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■ Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/11/26・2020/09/18 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。
また、現在リニューアル中で、構成が錯綜しています。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

※文中、”資料A”は、「武田史跡めぐり」/山梨日日新聞社刊をさします。

信玄公ゆかりの寺社
Vol.1~5でご紹介した以外の、信玄公ゆかりの寺社をご紹介します。

■【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】
まずは、Vol.5でご紹介した「信玄公の戦勝祈願依頼文」の祈願先11箇寺のうち、不動明王と毘沙門天以外を御本尊とする寺院をご紹介します。

■ 金剛山 慈眼寺



笛吹市資料
笛吹市一宮町末木336
真言宗智山派 御本尊:千手観世音菩薩
札所:甲斐百八霊場第38番、甲斐八十八ヶ所霊場第17番
朱印尊格:本尊 千手観音 印判
札番:甲斐百八霊場第38番印判
・中央に御本尊、千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印と中央に「本尊 千手観音」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第三八番」の札所印。左下には山号・寺号の印判が捺されています。

慈眼寺の開山は明確でなく、文明年間(1469年~1486年)に宥日によって中興されたと伝わります。
明治年間に醍醐報恩院末から真言宗智山派智積院に替わっているようです。(資料A)

寺伝には、「武田氏の祈願所として発展し、七堂伽藍があったが、天正十年(1582年)、織田信長勢により焼失」とあるようです。
本堂左手の光明真言の碑は特異なものらしく、真言宗の名刹としての歴史を感じさせます。

信玄公の信仰篤く、信玄公が川中島の戦いに携行された毘沙門天が残されています。(資料A)

当寺には、信玄公の薬師如来への信仰を物語る縁起が伝わります。

慈眼寺の薬師如来縁起(信玄公護身旗の梵字真言に就いて/白石真道氏)
ながくなりますが貴重な文献なので、引用させていただきます。
「甲斐國八代郡自然出現薬師瑠璃光如来縁起夫出現薬師如来といつハ往昔文治年中(1185-1160A.D.)宥日上人と云者菩提の嘉苗を植て六十余州を巡礼する時甲州八代の郡両木八幡宮に通夜す。夢中に神龍現て宥日上人に告て誼く『爰に大石あり。其中に薬師瑠璃光如来います。是を以て汝に附属す』といひ訖て夢覚ぬ。上人希有の想をなし、看に大石あり。『定て此石中に在ん。云何してかこれを得ん』と思議する時、此大石自両に分て佛像忽顕現す。光明十方を照し、異香四方に薫じ、魔宮震動して天花雨の降が如し。上人魂を失ふの信を生じ、皮を剥の誠を致して恭敬供養し、礼拝懺悔す。(略)建久五年(1194A.D.)、武田太郎信義改て堂を建て奥院と号し、如来を安置し奉て国家の繁栄を誓ふ。」
「其後永禄十三年(1570A.D.)武田信玄公川中島に於て越後の兼信と相戦う時、身方 軍兵己に敗績せんとす。是故に玄公智謀尽て佛力を頼み、法印宥空を招き、薬師の法を修せしむ。嗟呼尊哉奇哉八万の夜叉、軍兵の心中に入て猛虎の勢を生じ、十二神将大将の前後を囲で飛龍の駕に似たり。敵陣これを見て忽懼震戦き、旗を捨て逃走り、弦を絶て平降す。是則薬師如来十二神将八万夜叉等の擁護する所以なり。
「これに依て信玄公、 如来の威光を尊び、 夜叉の冥護を仰ぎ、更に十四問四面の金堂を建て如来を尊重し給て、五百石の福田を附除して供養料とす。しかのみならず、軍中著 用の錦七条の袈裟、且つ具足箱、毘沙門の像等数多宥空法印に施与す。其後、元亀二年(1571A.D.)国中一派の僧侶を集め、 薬師如来の秘法を修せしめて、国泰民安、武運長久を祈る。」

十二神将は薬師如来を守護する神将で、各神将がそれぞれ七千、計八万四千の眷属夜叉を率いるとされています。
↑の縁起からすると、薬師如来の御利益とともに、十二神将の守護も祈願していたものとみられます。

一間一戸入母屋造の流麗な鐘楼門は国の指定重要文化財。
大寺であったことを伝える広い山内に入母屋造茅葺のどっしりとした本堂と庫裡は、地方寺院の伽藍構成をよく伝える例として国の重要文化財に指定されています。

星曼荼羅・梵字法帖などの貴重な寺宝や、信玄公の戦勝祈願依頼文などが遺されています。
戦勝祈願依頼文は、「信州長沼馬上の廻文」ともいわれ、信州長沼の地で信玄公が馬上でしたためたものと伝わります。

甲斐百八霊場第38番の札所で、快く御朱印を授与いただきました。

■ 高橋山 放光寺

【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 参道

【写真 上(左)】 大黒天
【写真 下(右)】 弁財天

【写真 上(左)】 本堂前の門
【写真 下(右)】 本堂

【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂と庫裡(客殿)

【写真 上(左)】 庫裡玄関
【写真 下(右)】 愛染明王堂
公式Web
甲州市藤木2438
真言宗智山派 御本尊:金剛界大日如来
札所:甲斐百八霊場第8番、甲斐八十八ヶ所霊場第72番、甲州東郡七福神(大黒天)


〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:大日如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第8番
・中央に三寶印と金剛界大日如来の種子「バン」の種子と「大日如来」の揮毫。
右下に「甲斐三十三観音霊場第八番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔甲州東郡七福神(大黒天)の御朱印〕
朱印尊格:大黒天 書置(筆書)
札番:甲州東郡七福神第5番
・中央に札所本尊大黒天の持物「打ち出の小槌」の印判と「大黒天」の種子「マ」と「大黒天」の揮毫。
右下に「甲州東郡七福神第五番霊場」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔天弓愛染明王の御朱印〕
朱印尊格:大黒天 書置(筆書)
札番:甲州東郡七福神第5番
・中央上に愛染明王の種子「ウン」の揮毫。「ウン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「天弓愛染」の揮毫。右に「縁むすび」の印判。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
愛染明王の御朱印は、山梨ではめずらしいものです。

放光寺は元暦元年(1184年)源平合戦で大きな功績をあげた安田義定公が「一ノ谷の戦い」の戦勝を記念して創立したと伝わる、甲斐を代表する名刹です。

寺伝には、「塩山の北方大菩薩の山麓、高橋荘(現在の一ノ瀬高橋)にあった法光山高橋寺を安田氏の館(山梨市小原)に近い牧荘(塩山市藤木)に移し高橋山多聞院法光寺と改め天台宗寺院として大規模に伽藍を建立し安田一門の菩提寺としました。南北朝期になって真言宗に改宗されました。のちに真言宗七談林にも加えられ真言宗の教えを広める根本道場になりました」とあります。(放光寺資料)

すこしく話が逸れますが、義定公は甲斐源氏の興亡において大きな役割を担った武将なので、事跡について簡単にまとめてみます。

義定公は、甲斐源氏の祖とされる源義光(新羅三郎)公の孫源清光公の子(清光の父義清の子説もあり)という名流で、現在の山梨市を中心とした峡東一帯に勢力を張りました。
平家追討の令旨に応じて挙兵し、「富士川の戦い」などでの戦功により遠江国守護に任じられました。(『吾妻鏡』)

寿永二年(1183年)、義定公も平家追討使として東海道から上洛。大内裏守護として京中を守護し、同年8月には従五位下遠江守に叙任しました。

「宇治川の戦い」、「一ノ谷の戦い」と歴戦。とくに「一ノ谷の戦い」では、義経の搦め手軍を率いて奮戦、平経正、平師盛、平教経を討ち取ったと伝わります。
建久二年(1191年)の鶴岡八幡宮法会では、頼朝公御供の筆頭に義定の名がみられ、頼朝公配下のなかでも高い地位を占めていたことがわかります。

建久四年(1193年)、義定公の子、安田義資が罪を得て斬られ、義定公の所領も没収。
翌建久五年(1194年)には義定公みずからが謀反の疑いをうけ、放光寺にて自刃されたと伝わります。

この当時の甲斐源氏には、武田信義、安田義定、一条忠頼らの有力武将がおり、「富士川の戦い」の主力は甲斐源氏であったとみられています。
しかし、義定公は謀反の疑いで自刃、一条忠頼も鎌倉にて酒宴の最中に暗殺、武田信義公の子逸見有義は頼朝公から疎まれ、同じく信義公の子板垣兼信は違勅の罪を問われて配流されるなど、次々と失脚していきました。

当時の甲斐源氏は頼朝公も御せないほどの勢力があり、武士の頭領としての地位を確立するために、頼朝公が甲斐源氏の力を削いでいったという見方が有力です。

以降、甲斐源氏では、武田氏宗家となった信光公の流れと信義公の弟加賀美遠光公から小笠原氏、南部氏が出て、以降勢力をはりました。
小笠原氏、南部氏は江戸時代も大名家として存続しています。(大和郡山藩の柳沢氏、新発田藩主の溝口氏、松前藩主の松前(蠣崎)氏なども甲斐源氏の末裔を称しています。)

義定公は文化に造詣が深く、多くの仏像を勧請され、いまも「木像大日如来」「木像不動明王」など名作とされる仏像が放光寺に残されています。
「天弓愛染明王」は日本最古の天弓愛染明王としてとみに有名です。
また、開基堂に御座す毘沙門天は、義定公ゆかりのお像と伝わります。

信玄公との関係についても寺伝があります。
「武田信玄の時代には、武田家の祈願所となっております。元亀三年三方原の戦いのおり、武田氏は遠州鎌田山医王寺に伝わった大般若経六百巻(南北朝時代の写経)を甲州に移し、当山に奉納しております。」((放光寺資料)
永禄十一年の「信玄公の戦勝祈願依頼文」には「法光寺」とありますが、これは当寺のことかと思われます。

天正十年(1582年)、織田勢の甲州攻めの兵火にかかり堂塔伽藍は焼失しましたが、その後、慶長年間(1599年~1614年)、寛文年間(1661年~1662年)に堂宇が再建されて現存します。

山内はさほど広くはないですが、梅の木が多く、名刹らしい落ちつきがあります。

山門は、駐車場から寺を背に参道を下っていったところにあるので、気づきにくいです。
すこぶる個性的な意匠で、脚数すらわかりませんでした。
扁額もめずらしい梵字のものです。

「高橋山」の扁額が掲げられた仁王門は、入母屋銅板葺桁行三間一戸の単層門、左右に金剛力士像が安置されています。

参道右手に甲州東郡七福神の大黒天と鐘楼、右手の放生池、太鼓橋のさきに弁財天が祀られています。
大黒天は大岩に刻まれた露仏とお堂のなかにも御座します。
公式Webによると、大岩の露仏は、当山鎮守開運大黒天の奥の院本尊で、もともとは北方鍜冶屋橋のたもと笛吹川の東岸に祀られていましたが、橋の改修工事に伴い移座されたようです。
毎年4月29日の大黒天会式では柴燈護摩火渡修行が催され、賑わいをみせるそうです。

本堂前の門も本瓦葺の堂々たるもの。
門をくぐると、桁行九間入母屋銅板葺の本堂と豪壮な庫裏の唐破風が力強い対比をみせています。

有名な「天弓愛染明王」は本堂左手おくのお堂に御座し、間近で拝むことができます。

拝観は有料ですが、仏像群がすばらしくご説明もいただけるので拝観をおすすめします。
拝観前に御朱印帳をお預けすれば、拝観後に揮毫の御朱印を拝受できます。(大黒天は原則書置のようです。)

【 善光寺 】

■ 定額山 浄智院 善光寺(甲斐善光寺/甲州善光寺)



公式Web
甲府市善光寺3-36-1
浄土宗 御本尊:善光寺如来
札所:甲斐百八霊場第1番、甲斐八十八ヶ所霊場第67番、府内観音札所第7番
朱印尊格:善光寺如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第1番印判

信玄公の戦のなかでもとくに名高いのが、信州・川中島周辺で上杉謙信公(長尾景虎)との間で数次にわたり展開された”川中島の戦い”です。
信玄公は第三次の戦いの後の永禄元年(1558年)、善光寺が兵火にかかるのを恐れて、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)と数々の寺宝を甲府に移し、信濃善光寺の三七世住職・鏡空上人を開基として堂塔を建立されました。

江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所でもあり、現在に至るまで甲府を代表する仏閣として広く参詣客を集めています。

〔境内由来書より(抜粋)〕
「定額山浄智院善光寺は、武田信玄公が 永禄年中 川中島の合戦の折 信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ 本尊阿弥陀如来その他 諸仏 寺宝 大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し 大本願第三十七世鏡空上人を開山に迎え 信濃善光寺開基本田善光公追慕の地 ここ板垣の郷に新たに建立せられたものである」

現在の御本尊は、かつての善光寺の本尊の御前立像とされ、秘仏でしたが平成9年からは7年毎に御開帳されています。
公式Webでは現在の御本尊について「当山の御本尊は、建久六年(1195)尾張の僧定尊が、秘仏である信濃善光寺の前立仏として造立したものです。定尊は、如来の夢の告げを得て勧進に行脚し、四万八千余人もの寄進を得たといわれます。
本像は、いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として著名です。」と解説されています。

甲斐善光寺でも「お戒壇廻り」を体験することができます。(有料)

まずは、スケールの大きな山門に圧倒されます。
稀少な五間三戸の楼門で入母屋造銅板葺。外周の擬宝珠高欄が装飾性を高めています。

参道正面に威風を放つ本堂。
金堂とも呼ばれ、屋根の形が東西棟と南北棟でT字(撞木形)を形成する構造(撞木造)で、善光寺特有の様式とされます。
桁行じつに十一間。向拝三間。撞木造で奥行きがあり梁間も七間となっています。
一層唐破風、二層千鳥破風のように見えますが、実は仏殿ではけっこうめずらしい妻入りで、東日本では最大級の木造建築物とされています。
各種の組物、蟇股、木鼻彫刻、連子窓、三花懸魚などを配し、朱塗りの色調と相まってスケール感と装飾性を兼ね備えたつくりとなっています。

ともに宝暦四年(1754年)に焼失し、現在の山門は明和四年(1767年)、本堂は天明五年(1785年)の再建上棟と伝わります。


【写真 上(左)】 鳴き龍(授与所でいただいた絵ハガキより)
【写真 下(右)】 鳴き龍の御朱印
御朱印は本堂内の授与所で拝受できます。
見本が出ているのは「善光寺如来」の御朱印だけですが、金堂中陣天井の「鳴き龍」の御朱印も授与されており、申告すると奥から書置の御朱印をお出しいただけます。

オリジナル御朱印帳も頒布されています。
山梨県内では稀少な浄土宗寺院のオリジナル御朱印帳で、寺紋である丸に立葵と武田菱が表裏に配された渋いデザインですが、縦16cm×横11cmの小サイズがいささか残念です。

■ 塩山 向嶽寺
臨黄ネット



甲州市上於曽2026
臨済宗向嶽寺派本山 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:甲斐百八霊場第12番、甲斐八十八ヶ所霊場第74番
朱印尊格:観音菩薩 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第12番印判
・中央に三寶印と札所本尊「観音菩薩」の揮毫。
右下に「甲斐百八霊場第十二番」の札所印。左上に「𥂁山」山号印と寺号の揮毫があります。御本尊は釈迦牟尼佛ですが、札所本尊は観音菩薩となっているようです。

臨済宗向嶽寺派本山の格式を有する名刹で、開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。
各地を遍され、永和四年(1378年)高森(塩山市竹森)の険しい地に庵居された禅師のもとを訪れる僧俗は引きも切らず、武田信成公は塩山の地を寄進し庵を建て、禅師を迎え入れて向嶽庵と称しました。
禅師はこの庵で僧俗の教化に努められ入寂されました。

以降も武田家歴代の帰依を受け、天文十六年(1547年)6月、信玄公は朝廷へ働きかけ、抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号を賜り、向嶽寺の寺号を定めたとされます。

境内掲示の沿革に「明治五年(1782年)に輪番住職制を改め独住制となり、京都南禅寺の所轄となったが、同四一年管長を置いて名実ともに別派独立の大本山となった。」とあるので、臨済宗のなかで一派をなしたのは明治になってからとみられますが、南禅寺からの別派独立ですから、寺格はすこぶる高いものと思われます。

向嶽寺は、甲府盆地の東北部にこんもりと突き出た小高い山の南麓に抱かれるようにたたずんでいます。
山号の「塩山」は「塩の山(志ほの山)」とも呼ばれ、この北側の山です。

山梨市の笛吹川沿いにある「差出の磯(さしでの磯)」とともに、古くから和歌に詠まれた景勝地です。
「志ほの山」は「さしでの磯」の枕詞で、さらに千鳥や八千代にかかっていくことが多いようです。

- 志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく -
(古今和歌集)

国宝の「絹本著色達磨図」は「八方にらみの達磨」「朱達磨」とも呼ばれ、わが国の達磨図の最高傑作として知られています。(現在は東京国立博物館に寄託)
室町時代建造の中門(総門)や漆喰製瓦屋根の「塩築地」など、貴重な建築物が残っています。
修復なった池泉式庭園も国の名勝に指定されています。

臨済禅の名刹らしく、整った山内には凜とした空気がただよいます。
敷居が高い感じですが、甲斐百八霊場の札所であり、御朱印は快く授与いただけました。

■ 妙亀山 広厳院
公式Web



笛吹市一宮町金沢227-1
曹洞宗 御本尊:聖観世音菩薩
札所:甲斐百八霊場第35番、甲斐八十八ヶ所霊場第16番
朱印尊格:南無釋迦牟尼佛 印判
札番:甲斐百八霊場第35番印判
・中央に三寶印と御本尊「南無釋迦牟尼佛」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第三五番」の札所印。左下に山号・寺号の印が捺されています。
御本尊は聖観世音菩薩ですが、朱印尊格は釈迦牟尼佛となっています。禅宗寺院の御朱印では、御本尊ではなく、宗派本尊の「南無釈迦牟尼佛」で授与される例がときどきみられます。

小田原最乗寺十四世の雲岫宗竜大和尚を開祖、塩田長者降矢対馬守を開基とし、寛正元年(1460年)に開山の曹洞宗の名刹。
甲斐四群(山梨、八代、都留、巨摩)の中央に位置するため、「中山」とも称されます。

寺伝によると、甲斐国守護武田信昌公が文明十九年(1487年)に寺領を寄進して以来、信縄公、信虎公、信玄公、勝頼公と武田家五代の庇護を受けたとされます。

信玄公は、弘治二年(1556年)に祖母崇昌院殿(信縄公妻)の菩提を弔うため寺領十貫文を寄進され、崇昌院殿を開基に準じたと伝わります。
信玄公と曹洞宗のつながりを示す寺院です。

甲府の大泉寺とともに甲斐曹洞宗の大元としての格式があり、県内八百三十寺の末寺を総括、最盛期には八十人の僧を擁する大寺であったと伝わります。

端正な鐘楼、質素な本堂、吊り下がる魚板など、禅寺らしい趣にあふれています。
御朱印は庫裡にて快く授与いただけました。

■ 調御山 佛陀寺



笛吹市石和町市部864
臨済宗妙心寺派 御本尊:千手観世音菩薩
札所:石和温泉郷七福神(福禄寿)
朱印尊格:南無千手観音 直書(筆書)
・中央に三寶印と御本尊「南無千手観音」の揮毫。
右上に不明な印。左に「甲州石和宿 佛陀寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
※石和温泉郷七福神(福禄寿)の御朱印も授与されています。

文永六年(1269年)、わが国の普化宗の開祖法燈円明国師が、亀山天皇の勅令によって建立された禅寺。
天文年間(1540年代)、信玄公が恵林寺から歓堂宗活禅師を請じて臨済宗妙心寺派に改め、寺運はとみに栄えたと伝わります。(境内掲出の寺伝より)

御本尊千手観世音菩薩は行基の作、「調御山」の山号扁額は亀山天皇の御宸筆であると伝えられています。
境内には、幕末の侠客、竹居の安五郎こと吃安の墓があります。

普化宗は禅宗の一派で、建長六年(1249年)南宋に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目張参の4人の弟子を伴い帰国して伝来しました。
江戸時代には虚無僧の宗派として位置づけられ、幕府とも結びついたとされますが、明治に入り政府により解体され廃宗となったとされます。(戦後再興。尺八(虚鐸)文化の源流ともみなされている。)

信玄公の臨済宗妙心寺派や恵林寺への帰依を物語る寺院です。

こじんまりとした寺院ですが、石和温泉郷七福神(福禄寿)の札所を務められており、快く御朱印を授与いただけました。

■ 岩泉山 寂静院 光福寺
浄土宗寺院紹介Navi


甲府市横根町1110
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:甲斐百八霊場第2番、甲斐国三十三番観音札所第21番、第22番


〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:南無阿弥陀佛 印判
札番:甲斐百八霊場第2番印判
・中央に御本尊阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座)と三寶印と「南無阿弥陀佛」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第二番」の札所印。左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔甲斐国三十三番観音札所(第21番)の御朱印〕
朱印尊格:十一面観世音菩薩 印判
札番:甲斐国三十三番観音札所第21番
・中央に札所本尊十一面観世音菩薩の種子「キャ」の御寶印と三寶印と「十一面観世音菩薩」の印判。
右に「甲斐 第二十一番」の札所印。左には山号・寺号の印と寺院印が捺されています。


〔甲斐国三十三番観音札所(第22番)の御朱印〕
朱印尊格:聖観世音菩薩 印判
札番:甲斐国三十三番観音札所第22番
・中央に札所本尊聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印と三寶印と「聖観世音菩薩」の印判。
右に「甲斐 第二十二番」の札所印。左には山号・寺号の印と寺院印が捺されています。

甲斐源氏の祖、新羅三郎義光公が「後三年の役」で奥州で戦死した人々を弔うため、嘉保二年(1095年)、空源法印を開山として建立された寺院で、当初は寂静院ないし横根寺と称しました。
天文十六年(1547年)、信玄公が権少僧都円全を中興開山として再興されました。

慶長十年(1605年)、鎌倉から萬誉助往和尚を迎えて翌十一年知恩院直末に編入、寺号を光福寺と改め浄土宗に改宗しています。
甲斐百八霊場の札所であり、山内2つの観音堂は甲斐国三十三番観音札所に定められています。

■ 護国山 国分寺



笛吹市一宮町国分197-1
臨済宗妙心寺派 御本尊:薬師如来・阿弥陀如来
札所:甲斐百八霊場第37番、甲斐八十八ヶ所霊場第17番
朱印尊格:薬師如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第37番印判
・中央に三寶印と札所本尊「薬師如来」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第三七番」の札所印。左に甲斐國分寺の揮毫と寺院印が捺されています。

笛吹市一宮周辺は、甲斐の国でも早くから拓けた一帯とされており、国分寺も聖武天皇の御代(701年~756年)にこの地に建立されました。

例にもれず甲斐の国分寺も戦国時代までには荒廃してしまいましたが、信玄公が寺領を寄進し復興を手掛けられ、勝頼公の時代に臨済宗に改宗されたと伝わります。

当寺は旧国分寺跡地上にありましたが、旧国分寺跡が国の史跡に指定されたため、現在地にしています。

奈良時代の作と伝わる薬師如来像は、33年に一度の御開帳です。

■ 柏尾山 大善寺
※ 現在、整理中です。

■ 龍湖山 方外院


公式Web
身延町瀬戸135
曹洞宗 御本尊:如意輪観世音菩薩
札所:甲斐百八霊場第98番、甲斐国三十三番観音札所第27番


〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:如意輪観世音菩薩 印判
札番:甲斐百八霊場第98番
・中央に札所本尊如意輪観世音菩薩の種子「キリク」の御寶印と「如意輪観世音菩薩」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第九八番」の札所印と御詠歌の印。左下には山号・院号の印判と寺院印が捺されています。


〔甲斐国三十三番観音札所の御朱印〕
朱印尊格:如意輪観世音菩薩 印判
札番:甲斐国三十三番観音札所第27番
・中央に如意輪観世音菩薩の種子「キリク」の御寶印と「如意輪観世音菩薩」の印判。
右上に「甲斐國廿七番」の札所印と御詠歌の印。左下には山号・院号の印判と寺院印が捺されています。

信玄公と観世音菩薩のゆかりを示す伝承は多くはありませんが、身延の方外院には御本尊如意輪観世音菩薩と信玄公の逸話が伝わっています。

方外院は貞治元年(1362年)、現・身延町の名刹で、南明寺の三世・梅林禅芳禅師によって本栖湖の湖畔に開創されました。山号「龍湖山」は本栖湖に由来するものです。

信玄公の治世、方外院は本栖湖畔(本栖村赤坂)にありました。
信玄公が三河に向けて軍勢を進める途中、寺のそばを通ると雷雨が激しくなり軍を進めることができなくなりました。
淡い火影を見つけてたどり着いたお堂には、微笑みをたたえた如意輪観音菩薩が御座されていました。
信玄公が観音様に祈願するとたちまち雷雨は収まり、軍は無事に三河へ向かうことができました。
信玄公はこの仏恩に謝するため、本栖の地頭・渡辺囚獄に命じてこの観音様を手厚く保護させました。

武田家滅亡の混乱のなか、この観音様も所在を転々とされましたが、慶長二年(1597年)下部・瀬戸の住民が観音様をお迎えしました。
子授けの霊験あらたかで「瀬戸の観音さま」として崇められ、甲斐三十三観音霊場の札所でもあったことから、多くの参拝者を集めます。
行基菩薩の御作とも伝わるこの観音様は、寄せ木法の技法や納衣の曲線などから、平安末期の作(南北朝との説もあり)とみられています。
秘仏ですが、毎年3月18日の御縁日には御開帳されます。

また、身延町資料身延の民話には「方外院本尊の如意輪観世音像は行基の作で、人肌と同じ体温があるという。仏門に入った武田信玄が寺に参詣しその話を聞き、須弥壇に上がって厨子の扉に手をかけようとした瞬間壇下へ投げ落された。信玄は額づいて無礼を詫び、武田菱の使用を許可し御朱印地七石を賜った。(下部町誌)」との逸話があります。

常葉川(本栖みち)沿いの古関集落から、常葉川支流の反木川を少し遡った山ぶかいところにあります。

寺号標には「龍湖山方外院瀬戸観音寺」とあり、 甲斐百八霊場、甲斐国観音霊場の札番が刻まれています。
四脚単層銅板葺で大棟に武田菱三連を置いた山門。すぐおくには三間一戸八脚の楼門で、こちらは大棟に「龍湖山」の山号を置いています。
楼門右横には立派な鐘楼が置かれ、本堂に至る前から豪壮な伽藍配置です。

向拝のない簡素な本堂ですが、山号扁額には青龍を配して存在感を放っています。
正面硝子戸には武田菱、壁面には「一見観音衆罪即滅」というありがたいお言葉が掲げられています。

硝子戸を開くと新たな展開が・・・。
堂内じたいは禅宗様の飾り気のすくないつくりですが、いくつか掲げられた派手やかな「瀬戸観音」の奉納提灯と、なにより正面上部に掲げられた絵馬が強く目を惹きます。

禅寺で観音霊場を兼ねる場合、御本尊は釈迦牟尼佛で別に観音堂があって、観音霊場の札所本尊はそちらに御座し、本堂はシックで観音堂は華やかな例が多いです。
しかし、こちらは御本尊が観音様で札所本尊も兼ねられるため、このような本堂と観音堂が混在するような雰囲気になっているのかと思います。

絵馬は著名なものです。
横19.42メートル、縦2.24メートルにも及ぶ大額で、「方外院千匹馬の大額」と称され、町の有形文化財に指定されています。
総桐材造の額に馬千匹が描かれ、前方の馬には着色が施されて華麗な印象な額です。

安政の飢饉の折、御本尊の信仰篤い老翁に「馬の霊が飢えて稲を食する故、各地より一人一匹の馬を奉納せよ」との霊夢がくだり、馬の奉納にかえて馬の大額を奉納したところ、翌年より豊作となったと伝わります。

絵馬は茨城県出身の渡辺天麗の作で、額に記された奉納者は甲府在住の者までに及び、広範囲に信仰を集めていたことがわかります。

■ 海雲山 寿徳寺




山中湖村平野147
臨済宗妙心寺派 御本尊:地蔵菩薩
札所:郡内三十三番観音霊場第10番



〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:南無開運地蔵尊 直書(筆書)
・中央に三寶印と御本尊「南無開運地蔵尊」の揮毫。
右上に開運地蔵尊の御影印。左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔郡内三十三番観音霊場の御朱印〕
朱印尊格:南無聖観世音菩薩 直書(筆書)
札番:郡内三十三番観音霊場第10番印判
・中央に三寶印と札所本尊「南無聖観世音菩薩」の揮毫。
左上に「観音霊場郡内第十番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
※郡内三十三番観音霊場第11番山中観音堂の御朱印も、こちらで拝受できます。

山中湖畔にある寺院。郡内三十三番観音霊場の巡拝で伺いましたが、境内の由緒書によると信玄公とのゆかりが深いようです。

境内の由緒書から引用します。
「往古は真言宗にして、弘法大師・空海上人諸国遍歴の砌り、富士の霊山に祈願修法せし折り、営みし草庵を平野坊と称したのが起源と伝えられる。文応元年(1260年)鎌倉五山第一建長興国禅寺より高僧美山玄誉禅師来り山紫水明のこの地に禅寺を建立し、海雲山寿徳寺を開山した。永禄四年(1561年)武田信玄公により、当寺を甲斐・駿河・相模の三国境に位置した要の地であるため国境祈願所と定められ甲州金三十枚の寄進を受ける。本尊地蔵菩薩は信玄公奉納と伝えられ通称、開運地蔵尊と云われています。国境にあるため数度の戦乱には常に兵舎の要に供せられ、特に小田原城に北条氏政攻略のときには後陣を置いたとされている。」

信玄公は、甲相駿三国同盟、甲相同盟など今川氏や北条氏と同盟を結んでいる時期が長く、駿河や相模への侵攻はさほど多くはありません。

信濃侵攻を終えた信玄公は永禄十一年(1568年)から駿河今川領への侵攻を開始し(江尻・駿府方面)、永禄十二年に第二次侵攻(富士郡・伊豆方面)、第三次侵攻(小田原攻め)を経て永禄十三年(1570年)には早くも駿河を完全制圧しました。

その侵攻ルートは、駿河方面へは主に富士川沿いの駿州往還(甲州往還)ないし東河内路、相模方面へは甲州街道ないし丹沢越えで、甲斐と駿河を接する旧鎌倉往還の籠坂峠越えのルートは採られていないようです。
ただし、信虎公の時代には今川氏とのあいだで、籠坂峠を介した戦闘がいくつか記録されています。

強豪今川氏の駿河との国境だけに、国境警備はことに厳重だったと思われ、上記の寺伝にも「小田原城に北条氏政攻略のときには後陣を置いた」とされています。
また、武田家印判状なども所蔵されてます。

富士東麓に寺社は多くなく、しかも信玄公とのゆかりが伝わる寿徳寺の存在は貴重です。

山中湖の湖尻、平野はこれまで何度となく通過していますが、この地にこのような由緒をもつ名刹があるとは知りませんでした。
郡内三十三番観音霊場の札所ですが、この霊場の知名度は高いとはいえず、山中湖で御朱印をいただけるということもほとんど知られていないかと。

禅宗の名刹らしく整った境内。
国際的なプリマドンナとして有名だった三浦環の墓所もあります。

郡内三十三番観音霊場の御朱印授与は札所ごとにまちまちですが、こちらは快く授与いただけました。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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