アジアと小松

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小松基地問題研究会

小説『野田山日記 甦えれ魂』(第3回)

2024年02月24日 | 落とし文
小説『野田山日記 甦えれ魂』(第3回)

一九四四年春
 尹奉吉は萬年に会いたかったが、なかなか来てくれず、気をもんでいた。そこに、キヨを連れて結婚の報告のために、墓参りに来たトシを見つけて、声をかけた。
「トシさん、みんな、どうしているんですか。萬年も、ケンさんも来てくれなくて、寂しくてしょうがないんです。」
 トシは暗い顔をして、
「ああ、みんないなくなってね。ケンさんは白紙徴用で家族ごと、厚木飛行場に引っぱられていったし、萬年も徴用で不二越に動員されているし、ここに残ったのは身体が悪くて、戦争の役に立たんわしだけですよ。」
「ケンさんは、もうふたりの子どもを抱えた三八歳じゃないですか。そんなロートルを引っぱりだして、これじゃ日本も先がないね。キヨさん、はじめまして。どちらから嫁いでこられたんですか。」
「私は、宮城県で生まれて、小学校の先生をしていたんですが、いろいろありまして、単身金沢へ来ました。」
「何か、深い事情がおありのようですね。」
 キヨは、思い切って話し始めた。
「一九二七、八年ごろ、仙台にある朴沢松操(ほおざわしょうそう)学校に通っていたんですが、仙台第二高等学校の学生の影響を受けて、地下活動の手伝いをしていました。連絡係のような活動でした。卒業後に、その時に出会った人と結婚して、近くの須江尋常高等小学校で先生をしていたんですが、婚家の古い体質に耐えられず、身ごもっていたんですが、黙って家を出て、富山にいる妹の伝手(つて)で、金沢に落ち着いて、トシさんと出会って、一緒になることにしたんです。」
「地下活動にかかわるようになった、きっかけってあったんですか。」
「私の旧姓が横川で、明治維新の少し前に生まれた省三という大叔父がいて、自由民権運動の活動家で、加波山事件のメンバーとして逮捕・投獄されました。釈放後も『皇居周囲三里以内接近禁止』を申し渡されていました。父は国鉄の技術者で、まあ進歩的だったんでしょう。こんな省三を誇りに思っていたようで、よく聞かされていました。きっと、そんな影響を受けていたんでしょうね。」
「そりゃぁ、いい家族に恵まれましたね」という尹奉吉に続けて、トシは、
「でもね、キヨさん、その後の省三は、日露戦争でロシア軍の輸送鉄道爆破事件に関わって、逮捕されて、ハルピンで処刑されたんですよ。省三が自由民権運動から、日露戦争に率先協力していくようになったのは何故か、ようわからんが、日露戦争は日本とロシアが朝鮮の領有をめぐって争ったんで、朝鮮人にとっては本当に迷惑な話やね。どっちが勝っても、朝鮮は他国の支配下に置かれるわけで、案の定、五年後の一九一〇年には日本の植民地にされてしもうた。日本という国は、本当に身勝手な国ですね。それにね、省三は一旦、処刑地に埋葬されたあと、遺骨は故郷の盛岡に戻され、聖寿寺に葬られているんやが、奉吉さんの場合は処刑後野田山に暗葬され、人々の踏むにまかせているところが、格段の差やね。」
 旧刑法二六四条には、「埋葬ス可キ死屍ヲ毀棄シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ處シ二圓以上二十圓以下ノ罰金ヲ附加ス」とあり、死者敬慕の念や宗教的感情を害する形で尹奉吉の遺体を放置し、隠した暗葬はこの規定に違反している。
 また、午前七時すぎに尹奉吉を処刑して、たったの三時間後の、まだ遺体に温もりが残っているにもかかわらず、暗葬し、十一時には記者会見をおこなって「遺体を火葬に付した」とウソの発表をおこなった。これは、「墓地及火葬場は管轄官庁より許可したる区域に限る」(第一条)、「死体は死後二四時間を経過するに非ざれば埋葬又は火葬をなすことを得ず」(第三条)と規定している「墓地及埋葬取締規則」に違反している。
 つづけて、ケンが、
「日本じゃ、古(いにしえ)から、敵の首を取って戦果とするような、首刈り族の習慣があってな、秀吉の朝鮮出兵でも、朝鮮人の耳を切り取って戦果の証としてきたんや。敵の遺体を傷つけても、なんとも思わん日本の『武士文化』が今も残っとるんやろうな。」
 秀吉の朝鮮出兵に従軍(一五九七年六月に出港し翌年二月に帰帆)した医僧・慶念(大分県臼杵市・安養寺)の『朝鮮日々記』がある。慶念は「はやばや船より我も人もおとらしまけじとぞ、物をとり、人をころし、うばいあへる躰、なかなか目もあてられぬ気色也」(七月四日)、「家々をやきたて、煙の立を見て、わが身のうへにおもひやられてかくなん」(同五日)、「野も山も、城は申(す)におよばず、皆々やき(焼)たて、人をうちきり、くさり(鎖)竹の筒(首枷)にてくびをしばり、おやは子をなげき、子は親をたづね、あわれ成る躰、はじめてみ待る也」(同六日)、「かうらい人(朝鮮人の)子供をばからめとり(生け捕りにして)、おやをばうちきり、二たびみせず。たがひのなげきはさながら獄卒のせめ(責め)成りと也」(同八日)、「夜明て城の外を見て侍れば、道のほとりの死人いさこのごとし。めもあてられぬ気色也」(八月十八日)、「此府中(全州)を立て行道すがら、路次も山野も男女のきらいなくきりすてたるは、二目見るべきやうはなき也」(同二八日)などと書き連ねている。
『朝鮮日々記を読む』の著者のひとり仲尾宏は「丁酉・慶長の役戦場と慶念」のなかで、「惣(総)頸(首)数三七二六」「判官は大将なれば首を其儘。其外は悉く鼻にして塩石灰を以て壺に詰入。…日本へ進上す」(『朝鮮日々記』)を引用し、さらに「吉川家文書や鍋島家文書にある『鼻請取状』はいずれも慶長二年八月中旬以降、十月初旬のものであり、その合計数だけでも二万九〇〇〇以上にのぼっている。これに長宗我部、島津、太田、脇坂、加藤らの諸部隊の数を加えるならば、その数は十万を優に超すにちがいない。しかもこの行為は『さるみ』と称された民間非戦闘員を対象とした残虐行為であった」と秀吉軍の残虐さを述べている。最後に、「丁酉(慶長)役の戦場は苛烈凄惨という以外の言葉をもたない。…この戦役は異なった民族の住む大地を侵掠(しんりゃく)し、また子ども、女性をはじめとする大量の非戦闘員の殺害、鼻刑、生け捕り――奴隷化を生んだという点で日本史上、類がない。後半の戦場においてはさらにあらゆる村々、宮殿、大寺などの破壊と焼亡が繰り返された」と締めくくっている。
「そんなに悲観しなくてもいいんじゃないですか。鶴彬がおり、ケンがおり、トシがいるじゃないですか。」
「そりゃー、買いかぶりですよ、奉吉さん。3・1独立運動がおきて、たくさんの朝鮮人が殺されたのを見て、たったの十四歳のときに、朝鮮人としての誇りを取り戻すために、植民地教育を拒否して、鳥峙(オチ)書塾で学び、世界観を広げてきたんですよね。十年後にも光州学生義挙があり、やっぱり血まみれの弾圧を見て、奉吉さんはその半年後の三月に故郷を出て、上海に向かったんですね。その感性と決断には、とても及びがたいです。」
「そのこともありますがね、一九二九年二月の学芸会で、『兎と狐』というのを演じたんですよ。これがね、うさぎ同士で食べ物をめぐって争っているときに、狐が間に入ってきて、その食べ物を全部とっていくという寓話で、朝鮮人は互いに争わずに団結して、日本による植民地支配とたたかおうという意味を込めていたので、朝鮮総督府に睨まれ、徳山警察署に呼び出されて、ひどい目に遭ったんですよ。植民地支配の下じゃ、朝鮮人の自立をめざす運動もできないし、治安維持法によって捕まる可能性も逼迫してきたんで、やむを得ず、上海に行くことにしたんですよ。」
「その時ですね、『鉄拳で敵を即刻討ち滅ぼす覚悟』と詠んだのは。」
 尹奉吉は、天を仰ぎながら、
「私ノ鉄拳デ敵ヲ即刻討チ滅ボス覚悟/二三歳/歳月ガ経ツニツレ我等ヘノ圧迫ト苦痛ハ増加スルノミ/私ハ覚悟ヲシタ/痩セ細ル三千里ノ山河ノ我ガ国ヲ黙ッテ見テ居ル事ハ出来ヌ/水火ニ落チタ人ヲ泰然ト見テイル訳ニハイカヌ/是ニ対スル覚悟ハ他ナラヌ私ノ鉄拳デ/敵ヲ即刻粉砕スル事ダ/此ノ鉄拳ハ棺桶ノ中ニ入レバ/無用ノ代物デアル/老イレバ無用ダ/今冴エテ私ニ聞コエルノハ/上海臨時政府デアル/多言無用」と、朗唱し、思い出すのも嫌だという顔をして、
「萬年は近くの富山にいるんだから、戻ってきたらここに来てくれるように言ってくれないか。日本でのたったひとりのトンム(同務)なんだし、わたしは、ここから一歩も動けないしね」と告げて、消えた。

 
【左:ロシア軍兵士の墓が設置されていたところ 右:加州藩士の墓】

一九四四年十二月
 地上では戦争が長引き、日本の敗色が濃くなっていたが、野田山を訪れる人もなく、尹奉吉は、退屈しのぎにロシア兵のエゴール・ワシリエフ上等兵に声をかけた。ワシリエフは日露戦争で、日本軍の捕虜となり、金沢に送られ、東別院で捕虜生活を余儀なくされていたが、帰国前の一九〇五年七月に二六歳で亡くなり、故国には帰れず、野田山に葬られていた。ワシリエフらロシア兵の十基の墓碑は尹奉吉が埋め捨てられた地から、東方に向かって、加州藩士の墓碑があり、その先に並んでいた。
「私は朝鮮人だが、あなたはなんのために、命を賭けてまで、日本と戦争をやっていたんだ。」
「いやー、お上の命令でね、しょうがなく来たんですよ。朝鮮の支配権をめぐって、日本と争っていたとは知らず、ほんとうに朝鮮の人たちには、迷惑をかけました。」
「それは、そうと、ワシリエフさん、ここら辺はちょっと異様な感じがしませんか。」
「なにが。」
「あなたのお墓も、私の暗葬地も、加州藩士之墓も、陸軍墓地の北外側で、東西に一直線に並んでいますね。」
「それが、どうしたんですか。」
「私の直感なんですがね、三者とも天皇の軍隊と一戦を交えたことに何か意味がありそうでね。ここに葬られているワシリエフさんら十人は露軍の将兵で捕虜になったし、」と言いかけると、
「そりゃぁ、そうでしょう。陸軍墓地は天皇のために死んだ将兵のために造られたんだからね。そんなところに、露国の兵隊を葬るはずがないでしょう。なんぼ、一等国日本を演出するためとは言え、敵味方を同居させるほどの根性はないだろうな。だって、第九師団の戦死者は六,七千人に上っているというじゃないですか。」
 そこに割り込んできて、
「わしらは加賀藩主・慶寧の命令で、徳川方について、朝廷に刃を向けたんやが、越前丸岡あたりまで来たら、途中で分が悪くなって、寝返って官軍方に付いたんですよ。」
「どなたですか。」
「申し遅れましたが、加州藩士・監軍の山田定右衞門と申します。官軍方について、七六〇〇人の部隊を率いて長岡城を攻撃したもののひとりです。」
「それで、何をおっしゃりたいんですか。」
「北越戦争で、一〇六人もの犠牲者を出してまで、官軍に協力したのに、わたしらの墓を陸軍墓地内に造ろうとしなかったことですよ。その理由はね、第九師団がわたしら加州藩士を、裏切り者として心底から信用していなかったということでしょうね。陸軍墓地は天皇のために命を賭けた将兵を祀るための、神聖不可侵な墓域であるということでしょうね。」
 ワシリエフは、納得したように、「奉吉さんは、上海で一泡吹かせたし、わたしらは朝鮮の領有をめぐって日本に苦戦を強いたし、加州藩士は信用できないし、三者とも陸軍墓地の周縁に配置して、死後も監視の手を緩めないぞ、という第九師団の意思を感じるんですが、どうでしょうか。」
 そうこうしていると、数人の男女がガヤガヤと近づいてきて、小窪家の墓地に入っていった。そこには、トシとキヨがおり、ケンがおり、萬年がいた。
「どうしたんだ、みんなそろって。」
「何言ってんだ、今日は、あんたが十二年前に亡くなった日でしょ」と、ケンはトゲのあるニュアンスで返した。
「もう、そんなにたつのか。」
「たいへんな時節だが、この日に集まらなくっちゃ、この先いつ奉吉さんの声を聞けるか、もう聞けないかの瀬戸際なんですよ。」
「そんなに逼迫しているんですか。」
「もう、先月から始まった米軍による空襲で、東京は焼け野原だし、わしが徴用された厚木飛行場は、どうも占領後に使うつもりのようで、空襲はまだやが、もう食べるものもなく、子供らは泣いてばっかや。それにね、フミの夫がね、治安維持法で捕まったあと、そのまま徴兵されて、陸軍習志野練兵場で、硫黄島行きを待っているんです。制海権もアメリカにとられとるし、もしも硫黄島に送られれば、もう帰ってこられんやろうと、心配なんです。それで、今生(こんじょう)の別れの気持ちで、フミと一緒に面会にも行ってきました。もう、この国もおしまいやなぁ。」
「萬年も、なんか浮かない顔をしていますね。」
「うん、最悪ですよ。日本人の労働者は戦地に引っぱられていって、軍需工場にゃ、働き手がいなくなって、それで半島からたくさんの同胞を引っぱって来て、こき使っているんですよ。九月には、五四〇人もの若者が徴用されてきて、私はその世話でてんてこ舞いですよ。」
「どんな仕事をしているんですか。」
「必要なのは旋盤の技術を持った人なんですが、私はそんな技術を持ち合わせていないので、千人も収容できるような大きな岩瀬工場の食堂に配属されました。食堂で掃除や荷物を運んだりする雑用係ですね。午前六時に起床して、食堂を掃除して、労働者の朝食が終わると、また掃除をして、それからやっと自分たちの朝食になります。午前中に、大量の米が届き、これを食堂に運び込むのはたいへんな重労働です。これを二日に一回はやらねばならないのです。十二時すぎに工場労働者の昼食が終わった後、昼食をとり、掃除をし、その後、荷車にゴミを積んで海まで捨てに行っています。この荷車はかなり重くて、力仕事で、いつも腹を空かせている私たちには本当に辛いんです。一人が前で引いて、後ろから三人が押してやっとのことで運んでいくんです。そうしている間に工場労働者の夕食時間が近づき、私たちは昼食後にテーブルの上に上げておいた椅子を元に戻して、工場の労働者に食事を摂らせます。そして、その後、私たちも夕食を摂り、掃除をして仕事が終わるのは夜の八時です。さらに遅くなることもあります。寄宿舎に戻るのは、午後九時頃でした。昼食時間を除いて休みはなく、日曜日は平日より用意する食事は少ないのですが、休みはありません。」
「労働組合は黙っているんですか。」
「とんでもありません。たたかう労働者たちはみんな検束され、獄中ですよ。私たちが若かったころの朝鮮のようですよ。息もできないような状況です。それにね、もっとすさまじいことが不二越でおきています。五月には、朝鮮から四五〇人もの女の子を引っぱってきて、働かせているんです。私の息子と同じ年頃で、十二、三歳の女の子ですよ。」
 一九三七年の「蘆溝橋事件」直後の九月、「軍需工業動員法の適用に関する法律」が制定された。翌一九三八年には「国家総動員法」が制定され、工場・事業場などの国家管理(会社の経理や利益処分の規制)、国民の徴用、賃金や価格の統制、工場や土地の収用などすべての面にわたって、軍需生産優先政策を実施した。この年、不二越は陸海軍共同管理工場の指定を受け、陸海軍からは、それぞれ管理官・監督官が派遣され、工場は軍管理工場として陸軍旗と海軍旗が各監督官事務所屋上にひるがえっていた。
 一九四二年二月、「朝鮮人労務者活用に関する方策」が閣議決定され、朝鮮にまで動員対象を拡大した。一九四三年、「戦力増強企業整備要綱」に基づいて重点産業部門を定め、国内の工場などの生産設備と労働力を根こそぎ動員する体制をめざした。また、十月には、軍需生産の一元化をはかるため軍需省を新設し、「軍需会社法」を制定した。翌年一月、不二越は軍需会社としての第一次指定を受けている。
 他方、一九四三年九月、十四歳以上の女性を動員する「女子勤労動員の促進に関する件」が閣議決定され、全国に女子勤労挺身隊が結成された。翌年八月「女子挺身勤労令」が公布され、動員対象が十二歳以上に拡大されたが、不二越はすでに五月時点で十四歳未満の女子を強制連行していたのである。
 尹奉吉は、腹立たしげに、
「親たちは、黙っていたのか。」
「釜山港へ連行されていく子どもたちを、途中で待ち伏せて、連れ戻した親や兄がいたが、多くはそのまま不二越まで来てるんだ。ただね、子どもたちはね、日本の皇民化教育で、朝鮮人としての自覚を失ってしまって、日本人だと思わされているんです。それで、戦争に勝つまではと言って我慢しているようです。」
「なんということだ」と、つぶやきながら、尹奉吉は頭を抱えていた。萬年は続けて、
「十一月六日の『北日本新聞』は、翌春までには、二八〇〇人を連行してくると、書いています。日本近海の制海権は、アメリカに奪(と)られているし、釜山・下関間の海上で攻撃されれば、だれひとり生き残れんやろう。」
 ケンも、トシもため息をついて、立ち上がると、一羽のカラスが舞い降りてきて、お墓に供えられたろうそくをくわえて飛び去っていった。エサになる虫が少なくなる冬は、墓参者が供えるろうそくを食べてでも、生き抜こうとするカラスには春が約束されているのに、三人は、未来の見えない戦争の真っ只中で、暗くなりかけた道を帰途についた。

一九四五年初春
 洟をすすり、すすり、野田山を登ってきた尹基鳳ともう一人の青年を見つけて、尹奉吉は心配そうに、「どうしたんだ、何があったんだ」と声をかけた。基鳳はしゃくり上げながら、
「具仁哲(ク・インチョル)兄さんが、特攻隊に志願するって言ってるんです。」
「オイ、おまえは朝鮮人だろ。」
「はい、具仁哲といいます。」
「なぜ、そうなったのか、ちゃんと話を聞かせろ。」
 前年の十月以来、特攻隊員がハンドルに身体を縛って、敵艦に体当たりする作戦がとられていて、たくさんの青年が身を投げ出してきた。知覧飛行場の第一〇四振武隊も四月に出撃する予定で、最後の別れを告げるために、仁哲も帰宅していた。みんなから「知覧へ戻らないで」と、泣いて頼まれても、いうことを聞かず、明日にも、知覧へ戻ろうとしていた。
「仁哲君よ、朝鮮人が日本にどれほどひどい目に遭ってきたか知らんのか。日清戦争でどれだけの朝鮮人が殺されたか。日露戦争のどさくさに紛れて、独島を盗り、五年後には植民地にしたじゃないか。主権回復のために、3・1独立運動に立ち上がった朝鮮人をどれだけ踏みにじったか。あの柳寛順(ユ・グァンスン)は逮捕され、西大門刑務所で獄死したじゃないか。関東大震災じゃ、朝鮮人が攻めてくるなどとデマを流して、何千人もの朝鮮人を殺したのは誰だ。朝鮮にも治安維持法を適用して、次々と引っぱって行ったじゃないか。徴用とか挺身隊とかいって、朝鮮から青年や少女を連行してきているじゃないか。なんで、こんな日本のために、おまえの命を投げ出すんだ。」
 尹奉吉の剣幕に、具仁哲はくちびるをかみしめていた。長い沈黙が続き、尹奉吉に促されて、ふたりは坂を下りていった。

(続く)
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