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小松基地問題研究会

処刑後の尹奉吉義士は違法に埋葬された

2017年08月15日 | 尹奉吉義士
処刑後の尹奉吉義士は違法に埋葬された
2017年8月


 尹奉吉は1032年12月19日に三小牛山で処刑され、野田山に埋葬された。尹奉吉に死刑判決を出した軍法会議にも疑義があるが、今回は尹奉吉の遺体の埋葬処理が適正におこなわれたのかどうかについて考察する。

埋葬に関する適用法令
 明治17(1884)年に、「墓地及埋葬取締規則」「墓地及埋葬取締規則施行方法細目標準」「墓地及埋葬取締規則に違背する者処分方」が制定され、尹奉吉が処刑された時は、これらの規則が適用されていた。
 1947年新憲法施行に伴って、「墓地、埋葬等に関する法律」「墓地、埋葬等に関する法律施行規則」(1948年)が定められ、今日に至っている。

埋火葬の管轄は警察
 尹奉吉の埋葬は果たして戦前の3つの規則に則って、適正におこなわれたのかどうかについて検証する。
 同規則第2条には「墓地及火葬場は所轄警察署の取締を受くべきものとす」とされ、第8条には「此の規則を施行する方法細則は警視総監、府知事(県令)に於て便宜取設内務(卿)に届出づべし」とも書かれており、警察が主たる管轄官庁であったようだ。

埋葬場所は墓地か?
 同規則の第1条には「墓地及火葬場は管轄官庁より許可したる区域に限る」と書かれているが、尹奉吉が埋葬された野田山墓地内の「通路」はこの「許可したる区域」に該当するのだろうか? 
 野田山墓地内なら通路であろうが法面であろうが、空いた場所に埋葬してもよいとはならないだろう。なぜなら、第4条の規定があるからである。

金沢市に届け出たのか?
 同規則の第4条には「区長若くは戸長の認可証を得るに非ざれば埋葬又は火葬をなすことを得ず」と書かれているが、辞書によれば、「区長とは明治初期における地方行政区画である大区(だいく)の長。1871年(明治4)4月、政府は戸籍法を定め、戸籍事務遂行のため新しく区を設け、戸籍吏として戸長、副戸長を置いた」との説明がある。
 すなわち、埋葬の場合は埋葬の場所(墓地区画)を特定して、当時の金沢市に届け出なければ、埋葬をしてはならないということであり、はたして、陸軍はこの手続きを厳正にしたのであろうか。

24時間経過前の埋葬
 同規則の第3条には、「死体は死後24時間を経過するに非ざれば埋葬又は火葬をなすことを得ず」と書かれているが、尹奉吉の処刑は12月19日午前7時頃であり、午前11時におこなわれた第九師団軍法会議の記者会見では、「遺体を火葬に付した」と過去形で発表し、実際には埋葬を終えている。
 「憲高秘1820」では「土葬の実施は発表前に完了し、且つ墓地の場所は極秘」と記しており、同規則第3条が規定する「24時間経過」後の埋葬に違反しているのである。

死者を悼むことさえ禁止
 「刑死者の墓標及祭祀等に関する件」(明治24年)の第2条には「所轄警察署の許可を得ずして刑死者の為め公然祭祀を行ふことを得ず」、第3条には「刑死者を称揚哀悼することを得ず」と明記されている。国家秩序に楯突いた者については、死後も人間として扱わせないことを宣言している。
 
 大逆事件(1910年)で1911年1月24日に処刑された幸徳秋水の遺体は、翌25日堺利彦が引き取って、落合火葬場へ運んだ。2・26事件(1936年)の17人の処刑は旧東京陸軍刑務所敷地でおこなわれ、遺体は郷里に帰された。
 このように、日本人刑死者については、「刑死者の墓標及祭祀等に関する件」の適用は緩く、他方、尹奉吉の処刑(日時、場所など)は遺家族に知らされることなく、遺体も家族に引き渡されることなく、埋葬地も明らかにしなかった。ここには朝鮮独立運動にたいする日帝の恐怖と朝鮮人にたいする深い差別が横たわっている。
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