アジアと小松

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小松基地問題研究会

小説『野田山日記 甦えれ魂』(第2回)

2024年02月23日 | 落とし文
小説『野田山日記 甦えれ魂』(第2回)

暗闇のなかで

一九四二年春
 尹萬年が野田山で尹奉吉と会ったあと、日本軍は十二月八日に宣戦布告もせず、マレー半島に上陸し、その一時間後に真珠湾を攻撃し、全面戦争に突入した。年が明け、冬が過ぎ、春を迎えて、萬年はトシ、ケンとともに野田山へ向かった。墓地管理棟の近くで、尹奉吉に声をかけ、小窪家の墓地に向かって坂を降り、緑の苔に覆われた墓地にござを敷いて、車座になった。
 この墓地は、江戸期から明治期にかけて、手広く石材や瓦を商っていたトシの祖父が、野田山新墓地造成の仕事を請け負い、その功績で陸軍墓地に最も近くて、広い一等地を確保したものだった。しかし、羽振りのよかった祖父も、事業に失敗してか、寺町台桜畠の家も、鶴来にある山林も、すべてを失い、犀川沿いの借家住まいを強いられ、この墓地だけが残されていた。十三間町から堤防で隔てられた犀川の河川敷には、多数の朝鮮人が掘っ立て小屋を建てて、辛うじて糊口をしのいでいた。トシは、酒瓶を抱えて、堤防を乗り越え、その掘っ立て小屋に潜り込んで、酒を飲んで、歌ったり、バクチをしたりして、人間関係を築いていた。
 ほどなく、尹奉吉の声が聞こえてきて、お酒を酌み交わしながらの団欒が始まった。尹奉吉は改まった態度で、開口一番、「あれから、もう十年か。早いもんだなぁ。ところで、私の最後の写真はうまく撮れましたか」と、ケンに尋ねた。
「周囲は数メートルの崖や灌木で遮られ、そこだけがポッカリと空いた藪になっていて、数日前に降った雪がまだら模様に残っていたね。刑架から数メートルの位置に三脚を立て、写真機をセットして待っていると、目隠しをされたあなたが憲兵に両脇を抱えられて、ぬかるんだ斜面をよろよろと連れてこられてね、刑架の前で、乱暴に膝を折られ、両手を広げてきつく縛られ、荒い荒い息を吐いていましたね。わたしは震える手で、ピントを合わせ、シャッターを巻き上げ、次の瞬間の訪れを待っているあなたを見ながら、ゴム球をギュッと握りました。写真機を三脚ごと後ろに下げて、全体を俯瞰する一枚を写し、銃声が響いて、あなたが目を閉じたあとにも一枚写しました。」
「その写真を、家族が見ることができるのだろうか。」
「軍の重要機密として、残されるでしょうが、一般の人はだれも見ることはできないでしょう。」
「ケンさんは、どうして写真師になったんですか。」


【助次郎商店(1920年撮影)】

 三六歳のケンは、あまり触れられたくないところでもあり、口ごもっていた。ケンが七歳のとき、長兄松吉がチリーに渡り、その後三人の兄たちを呼び寄せ、幼いケンと妹のフミだけが残されていた。十四歳のとき、父の米穀店が破産しても四人の兄たちは誰も助けの手を延べてくれず、ケンは小松中学校中退を余儀なくされ、金沢の大和町にある金沢紡績(錦華紡績)で働き始めたが、ゲレンバ(糸の品質検査係)の単調な仕事に嫌気をさして、高岡町右衛門(うえもん)橋詰めで開業していた中村写真館の戸を叩き、住み込みで修業をすることにした。写真師の中村正義は大野弁吉の孫弟子にあたり、『北陸人物名鑑』(一九二二年)では、中村正義のことを「写真技術は市内に於ても殆ど比類なき特技を有し、現代における最も新しきダブルライチングベッドソフトホーカスの如き、又原板技術上最新式のバックレタッチングの如き」と評していた。
 やがて、兄弟子が独立して材木町に庵(いおり)写真館を開くというので、ついていき、そこにたむろする四高生から当時の社会問題について学んでいた。実家に帰れば、川向かいの呉竹文庫に通い、『死線をこえて』(賀川豊彦)、『どん底社会』(小川二郎)、『資本家と労働者』(沼法量)、『善の研究』(西田幾多郎)など、社会科学系の読書にいそしんでいた。一九二三年九月、関東大震災が起き、たくさんの朝鮮人が虐殺されたという報道に接して、翌年、庵写真館の閉鎖を機に、ケンは上京し、上野駅近くや青山通りの写真館を転々として、数カ月間を過ごして、見聞を広めて戻ってきた。その後、鯖江、福光、大聖寺などで主任技師を務め、一九三二年に三小牛山での処刑撮影を命じられ、一九三五年に故郷の本吉町に戻り、出写し屋として開業していた。
 ケンが右のような概略を話すと、尹奉吉は、
「私とふたつ違いなんですね。十五歳のとき関東大震災が起き、同胞が多数虐殺されたことを聞かされ、はらわたが煮えくり返りました。ケンさんが震災後に東京へ行ったということですが、朝鮮人虐殺に抗議したり、批判していた人はいなかったんですか。」



「芥川龍之介は『中央公論』十月号で、『大火の原因は不逞鮮人の放火ださうだ。…勇敢なる自警団の一員たる僕』と書いて、体制に順応していますが、竹久夢二は『都新聞』に、『自警団遊び』というイラストを付して、やんわりと朝鮮人虐殺を批判していたり、吉野作造は『朝鮮人虐殺事件は、…人道上政治上ゆゆしき大問題である』と論じています。だいぶ後の一九二八年になってからですが、壺井繁治は『大地震を契機としておこなはれた支配階級の組織的な虐殺』と書いて批判していますが、少数派ですね。それにね、社会主義者の大杉栄、伊藤野枝、河合義虎らが震災直後に殺され、翌年には島田清次郎は巣鴨庚申塚保養院に強制入院させられ、三〇年には憤死しているし、二五年に朴烈(パク・ヨル)と金子文子は大逆罪をでっち上げられて死刑判決が出されるなど、とても政府を批判できる状況ではありませんでした。」
「ひどい話だな。何千人もの朝鮮人を殺しておいて、世論の批判が政府に向かないなんて。さっきの話の続きなんですが、わたしは地元の仲間を集めて、新幹会礼山支部を結成して、このとき萬年も遠くから来てくれたな。農作業後の、疲れ切ったからだにムチ打って、学習会や読書会を持ち、学芸会で『兎と狐』を上演して、互いに啓蒙しあい、農村の改革に取り組んだが、しだいに特高警察に睨まれるようになって、治安維持法で引っぱられそうになったので、二二歳のとき、上海に向かったのです。」
 みんなは、苦難の道を歩んできた尹奉吉の話に、涙を拭いながら聞いていた。
「ところで、萬年は、日本に渡ったあと、苦労も多かったでしょう。」
「そうやな、いっぱい苦労したな。わしが金沢に来たのは、一九二九年の夏で、二一歳のときやった。この年、朝鮮では米価が大暴落して、食うや食わずの状態になり、だから、知り合いの日本人、中島ゴンさんに頼んで、金沢へ行くことにしたんや。」
 中島ゴンは津幡農学校を卒業し、内灘小学校で教員をしていたが、一九二七年に朝鮮で農業経営をしている不二土地株式会社に就職し、平安北道龍川(リョンチョン)郡にある、四千町歩の農地に二千人以上の小作人がいた大農場で、小作管理の仕事に就いていた。小作人を束ねる農民組合があり、毎年のように小作争議が起きていた。春は、「苗代を作らない」と啖呵を切って、肥料代、水税、耕牛使用料の減額を要求し、秋は半分だけ刈り入れ、その分の脱穀を済ませてから、小作料を下げなければ、このあとの刈り入れはやらないと、実力談判を突きつける。この年も、数百人の農民が集まっていたが、新義州(シニジュ)から威嚇射撃をしながら、駆けつけてきた武装警官にちりじりに蹴散らされて、その場はおさまった。しかし翌朝になっても、稲はそのまま残されていて、農民の要求を呑まざるをえなかったのである。
 ゴンは小作争議で農民に妥協的だったという理由で、翌年には錦江(クムガン)左岸の江景(カンギョン)邑にある農場にとばされた。錦江は朝鮮半島南部を縦断する小白(ソベク)山脈を淵源とし、全羅北道・長水郡、忠清北道・大田、忠清南道・公州、百済の都・扶余(プヨ)を延々と流れ下り、論山平野を潤し、黄海に注いでいる。この農場でも小作争議が起き、近隣から農民が集まり、そのなかに青陽面の尹萬年もいた。ゴンと渡り合うなかで、気心が合うところがあり、渡日の労を執ってもらったのである。
「こっちに来るとね、日本風の名前が必要でね、いろいろ悩んだ末にね、あんたの号・梅軒から『梅』をもらって、わが故郷の七甲(チルカプ)山の『山』、忠清南道の『清』をとって、あんたの名前の『吉』で締めくくったんや。それで梅山清吉なんや。」
 尹萬年が来日した後の、一九三二・三年の『石川県特高警察資料』の「秘 要警戒人物」では、すでに朝鮮名と日本名が併記されている。
 創氏改名の成立過程をみると、大韓帝国は一九一〇年に近代戸籍「隆熙戸籍」を整備した。併合後の一九一一年に、朝鮮総督府令第一二四号「朝鮮人の姓名改称に関する件」で、日本名への改称を規定した。その後、一九二三年の総督府令一五四号による「朝鮮戸籍令」を経て、一九三九年十一月には、「朝鮮民事令」を改訂し、制令十九号で朝鮮の戸籍に氏を創設し、制令二〇号で氏名を日本風の呼称に変えさせたのである(「創氏改名」という)。
 「創氏改名」の政策的意図は、一九三八年に朝鮮教育令を公布し、学校での朝鮮語の使用を禁止するという「内鮮一体」の政策があり、さらに「創氏」によって朝鮮人から固有の姓を奪い、日本的「家制度」を押しつけて、皇民化・戦争動員の基礎を作ることであった。「創氏」は選択の余地のない法律的な強制であり、「改名」は法律上は任意の制度だったが、総督府によって強要されていた。一九四五年朝鮮解放後、戸籍に掲載された創氏改名を遡及無効とし、戸籍上の日本名を抹消した。
「私の名前から、二文字も盗ったんか。けしからんな。」
「朝鮮の山河を奪った日本よりもマシやろ。実害もないしな。朝鮮人の仕事といえば、土方仕事しかなくてな、犀川村末地区の水道工事現場に入ったんや。そこは、あんたが処刑された三小牛山の裏側にあたるんやが、十一月下旬に土砂崩れが起きて、七人の土工が生き埋めになって、そのうちの朝鮮人二人が亡くなり、一人が重傷を負ったんや。こんときに、日本人を先に救出し、看護婦を付き添わせて、乗用車で病院まで送ったんやが、朝鮮人はほったらかしで、昼が過ぎてやっと、それもトラックで、物でも運ぶように、荷台に載せて、病院に送ったんや。」
「そりゃー、ひどい差別扱いだ。おまえは黙っていたのか!」と、尹奉吉は叫んだ。
「朝鮮人の労働者や家族は真っ赤になって、怒ったわいや。ただでさえ、賃金差別で、不満が燻(くすぶ)っとったからな。発注者の金沢市や請負業者に、差別扱いを糾弾し、死者への扶助料、負傷者への治療代、そして設備改善などを要求したんや。でもね、金沢市は『不注意のせいだ』と居直ったんで、十二月一日に、犠牲者追悼会を開き、二百人あまりが集まって、朝鮮人が次々と演説し、伊藤進さんなど日本人も金沢市の責任を激しく追及したんや。三日に、請負業者の事務所へ押しかけたら、十三人も検束されるし、そんで、毎日、広坂警察署に押しかけ、二〇日間たたかいぬいて、やっと一人七五〇円の弔慰金を出させることができたんや。」
 トシがそのあとを引き継ぐように、
「そうなんや、わしも広坂警察署の前にいたんやが、そん時に、尹萬年さんとも知り合って、尹奉吉さんが処刑された三小牛山をケンさんと一緒に案内することになったんや。わしは、土方仕事で賃稼ぎをしたり、近隣の小高い山々を歩いて、山菜やキノコを穫り、犀川で鮎やゴリを獲っては、料亭などに持ち込んで生活しとるんで、三小牛山は自分の庭のようなもんや。あんたが撃たれたところは、三小牛山でも、金沢市街地に近い北の方で、陸軍の演習場になっとって、一般人の出入りは禁止されとった。雀谷川に並行して、細い中尾山川が南から北に向かって流れとって、一部に幅十メートルほどの平坦な藪があって、両側にはそれぞれ数メートルの崖がある窪地なんや。」
 ケンが話し始めた。
「でもな、新聞じゃ三小牛山の南の方で、医王山(いおうぜん)を遠望できる高台で銃殺したと、写真入りで報道しとったが、軍の発表もデマ、報道もデマで、読者を騙しとった。もっとひどいのはな、今になってわかったんやが、尹奉吉さんの遺体を火葬にしたとか、遺族に連絡したが返事がなかったなどと書いとるが、これ、全部ウソやないか。人が歩く通路に遺体を埋めていたなんて、人間のやることじゃない。」
 さらに、萬年が続けて、
「そりゃぁなあ、あんたの遺体が朝鮮人に取られたら、独立運動のシンボルになるから、絶対に渡したくなかったんや。あんたが上海から大阪衛戍監獄に移監されたとき、大阪の朝鮮人は『朝鮮が生んだ反帝国主義者尹奉吉の銃殺に対する反対運動を巻き起こせ』というビラを撒いているし、金沢・第九師団で処刑されるようだという噂も伝わってきたし、金沢のメーデーには朝鮮人が多数参加してきたこともあって、処刑の日が近づくと、犀川沿いの朝鮮部落には特高が張り込んでいたからな。」
 金沢でおこなわれた最初のメーデーは一九二一年で、六斗林(現六斗広見)に新人会会員ら三〇人が集まり、野町駅に向かって行進をおこなった。一部は途中で分岐して、香林坊までデモ行進して逮捕された。本格的なメーデー集会は一九二九年に、兼六園長谷川邸跡でおこなわれ、NAP(全日本無産者芸術連盟)と染め上げた法被(ハッピ)を纏(まと)った鶴彬ら三〇〇人以上が集まった。翌一九三〇年の第二回メーデーには六〇〇人以上、一九三一年第三回メーデーには多数の朝鮮人労働者ら四〇〇人以上が結集し、そのうち八〇人が朝鮮人女性だったという。一九三二年以降非合法になり、錦華紡績の横に日本人十人、朝鮮人四〇人が結集したが、その多くが検束された。一九三三年には森山小学校裏に四〇人が結集したが、やはり解散させられ、七人が検束された。このように、この頃の労働運動は朝鮮人労働者が主力だったのである。(『昭和前期の石川県における労働運動』一九七五年)
「そう言えば、撮影の打合せに呼ばれたとき、西金沢で降ろすと言っていたのに、実際は森本駅で降りて、衛戍監獄に入ったんや。これも、奉吉さんを奪い取られないための作戦だったんやね。」
 十二月二〇日付け『北国新聞』によれば、「大阪駅発八時四一分の汽車に乗せて、十七時二九分に西金沢駅に到着する」と、事前情報があったが、実際は六時二五分の汽車に乗せて、西金沢も金沢駅も通過して、十六時三五分には森本駅に到着した。新聞記者が、事前情報を元に、西金沢駅で待ち受けていたのであろうが、尹奉吉は一時間前には森本駅に到着し、車で橋場町枯木橋を渡って、河北門から衛戍監獄に入っていた。記者たちは見事に肩透かしを食らわされたのである。
「そうですか、日本にいた同胞はそんなに私のことを気にかけてくれていたんですね。ところで、戦争はどうなってるんですか。反対する人はいないんですか」と、問う尹奉吉に、ケンは、
「日本軍は、もう、マレー半島からフィリピン、インドネシアに上陸して、さらにニューギニアまで侵攻しとるが、国内じゃ『挙国一致』で、息もできんほどや。妹フミの夫も治安維持法で引っぱられたしな。そんでも、投書やら落書きやら替え歌やらで、厭戦の気分がふつふつと湧いてきとるんやが、どうにも戦争反対の流れにはならんのや。」
「どんな落書きがあるんですか。」
「そうやなぁ、金沢の労働組合員が召集されたときに、国旗に寄せ書きを書いたんやが、それに『太陽を背に』とか、『屍を越えて』とか書いてあったそうや。福井連隊区司令官宛に、『連隊区司令部ノ野郎共ニ告グ。何ンダ召集々々卜兵隊バカリ引パリサラシテ。日本ガ負ケタトコロデ親方ガカワルダケダ…』という投書があったり、軍需工場・石川製作所の便所に、『共産主義大賛成! 社長専務なんぞや 工員事務員等の月収を平等に分配せよ』とか、氷見から高岡に抜けるトンネル内に『打倒国体主義』と書かれとったそうや。」
 一九七五年に発行された『昭和特高弾圧史5 庶民にたいする弾圧』には、たくさんの厭戦の声と弾圧の資料が掲載されており、そのなかから北陸三県のごく一部を摘記する。一九三七年には、金沢の応召者二人にたいする寄せ書きに、「太陽を背に」(反逆者の意を含めたるもの)、「屍を越えて」(赤旗の歌の一節)、「鉄の如く」(スターリンの言葉)などが書かれていたという。金沢市堀川島場町を通過中の出征部隊にたいして、十八歳の鉄工場見習い工が「コラ父ツァらしっかりやって来い。家にはジャーマ(妻)が首を長ふして待っとるわい」と叫んだという。一九三八年には、六一歳の失業者が「妻子を残して戦死してはつまらぬ。日本の新聞は盛んに勝って居るように書いて居るが、本当は負けて居るのである」と言い、富山県下千里村の村議は「今度の戦争は地主階級を擁護する為であって、我々無産階級にとっては何等勝負に関心をもつ必要はない」と言ったことで、逮捕されている。一九四〇年には、魚津職業紹介所宛に、「国家の一部分たる農村を破壊していく有様を見て、…やがて農民と警官と花々しく肉弾戦の開かれることだらう」という投書が届いた。一九四二年には、福井市内から陸軍省兵事課宛に「我がにくむべき陸海軍省に一言す。我れの崇拝する国の空軍は遂に東京を爆撃した。ざま見やがれ」という投書が届いた。一九四三年には、金沢市池田町町内会の役員会で、町会庶務部長が「天皇陛下からになると羽二重が自由に手に入るから結構なものや。衣料切符はどんなになって居るのかなぁ」とぼやいたのを理由に、検挙取り調べられた。一九四四年には、金沢市愛宕町の四〇歳の職工が「秩父宮様はどーも御病気らしい。何でもシモの病気らしい」と言ったとして検挙されている。
「替え歌には、こんなんがある」と言って、ケンは歌い出した。
「〽イヤじゃありませんか徴用は/好きで来たんじゃないけれど/朝から晩まで働いて/一円五〇銭は情けない/本当に本当にご苦労ね。」
 みんなが、身体を揺らしながら手を叩き、
「〽イヤじゃありませんか徴用は/残業残業で叩かれて/それでわずかの五〇円/どうして女房に見せられよ/本当に本当にご苦労ね」と、二番目を歌い終えて、ケンは、
「それにな、近ごろの宗教者も哲学者もひどいもんや。暁烏敏(あけがらす・はや)は繰り返し朝鮮や中国に渡って布教活動をやってきたが、その中身は『私共は、神道を承り、皇道を承り、…天皇陛下にお事(つか)へするのであります』と、仏教徒が天皇にひれ伏しとるし、西田幾多郎は」と、言いかけると、トシが遮って、
「そんなダメな宗教者ばっかりやないぞ。一九三一年に、新興仏教青年同盟金沢支部が結成されて、『堕落した既成教団を排撃して仏教の真価を現代に発揮したい。仏陀の精神に反する資本主義経済組織の改造運動に参加して愛と平等の理想社会を実現したい』などと主張して、たたかいはじめたんや。しかし三七年に、石川県内でも山本清嗣ら七人が検挙されて、裁判にかけられて、四〇年二月に執行猶予付きの刑が確定しとるんや。半年前の日米開戦の翌日にも、山本清嗣がまた検束されて、一カ月も留置場暮らしを強いられていたし、暁烏とは対極の宗教者もいたんや。」
「そう言えば、わしの町で生まれた島田清次郎も、『地上』で有名な作家やがね、暁烏を批判しとったなぁ。だいぶ前の日記やけど、生活の実状を『米一粒ない未来』と嘆き、『自分にパンを与えよ。その時は既に魂は大部分救はれてゐる』、『暁烏の宗教は…百姓達を、その惨めな状態にそのまま安住せしむることなれば、…封建時代の政策でしかない。私はかかる宗教を否定する。百姓よ、現実に眼をひらけ、…革命せよ、反抗せよ』と叫んどったね。貧困からの出口を宗教じゃなくて、社会革命に見出そうとしとったようや。」
「それで、西田幾多郎は」と、ケンに話を促した。
「西田はね、一九〇四年に旅順で弟が戦死してね、その死の不条理さを嘆いていたのに、旅順口が陥落するや、『愉快不自禁』などと日記に書いて、ほくそ笑んでいたそうや。一九一八年の米騒動がおきた年には、民衆の苦衷に見向きもせずに、『天皇制は人道主義』とか『皇室は慈悲』などと書き殴って、必死に生きようとしている民衆に嫌悪感さえ抱いているようやし、三五年に天皇機関説論争が起きると、『国体明徴何人も疑ふものなし』と言って、美濃部達吉に対抗し、昨年のパールハーバーを見て、『海軍のやるところすばらし』などと、手放しで戦争を支持しとるんや。鈴木大拙は陸軍大将・荒木貞夫らと、『武士道の神髄』という本を出して、そのなかで『わが武士道こそは…わが国運発展の原動力であり、…世界史的興亜の大業の根本原力』などと書いて、仏教者こそが使命を果たさねばならないと言っとるんや。こんなのを『哲学者』って言うんかね」と、腹立たしげに吐き捨て、「作家もなぁ、みんな沈黙か転向のざまやしな。」
「金沢にはどんな作家がいるんですか。朝鮮には、家族を捨ててたたかいに挑む青年の苦悩を描いている『白琴』や、日本の侵略を非難し、報復を誓っている『竜譚遣詞』などがあり、鄭寅国は『蒼穹にかかるあの月を射落とす若人出でよ!』と叫んでおり、、私はこれらを読んで。たたかう気力を養っていましたね。」
 朝鮮開化期の東学革命運動の経典『竜譚遣詞』(一九〇九年)には、「壬辰の乱よりすでに二四〇年…険しいかな険しいかな/わが国運険しいかな/犬の如き倭賊の徒/汝の身の上かえりみよ」と、日本の侵略を非難し、報復を誓っているし、『抗日唱歌』には「日本の天皇を下僕にし/日本の皇后を下女にして/こきつかわん昔于老(ソク・ウロ)の誓い/われら模範にいたさねば」と、天皇にたいする怒りが沸点に達していた。
 そのいきさつは『三国史記』巻四五にある。二三三年、倭人が侵攻して来たので、昔于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。敵は溺死してほとんど全滅した。…二五三年、倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。その接待をしていた昔于老が倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にするといった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍の于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出ていた。昔于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った、とある。
 尹奉吉が思春期を生きた一九二〇年代、植民地下の作品を見ると、どの作品も、つらくて重い内容なので、読み進めるには涙と忍耐が必要だ。『白琴』(一九二六年 崔曙海著)の他に、籾一石で娘を売った話の『民村』(一九二五年 李箕永著)、養蚕の桑の葉を盗む話の『桑の葉』(九二五年 羅稲香著)、朝鮮人革命家のたたかいと死を描いている『洛東江』(一九二七年 趙明熙著)がある。これらは尹奉吉と同世代の作家たちによる作品であり、尹奉吉もこれらの作家・作品と親しみ、涙を流し、怒り、仲間と語り合っていたのではないだろうか。
 一九三一年満州事変直後の『朝鮮日報』への投書には、「不平は不平のまま埋めておこう。矛盾は矛盾のまま目を閉じることにしよう」と、抵抗によって育ててきた朝鮮の文学は萎縮し、後退を余儀なくされている。詩人金珖燮は「鳴こうにも鳴けず 飛ぼうにも飛べない/私の小さな鳥/木の葉の陰もなく/荒れた山奥をさまよう」(一九三二年四月)と悲痛なあきらめに沈んでいった。しかし、このような状況の下でも、鄭寅国は「錠のかかった閂をはずす大きな力が/いつの日かこの地に湧き出るのか/矢をつがえ/蒼穹にかかるあの月を射落とす若人出でよ!/凍てついたこの生の場に/太陽の火玉を射落とす/大いなる力を生ましめん」(一九三一年一月)と詠み、これに応えるかのように、一九三二年一月李奉昌(イ・ボンチャン)は桜田門で天皇の車列に爆弾を投げ、四月二九日尹奉吉は上海虹口公園の式台に爆弾を投げこんだ。
 特に、一九三六年に発表された『地下村』(姜敬愛著)には夫が亡くなったあとの、三人の子どもを抱えた農婦が描かれ、植民地支配下の貧農の絶望的な有様をこれでもか、これでもかと表現している。産後の翌日から農作業をおこなったために、子宮脱で苦しみながら、それでも三人の子どもを育てるために、朝星夜星で働いている。上の息子は四歳の時に熱病にかかり、治療を受けることができず、四肢に障害が残り、ものもらいをしている。二番目の息子は眼病にかかり治療を受けられず目が見えなくなっていき、三番目の娘は母親のお乳が足らず、栄養不足でやせ細っていく。雨が降り止まず、畑が流され、隣の家の娘も売られてしまうのだ。
 長男がものもらいの帰りに雨宿りした納屋には、工場で片足をもぎ取られ、家族が四散し、ものもらいになったおじさんがいて、このおじさんこそが、現下の朝鮮の悲惨さの原因を理解しているのだが、その原因を活字にすることができなかった。さいごに、貧困のために娘を医者に診せることもできず、ネズミの皮を貼って頭のおできを治そうとして、死んでいくという、出口のない悲惨な物語である。
 姜敬愛は尹奉吉の二歳年上で、「植民地支配下の貧困と無知」からの解放を願って書き続けた。問題意識を共有する尹奉吉は夜学を開き、農民の自立をめざし、挫折を味わい、そして根底的な解決(独立)のために、「竹のように折れようとも/柳のように曲がることなかれ/一日たりとも/願わくは潔き営みを」(金麗水)と諳んじながら、上海へと向かったのである。
 トシは少し考え込んで、
「蒼穹の月とか、太陽の火玉って、天皇のことなんやろうね。それに比べて、日本人作家のセンスはなんとも柔なんやな。泉鏡花はね、日清戦争の後に、戦争が家族を引き裂く悲しみを描いている『凱旋祭』、日露戦争の真っ只中で、稼ぎ手が徴兵される不条理を嘆く『柳小島』を発表して、まだ庶民の側に立っていたが、三七年の日中戦争が始まるや、帝国芸術院の会員になって、戦争翼賛の一翼を担ってしまったんや。室生犀星について言えば、初期はトルストイに大いに感化され、プロレタリア文学に親和性を感じていたようやが、やがて距離をおき、日中戦争が始まると、『駱駝行』では、『政治家とわれわれの接触は文学の広さを拡げる』、『大臣も我々の友人としなければならない』などとぬかして、文学と国家を結びつける役割を強いられ、屈服の道を歩き始め、シンガポールやパールハーバーへの奇襲攻撃を、『怒濤は艦列をつくり迫りに迫った』と歓びに震えているじゃないか。こんなのが日本の一流作家なんさ。かといって、わしには、鶴彬や奉吉さんのようにはとてもできんしな。」
「鶴彬って、喜多一二さんのことでしょ。大阪衛戍監獄に移送されたときに、看守から、『凄い人がいるんだぞ』って、言われたことがあってね。それで、どんな人かって尋ねたら、鶴彬と。」


【第九師団衛戍拘禁所】

「そうや。鶴彬はね、一九三〇年に第九師団七連隊に入営して、その二カ月後に連隊長質問事件を起こして重営倉入りになり、翌年には軍隊内で『無産青年』を配布して、逮捕され、金沢衛戍監獄に収監されて、一冬を…」と、続けるケンの話を遮って、尹奉吉は、
「そこは、わたしが最後の一夜を過ごしたところですね。オンドルはもちろん、畳もなくて、板敷きの部屋で寒くて寝られなかったな。こんなところに、鶴彬が何カ月も収監されていたと思うと、とても不憫ですね。」
「そうです。火の気もない極寒の監獄で一冬を過ごした後、あんたが上海から移送されてくる一年前の三一年六月に、軍法会議で懲役二年の判決を受けて、そのまま大阪に移送されたんです。」
「しばらくだが、同じ釜の飯を食っていたんだから、会ってみたかったなぁ。」
「鶴彬はね、三三年十二月に除隊し、四年間の空白を乗り越えて、翌年一月に『地下へくぐって 春へ、春への 導火線となろう』と詠んで活動を再開して、三六年に『枯れ芝よ 団結をして 春を待つ』と詠んで、どんなに苦しくても希望を捨てずにたたかいつづけたんです。」
 鶴彬は日中戦争直前の一九三六年十二月に、排外主義と決別し、朝鮮人民との連帯を呼びかける「半島生まれ」の七句を詠む。「半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる」「内地人に負けてはならぬ汗で半定歩のトロ押す」「半定歩だけ働けばなまけるなとどやされる」「ヨボと辱められて怒りこみ上げる朝鮮語となる」「鉄板背負ふ若い人間起重機で曲がる背骨」「母国掠め盗った国の歴史を復習する大声」「行きどころない冬を追っぱらわれる鮮人小屋の群れ」。
 翌一九三七年七月盧溝橋事件を引き鉄(ひきがね)にして日中戦争に突入したが、鶴彬は、「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のいないニュース映画で勇ましい」「出征の門標があってがらんどうの小店」「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「手と足をもいだ丸太にしてかえし」「胎内の動き知るころ骨がつき」と、究極の反戦川柳をたたきつけたのである。
 鶴彬の口を封じるために、十二月に再び検挙し、野方署の留置場で赤痢に罹って、伝染病専門の豊多摩病院で治療を受けたが、「蟻食を 噛み殺したまま 死んだ蟻」(一九三七年八月)のように、壮絶な獄死を遂げた。二九歳だった。元七三一部隊・伝染病棟の医師・湯浅謙は「留置場で普通の赤痢で死亡することは皆無である。…赤痢菌添加物を食べさせ実験してから、赤痢菌を多量摂取して死亡させ」(『反戦川柳人 鶴彬の獄死』より孫引き)たのではないかと、証言している。
「そういえば、わたしも、四月の虹口公園へ下見に行ったとき、枯れた芝生を見てね、『一面の芳草よ、…青青とした芳草よ、…優しい芳草よ』と、二九日への決意と未来の青年たちへの希望をこめて、詠んだことがあるな。やっぱり、会いたかったなぁ。」
 塞がっていたみんなの気持ちにも、少しは光が射したようで、尹萬年が、
「酒もなくなったし、今日は、もう帰ろうか」と言って、立ち上がり、尹奉吉に「また来るからな」と再会を約して、その場を離れた。

一九四三年夏
 この日早朝、ケンはヨシを連れて、本吉駅から汽車に乗り、金沢駅に向かった。駅前にある木工製作所に嫁いでいるヨシの姉に、徴用で厚木飛行場に行くことになったことを報告し、そのまま市内電車に乗って、寺町に向かうつもりだったが、ふたりとも気が重く、久々の兼六園へ向かった。夕顔亭でお茶をすすりながら、ケンは、
「ああ、滝の音しか聞こえない、この静かな金沢から、厚木へ行かんならんのか。」
「そうね。東京は空襲がはじまっとるし」と、言いかけたヨシが、指をさしながら、
「滝の向かいにある灯籠やけど、変な形しとるね、えや。」
「あれはな、海石塔といってな、加藤清正が朝鮮の円覚寺跡から盗ってきたもんやそうや。」
「加藤清正っていうと、三五〇年前のことけ。あんな重いもんをどうやって運んできたんかね、えや。」
 夕顔亭の前には瓢(ひさご)池があり、その左手には流れ落ちる翠(みどり)滝があり、右手には海石塔が立っている。高さ四メートルほどの六重の塔であり、頂には蓮の実のような形をした宝珠・請花(うけばな)がある。笠は真反り(しんぞり)のある厚いもので、その石材が海中から採掘したという虫喰い石であることから、海石塔と呼ばれてきた。多重塔は奇数段が通常であるが、この塔は六段であり、各段の火袋に変化を持たせてあり、日本の石塔にはほとんど見られない形である。
 円覚寺跡(パゴダ公園)にあった海石塔は、もともと十三重の塔で、朝鮮出兵時に加藤清正が略奪してきて、秀吉に献上し、その後前田利家に贈られ、金沢城内に置かれたといわれている。その後、三代目藩主利常が小松城に移る際に、ふたつに分割して、下の七層を持っていき、上の六層を兼六園に設置したという「略奪論」の資料が巷間に多数存在している。たとえば、一九〇七年ごろに発売された絵はがきには、「豊公朝鮮役の壮図を偲ぶ歴史的記念品海石塔の雅観」と書かれ、時期不明だが「これは朝鮮征伐の時の戦利品で、豊公から利家に賜ったもの」という説明のある絵はがきがある。最も古い資料としては、日清戦争直前の一八九二年の『金沢古蹟志』には、「海石六重塔 蓮池大瀧の下なる中島の地にあり。旧伝に云ふ。昔朝鮮陣の時分捕(ぶんどり)にせしもの也とぞ」と記されている。他方、一九九〇年代末ごろから、海石塔に使われている石材が坪野石(火袋)、戸室石(宝珠、請花、塔軸)、滝ヶ原石(笠石)ではないかという「石材県内産論」(荒井外二、小島和夫など)が散見されるようになったが、体系立てられた論文はまだ手元にはない。「略奪論」にも「石材県内産論」にも、決定的な証拠・論証がなく、宙に浮いている状態だが、海石塔が朝鮮由来の石塔でなければ、では、なぜ海石塔「略奪論」が普遍化したのだろうか。

 
【左:夕顔亭、翠滝、海石塔 右:香林坊魚半ビル】

 お茶を飲み終えたふたりは、真弓坂を下り、ぶらぶらと街に出て、魚半ビルの三階レストランで昼食を摂り、香林坊から市電に乗り、終点の寺町野村兵営前で下車し、重い足取りで、汗をふきふき野田山に向かった。参道にさしかかると、ふたりの気持ちに逆らうように、木々は青々と生い繁り、涼しい風がそよいでいた。その坂道を登り切ったところで、尹奉吉から、
「ヨシさん、久しぶりです。子どもたちは元気ですか。」
「戦争ごっこばっかりしていて、困っとるわいね。」
「それで、ケンさん、こんな暑いときにわざわざいらして、何かあったんですか。」
「軍から、海軍厚木飛行場への徴用命令が届いたんですよ。」
「もう三七歳じゃないですか。一体どんな仕事をせよって言うんですか。」
「写真の仕事なんですけどね、以前、福光で仕事をしていたといってたでしょ。その時に、井波の美術欄間の撮影技術を身につけてね、それが軍用機械の撮影の役に立つと言うんですよ。去年、厚木飛行場が完成して、写真技師が必要なんだが、若い写真師は戦地に引っぱって行かれとるし、それでこんなロートルに白羽の矢が当たったんや。」
「家族もいるし、行けないと断れないんですか。」
「ひとりでも来いって言うんですね。そうすると、ヨシらの生活が成り立たんしな。」
「あら、そんなことないわよ。だって、最近は出征前の写真撮影しかないし、ほとんどわたしの針仕事で食べているじゃない、えゃ。」
 ヨシの指摘は図星だった。ヨシが嫁入り道具として、ミシンをもってきており、広いスタジオが緞帳幕(どんちょうまく)作りの作業場と化していた。写真は不要不急の需要であり、衣食の後回しにされており、写真の仕事はめっきり減っていた。ケンの憂いは、主として別のところにあり、かつて、四高生の影響を受けて、自他共に非戦論者と認められていたのに、徴用に応じることは、このプライドを捨てることでもあった。
「ジャーナリストも文学者も画家も戦争に協力しているのは知ってるでしょ。写真家で言えば、名取洋之助、土門拳、木村伊兵衛らも国策宣伝、戦意高揚の役割を担っているし、金沢でも、仲町の小池写真館は第九師団専属の写真班であり、その弟子の高桑五十松を日露戦争に従軍させたし、最近も、博労町の今井写真館は『陸軍御用』を謳い文句にしているし、写真師と軍が密接に結びついています。これまで、この道だけは歩くまいと、誓ってきたんですが。」
「久しぶりに会えたと思ったら、そんな話ですか。それで、ヨシさんはどう思っているんですか。」
「わたしはね、六年前に、結婚式ではじめてケンの顔を見て、こんな馬みたいな顔と一生連れ添うのかと、真っ暗になってね、安宅へ帰りたくなりましたわ。」
 ケンは、むっとした顔をしていたが、尹奉吉は、「あはははは」と、笑い転げて、「それで」と、ヨシを促した。
「それでも、一緒に生活してみると、まあ、優しいんですね。世の中の、威張り腐った男たちと、ちょっと違っててね。それに、新婚の時期なのに、いろんな男たちが、ザワザワやってきて、『バシャ、まま(ご飯)、くれや』って言うんですよ。」
「ケンさん、そのバシャって、なんですか。」
「いやぁ、若いころは、特高に追われながら、馬車馬のように走りまわっていたから、そう言われとったんや。」
「それで、その男たちは何をしてたんですか。」
「二階に上がって、何か深刻な顔をして、ひそひそ話し込んでいましたね。なんか、変だなぁと思って、押し入れの隅にしまってある本を探ってみると、『レーニンとトロツキー』、『ドンキホーテ』、『涙の底から』などの本が出てくるわ、出てくるわ、アー、これはたいへんな人と一緒になったと思いましたよ。それでも、いろいろ話を聞いていくと、道理が通っているし、優しい心が伝わってくるし、まあ、居心地がよくなってきてね、えゃ。」
「それで、一緒に厚木へ行くんですか。」
「はい」の、ひと言だった。
「それじゃ、ケンさん、何も悩むこと、ないじゃないですか。軍隊のなかで、活動していた鶴彬もいるじゃないですか。」
「でも」と口ごもり、「あんたも、こんな暗い話を聞かされて、どんなに不愉快だったか、わかっていますが、今時、あんた以外にこんな話はできないんですよ。でも、じっと聞いていただきありがとうございました。」
 ケンもヨシも、肩の荷がおりたかのように、来るときよりも、少しばかり足取りが軽くなっていた。

(続く)
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