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■ Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/11/23 追記更新UP

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

2020/04/18 UP
つづきです。

※文中、”資料A”は、「武田史跡めぐり」/山梨日日新聞社刊をさします。

【 躑躅ヶ崎館と武田神社 】

信虎公は永正十六年(1519年)、甲府の北部に館(躑躅ヶ崎館)を築かれ、石和から甲府(府中)に武田家の本拠を移されました。
信玄公は一貫してこの躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠とされました。

「城」ではなく「館」です。
信玄公治世時に、他国から甲斐に侵入を許したことはほとんどなく、館への居住は信玄公の強さの象徴(城を築く必要がなかった)とする見方もありますが、躑躅ヶ崎館は信虎公による築館であり、この見方は単純すぎるかも・・・。
(信玄公の名言とされる「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の影響が強いと思う。)

ただし、古府中周辺にまったく城を築かなかったわけではなく、要害山城と湯村山城がいわゆる”詰めの城”として知られています。

躑躅ヶ崎館の規模は東西約280m、南北約180m、面積は14,000坪超とみられ、外濠、内濠、空濠の3つの濠を擁します。

多数の曲輪を置いた中世式の武家館で、館の南には主だった家臣の館を配しています。
館の周辺に家臣を配する様式は、主君(大名)の中央集権の証ともされます。

武田神社社頭の掲示板には、家臣の館を示す説明図が掲示されており、以下の名前が認められます。
武田逍遥軒、小山田信茂、土屋右兵衛尉、横田備中守、穴山伊豆守、高坂弾正忠、真田弾正忠、甘利備前守、内藤修理亮、板垣駿河守、原加賀守、三枝勘解由、多田淡路守、馬場美濃守、山県三郎右兵衛尉、曾根下野守、小幡織部正、諸角豊後守、武田左馬助信繁、秋山伯耆守、一条右衛門大夫(信龍)、飯富兵部少輔、金丸肥前守・・・。
いずれも武田二十四将と重なる錚々たる武将です。

これらの館はおおむね躑躅ヶ崎館(現・武田神社)から甲府駅まで伸びる武田通り沿いの現在の山梨大学あたりまで配置され、以南は要法寺、宮前八幡、御崎神社、法華寺などの寺社が多い町割りとなっています。

『勝山記』によると、躑躅ヶ崎館移転直後の永正十七年(1520年)春、栗原氏・大井氏・逸見氏らの有力国人は甲府への集住に抵抗し甲府を退去した事件が伝えられていますが以降安定し、武田家の本拠として定着しました。

武田家滅亡後、天正十八年(1590年)に徳川家臣、平岩親吉によって南方に甲府城が築城されると甲府の政務の中心はそちらに移り、躑躅ヶ崎館は破却され、館跡は「古城」「御屋形跡」と称されました。
躑躅ヶ崎館の館跡の一部は、現在武田神社となっています。

■ 武田神社





【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 令和初日のものすごい御朱印行列(拝受せず)
 

公式Web
甲府市古府中町2611
御祭神:武田信玄公
旧社格:県社・別表神社
授与所:境内授与所
朱印揮毫:武田神社(印判)
※信玄公立御姿、信玄公座御姿の切り絵御朱印も授与されています。

躑躅ヶ崎館の跡地に大正八年(1919年)、信玄公を御祭神として創建された神社。
公式Webの由緒には「大正天皇のご即位に際し信玄公墓前に従三位追贈が奉告されたのを契機に、ご遺徳を慕う県民に武田神社ご創建の気運が沸き上がり、官民一体となった「武田神社奉建会」が設立され、浄財によって大正8年には社殿が竣工、4月12日のご命日には初の例祭が奉仕されました。」と記されています。(同Webから引用)

歴史は浅いものの、さすがに信玄公をお祀りする神社、県内有数の大社として多くの参拝客を集めて賑わいをみせています。

駐車場は点在してかなりの台数あるのですが、オンシーズンには周辺道路が渋滞気味となるので、オフシーズンないし平日の参拝がベターかと。

石垣に壕を構えた豪壮なつくりは、武家の館を彷彿とさせるもの。
社号標は「武田神社」、石灯籠一対、朱塗りの神橋の向こうに階段と鳥居が見えます。
社頭右手に並ぶ掲示物は内容が充実しているので、興味のあるかたは必読かと。

石造の明神鳥居に「武田神社」の扁額。拝殿前にもう一基見える鳥居も石造明神鳥居です。
参道左手の立派な手水舎の水盤は武田菱をかたどったもの。参道沿いに並ぶ灯籠も武田菱の意匠で、あたりはすでに武田色一色です。

拝殿前鳥居の前を向かって左手に進むと、武田水琴窟、名水「姫の井戸」、厳かな神楽殿「甲陽武能殿」とそのおくに榎天神社が鎮座します。

拝殿は入母屋檜皮葺の唐破風向拝付きで、おそらく桁行六間ではないかと思います。ただし、左横の菱和殿(祈願所)と屋根付き渡り廊下で連結しています。

中門、祝詞舎、流造の本殿とつづく社殿は、様々な意図をもって構成されたものとみられます。(→ 武田神社についての研究
今回参拝時の社前の奉納飾り樽は「武田菱」と「太冠」(太冠酒造/南アルプス市)、「武田菱」という銘柄はきいたことがないので、奉納用の特別銘柄かもしれません。

拝殿左手おくの宝物殿には武田家ゆかりの品々が収蔵されています。
なかでも社宝の太刀「吉岡一文字」(鎌倉時代末期)は、明治十三年(1880年)、時の太政大臣三条実美公が、信玄公正室が三条家の出身だったことに因み当社に寄進されたもので国の重要文化財に指定されています。
なお、代表的な武田二十四将図とされる当社所蔵の武田二十四将図(江戸中期作)もこちらに収蔵されています。

御朱印は、拝殿右手の授与所にて授与いただけます。
信玄公ゆかりの勝運神社として知られ、数種の御朱印を授与されている県内有数の人気御朱印スポットで、週末などは行列発生もみられるようです。
切り絵作家百鬼丸さんの「立御姿」「座御姿」の御朱印(書置のみ)が人気で、武田菱、楯無、軍扇に富士山がデザインされた御朱印帳も人気が高いです。(→公式Webの御朱印情報

【 信玄堤と大神幸祭 ~甲斐國一宮、二宮、三宮~ 】

信玄公は国内統治に数多の事績を残され、名君として知られています。
そのひとつが信玄堤です。

急峻な山々に囲まれた甲府盆地は古来より水害に悩まされ、盆地底部はもともと笛吹川と釜無川の氾濫原であったとみなされるほどです。
とくに南アルプスから流れ下る御勅使川(釜無川の支流)は有数の暴れ川で、大雨ごとに氾濫を起こし、濁流は盆地西部、場合によっては国中(甲府南部から笛吹市あたり)まで流れ込んだといわれます。

信玄公はこれを防ぐため、御勅使川と釜無川の合流点である甲斐市竜王あたりに当時の最新技術を駆使して堤を築き、流路を替えて、以降大規模な氾濫は収まったとされます。

甲府盆地の水害に関連して、平安時代から大神幸祭(おみゆきさん/御幸さん)という水防祈願の行事が伝わります。
大神幸祭は明治に入り一宮浅間神社だけで行われるようになりましたが、平成15年に従前どおりの三つの神社による御幸が復活し、現在も4月に執り行われています。

大神幸祭については笛吹市の資料に詳しいので、抜粋引用します。
「大神幸祭は、甲斐国の一宮浅間神社、二の宮美和神社、三の宮玉諸神社の三つの神社の神々が釜無川左岸の三社神社へ神輿でお渡りになり(神幸)、川除(水害除け)の神事を行うお祭りです。天長二年(825年)に甲斐国が度重なる洪水に悩まされている様子を国司の文屋秋津が朝廷に報告したところ、朝廷から勅使が派遣され三つの神社による大神幸祭が行われるようになったといわれています。」「武田信玄も治水には大変な力を注ぎ、信玄堤をはじめとした様々な水防施設を造りました。川除の神事が行われる三社神社はこの信玄堤にあるため、信玄も大神幸祭に力を入れていた様子がうかがわれます。(中略)
大神幸祭を行っていた神社に対する信玄の信仰は篤く、数々のゆかりの品が奉納されています。」


【写真 上(左)】 おみゆきさん(信玄堤説明板より)
【写真 下(右)】 宝暦年間のおみゆきさん(同上)

また、信玄堤の説明板には「昔は一ノ宮(浅間神社)二ノ宮(美和神社)三ノ宮(玉諸神社)から御輿が出る三社合同の共祭でしたが、明治3年(1870年)からは、一ノ宮のみのお祭りになりました。浅間神社に伝わる江戸時代の絵巻物によるとその行列は当時の十万石の大名行列と同じぐらいの規模であったといわれています。」と記されています。

大神幸祭にかかわる甲斐国の一宮、二宮、三宮についてご紹介します。

■ 甲斐国一宮 浅間神社




公式Web
笛吹市一宮町一ノ宮1684
御祭神:木花開耶姫命
旧社格:式内社(名神大)論社、国幣中社、甲斐国一宮、別表神社
授与所:境内社務所授与所
朱印揮毫:浅間神社、山宮(2種) いずれも直書(筆書)

甲斐国の一宮で、式内社(名神大)論社、国幣中社、別表神社というすこぶる高い社格を有する古社で「あさまじんじゃ」と呼びます。
社伝(公式Web)によると、もともとの本宮(元宮)は、現・摂社で山宮川の水源である神山の麓に第十一代垂仁天皇八年(約2千年前)から鎮座される山宮(神社)のようで、山宮(神社)に祀られていた木花開耶姫命、大山祇神、瓊々杵命の3柱のうち、貞観七年(865年)の富士山大噴火の翌年に木花開耶姫命が当社一宮(里宮)に遷座されたようです。

摂社・山宮(神社)の御祭神は以降、大山祇神、瓊々杵命の2柱となっています。
永禄元年(1558年)には信玄公が大檀那となって摂社山宮神社の本殿を再建されたという記録が残っており、この本殿は、市内に残されている数少ない中世建築とされています。
一宮の境内には山宮(神社)の遙拝所が設けられ、御朱印も授与されています。

甲斐国一宮だけに武田氏からの崇敬も篤く、信玄公ゆかりの文書も伝わっています。

天文十九年(1550年)、後奈良天皇の筆による「紺紙金泥般若心経」を信玄公は自筆の包み紙を付けて浅間神社に奉納されています。
「甲斐國 国土安穏万民和楽」。般若心経の末尾に記された後奈良天皇の御宸筆は、信玄公の忠誠と国守(信玄公)督励の意で特筆されたものと伝わります。
信玄公自筆の包紙には、「人皇百五代御柏原天皇第一王子今上皇帝宸筆 勅筆奉納神前般若心経一巻 天文十九年庚戌卯月廿日、大膳大夫晴信」と記されています。(資料A)
浅間神社は神仏混淆していた事例が多いですが、この神前への般若心経奉納もそれを示すものかと思われます。

奈良の長谷から移植した桜を奉納した際(上記御宸筆心経奉納の際とも)に詠まれた和歌の短冊も残されています。
- うつし植る初瀬の花のしらゆふを かけてそ祈る神のまにまに -
また、信玄公奉納の国次の太刀や條目、古文書も残されています。

一の鳥居は甲州街道に面して設置、社頭にある石造明神鳥居は二の鳥居です。
社号標には「国幣中社浅間神社」とあります。
その先に重厚な三間一戸の随神門。右手には山宮神社の遙拝所。

通常は随神門のおくには拝殿が見えるのですが、こちらは神楽殿が見えています。
拝殿は左手に鎮座します。つまり、参道は拝殿前で右90度に曲がっていることになります。(正確には拝殿から正面方向にも参道が延びているのでTの字型の参道。)
拝殿が向いている向きは富士山ではなく、むしろ山宮の方向で、これにはなんらかの意味があるのかもしれません。
拝殿は入母屋造銅板葺に唐破風向拝を附属し、さすがに一宮の貫禄。

拝殿に向かって右手おくには境内社が鎮座されており、干支参りもできるようになっています。

一宮なので参拝者も多く、御朱印は授与所で授与され、オリジナル御朱印帳も頒布されています。

■ 甲斐国一宮元宮 山宮神社

【写真 上(左)】 一宮浅間神社境内の山宮神社の遙拝所
【写真 下(右)】 山宮神社の御朱印

【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 鳥居扁額

【写真 上(左)】 けもの避け柵
【写真 下(右)】 参道

【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 本殿

【写真 上(左)】 本殿正面蟇股の彫刻と斗栱
【写真 下(右)】 夫婦杉
公式Web
ふえふき観光ナビ
笛吹市一宮町一ノ宮1133(1705)
御祭神:大山祇神、天孫瓊々杵命
旧社格:(式内社(名神大)論社、国幣中社、甲斐国一宮、別表神社)
授与所:甲斐国一宮 浅間神社社務所授与所

現在は一宮浅間神社の摂社となっていますが、もともとは浅間神社の元宮(本宮)であったとされる格の高い神社です。
社伝(公式Web)によると、当社は山宮川の水源である神山(こうやま)の麓に第十一代垂仁天皇八年(約2千年前)から鎮座されるお社で、当初祀られていた木花開耶姫命、大山祇神、瓊々杵命の3柱のうち、貞観七年(865年)の富士山大噴火の翌年に木花開耶姫命が里宮(一宮浅間神社)に遷座されたようです。
よって現在の御祭神は以降、大山祇神、天孫瓊々杵命の2柱となっています。

永禄元年(1558年)には信玄公が大檀那となって本殿を再建されたという記録が残っており、笛吹市内に残されている数少ない中世建築とされています。

一宮浅間神社の境内には当社の遙拝所が設けられ、御朱印も授与されていますが、出向いて参拝しました。

一宮浅間神社から南東の方向に約2kmほど、甲州街道を渡った山側の山林のなかに鎮座まします。
↑上記の住所をナビに入れてもおそらく正確には表示しないと思います。
山宮は一宮町一ノ宮の飛び地に所在し、そもそも地番は振られていないのかもしれません。

一宮浅間神社からだと甲州街道の「石」交差点を直進し、しばらく行った山宮川そばの細い路地を左折します。(路地手前の広い道ではありません。)
住宅地のなかの細い路地を道なりに登っていくとぶどう畑となり、道の分岐に石造の台輪鳥居が見えてきます。ここが参道入口です。

鳥居のおくにけもの避け柵があり、これを抜けてのお参りとなります。
柵に取り付けられた「この付近にクマ出没注意」の看板が異様に気になります(笑)
参道まわりはまったくの山林、人気もないので、心配な方はクマ除けの鈴でも持参した方がいいかも。

台輪鳥居の扁額には「山宮大明神」とあります。
参道は一直線なので迷うことはありませんが、拝殿までは丸太の階段数分の登りがつづきます。
拝殿は入母屋ないし寄棟造の平入り、簡素なつくりで目立った装飾類はみあたりません。
その裏手に国指定文化財の本殿があります。
永禄元年(1558年)信玄公の再建とされる社殿で、一間社隅木入春日造檜皮葺。
装飾はさほど多くはないものの、蟇股の彫刻が精緻で、檜皮葺の屋根の曲線も品格があります。
本殿のうしろには夫婦杉。樹高およそ37m、目通り幹囲は左側5.3m右側5mという巨木で、圧倒的な存在感があります。

現在でも本社「山宮」に対して浅間神社を「里宮」と呼び、毎年4月のおみゆきさんのひと月前の3月に山宮御幸祭りが行われ里宮から山宮へ神輿が渡御することからみても、祭祀上重要な地位を占める神社であることがわかります。

■ 美和神社



山梨県神社庁資料
笛吹市御坂町二之宮1450-1
御祭神:大物主命
旧社格:県社、甲斐国二宮、国史見在社
授与所:境内
朱印揮毫:美和神社 直書(筆書)

大和国の大神(大三輪)神社から勧請され、尾上郷の杵衡神社へ遷された後に新たに当地に遷座され、一条天皇の御代に甲斐国二宮の号を賜ったとされます。(遷座については、当社を式内社論社と目する異説あり)
勧請は景行天皇のころ、甲斐国造の塩海足尼によるものと伝わります。

「文徳天皇の時従五位下勲十二等の神階、一条天皇の時二の宮との宮号、御宇多天皇の時正一位勲一等勅額を受ける」(資料A)の来歴が残るようです。

歴代の武田家惣領が武運長久、子孫繁栄を祈願して尊祟したとされ、社領が寄進されています。
信玄公が元服の際に身に着けられた「赤札紅糸素懸胴丸佩楯付」という甲冑(初着の甲冑)、信玄公、義信公親子連名の寄進とされる「板絵著色三十六歌仙図」の板絵、信玄公関連文書などの社宝が伝わっています。三十六歌仙図は駿河の絵師、沼津与太郎忠久の永禄六年(1563年)作の優品と伝わります。

また、信玄公正室の三条夫人も具足を奉納されたと伝わります。
所蔵する木造大物主神立像は平安時代の作とされる一木造の優品で、国重要文化財に指定されています。

毎年2月に行われる湯立神事は、元禄年間(1688年~1704年)に始められたとされ、現存する県内唯一の湯立神事として知られています。

長々と伸びる参道、広い境内は、当社の格式の高さを物語るもの。
端正な流造瓦葺千鳥破風向拝付拝殿は、社叢に囲まれ厳かな佇まい。
神前の奉納飾り樽は、笛吹市御坂町の「腕相撲」でした。

御朱印については、わたしの参拝時には拝殿内にご神職がおられたので揮毫御朱印を拝受できましたが、常駐はされていないかもしれません。

■ 玉諸神社



山梨県神社庁資料
甲府市国玉町1331
御祭神:國魂大神命
旧社格:式内社(小)論社、県社、甲斐国三宮
授与所:愛宕神社社務所(甲府市愛宕町134)
朱印揮毫:玉諸神社 直書(筆書)

社伝によると、もとは酒折宮北方の御室山山上に祀られ、その後、日本武尊が東征の帰路に発生した水害を収めるため現社地に珠を埋め、その上に杉(玉室杉)を植え依り代として国玉大神を祀られると洪水は鎮まったため社が築かれたとされます。
清和天皇の貞観五年官幣を賜り勅願所となって、延喜式式内社に列せられたとされます。

甲斐国三宮として崇敬され、信玄堤近くの三社神社(甲斐市竜王)・三社諏訪神社(甲府市上石田)まで、一宮浅間神社、二宮美和神社とともに渡御する川除祭(水防祭、御幸祭)が古くから行われています。
武田氏から崇敬を受けて社殿が造営されたと伝えられますが、兵火で焼失したとされます。

〔境内の由緒書より(抜粋)〕
「甲斐源氏の祖・清和天皇貞観五年(863)神前に官幣を賜り勅願所となり、延喜式に所載され式内社に列せられた、この頃より中央から任命される国司の巡拝する順により一宮、二宮の称号が生じ当社は三番目、甲斐国三宮と称され篤く崇敬を受け(以下略)」
山梨県神社庁資料

なお、大御幸祭の際に御渡りされる玉諸神社の御輿は、とくに「ぼんぼこさん」と呼ばれています。

住宅地のなかにたたずむ社頭は、石垣、生垣を配した整ったもの。
社号標は「玉諸神社」。一の鳥居は朱塗り稚児柱瓦葺屋根付きの立派な両部鳥居、奥に見える二の鳥居は神額付きの石造明神鳥居です。

参道左手の神楽殿は整ったつくりで、懸魚、二重梁に蟇股などの意匠が施されています。
神楽殿背後の社務所横のショーケースには当社所蔵の資料類が展示されています。

正面の拝殿は銅板葺唐破風向拝付の真新しいもの。一見、入母屋造に見えますが背後の本殿と石の間(幣殿)らしき構築物でつながっているので権現造かもしれません。

通常は非常駐で、御朱印は愛宕神社社務所(甲府市愛宕町134)にて拝受できます。

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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