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■ Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

※ 現在リニューアル中で、構成が錯綜しています。

【 真宗と信玄公 / 日蓮宗と信玄公 】

【 真宗と信玄公 】

■ 塩田山 超願寺

 
笛吹市一宮町塩田818
真宗大谷派 御本尊:阿弥陀如来
札所:甲斐百八霊場第36番
朱印尊格:南無阿弥陀佛 印判
札番:甲斐百八霊場第36番印判
・中央に山号印と「南無阿弥陀佛」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第三六番」の札所印。左に山号・寺号の印が捺されています。
真宗の御朱印(参拝記念)らしいシンプルな構成です。

文安四年(1447年)、布教のため甲斐を訪れた真宗8世・蓮如上人は、当時天台宗の寺院であった昌願寺を真宗に改め超願寺とされました。

織田信長と敵対した真宗本願寺派第十一世宗主顕如(光佐)の妻である如春尼は、信玄公の正室三条夫人の妹でした。
信玄公は加賀の一向一揆と結んで上杉謙信を牽制し、本願寺とも合力して信長包囲網を築いたとされ、真宗や本願寺との連携は政治的にも重要なものであったとみられています。

真宗本願寺勢力と織田信長公が刃を交えた石山合戦の際、超願寺の七世住職・喜西は石山の籠城に加わり、教如上人や下間頼龍とも親交があり、これを示す矢文が当寺に残っています。

甲斐の国は日蓮宗寺院も多く、甲斐百八霊場は、真宗や日蓮宗を含む多彩な宗派で構成されています。

■ 真宗大谷派東本願寺甲府別院 光澤寺
甲府市相生3-5-7
真宗大谷派 御本尊:阿弥陀如来
公式Web
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されていない模様です。

信玄公とふかいゆかりをもつ真宗の名刹です。
寺伝(公式Web)および資料Aから沿革等をまとめてみました。

天文十六年(1548年)、信玄公は当時鎌倉常葉町にあった一向宗蛇伏山長延寺(現在の真宗大谷派永勝寺:横浜市戸塚区)が相模北条氏と対立していた状況を憂慮され、住職実了師慶和尚を甲府へ招聘、広大な寺領を寄進し手厚い庇護を加えて長延寺として再興しました。

「超願寺」の記事でもふれましたが、信玄公は織田信長と敵対した真宗本願寺派第十一世宗主顕如(光佐)の妻である如春尼は、信玄公の正室三条夫人の妹でした。
信玄公は加賀の一向一揆と結んで上杉謙信を牽制し、本願寺とも合力して信長包囲網を築いたとされ、真宗や本願寺との連携は政治的にも重要なものであったとみられています。

実了和尚は僧として活躍するとともに、武田家御伽衆の有力メンバーであったとみられています。
御伽衆とは高級参謀兼外交特使といった役柄で、戦国時代に高僧が勤める例は少なくありません。

ちなみに「甲陽軍鑑」品第八(国会図書館DC、コマ番号26/265)には「長遠寺(実了師慶)といふ一向坊主をいつも江州浅井備前守そうじて上方へ計策に指上せらる 其年は一入様子能相調へ伊勢長島、大坂、和泉の堺下時 加賀越中迄も立寄 信玄公へ御味方の証文を取て参上いたす」とあり、実了師慶が上方から北陸までも足を伸ばして、各将の調略に奔走していたことがうかがわれます。

実了和尚の人徳に帰依した信玄公は、次男庄蔵(信親公・竜宝)の嫡男の信道公を実了和尚の養子とし、長延寺二世顕了として広大な寺領を寄進しました。

天正十年(1582年)天目山の戦いで武田家が滅亡すると、長延寺は信長によって焼かれ実了和尚は焚死されました。(顕了とともに信州犬飼村へ退去という説もあり。)
顕了は実母(信親公室)とともに信州犬飼村に迎えられ、徳川の代になると甲斐帰国が許されて、現寺地に長延寺を再興されました。

顕了は、慶長十八年(1613年)の大久保長安事件に連座し、元和元年(1615年)に伊豆大島に配流されのち同地で没したとされます。

顕了の子教了(武田信正公)も大島に配流され寛文三年(1663年)、徳川家光公十三回忌に赦免され江戸に入られました。(教了として長延寺三世を継がれたが長延寺は廃寺となったという説もあり。)

武田信正公は小山田信茂の養女・天光院殿(娘香具姫とも)を室としていた磐城平藩2代藩主内藤忠興の娘の婿として迎えられ、その子信興公は表高家に列せられて、子孫は代々表高家の家格を保って維新を迎えました。

現在に至るまで、表高家武田家の系統が甲斐武田氏の嫡流とされています。
つまり、長延寺は信玄公の帰依を受け、甲斐武田氏の嫡流が法灯を担われたという、二重の意味で武田家と深いゆかりをもつことになります。

慶長十八年(1614年)、本願寺12代目教如上人が、廃寺となった現寺地に本山掛所を設けられ化竜山光澤寺と号されました。
徳川幕府に請い、境内地および寺領の御朱印を受け、諸殿諸堂を整えて、以後、甲州における真宗大谷派の中心的存在となり今日に至ります。

真宗大谷派の寺院で、札所でもないので御朱印は授与されていない模様です。

■ 法流山 入明寺
※ 現在、整理中です。


【 日蓮宗と信玄公 】

日蓮宗と信玄公の関係については、さまざまな説がみられます。

日蓮宗総本山の身延山久遠寺は、文永十一年(1274年)5月、甲斐源氏の南部(波木井)実長が日蓮聖人を領地の身延山に招き、西谷に草庵を構えられたのが草創と伝わります。
日蓮聖人のご遺骨は身延山に奉ぜられ、この地に祀られました。
爾来、身延山は日蓮宗の聖地として崇められ今に至ります。

信玄公の治世は身延山草創から約250年ほど後であり、甲斐国内に聖地をもつ日蓮宗との関係については様々な説が唱えられています。

日蓮宗の『日蓮聖人降誕800年』Webの『日蓮宗と武田信玄』には、「(身延山久遠寺は)武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え」とあります。
たしかに甲府市若松町の日蓮宗信立寺は、信玄公の父・信虎公の建立と伝わります。(→信立寺の公式Web
同Webには「当山は、武田家の祈願所となりました。」とあり、「信玄もまた、父同様に当山を祈願所として保護していました。」ともあります。(→信立寺の公式Web

一方、身延町資料の『権現さんの手洗石』には「信玄公は、駿河方面の敵に備えるため、日蓮宗の本山身延山に城を構えようとしたが、宗門は固く譲らないので、身延山征伐を決意して元亀三年(1572年)、自ら軍を率いて向かったのであるが、あいにく早川の出水で渡れなかったし、また戦いも意の如くならなかったので身延山征伐を断念して甲府に引き返す(以下略)」とあります。

上記の『日蓮宗と武田信玄』にも、「武田信玄は、日蓮宗の総本山である身延山を武田家の支配下に置くべく攻めようとした事がありました。」とあり、その攻防のさなかで数々の霊験を目の当たりにした信玄公は身延攻略をあきらめたとあります。
また、「信玄は(中略)久遠寺の霊験顕著なる信仰の証に感銘し、身延山久遠寺と和睦、山内に武田家の武の字を入れた武井坊と言う坊を建立し、武田家の祈願所としました。」とも記されています。

『(論文)武田・穴山両氏の対身延山政策』(町田是正氏)(PDF)には、信玄公はしばしば身延山に対して「禁制」や「書状」を発して牽制し、ときの久遠寺第15世法主日叙上人はこれに毅然とした応対をされた旨が記されています。

この論文には「全面的に武田氏が親密友好・融和の政策を保持していたのではなく、戦国領主・甲斐守護の立場を誇示しながら、身延山と適当な距離を置いて関係を維持していたと見るべき。」とあります。
決定的な対立を避けつつ融和を図って、「大人の関係」を保っていたのではないでしょうか。

とくに晩年の信玄公と身延山は融和的であったとみられ、このことは令和3年11月3日に催された「武田信玄公生誕五百年祭大法要」(PDF)に身延山 久遠寺が参画されたことからも伺われます。

『ご宝物で知る 身延山の歴史』という本には信玄公が身延山に寄進した経典(明版法華経)など、日蓮宗と信玄公の関係をあらわす宝物が載っているようです。詳細は→(こちら(「武田家の史跡探訪」様)
「明版法華経」はこちらにも載っています。

身延山の宿坊・武井坊の公式Webには「当坊は、信玄公の家紋(武田菱)をもって寺の紋としておりますが、これは武田家の祈願所としての性格を持っていたことに由来します。また『身延栞』という案内書には「武田信玄公、身延攻めに敗れ、感応のいちじるしきに驚き、日勢上人を請じて一寺を創る。故に坊は公の一字を用う」と紹介され、坊名の「武」一字は、武田信玄公の御名に由来します。」と明記されています。

甲府市武田の上行山 要法寺は、天文五年(1536年)、信玄公が盲目だった次男の信親(竜芳)公(御聖道様)の病気平療祈願のため建立したとされます。信親(竜芳)公(竜芳軒日香)を葬ったところとも伝えられています。
京から修徳院日祇上人を招かれ、開山・建立された日蓮宗寺院です。
(→要法寺公式Web

北杜市武川町山高の大津山 実相寺の公式Webには「永禄四年(1561年)、川中島の合戦にあたって、武田信玄(1521-1573年)は蔦木越前守を当山第七世日忍上人の元に遣わし武運長久の祈願を命じ、永代祈願所として、一条次郎忠頼の城址を寄進され現在の地に移転しました。」とあり、日蓮宗と信玄公のゆかりを示しています。

日蓮宗寺院では夏場にしばしば炮烙(ほうろく)灸が催されますが、これは「炎天下で暑さ負けした信玄公が、兜の上から灸をすえたところたちどころに全快したのがはじまり」という説もあり、日蓮宗と信玄公の関係をうかがわせます。

信玄公の周辺にも日蓮宗の信仰をもったひとびとがいたようです。
甲府市武田の藤光山 法華寺は、天正五年(1577年)信玄公の弟、典厩信繁の夫人養周院により補修され、法華堂から法華寺として建立とされます。

富士川町小室の徳栄山 妙法寺の第10世日薬上人は信玄公の叔父(ないし伯父)にあたる人物とされ、当寺は武田家の祈願所として庇護され、天文年間には信玄公から寺領の寄進があったとも伝わります。

上総の真理谷城・庁南城に拠った庁南(真理谷)武田氏は甲斐武田氏の支流で、信玄公の三男を養子として継がせたともいわれ、庁南(真理谷)武田氏ゆかりの日蓮宗長久寺(千葉県長南町)には、信玄公寄進とされる仏舎利2粒が奉安されています。

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信玄公の重臣・穴山信君は身延一帯(河内領)を領し、日蓮宗(身延山)と武田宗家との関係をとりもったとみられています。(→『武田・穴山両氏の対身延山政策』(町田是正氏)(PDF)

穴山信君は甲斐源氏で武田家臣の秋山越前守虎康の息女を養女とし、この養女は天正十年(1582年)、信君が織田・徳川氏に臣従した際に徳川家康公の側室となりました。(下山殿/お都摩の方)

下山殿は天正十一年(1583年)、家康公の五男・万千代君(武田信吉公)を出産。
信吉公は下総小金城3万石~下総佐倉城10万石と移り、佐竹氏に替わって水戸25万石の太守となり、旧武田遺臣を付けられて武田氏を再興するやにみえましたが、慶長八年(1603年)21歳で死去し武田氏再興はなりませんでした。

下山殿は天正十九年(1591年)下総国小金にて早逝。平賀の日蓮宗の名刹・長谷山 本土寺に葬られました。
また、下山殿の実父(武田信吉公の実祖父)・秋山虎康は松戸市大橋の地に止住し、慶長元年(1596年)に了修山 本源寺を開山しているのでおそらく日蓮宗信徒です。

下山殿の「下山」は身延町下山から称したといいます。
『穴山氏とその支配構造』/町田是正氏(PDF)には「(秋山氏の祖)秋山太郎光朝の末の下山氏の住する処で(中略)『日蓮聖人遺文』にも下山氏の存在が記される所」とあり、下山氏(秋山氏)と日蓮宗のゆかりのふかさがうかがえます。
下山殿の実家の秋山氏は、京よりはやくに讃岐に日蓮宗を伝えた(→ビジネス香川)ともいいますから、下山殿もまた熱心な日蓮宗信徒であったのかも。

想像をたくましくすれば、もし、下山殿も信吉公も早世しなければ武田家は水戸25万石の大名として再興存続し、その宗派は日蓮宗となっていたかもしれません。

〔関連寺院〕

■ 日蓮宗祖山・総本山 身延山 久遠寺
山梨県身延町身延3567
日蓮宗


■ 広教山 信立寺
山梨県甲府市若松町6-5
日蓮宗
甲斐百八霊場第54番


■ 西谷 武井坊
山梨県身延町身延3583
日蓮宗


■ 上行山 要法寺
山梨県甲府市武田4-1-43
日蓮宗
※「甲府城北史蹟めぐり」の御首題


■ 大津山 実相寺
山梨県北杜市武川町山高2763
日蓮宗


■ 藤光山 法華寺
山梨県甲府市武田1-4-34
日蓮宗


■ 徳栄山 妙法寺
山梨県富士川町小室3063
日蓮宗
甲斐百八霊場第91番


■ 長谷山 本土寺
千葉県松戸市平賀63
日蓮宗


■ 了修山 本源寺
千葉県松戸市大橋766
日蓮宗



【 山梨県外のゆかりの寺社 】

【 長野県 】
・新海三社神社 (長野県佐久市田口宮代)
・新海山 上宮寺 (長野県佐久市田口)
・一行山 西念寺 (長野県佐久市岩村田)
・寶林山 安養寺 (長野県佐久市安原)
・平林山 千手院 (長野県佐久穂町平林)
・海尻山 醫王院 (長野県南牧村海尻)
・横湯山 温泉寺 (長野県山ノ内町平穏)
【 群馬県 】
・榛名神社 (群馬県高崎市榛名山町)
以上は、現在整理中です。

■ 生島足島神社
公式Web
長野県上田市下之郷中池西701-甲
御祭神:生島大神、足島大神
旧社格:式内社(名神大)、国幣中社、別表神社
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

長野県上田に鎮座する古社です。
社伝には「生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。神代の昔、建御名方富命が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。」とあります。(公式Webより)

建治年間(1275年~1278年)に北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕、戦国時代以降は真田昌幸・信之等の武将をはじめ、代々の上田城主の崇敬を集めています。

当社には戦国時代の多くの文書が伝わっており、「武田信玄願文」(永禄二年(1559年)、信玄公が上杉謙信との決戦を前に戦勝を祈念した願文)、「武田家臣団起請文」(永禄十年(1567年)、甲斐・信濃国内の家臣団に信玄への忠誠を誓わせた文書。)などが代表例で、いくつかは国の重要文化財に指定されています。

信玄公ゆかりの願文・起請文を語る上で、はずせない神社とされています。

■ 太田山 龍雲寺
長野県佐久市岩村田415
曹洞宗 御本尊:十一面観世音菩薩
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

鎌倉時代の正和元年(1312年)大井玄慶を開基、浄学天仲を開山として臨済宗寺院として建立。文明年間(1469年~1487年)曹洞宗の僧天英祥貞によって復興され、曹洞宗に改められました。

戦国期、佐久を掌握された信玄公は永禄年間(1558年~1570年)、自ら開基となり、越後から北高全祝を招聘して中興されました。
北高の招聘に際しては、甲斐の龍華院(甲府市上曽根)と永昌院(同山梨市矢坪)の住職がこれに当たったと伝わります。

永禄十年(1567年)には信玄公は寺領を寄進され、西上野侵攻の折には末寺を寄進されています。
当寺は分国内曹洞宗派の僧録所となり、僧録司となった北高は元亀元年(1570年)には宗派統制を目的に定められた曹洞宗新法度の制定にも携わったとされます。

元亀三年(1572年)4月、西上に際して僧録司北高の立場を示すため、小宮山昌友を奉行として千人法幢会を実施し、正親町天皇から扁額を下賜されたといいます。
信玄公は翌元亀四年、西上の途上で逝去されましたが、当寺は信玄公の火葬地として伝わっています。(実際に遺骨が出土し、分骨の可能性も考えられているようです。)

■ 富蔵山 岩殿寺
長野県東筑摩郡筑北村別所13505
天台宗 御本尊:馬頭観世音菩薩
札所:信濃三十三観音霊場第15番
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

舒明天皇の御代(629~641)役の行者の弟子学文行者が修験道場として開山し、嘉祥元年(848年)に比叡山座主慈覚大師円仁が仁明天皇の勅命を奉じ、寺領三百町を賜り開基されたと伝わります。

四院十二坊、境内に七十五社を配した名刹とされています。
信玄公の帰依篤く、川中島合戦では当寺観世音の霊験があったとして、寺紋に武田菱を賜り、信者は甲州、上州、越後に及んだといわれます。

信濃侵攻先での信玄公の寄進を伝える貴重な寺院です。

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古府中町の万年山 大泉寺も信玄公とのゆかりがふかいですが、こちらは信虎公開基なので、「信虎公編」でご紹介します。

【 古長禅寺 】

■ 瑞雲山 古長禅寺




南アルプス市鮎沢505
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
朱印尊格:本尊 釈迦牟尼佛
札所:甲斐百八霊場第86番
・中央に三寶印と中央に「本尊 釈迦牟尼佛」の揮毫。
右に「甲斐百八霊場第八六番」の札所印と「武田信玄公御母堂 大井夫人墓所」の印判。
左は上から参拝記念印、「夢窓國師古道場」の印判と山号・寺号の印判が捺されています。
多彩な印判、華やかな印象の御朱印です。

古長禅寺は、Vol.3 でご紹介した甲府市愛宕町の長禅寺の前身となる名刹です。

もともとこの地には行基創建と伝わる真言宗の大寺西光寺があり、南北朝時代の正和五年(1316年)に夢窓疎石が西光寺の一角に長禅寺を創建し、臨済宗に改宗されたと伝わります。
西郡の有力国衆大井氏の菩提寺で、信玄公の母、大井夫人(瑞雲院殿)は大井氏の出です。

大井夫人は賢母で、悟渓宗頓(大徳寺五二世住持、妙心寺四派の一、東海派の開祖)の法統を嗣ぐ、尾張国瑞泉寺の岐秀元伯を長禅寺に招き、若き日の信玄公に「四書五経」「孫子」「呉子」などを学ばせたといわれます。
だとすると、信玄公は甲府の躑躅ヶ崎館から、西郡鮎沢の当寺まで遠路はるばる参禅されていたことになります。

大井夫人は天文十年(1541年)の信玄公による信虎公駿河追放ののちも甲斐に留まられ、躑躅ヶ崎館北曲輪に居住されました。
天文二一年(1552年)に逝去。法名は瑞雲院殿月珠泉大姉。
葬儀の大導師を務められたのは岐秀元伯と伝わります(『高白斎記』)。

大井夫人逝去の後、西郡の鮎沢では墓所が遠いため、亡き母を開基に、導師の岐秀元伯を開山に請じて新たに府中に長禅寺を開かれました。
これより、当寺は古長禅寺と称されます。

大井夫人ゆかりの事物は甲府の長禅寺に移っていますが、当寺には「木造夢窓疎石坐像」が所蔵されています。

山門からすこし離れた飛び地境内に、境内の樹齢約700年、「夢窓国師お手植えの四つビャクシン」があり、国の天然記念物に指定されています。

山門は一間一戸の切妻造桟瓦葺ながら鬼飾り付きの降棟を備え、大棟に手の込んだ意匠と花菱紋二つを置いて風格があります。
山内はさほど広くはないですが、夢窓国師構想と伝わる本堂前の庭園はさすがに趣きがあり、境内全体が県指定史跡に指定されています。

本堂は桁行六間の入母屋造桟瓦葺で、正面に唐破風向拝を付設、重心が低く安定したイメージのお堂です。

本堂裏手に開山堂跡と大井夫人の墓所があります。
墓所は花菱紋付きの玉垣に囲まれ、ひっそりと佇んでいます。
傍らには、甲斐国・安芸国守護武田信武公から始まる大井氏の家系図が示されています。

大井夫人 歌
- 春は花 秋はもみじの色いろも 日かずつもりて ちらばそのまヽ -

御朱印は本堂前に書置のものが用意されています。ご住職がいらっしゃるときは揮毫いただけるかもしれませんが、当日はご不在につき書置を拝受しました。

【 恵林寺 】

■ 乾徳山 恵林寺
公式Web





甲州市小屋敷2280
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:甲斐百八霊場第9番、甲斐八十八ヶ所霊場第73番
※御朱印はVol.5でご紹介していますが、再掲します。
〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:武田不動尊 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第9番
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「武田不動尊」の揮毫。
右に「甲斐百八霊場第九番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
甲斐百八霊場の札所本尊は御本尊の例が多いですが、当寺では「武田不動尊」となっています。

〔令和改元記念の御朱印〕
朱印尊格:武田不動尊 書置(筆書)
札番:なし
・中央に不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「武田不動尊」の揮毫。左上に「武田菱」の紋、中央上におそらく青龍、右上に武田家の控え紋「花菱」の紋
右下におそらく朱雀。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
青龍と朱雀は四神の内ですが、改元にちなんでの配置と思われます。
この御朱印には「甲斐百八霊場第九番」の札所印は捺されておらず、「武田不動尊」単独の御朱印となっています。

武田家の菩提寺であり、信玄公の墓所でもある甲斐を代表する名刹。
元徳二年(1330年)、甲斐牧ノ庄の地頭職二階堂出羽守貞藤が夢窓国師を招き、自邸を禅院として創建したとされます。
武田信玄の尊敬を受けた快川和尚の入山で寺勢を高め、永禄七年(1564年)には信玄公自ら寺領を寄進して菩提寺と定めました。

甲斐を代表する名刹だけに、事跡や寺宝が多く遺されています。
四脚門は、徳川家康公建立の切妻造檜皮葺の四脚門。丹塗りが施され通称「赤門」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。扁額は「乾徳山」の揮毫。

三門は、一門一戸入母屋造檜皮葺の四脚の楼門。
照りの強い屋根と上部の高欄が意匠的に効いて、きりりと引き締まったイメージがあります。
大棟には武田菱がふたつ。門柱には有名な快川国師の遺偈が掲げられています。

開山堂は、入母屋造妻入り銅板葺で、夢窓国師、快川国師、末宗和尚の木像が安置されています。
拝観は妻入りの大建築である庫裡が受付です。
本堂、うぐいす廊下、明王殿、方丈庭園などが拝観できます。

本堂背後の方丈庭園は鎌倉時代、夢窓国師の作庭。京都の西芳寺、天竜寺の庭園とともに夢窓国師の代表作として知られ、国の史跡・名勝に指定されています。

「武田不動尊」は信玄公の御霊屋である「明王殿」(不動堂)の奥深く御座します。

当寺の資料には、「この不動明王は、信玄公が京から仏師康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたもので、伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を漆に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたといわれている。」とあります。
また、『甲陽軍鑑』『甲斐国志』には、信玄公の姿を写した像とする伝承が記されています。

元亀四年(1573年)4月12日、西上の途上、信玄公は信濃国駒場において病にて逝去されました。

辞世の句は、
- 大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流 -
と伝わります。

天正四年(1576年)春、勝頼公は快川国師の導師のもと、信玄公の葬儀を厳修しました。
戒名は法性院機山信玄。

武田氏滅亡後、恵林寺は織田信長軍の焼き討ちにあい、快川国師は
「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」
との言葉を残して入定されました。

恵林寺の公式Webには、信玄公の人となりや教養について詳細に記されています。
いくつか抜粋引用してみます。
信玄公は母、大井夫人の実家の菩提寺である古長禅寺の名僧・岐秀元伯から「四書五経」「孫子」「呉子」等を学ばれました。

軍学のみならず、「京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行い、自身も数多くの歌や漢詩を残されています。
とくに詩歌の道に優れ、その作品が「為和集」、「心珠詠藻」、「甲信紀行の歌」などに収載されています。また、漢詩も嗜まれ、京都大徳寺の宗佐首座によって「武田信玄詩藁」として編纂された」とのことです。

「信玄公が招き、交流を持った禅僧たちは、たとえば、策彦周良、惟高妙安、岐秀元伯、希庵玄密、月航玄津、天桂玄長、説三宗璨、東谷宗杲、鉄山宗鈍、そして快川紹喜。いずれも名の轟く同時代の高僧ばかりです。」(同Web)

「ご出陣の間には日々夜々の参禅学道他事なし(甲陽軍鑑より)」に記されているように、出陣のあいまであっても、昼も夜も、常にひたすら禅に参じていたといわれています。

信玄公は生涯かずかずの名言を残され、後世に語録が編まれたほどですが、なかでもつぎの言葉はよく知られています。

「凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」

(意訳)
戦というものは、五分と五分であれば、上々。七分三分で優勢であれば、中程度。十分で圧勝するならば、結果は下だと考えなさい。
なぜならば、五分五分の互角であれば、次こそはと励みが生まれる。
しかし、七分の勝ちであれば油断が生じて怠けが始まる。
そして、百パーセント勝ってしまえば、驕慢、傲りを招くからだ。
戦で完勝しようとも、驕慢を生じてしまえば、次には必ず負ける。戦に限らず、世の中のことは、すべてこうだという心がけが肝心である。
(恵林寺公式Webより)

いまの時代でも、いや、「勝者総取り」のいまの時代だからこそ、いっそう響く名言だと思います。

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これで「信玄公編」は終わりです。
つぎは、「信虎公編」、「勝頼公編」を予定していますが、しばらく時間をおきます。

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

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