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■ Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/11/23 UP

Vol.2が字数制限に引っかかったので、Vol.2AとVol.2Bに分割しました。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

※文中、”資料A”は、「武田史跡めぐり」/山梨日日新聞社刊をさします。

■ 三社神社


山梨県神社庁資料
甲斐市竜王188
御祭神:木花開耶姫命、大物主命、大国主命
旧社格:村社
※御朱印は授与されていないとみられます。

大御幸祭で一宮、二宮、三宮の三社の御輿が御渡され、川除の祈願が執り行われる神社です。

〔 境内説明板および山梨県神社庁資料より 〕
天長二年(825年)秋、甲斐の国中地方に大水害が発生した際(大水禍を蒙り狭野一朝にして荒蕪地と化し、人畜の死傷算なく、又悪疫流行す。/山梨県神社庁資料)、時の国司文屋秋津が朝廷にその惨状を奏上、勅旨に依り(甲斐)国内代表社として、浅間神社、美和神社、玉諸神社の神官に命じ神璽を行幸して水防祈願を此の地に於て行ったと伝わる古社です。

以来、明治七年(1874年)までは毎年四月第二亥の日に甲斐国一宮浅間神社、二宮美和神社、三宮玉諸神社の三社が合同して各社から御輿等が御渡し、信玄堤(龍王川除)上で水防の神事として御幸祭が行われてきました。(里人相計りて三社神社の御祭神を勧請せしめ創立す。/同上)

貞享三年(1686年)の本殿建立寺に「御旅殿」とされていることから、この頃までの当社は、御旅所(神社の祭礼巡行の際、神輿が途中で休憩・宿泊する場所、ないしは神幸の目的地を指し、通常、御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。)の性格が強かったことがうかがわれます。

北方茅が岳からの山裾が釜無川に接する要地。釜無川・信玄堤を西に、竜王用水を足元に、南向きに鎮座します。
石造の台輪鳥居は転び(傾斜)をもつ太い柱で、存在感があります。桃山時代の造立とみられ市の指定文化財です。扁額には「三社大明神」とあります。
階段を昇って正面の拝殿は入母屋造銅板葺で均整のとれた意匠。

現在の本殿は「御旅殿」の名で貞享三年(1686年)に建立され、宝永四年(1707年)三社明神社として修造されています。
桁行三間、梁間二間のゆったりとした三間社流造で、一宮、二宮、三宮を祀るための規模をもっているとされています。
社殿まわりは立木がすくなくスペースがあり、大御幸祭の神事に備えたものかとみられます。

■ 三社諏訪神社

【写真 上(左)】 鳥居と境内(左奥が諏訪神社)
【写真 下(右)】 三社神社の拝殿

【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 諏訪神社
山梨県神社庁資料
甲府市上石田2-29-2
御祭神:木花咲耶姫命、大国主命、大国玉命、建御名方命
旧社格:村社
※御朱印授与情報は未確認です。

大御幸祭で一宮、二宮、三宮の三社の御輿が御渡されていた神社です。
上石田の住宅地の路地に面して鎮座しますが、境内は相応の広さをもちます。
社頭から向かって右が三社神社、左が諏訪神社です。
三社神社の石造鳥居は反増で貫の抜けがなく、台輪と亀腹と高さのある根巻をもち、柱間が狭いわりに高さがあるという独特な形状で、種類はよくわかりません。
鳥居の扁額は摩耗がはげしく判読できませんでした。

狛犬、社殿ともに基礎材で嵩上げされたかたちになっており、これは浸水に備えたものかもしれません。

拝殿は入母屋造銅板葺唐破風向拝付き。水引虹梁に木鼻、中備に板蟇股。
桟唐戸の上に「三社諏訪大神」の扁額。
本殿は一間社流造で二軒の平行垂木に複数の飾り懸魚を備え、蓑甲の仕上げがテクニカル。

右手の諏訪神社の鳥居は足太の台輪鳥居でこちらも扁額の判読不能でしたが、境内縁起書きによると「諏訪大明神」とのこと。
狛犬一対、正面に石造の祠。
境内縁起書によると、かつては社殿がありましたが明治七年火災で焼失したようです。

<境内縁起書(抜粋)>
・三社諏訪神社
「諏訪神社と三社神社が隣接して祀られていたが、明治七年諏訪神社は火災にて焼失。明治十年三社神社に合祀してから以来三社諏訪神社と申す。」
・三社神社
「天長年間毎年のように豪雨に見舞われ釜無川は洪水氾濫しとその水勢は玉幡、下河原、上石田その他下流の低地全域におよびその惨状はみるかぎりもない有様だった。時の国守文屋秋津は朝廷に奏上、勅旨に依り、一宮浅間神社祭神(木葉開姫命)、二宮美和神社祭神(大巳貴命)、三宮玉幡多神社祭神(大国主命)の三つの宮の分霊を合祀せよといい三社神社が建立されました。その後歴代の国守(知事)が祭主となり県民一丸となって、本宮から竜王・上石田と御輿が御渡され、水害・火災・悪疫の退散その他五穀豊穣を祈願しました。」

また、山梨県神社庁資料には「天長三年大洪水があり、甲斐国一宮浅間、二宮美和、三宮国玉の三神を勧請し鎮座、同年三月水防祭を行ふといふ。それより三社神社と称し四月十五日の祭儀には三社の神輿の神幸があったるも、明治七年よりは浅間神社のみとなる。」
とあり、大御幸祭の御輿が竜王の三社神社ののちに御渡されていた可能性があります。
(御幸祭で三社の御輿の御旅所として機能したのかもしれません。)

□〔追記〕
一宮浅間神社の公式Webに「大神幸祭は、甲斐国第一大祭と称され、社記によれば天長二年(八二五年)以来旧四月第二の亥の日、甲斐市竜王三社神社に神幸の上、川除祭(水防祭)を執り行って来たが、明治以後四月一五日と改め本社にて例大祭執行の後、同所及び甲府市上石田三社神社に神幸。(現在は竜王三社神社のみ)片途約6里(24km)に及ぶ行程であり現在、二宮、三宮も同所に神幸している。」とあり、以前は上石田の三社神社にも神幸されていたことが裏付けられます。

上石田は国中屈指の暴れ川、荒川と貢川の合流地点にあります。
釜無川の氾濫で流れ込んだ濁流をこの地点で南流する荒川に落とし込むことができれば、これ以東(国中の主要エリア)への浸水を防ぐことができます。

荒川は奥秩父の国師岳を源流とし、昇仙峡を形成して甲府市内へ流れ下る急流で、甲府盆地にたびたび水害をもたらしました。
昭和34年(1959年)の伊勢湾台風でも氾濫し大きな被害を受けましたが、市街地を縦断し河川改修がむずかしいため、昭和61年(1986年)春、上流に荒川ダムが完成整備されました。

荒川と貢川の合流地点のすぐ下流にある甲府市相生の住吉山 千松院は、武田家が荒川の水難よけの寺として建立したとされ、荒川の水害がいかに深刻であったかがうかがわれます。

■ 住吉山 千松院

公式Web
甲府市相生3-8-9
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:甲斐百八霊場第52番、府内観音札所第1番
〔甲斐百八霊場第52番の御朱印〕
朱印尊格:南無釈迦牟尼佛 印判
・中央に三寶印と御本尊「南無釈迦牟尼佛」の揮毫。右上に「甲斐百八霊場第五二番」と「府内観音札所第一番」の札所印。左には甲州水子地蔵尊、交通安全きく不動尊の印判と寺院印が捺されています。

創建は天正年間(1573年~1591年)。
かつて境内に水の安全を祈る住吉神社の祠もありましたが、関東大震災で崩壊してしまったとのこと。
甲府の住吉神社では、甲府市住吉の住吉神社が有名ですが、同社Webには「人皇第四十五代聖武天皇の御代(七二四)荒川の川辺高畑村内に鎮座するも甲斐源氏武田太郎信義公の願望にて 稲積荘一条郷に奉勧請」とあり、わざわざ旧社地を「荒川の川辺」と明記しているので、荒川の川除けと住吉神社はもともとつながりがあるのかもしれません。

現在は水子供養の寺として有名ですが、かつては府内観音札所第1番札所(振り出しの寺)として、巡礼者で賑わったようです。
また、甲府城の鬼門除けとして伝わる白狐に乗った不動明王も本堂に祀られています。

甲府の中心部に堂々たる山門を構えています。
おそらく薬医門と思われる八脚三間三戸の単層門で、「住吉山」の扁額。
二軒の平行垂木を配し、木戸門までもが本瓦葺の豪勢な門です。

本堂向かって左手前に聖観世音菩薩の石造立像。こちらは、関東大震災で崩壊してしまった観音堂(の観音さま)を平成元年に建立復興されたもので、府内観音霊場第一番(振り出し)の観音さまとなっています。

本堂はおそらく宝形造で銅板葺。屋根上に相輪を構えています。伏鉢、九輪、水煙、竜車、宝珠を備える伽藍様式に則ったものです。
向拝部正面はサッシュ扉ですが、両脇の花頭窓が意匠的に効いています。
拝みの扁額は院号「千松院」。

境内には、「府内観音札所第一番」を示す標識や御詠歌碑がいくつかありましたが、甲斐百八霊場第52番を示すものは見当たりませんでした。
考えてみれば、「府内観音札所第一番」の方がはるかに古い札所ですから、当然かもしれません。

〔 大御幸祭と三社神社の御祭神 〕
山梨県神社庁の三社神社の資料には「里人相計りて三社神社の御祭神を勧請せしめ創立す。四月十五日の一宮浅間神社三社神社間三十キロの大御幸祭は県下一の大祭なり。」とあります。
また、多数の資料に「甲斐国の一宮浅間神社(笛吹市)、二宮美和神社(笛吹市)、三宮玉諸神社(甲府市)から各祭神が渡御し、この地で水防祈願を行うために置かれた神社と伝えられています。」とあります。

一宮、二宮、三宮から水防祈願のために御祭神が勧請されたとすると、木花開耶姫命(甲斐国一宮 浅間神社)、大物主命(美和神社)は符合しますが、大国主命が符合するには、玉諸神社の御祭神・國魂大神命(国玉大明命)と大国主命が同体か近い神格と考える必要があります。
國魂大神命(国玉大明命)は謎の多い神格のようですが、字と音の通じる多摩の大社、大國魂神社の御祭神・大國魂大神は出雲の大国主神と御同神とされるので、この系譜が考えられるかもしれません。

一方、→山梨県神社庁の三社諏訪神社の資料には「甲斐国一宮浅間、二宮美和、三宮国玉の三神を勧請し鎮座、同年三月水防祭を行ふといふ。」とあります。三社から勧請された御祭神は木花咲耶姫命、大国主命、大国玉命とみられます。金刀比羅宮のWeb資料には「大物主神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の和魂(にぎみたま)に当たる神さま」とありますので、軽々には考えられませんが、大神幸祭は、木花咲耶姫命、大国主神、大国主神の和魂(大物主神)がお渡りになるという性格のお祭りなのかもしれません。

〔 信玄公、信玄堤と御幸祭 〕
甲府盆地はもともと水害の多い土地柄でした。
東に笛吹川、西に釜無川と御勅使川が流れ、これらの河川が氾濫すると、濁流が甲府盆地に流れ込みました。
なかでも、釜無川と御勅使川が合流する盆地西北の竜王付近は氾濫の常襲地帯で、この場所の治水は甲斐国の歴代の課題でした。


【写真 上(左)】 信玄堤説明板
【写真 下(右)】 築堤本陣の碑


【写真 上(左)】 信玄堤から上流(北)方向
【写真 下(右)】 信玄堤から下流(南)方向

信玄堤に設置されている「信玄堤から見た山々」に載っている山は、櫛形山(2052m)、農鳥岳(3026m)、辻山(2585m)、鳳凰三山(2762m~2841m)、甲斐駒ヶ岳(2966m)などで、軒並み2000mを越え、御勅使川が屈指の急流であることがわかります。


【写真 上(左)】 聖牛と釜無川
【写真 下(右)】 対岸御勅使川方向

「幹川となる釜無川は、竜王を扇頂にして、約90°の角度を持って東側から南側へと扇状地を形成している。釜無川は、この扇頂の竜王から盆地内へと乱流し、結果として東側へと広大な扇状地を形成してきたのである。したがって、甲府盆地の治水安全度を向上させるには、まず釜無川の盆地内への切れ込みを防止する必要があり(以下略)」(甲斐武田の治水策の問題点とその限界 - 御勅使川分流の終焉 -/岩屋隆夫氏 2005)以下「資料B」)
「(甲斐武田が考案したのが)築立地点の右岸側に強固な石積み堤防を配置しながら御勅使川の幹川河道を徐々に東北東へと移し、この先にある龍岡台地の南端を掘り込んで「新堀」を開削することによって河道を固定して、これに加えて、釜無川合流点の直上流に「十六石」という巨岩を配して御勅使川の洪水流が釜無川左岸の韮崎火砕流台地、別名「高岩」に当たるよう導いたのである。」
「高岩を直撃するようになった釜無川と御勅使川の洪水流は、高岩に当たって右岸側へと反転し、その反転した先に本御勅使川から分流する前御勅使川の洪水流を当てて揉み合わせ、そうすることによって洪水流の勢いを削いだのである。」
「一方、釜無川右(左?)岸には、扇頂から下流に向かって強固な堤防が築かれた。信玄堤である。」(以上、資料Bより)

御勅使川流路換えのための石積出しなど


【写真 上(左)】 聖牛の模型-1
【写真 下(右)】 聖牛の模型-2

この信玄公の治水策は、永禄二年(1559年)から明治二十九年(1896年)の大水害まで、じつに三百年以上にも渡って甲府盆地を護りぬきました。
しかも明治二十九年(1896年)の大水害の原因は、1800年頃から深刻化した(本)御勅使川の河道土砂埋積((前)御勅使川への分流不全)という、信玄公の時代には予見できなかった事柄が大きいとみられています

「この1896(明治29)年水害によって、信玄堤は築堤以来、初めて破堤した。甲府盆地の治水の要というべき信玄堤が破堤したのであるから、甲府市民など地域住民にとって驚愕すべき事態になったであろうことは想像に難くない。しかも、信玄堤の決壊は明治以降もこの1896(明治29)年水害の1回しか無い。」(資料B)

この明治二十九年の信玄堤破堤の衝撃は、別の資料からもうかがえます。(→ 信玄堤と御幸祭 - 近世・近代甲斐国における武田信玄顕彰 -/中野賢治氏 2020年以下、資料C)
同年11月、竜王村長・陳情委員が連名で内務大臣に提出した陳情書です。要所を抜粋引用します。(資料Cからの孫引きです)

「其急流激湍、県下危険ノ第一ニ位セリ、縦横奔注毎ニ惨害ヲ極メシヲ以テ武田氏ノ時ニ至リ、堅牢無比ノ堤防、及ヒ前囲トシテ石瘤数十本ヲ築造シ、防禦ノ大策ヲ画シ、百年ノ長計ヲ講セラル
「信玄公築造ノ堤防ヲ本堤トシ、表囲ニハ一番ヨリ五番ニ至ル土出堤防ヲ設ケ、大聖牛・中聖牛・大枠・中枠、其他種々ノ方法ヲ行ヒ防禦セシヲ以テ、其工事ハ古ク天文年間ノ施設ナルニモ係ハラス、爾来歳月ノ久シキ、未ダ曽テ信玄堤防ノ破壊セシヲ聞カズ
「(明治二十九年)九月八日ヨリ猛雨連日、河水為メニ暴漲シ、激浪奔騰、危機一髪ノ間ニ在リ、是ニ於テ人民昼夜ヲ分タス只管防禦ニ尽力セシモ、終ニ其効ヲ奏セス、十二日午前八時、改修堤防ニ破壊ヲ生ジ、午前十時ニ至リ延長百七十余間ヲ流失シ、加之信玄堤防ノ一部同時ニ決潰セリ」
「安危存亡ノ関係スル所、実ニ県下大半ニ及フノ要衝ナレハ、現今ノ如キ設計ニテハ下流町村幾万ノ生霊、一日モ枕ヲ高フスルコト能ハサルノ悲境ニ淪落セサル可ラサルコト予想セラル、以上開陳スル所ノ実況ヲ洞察シ、衷情ヲ容納シ、速ニ堅牢不抜、万代無窮ノ工事ヲ設計セラレンコト至願切望ノ至リニ堪ヘス」

要約すると、天文年間の堤防にもかかわらず一度も決壊したことのない信玄堤が一部とはいえ決壊したとあっては、一日も枕を高くして(安眠)することはできず、速やかに堅牢で万代安全な堤の補強工事を切望します、といったところでしょうか。

また、この陳情書には「追伸書」が付されています。要点を引用します。
「三百三十年来未タ曽テ決損シタルコトナキ信玄堤防ノ之ニ継テ決壊シ、災害ヲ三中郡筋各村ヘ臻シタルハ、一見実ニ奇変ト云ハサルヲ得ス」
堅牢ナル信玄堤ハ優ニ此滔流ヲ反溌シ得テ、堤内各村ハ無難ナリシナラント雖モ、不幸改修堤ハ旧四番堤ノ起点ニ於テ信玄堤ニ連接シ、其状恰カモ不規則ナル楕円形ヲ為セシヲ、以テ前陳ノ如ク改修堤ノ一部決壊セルニ於テハ、其決所ヨリ浸入スル滔流ハ、盤中ニ入ルカ如ク出ルニ路ナク、為メニ旋転渦廻シテ信玄堤ノ最低所ヲ求メテ超然奔逸スルニ至レリ(略)終ニ堅牢不抜ノ信玄堤ハ其一部ヲ決壊スルニ至リタリ(略)堅牢ナル修築工事ヲ設計セラルヽニハ、単ニ復旧工事ヲ以テ足レリトセス、希クハ前陳決壊当時ノ実況ヲ審ニ洞察セラレ、堅牢ナル信玄堤ノ効用ヲ全カラシメラレンコトヲ切望ノ至リニ堪エズ」

要約すると、堅牢な信玄堤は優に濁流を押し返していたが、信玄堤と連続する改修堤防により信玄堤に当たった水流が出口を失いすべなく決壊に至ったとし、信玄堤自体は堅牢なので、信玄堤を活かすかたちで改修工事を進めてほしいと嘆願している、というところでしょうか。
一部決壊したとはいえ、住民の信玄堤に対する信頼はなお根強いものがあったことがうかがわれ、実際、信玄堤は残されて別に改修堤防が設けられ、信玄堤公園付近は二重堤防になっています。



【写真 上(左)】 釜無川河原の聖牛
【写真 下(右)】 信玄堤と大御幸祭三社の位置関係

資料Cは、このような信玄堤の決壊への衝撃が、明治三十六年の竜王武田神社の改築に深く関わっていると推察しています。

■ 竜王武田神社

【写真 上(左)】 神明神社社頭
【写真 下(右)】 神明神社拝殿(右手奥が武田神社)

【写真 上(左)】 武田神社
【写真 下(右)】 武田神社拝殿
山梨県神社庁資料
甲斐市竜王2089(神明神社境内鎮座)
御祭神:武田晴信公
※御朱印授与情報は未確認です。

竜王下宿の神明神社境内に鎮座する、武田信玄公を祀る神社です。
資料Cでは、『町村取調書/名所旧跡補足』(大正五年)の「信玄祠。信玄堤畔ニアリ、古昔ハ一片ノ石龕、茂林光密竹ノ間ニ没シ、里人猶其存在ヲ知ラザルモノアリシガ、明治八年有志相謀リ、樹ヲ伐リ地ヲ拓キ祠堂ヲ造営セリ、規模大ナラズト雖モ結構完美ヲ極ム」を挙げ、「『信玄堤畔』に所在することなどから、この『信玄祠』が現在の竜王武田神社を指すものとみられる。」としています。

また、『龍王村史』には「武田信玄の恩沢をたたへて、従来信玄堤の附近に信玄を祭神とした武田神社があつたが、明治維新の際に免租屋敷は悉く有租地となると共に、段々荒廃し、社殿も失ひ、祭儀も行ふことが出来なくなつたので、明治三十六年、同村斎藤源六・久保田辨二郎・青柳徳太郎・丹沢益蔵・輿石龜五郎等の信徒総代が発起して、此所に社殿改築の計画が進められた。」とあります。

つまり、明治八年、信玄堤畔に祀られた信玄祠を、明治二十九年の信玄堤破堤を受けて明治三十六年、(現社地に?)竜王武田神社として改築したという見立てです。

古府中町の武田神社の創建は大正八年(1919年)、これに対して竜王の信玄祠の創祀は明治八年(1875年)、竜王武田神社の「改築」でも明治三十六年(1903年)ですから、古府中の武田神社よりも古い歴史をもつということになります。
(この点は、→このサイトでも指摘されています。)

甲斐市竜王下宿の信玄堤のすぐ下、神明神社の境内に鎮座します。
神明神社の神明造の社殿の右手おくに、ひっそりと鎮座しています。
社頭にしめ縄のかかった門柱と、石の社号標には「武田神社」とあります。
降棟を備えた一間の方形造?で、小振りながら存在感ある社殿です。
暗くなってからの参拝だったので、装飾など詳細は不明ですが、水引虹梁の両端に木鼻、海老虹梁、桟唐戸の構えだったと思います。


武田神社のさらに堤防寄りに「お水神さん」が祭られていました。
信玄堤にゆかりの水神様で、由来書もあったので抜粋引用します。
「この堤防は武田信玄公が築堤したもので世に言う信玄堤であります。明治二十九年に破堤されるまで約三百五十年の永きにわたり洪水を防いだ立派な堤防であります。この所は明治二十九年に堤防が決壊した地点であります。その時に国や県、地元住民により堤防を修復すると同時に、明治三十三年八月一日に水防の神を現時点に奉安いたしました。以来、約100年の間平穏無事に過して参りました。このことはひとえにこのお水神さんのご加護の賜であると信じて、地元住民は毎年祭礼を執り行い、敬愛の念を捧げて現在に至っております。この度、竜王芦安線橋梁工事に当りこの尊いお水神さんを新たなこの地に遷座いたしました。これからはこのお水神さんをなお一層崇拝し水防の誠を末永く尽くして参りたいと考えております。 平成六年九月一日」

住民の方々の信玄堤に対する感謝と、水防への願いが伝わってくる内容です。

ところで、資料Cの筆者は「史料のなかでも、御幸祭と武田信玄との関係に触れるものは少なかった。」とされ、明治二十年代以降、大御幸祭と信玄公のかかわりを示す資料が増えることを指摘されています。

大御幸祭と武田公の関係を示す資料として「明治二八年の内務省訓令第三号をうけて行われた社寺調査」資料を例示し、以下の内容を挙げられています。
1.三社神社は武田信光公(1162~1248年)の代から武田家との関係があった。
2.大御幸祭は信玄公が創設したものとし、祭道中での「オコシヨウメンシヨウ」という囃子言葉も、信玄公の時代に「御輿名将」と言っていたのが訛ったものだとしている。

明治二十年代から始まる釜無川堤防改修は、当初、信玄堤を破壊し改修堤防に置き換える
計画であったとみられています。しかし、実際には信玄堤は残され、改修堤防と信玄堤の二重堤防という形となりました。
これについて資料Cの筆者は、「このとき、竜王信玄堤が失われるかもしれないという危機感が、武田信玄を介して、竜王信玄堤と御幸祭を結びつけることになったのではなかろうか。さらに決壊に至り、再建の過程で竜王信玄堤が失われるかもしれないという危機感が拍車をかけ、御幸祭は竜王信玄堤の保存を訴える一つの方法として利用されるようになっていたのであろう。」と考察されています。

おそらくはそういうことなのかもしれません。
ただし、大御幸祭の主役?である三社(一宮、二宮、三宮)は、上記のとおり、歴代武田家、あるいは信玄公の尊崇を受けていたことは明らかなので、間接的に大御幸祭に係わっていたという見方は許されるかと思います。

【 甲府と風水 】
風水については専門に扱う方がおられ、いろいろな説があるのですが、↑をまとめているうちになんとなく感じたことがあるので、書いてみます。

風水にもとづく都市計画では、「四神=山川道澤」策が代表例とされています。
「四神相応」ともいわれ、北には山岳があって玄武が棲み、東には河川(流水)があって青龍が棲む。西には大道があって白虎が棲み、南には湖沼・低地(または海)があって朱雀が棲む。という地勢です。

昨今は空前の風水ブーム、城郭ブームなので、甲府(躑躅が崎館)の風水もさぞや研究されているかと思いきや、意外と関連Webはみつかりませんでした。
なので、地図を頼りに個人的に推測してみます。

北の山岳は、背後の要害城からつづく奥秩父の山々。そこには霊山・金峰山も含まれています。
東の河川は笛吹川。奥秩父から流れ出る清流が盆地を潤しています。
西の大道は北方面に甲州街道、南方面に駿州(甲州)往還。甲州街道は下諏訪で中山道に合流し京に至ります。駿州(甲州)往還も駿河国内で東海道に合流し、京に至ります。
南の湖沼は盆地南部。甲府には「蹴裂伝説」「湖水伝説」(かつて甲府盆地は湖であった。)が残っており、符合します。(蹴裂伝説に関連する神社として、宝の穴切大神社、中央の甲斐奈神社、下向山の佐久神社、石和の佐久神社、市川の蹴裂神社などが知られています。)
これをみると、甲府(躑躅が崎館)は、風水に叶った地勢となっていることがうかがわれます。

しかし、気になる点もあります。
西の山岳(南アルプス)と河川(釜無川・御勅使川)の勢いがすこぶる強いことです。
山が高ければ、当然そこから流れ下る河川の勢いも激しくなります。実際、御勅使川はわが国有数の急流として知られ、その名も水害の際に朝廷から遣わされた「勅使」にちなむといういわくつきのものです。

信玄堤のあった竜王町は「有富山慈照寺に湧く竜王水に由来」という説もありますが、一般には釜無川・御勅使川の治水との関連が想像されるところかと。
信玄公はこの強すぎる河川(龍)を鎮めるために、信玄堤を築き堤道を通して風水を整え、川除けの祭事である大御幸祭をつづけた、という見方もできるかもしれません。

【 蹴裂伝説 】
甲府盆地には、「蹴裂伝説」(湖水伝説)という伝説が残っています。
甲府市資料などを参考にまとめてみます。

蹴裂(けさく)伝説とは、地形の変化変遷や人による地形の改変(干拓など)を伝える伝説をいい、日本各地に残っています。
甲府の「蹴裂伝説」は湖にかかわるものなので、「湖水伝説」とも呼ばれます。

はるか昔、甲府の地は一面の湖水でした。
地蔵菩薩がこの様子をご覧になり、「この水を排して陸地にしたら、人も住めるし田畑もできる。なんとかならぬものか。」とお二方の神様に相談をされました。

これを聞かれた神様たちは「いかにも道理」と賛成され、ひとりの神様が山の端を蹴破って、もうひとりの神様は山に穴を開け、水路を開いて湖水を富士川へ落とされました。
これを見ていたお不動様は、「わたしも一役」とばかり川瀬を造り手伝われました。

この二仏二神のおかげで、甲府の土地は湖の底から現われました。
山を蹴破った神様は蹴裂大明神、山に穴を開けた神様は穴切大明神、計画をされたお地蔵様は国母地蔵尊、川瀬を造られたお不動様は瀬立不動尊と伝わります。

石和の佐久神社の由緒(山梨県神社庁資料)などによると、「天手力雄命が大岩を裂いて水を涸らし現在の地となした」という伝承もあります。
また、下向山の佐久神社の由緒(山梨県神社庁資料)には「彦火火出見尊の後裔向山土本毘古王は媛靖天皇の勅命により国造として甲斐に入国一面の湖水を切り開き平土を得、住民安住の地を確保した功績は偉大なるもの(略)佐久大明神として祀られた」とあります。

甲府の「蹴裂伝説」は異説も多く錯綜しているのですが、「天手力雄命に関係のある山土本毘古王=佐久大明神=蹴裂大明神」と仮定すると、二仏二神に関係するとみられる寺社はつぎのとおりとなります。

・蹴裂大明神:市川の蹴裂神社、下向山の佐久神社、石和の佐久神社
・穴切大明神:宝の穴切大神社
・国母地蔵尊:国母の上条(稲積)地蔵尊、東光寺(町)の稲積(国母)地蔵尊
・瀬立不動尊:笛吹市境川「藤垈の滝」の芹沢不動尊
※ 「藤垈の滝」は、古来、すぐ向かいにある万亀山 向昌院(甲斐百八霊場第45番)の禊ぎの場であったと伝わります。


【写真 上(左)】 蹴裂神社
【写真 下(右)】 蹴裂神社からの笛吹川と釜無川方面

【写真 上(左)】 下向山佐久神社社頭
【写真 下(右)】 下向山佐久神社

【写真 上(左)】 藤垈の滝と芹沢不動尊
【写真 下(右)】 芹沢不動尊

【写真 上(左)】 万亀山 向昌院
【写真 下(右)】 万亀山 向昌院の御朱印


これとは別に、稲積神社、韮崎市旭町の苗敷山穂見神社、甲府市中央の甲斐奈神社も「蹴裂伝説」ないしは「疏水工事による開拓」とのゆかりをもつとされます。


【写真 上(左)】 稲積神社
【写真 下(右)】 稲積神社の御朱印

【写真 上(左)】 甲斐奈神社
【写真 下(右)】 甲斐奈神社の御朱印

稲積神社の社伝には、「湖岸を切り開き湖水を富士川に落として」国を拓かれたのは四道将軍武淳川別命で、当社はその国土の「蒼生愛撫、五穀豊穣、祈願のため、丸山に奉斎」されたとあります。

苗敷山穂見神社には「甲斐の国が洪水により湖水と化した時、鳳凰山に住む大唐仙人が、蹴裂明神と力を併せ南山を決削して水を治め平野とし、里に住む山代王子がこの地を耕し、稲苗を敷き民に米作りの道を教えた。大唐仙人を国立大明神、山代王子を山代王子権現として 両神を山頂に祀り苗敷山と呼んだ。」との創祀が伝わっているようです。(→出所


「蹴裂伝説」の二仏二神のうち、信玄公との関連が見つかったのは、国母の上条地蔵(法城寺)、穴切大神社のふたつです。

■ 国母の上条地蔵(上條法城寺)

甲府市資料(国母稲積地蔵立像)
甲府市国母8-12-27(児童公園内)
※御朱印授与情報は未確認です。

甲陽軍鑑品第四(国会図書館DC、コマ番号17/265)に「蹴裂伝説」についての記載があります。
「上條法城寺には洛北さがの策諺和尚御座候 此法城寺は甲州上古は湖なりと聞 上條ぢぞうぼさつの御誓にて南の山をきりて一國の水悉とく富士川へ落つるにより甲州國中平地と成て今如件なり さるに拠て上條ぢぞうだう(堂)とは申せ共 寺號をば法城寺と申す 此文字は水去リテ土ト成ルと云うとはり也 法城寺破れば甲州はすいび(衰微)也 末代迄も甲州持侍は此寺上條法城寺を建立有べし 此の寺に策諺和尚五年の間住み給ひ候」

策諺和尚は、恵林寺に住持されていた惟高和尚とともに、信玄公に臨済宗妙心寺関山派での修行を薦め、長禅寺の岐秀元伯への参禅を促したとされる高僧です。(『甲陽軍鑑』)
法城寺は、「蹴裂伝説」ゆかりの上条地蔵尊を祀る寺院で、上条地蔵尊が甲斐国の治水を守護される重要なお地蔵様として信仰されていたことがわかります。

甲府市資料には、行基が治水策を施し、お地蔵様を刻して篠原の岡(甲斐市篠原)に法城寺を建立、治水祈願をされて祀ったとあります。

上記資料には「(法城寺の地蔵尊は、)平安時代に新羅三郎義光公により国母に移され、のちに信虎公が武田氏館の近くに移され、さらに天正年間に東光寺村に移されましたが、昭和20年の空襲によって焼失してしまいました。現在の(国母地蔵の)像は、武田氏が館の近くに移したときに、代仏として残した像であると伝えられています。」とあります。
現在も地域の信仰を集め、甲府市の市指定文化財に指定されています。

東光寺西方山中の「稲積地蔵」が「国母の上条地蔵」であるという説もみられます。

■ 穴切大神社




【写真 上(左)】 通常の御朱印
【写真 下(右)】 令和初日の記念御朱印
山梨県神社庁資料
甲府市宝2-8-5
御祭神:大己貴命、少彦名命、素盞鳴命
旧社格:式内社(小)論社、郷社
授与所:境内授与所
朱印揮毫:穴切大神社 直書(筆書) 
※オリジナル御朱印帳も頒布されています。

当社に係わる山梨県神社庁資料には「その頃の甲斐の国中は大半湖水にて、時の国司巡見して湖水が引かば跡地は良き田にならうと、朝廷に奏聞して裁可を得、その上国造神に座します。大己貴命に祈願をこめて(略)富士川より南海に水を落すに成功した。為に湖水の大半が退き今日の如き良田数多を見るに至った。これ偏に御神助の賜と勅命を以て勧請、穴切大明神と奉称、国中鎮護の神と崇敬されるやうになった。」とあります。
御祭神は大己貴命、少彦名命、素盞鳴命で、開拓工事の際、国司が祈願をこめたのが大己貴命で、のちに「穴切大明神」と奉称した、という文脈だと思います。

ただし、「蹴裂伝説」の穴切大明神を祭祀していたという説もあるようです。

信玄公との関係は、資料Aに「神宝には信玄が使用したと伝えられるわん、武田信勝所持と伝える面」とあり、「箱棟には武田菱がみられ、勝頼ないしは他の武田一族の造営ではないかともいわれる。」ともあります。

社頭の社号標、石造明神鳥居の扁額ともに「穴切大神社」。
随神門は入母屋造三間一戸の堂々たる楼門で、境内説明板によると寛政六年(1794年)に下山大工の竹下源蔵を棟梁に建立、彫刻は諏訪立川流(宮彫りの流派)初代和四郎富棟の手になるもので、とくに動植物の彫刻に優れ、甲府市の文化財に指定されています。

神楽殿は銅板葺の向唐破風が見事。箱棟にはたしかに金色の武田菱が輝いています。
神楽殿の前には、なぜかヤタガラスとおぼしきイラストがある「ラッキーゴール」が置いてあるのですが、熊野信仰と特段の結びつきが認められない当社に、なぜヤタガラスがいるかは不明。

「蹴裂伝説」の「蹴る」からサッカーゆかりの神社となり、日本サッカー協会(JFA)のシンボルマークは「ヤタガラス」なので、「蹴裂伝説」つながりかとも思いましたが、この記事をみるとそうでもなさそうです。
ただし、「サッカー神社」として有名らしく、カラスの木像も伝わっているそうなので、それによってヤタガラスをゆかりとされているような感じがします。

ヤタガラスは御朱印にも登場します。
八咫烏の印と武田菱が並んで捺されているのは、なんとなく不思議な感じもしますが、甲斐源氏の祖とされる源義清公が甲斐目代として平塩に館を構えたとき守護神として祀ったのは熊野神社なので、あながちご縁がないとはいえないと思います。
オリジナル御朱印帳も武田菱とヤタガラスをモチーフとしています。

本殿は檜皮葺の一間社流造。各所に桃山時代の特徴を残し、国の重要文化財に指定されています。
本殿は近寄れないですが、正面上部の斗栱、垂木、手挟まわりの彩色は遠目からも見事です。
こちらも大棟や箱棟に金色の武田菱が燦然と輝いています。

拝殿はコンクリ造の近代的なもの、新旧いろいろ入りまじり、面白い雰囲気の境内でした。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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