掲出されていました。
 三條夫人のお人柄の真実
 西方一美人 円光如日 和気似春(快川国師の語)
 これにより 暖かく穏やかな 三條夫人の婦徳高いお姿が偲ばれます。

元亀元年(1570年)7月に逝去。圓光院殿梅岑宗い大禅定尼と号されました。

本願寺の顕如(光佐)の正室は三条夫人の妹の如春尼であり、本願寺と信玄公との信長包囲同盟の裏には夫人の存在が大きかったと考えられています。

薄倖のイメージをまとわれる三条夫人ですが、その子信親(竜芳)公は穴山信君(梅雪)の娘を娶り、その子の信道公は出家して顕了道快と号し、その子武田信正公とともに紆余曲折を経て家系は存続し、江戸幕府には表高家として武田宗家の命脈を保ちました。(→関連記事

境内の「三條氏墓の説明書」には、つぎのような記載があります。
「武田家の正統は信親公により今日に継続され、その原づくところが一向宗の僧となった信親公の嫡子信道公に在ることを思えば三條夫人が妹壻本願寺光左上人と武田氏との連携の楔として大きな役割を果たしたことと関連して夫人が武田家のために内外に於ける立場をより利用して大いに尽くされたことが偲ばれる」

三条夫人の菩提寺につき、ゆかりの宝物が所蔵されています。
夫人が武田家に嫁ぐ時に持参されたと伝わる三条家伝来の木造釈迦如来坐像、武田氏の家紋と夫人が皇室から使用を許された菊花紋と桐紋が彫られた愛用の鏡などです。

当寺には信玄公ゆかりの尊像も所蔵されています。
〔境内の解説書(抜粋)〕
刀八毘沙門天像及び勝軍地蔵像は、武田信玄公が殊に信仰した尊像で、もとは居館である躑躅が崎の館内の毘沙門堂に祀り、戦場行軍の際にも座右を離さなかったとされ、元亀四年(1573年)四月三河の軍陣で亡くなる際、馬場美濃守に命じて当寺の開山説三和尚に贈らせ、永く当寺の鎮護となしたとされる。本像は同一厨子内に、向かって右に獅子に乗る刀八毘沙門天像、左に白馬に乗る勝軍地蔵像が安置される。刀八毘沙門天像は、鎧を着用し、忿怒形の顔を正面とその左右、菩薩形の顔を頭上に表し、左右各五本ずつの腕を表す四面十臂の姿である。勝軍地蔵像は、鎧兜に袈裟を掛けた若々しい青年武将の姿で、左手を振り上げて持物を持ち、右手は腹前で剣を持つ。刀八毘沙門天像は毘沙門天、勝軍地蔵像は地蔵菩薩をそれぞれもととして我国で考案された軍神で、室町時代から戦国時代にかけて多くの武将の信仰を集めた。作者は京都の七條大仏師康清と伝えられる。康清は、信玄公造立の恵林寺の武田不動尊の作者であり、活気のある派手やかな作風は両像に共通するところである。」
普段は秘仏ですが、毎年4月の信玄公祭りの際には御開帳されます。

円光院から400mほど離れたところに「武田信玄公墓所」があります。
信玄公の御遺言どおりその死は三年間秘されましたが、その間ひそかに荼毘に附され、埋葬されたのが土屋右衛門の邸で、この場所が後に「武田信玄公墓所」となっています。
毎年4月12日の忌日の廻向そのほかの供養は、円光院により営まれています。

禅寺らしい整った境内。桜の名所としても知られています。
三条夫人の墓所は本堂左奥の高みにあり、宝篋印塔は信玄公の建立と伝わります。

甲斐百八霊場第60番の札所をつとめられ、御朱印は庫裡にて快く授与いただけました。

■ 金剛福聚山 法泉寺
 
 
 

公式Web
甲府市和田町2595
臨済宗妙心寺派 御本尊:弥勒菩薩(釈迦牟尼佛)
札所:甲斐百八霊場第62番、甲斐国三十三番観音札所第8番

〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:南無釈迦牟尼佛 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第62番
・中央に三寶印と札所本尊「南無釈迦牟尼佛」の揮毫。
右上に「甲斐三十三観音霊場第八番」の札所印がありますが、本来は「甲斐百八霊場第六二番」の印判かと思われます。左には「甲府五山」「武田勝頼公菩提寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

〔甲斐国三十三番観音札所の御朱印〕
朱印尊格:聖観世音菩薩 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第62番
・中央に三寶印と札所本尊「聖観世音菩薩」の揮毫。
右上に「甲斐三十三観音霊場第八番」の札所印。左には「甲府五山」「武田勝頼公菩提寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

南北朝時代の元徳二年(1330年)、甲斐国守護・武田信武公が開基となり、夢窓国司の高弟であった月舟禅師を招いて創建された名刹。
経緯からすると月舟禅師が一世ですが、禅師は自ら二世を称して恩師の夢窓国師を開山とされました。
開山後は夢窓国師を中心とする五山派の官寺となりましたが、その後衰微していたところ、信玄公が快岳周悦を住職として招き再興・庇護したといわれます。
快岳禅師は武田家滅亡に際して帯那郷へ逃れ、妙心寺の南化和尚(後の定慧円明国師)の力添えを得て京より持ち帰った勝頼公の遺髪をこの寺に手厚く葬ったとされます。

〔宝泉寺境内由緒書より抜粋〕
「本山は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は弥勒菩薩である 後醍醐天皇の元徳二年(1330年)、当寺の甲斐の国主武田信武公が夢窓国司弟子月舟禅師に帰依して当山を設立した 禅師が初祖であるが夢窓国師を開山とし自ら二世と称した また信成は武田家九世の王で足利尊氏に厚遇せられ室町幕府の創建に功のあった人で天下の副将軍といわれ当山にその墓がある 爾来信玄公に至る二百余年の事跡は明らかでない 信玄公は当山に寺領を寄進し本堂の大修理を行い 武田家の祈願所とし且つ甲府五山の一に列した 勝頼公・信玄公の志を継ぎ当山を庇護した 天正十年三月公が天目山にて討死し、その首級が京都六條河原にさらされた後京都妙心寺に葬られたが 当山の快岳和尚は妙心寺の南化和尚と謀り密かに公の首級を貰い受けて急ぎ帰山したが当山は織田軍の陣所に充てられ入れず且つ身辺の危険もあり●帯那町穴口の奥の山林中に隠れ首級を護った その時に穴口の三上●家の甚大なる協力があった 偶々信長の死により織田軍が撤兵したので帰山し 公の首級を葬り山桜を植えて標とした 同年七月入甲してきた徳川家康に召され武田家の事情を説明し また武川十二騎を説得してその旗下に服させる寺の功ありその翌年勝頼公を当山の中興開基とし菩提を弔うよう御下命があった 当山は往年は塔頭寺院四ヶ寺県下に末寺六十数ヶ寺を有し多数の修行僧が去来し中本山としての格式を備え」(以下略)

徳川家康公は、甲斐の内情に精通する快岳禅師を召し、徳川家に服従しなかった武川十二騎の説得を命じ、禅師はこれに成功しました。
この功績により寺領御朱印を賜るとともに、快岳禅師(ないしは勝頼公)を中興開基とし、勝頼公の菩提寺に定めたといいます。(以上寺伝等より)

なお、「武川十二騎」とは、現在の北杜市武川町周辺を本拠とする地域武士団「武川衆」をさし、甲斐一条氏の流れを汲む一団とされます。
主に諏訪口の国境を守り、武田家中でもその名を馳せていたと伝わります。武田家滅亡後、その多くは徳川家に属し、旗本となった例も少なくありません。

将軍綱吉公の側用人として大老格まで上り詰めた柳沢吉保は武川衆の末裔といわれ、信玄公の次男、信親(龍芳)公の子孫武田信興公を将軍綱吉公に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力、甲斐国国中三郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を領した際には領内の整備に務め、恵林寺で営まれた信玄公百三十三回忌の法要に関係するなど、甲斐国や武田遺臣の保護に注力したと伝わります。

整った境内に端正な本堂は、やはり五山の格式を感じます。
勝頼公の墓所は、信武公の墓所ととなりあって本堂左手の高みにあります。

由緒書には「本尊は弥勒菩薩」とありますが、甲府市教育委員会の説明書には「釈迦如来像(鎌倉末期作推定) 本像は寺伝に弥勒菩薩と称せられているが、むしろ、宝冠の釈迦または華厳の釈迦といわれるものに近い」とあり、御本尊は釈迦如来(もしくは弥勒菩薩)一尊であることがわかります。
甲斐百八霊場の御朱印尊格は御本尊のケースが多いですが、法泉寺の御朱印尊格は「南無釈迦牟尼佛」となっています。

甲斐百八霊場第62番、甲斐国三十三番観音札所第8番の札所で、御朱印は快く授与いただけました。
観音札所の御朱印をお願いすると、一瞬とまどわれた感じでしたが無事拝受できました。(観音霊場の巡拝者はすくないそうです。)

甲斐国三十三番観音札所の札所本尊は聖観世音菩薩で本堂に御座します。本堂軒の説明板には「弘法大師作」の掲示がありました。
本堂内には「夢窓国師坐像」(鎌倉時代末期作推定)も安置されています。

以上、甲府五山のご紹介でした。
鎌倉五山には手強いお寺さんがあるので甲府五山も身構えましたが(笑)、いずれも快く御朱印の授与をいただけました。
長禅寺様が非授与なのはご事情がおありなのでしょうが、やはり五山の御朱印を揃っていただきたい感じはします。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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