アジアと小松

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小松基地問題研究会

小説『野田山日記 甦えれ魂』(第1回)

2024年02月22日 | 落とし文
 『野田山日記 甦えれ魂』

目次 (1)野田山 / (2)暗闇のなかで / (3)解放だ、帰国だ / (4)孝昌公園へ 

参考資料
『上海爆弾事件後の尹奉吉』(二〇一二年、二〇二〇年)/『私的「不二越強制連行」論・記録』(二〇二一年)/『石川県ゆかりの表現者と戦争』(二〇二〇年)/『ユンボンギルと天長節事件始末』(一九九二年)/『大東亜聖戦大碑問題資料集』(二〇〇一年、二〇〇二年)/『金沢のロシア人墓地』(一九九二年)/『小松の空』(一九八八年、住田正一)/『朝鮮人学徒出陣』(姜徳相著)/『評伝 尹奉吉』(金学俊著)/『反戦川柳人 鶴彬の獄死』(二〇二三年、佐高信)/『昭和七・八年石川県特高警察資料』(一九八一年)/『昭和前期の石川県における労働運動』(一九七五年)/『昭和特高弾圧史5 庶民にたいする弾圧』(一九七五年)/『内灘から三里塚へ』(一九八九年)/『松代地下大本営』(一九九二年、林えいだい)/『母と子でみる 柳寛順の青い空』(早乙女勝元編、一九九五年)/『特別名勝兼六園』(一九九七年)/『川柳人 鬼才 鶴彬の生涯』(一九九七年)/『創氏改名の法制度と歴史』(二〇〇二年、金英達)/『石川県の百年』(一九八七年)

  
【左:野田山全体図 右:陸軍墓地周辺】

(1)野田山

 野田山は金沢市街地から、犀川を渡って、四キロほど南方にあり、そのはるか先には白山を主峰とする加越山地を遠望する。東に雀谷川を挟んで三小牛(みつこうじ)山があり、共に二〇〇メートル未満の低山で、北に向かって裾野を広げている。
 野田山墓地は、江戸時代初期に前田家藩主、正室の墓所として拓かれ、その後家臣、町人の墓が建てられ、明治初期には、その一角を陸軍墓地とし、その下方に市民墓地が広がっている。その面積は四三平方メートルにも達し、五万余の墓碑が林立し、死者の魂がひしめきあっている。
 その一角に尹奉吉(ユン・ボンギル)は埋められていた。
 尹奉吉は大韓帝国忠清南道礼山(イエサン)郡で一九〇八年に生まれ、日本の植民地支配下で、農村復興運動を進めていたが、弾圧の手が伸び、一九三〇年に亡命を決意し、臨時政府のある上海に向かった。一九三一年は「いくさのはじまり」と読まれるように、九月満州事変から翌一九三二年一月上海事変へと、日本による中国侵略戦争がはじまった。尹奉吉は金九(キム グ)が上海で組織する韓人愛国団に参加し、四月二九日の日本軍戦勝記念式場に乗り込み、壇上に爆弾を投げて白川軍司令官ら要人を多数打倒して、逮捕された。

 

 上海軍法会議で、死刑判決が出され、十一月大阪衛戍拘禁所に移監され、十二月十八日に金沢に移送され、翌十九日午前七時二七分に三小牛山陸軍作業場で処刑され、陸軍墓地と市民墓地の境目に暗葬され、人々の踏むに任されていた。

一九四一年晩秋
「おい、痛いじゃないか。その足をどけろ。」
「だれっ、どこにいるの」、尹基鳳(ユン・キーペン)は辺りを見回しながら、戸惑っていた。
「おまえの足元だ。」
 基鳳の足元には、陸軍墓地からかき集めてきた落ち葉が、カサカサと鳴っているだけだった。このあたりは、日清・日露戦争から上海事変までに、戦死した軍人たちが眠っている地であり、小学一年生になったばかりの子どもたちが、だだっ広い墓地を覆う枯れ葉を、熊手と竹箒(たけぼうき)でかき集め、箕(みの)に詰め込んでは、繰り返し崖下の空き地に運び出していた。
「おまえは、尹基鳳だろ、おまえの父のことはよく知ってるぞ。」
「ぼ、ぼくは、梅山です」と、基鳳は誰かに本名を聞かれやしないかと、ハラハラしながら、声の主はどこかと、辺りを見回し、怪訝な顔で答えた。
 尹奉吉は続けて、
「おまえの父は尹萬年(ユン・マンニョン)だろ、私の村の近く、忠清南道青陽(チョンヤン)面で生まれた。どうだ合っているだろう。」
 基鳳は、黙っていた。
 一九二七年に、尹奉吉たちが新幹会(シンガネ)礼山支部を結成したとき、尹萬年も二〇キロもの遠くから歩いてやってきた。ともに国を憂う十九歳だった。尹奉吉は夜学運動の活性化を提案した。夜学の学習内容を充実させ、有効に活用すること。読書を活性化すること。啓蒙講演会や討論会を開催し、学習を評価し、意見を発表する場を設けることだった。だが、治安維持法の発動で、ことはスムーズに進まなかった。
「わたしは、おまえの父と同い年なんだが、萬年が日本に向かった翌年、わたしも故郷に別れを告げ、上海に向かったんだ。」
「えっ、もしかして、尹奉吉先生ですか。それで、先生は今どこですか。」
 尹奉吉が金沢のどこかに眠っていると、父から聞いており、まだ十歳そこそこの基鳳の心のなかにも、尹奉吉は生きていた。
「そうだ。その前に、ちょっとその足をどけてくれないか。」
 基鳳は、慌てて、その場から数十センチ後ずさりし、
「ここにいるの」と、しゃがみ込んだ。
「そうだ、もう十年近くになるなぁ。みんな、私のからだを踏んでいくから、痛くてたまらん。おまえも、日本人に踏まれて、痛い思いをしてるんだろう。」
 基鳳が「先生」と呼んでも、もう答えは返ってこなかった。墓地管理事務所あたりから、集合を合図する鋭い笛が鳴り、基鳳は後ろ髪を引かれるように、その場を離れた。

数日後
 犀川の河川敷には、何カ所もの朝鮮部落が形成されていた。上菊橋上流にも数十軒のあばら屋があり、尹萬年一家もそこで暮らしていた。大雨が降ると、バラック建ての小屋はプカプカと浮いて、流れていくようなところだった。萬年と基鳳は上菊橋を渡り、法島町から寺町台に出て、野村練兵場と歩兵第三五連隊の間をすり抜けて、長坂村に入り、平栗村に向かうとすぐ右手に大乗寺があり、斜め前の小路に入れば、墓群のなかをまっすぐ伸びる坂道が続き、登り切ると陸軍墓地があった。十歳そこそこの基鳳には、息が切れるほどの坂道であり、ようやく墓地管理事務所の裏に辿り着いた。



 基鳳は、「アポジ、ここや、ここや」と、落ち葉が山のように捨てられているところを指さした。
 萬年は、すーっと深呼吸し、辺りを見回した。南方には陸軍墓地に上がる石段があり、朝鮮や中国の民を虐げた兵士たちが祀られている。東側の藪のなかには、倒れかかった、粗末な加州藩士の墓碑が十数基並び、北側下手には多数の墓碑が林立していた。その間近には、ちょっと広めで、青々とした苔が一面を覆っている墓域に、小窪トシの先祖を葬るふたつの墓が並んでいた。
 萬年は、五年前に亡くなったトシの父・徳三郎を偲ぶために、トシとともにお墓参りに来て、水桶を持ち、墓花の水を汲みに、陸軍墓地へと上がった。そのとき、この上を歩いていたことを思い出していた。
「ここで、奉吉の声を聞いたのか。」
「うん、この辺やった。」
 だれもいない、静まりかえった野田山に立って、耳を澄ますと、どこからか、
「ああ、萬年か、久しぶりだな」と、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「どこにいるんだ。」
「おまえの足元にいるんだ。ところで、長いこと会いに来なかったな。」
「だって、どこに眠っているのかわからなかったからさ。五年前にここに来たが、おまえは声もかけてくれなかったじゃないか。」
「そうか、俺だって、眠っているときはあるさ、そんときにでも来たんだろう。」
「まあ、いいか。おまえが三小牛山で処刑されたと、新聞で読んで、おまえの眠っているところに行こうと思って、いろいろ調べたんやが、ついにどこかわからなかったんや。そいで、古谷ケンや小窪トシと一緒に、三小牛山まで行ったんやぞ。」
「三小牛山の、何処かわかったんか。」
「ああ、ケンがその場所を覚えていたんや。草がなぎ倒されていて、土がむき出しになっていてな、ところどころにおまえの血しぶきが散っていてな、」
 尹奉吉は尹萬年の話を遮って、
「その、古谷ケンって、何者なんだ。」
「ああ、ケンはな、第九師団から処刑前後の写真を撮るようにと指名されたんや。」
「ははぁー、あの男か。カンカンに縛られた私に近づいてきて、冷え切った私の手をさすりながら、変なことつぶやいていたな。『日本人がやらなけりゃならんことを、あなたにやらせてしまい、申し訳なかった』と。そのあとしばらくで、銃声がして、気を失ってしまったんだ。」
「そうさ、そんな男さ。ずーっと、わしら朝鮮人と一緒にたたかってきた人なんや。」
「日本にも、そんな人がいるんか。」
「まあ、多くはないけど、信頼できるし、いろいろと世話になっとるんや。日本は住みにくいところやからな。さっきの続きやけど、おまえが目を閉じたところに、餅やら花やら、お酒をお供えしたんだけどな。」
「アポジ、誰かがあのおうちの窓からこっちを見ているよ。」
「そうか、そりゃぁまずい。奉吉、今度は酒でも持って、みんなと一緒にくるからな。それから、ここは目立ちすぎるし、小窪家の墓地でもいいかな。」
「わたしは、野田山じゅうの死者と話しているから、大丈夫ですよ。」
 ふたりは「アンニョン」といって、陸軍墓地をあとにした。


続く









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