アジアと小松

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小松基地問題研究会

小説『野田山日記 甦えれ魂』(第4回)

2024年02月25日 | 落とし文
小説『野田山日記 甦えれ魂』(第4回)

解放だ、帰国だ

一九四五年九月
「あれっ、アリランじゃないか。」
 尹奉吉は、遠くからかすかに聞こえてくるメロディに耳をそばだてていた。それは徐々に大きくなり、萬年が先頭を歩き、女の子三人が続き、基鳳がどん尻で、みんな軽やかな足取りで、歌っていた。
「〽アリラン アリラン アラリよ/アリラン峠を越えて行く/私を捨てて行かれる方は/十里も行けずに足が痛む」と、一題目を終えると、陸軍墓地に到着した。
「おお、萬年じゃないか、いやに楽しそうじゃないか。」
「どうして、これが嬉しくないというのか。日本は戦争に負けて、朝鮮は植民地から解放されるし、わしらは、もうすぐ朝鮮に帰れるしな。」
「その女の子は、…」
「不二越から連れてきたんだ。」
「皆さんはどこから来たんですか。」
「わたしは福順(ポクスン)といいます。群山から来ました。十三歳です」、「わたしは光州から来た贊洙(チャンス)で、十五歳です」、「わたしは全州の錦得(クンドク)で、十四歳です」と、それぞれが自己紹介すると、尹奉吉は、
「群山も全州もわたしが生まれた礼山から南へわずか八〇キロしかないところですね。光州はもう少し先ですが、わたしが上海に向かう前年に、光州学生蜂起があり、血が沸き立ちました。どうして、私に会いたかったんですか。」
 福順はすぐに、口を開いて、
「そりゃー、アポジがね、口癖のように、ポンギル、ポンギルって言ってましたから、萬年さんから提案されて、すぐに決めました。」
 贊洙も、「わたしもよ、アポジから、先生のことを聞いていました。一度お会いして、帰りたいと思いました」と、答えると、
「このあいだ、萬年から少し聞いたんだが、三月に不二越へ来たんだって。」
 三人は、口々に話し始めた。
「はい、二月に国民学校の先生から薦められました。女学校に行けるし、生け花やお茶が習えるし、もちろんお給料ももらえると言われました。わたしにとっては夢のような話で、それでも、オモニ(母)が猛反対したんですが、家が貧しかったので、行くことにしたんです。」
「釜山から船に乗って日本に向かったんですが、少し行ったら、サイレンが鳴り、空襲の訓練が始まったんです。わたしは、日本が空襲されているなんて聞いていなかったんで、びっくりして、行くのがこわくなりました。」
「昨年の十一月には北九州、名古屋、東京に空襲があったんですよ。そんなことも知らせずに、あんたらを引っぱってきたんか」と、はやくも尹奉吉の怒りが爆発した。
「不二越に着いたら、まず待っていたのは軍事訓練でした。寮から工場へ向かうときも、帰りも軍隊行進でした。命令と服従をたたき込むためにね。やがて、工場での仕事が始まったんですが、なんとも恐ろしいところでした。頭の上にはベルトがゴーゴー唸っているし、目の前の旋盤はブンブン廻っているし、監督の怒鳴り声が降りかかるし、十三歳のわたしには、とても耐えられませんでした。」
「そんな工場で、どんな仕事をしていたんですか。」
「私らはまだ背丈も低いし、機械に届かないので、足元に台を置いて、ベアリングを削っていました。」
「そんな危なっかしい状態で、誰もケガはしなかったんかい。」
「ええ、髪の毛がベルトに挟まれたり、袖が歯車に挟まれたり、指を切り落とされた人もいました。鉄くずが飛んできて刺さったり、やけどをしたり、ケガをしない人なんてひとりもいませんよ。」
「わたしは、よく病気にかかってね、北門から歩いてすぐ近くに不二越病院があるので、そこで治療を受けました。病院へ行った帰りに、こっそりと繁華街まで足を伸ばして、遊んできたこともありました。そのときにね、朝鮮人のお兄さんから優しい声をかけられて、それで、このまま連れて帰ってくれとせがんだこともありました。そのことが舎監に知られて、始末書を書かされました。」
「普州(チンジュ)からきた徳景(ドッキョン)は鉄条網を越えて、逃げ出したまま、戻ってこなかったし、今ごろどうしているんかなー。」
 尹奉吉の目には、涙しかなかった。少女たちは、苦しかった半年間の胸の内を、さらけ出していた。
「先生、それでも一番恐ろしくて、大変だったのはね、空襲でした。五月ごろから富山空襲が始まって、米軍が不二越軍需工場を狙っているからと言われて、サイレンが鳴るたびに、夜といわず、昼といわず、仕事を放り出して、逃げました。米軍機の姿がなくなるまで、防空頭巾を被って、田圃に伏せていて、戻ってくるんですが、そのまま仕事を続けねばなりませんでした。」
「夜も仕事だったんですか。」
「そうよ、昼と夜の二交代でした。赤番青番に分けられて、十四歳までは十時間、十五歳以上は十二時間の仕事でした。空襲警報が鳴った夜の翌日は、眠くて眠くて、居眠りをしては、馬鹿野郎と言われて、木刀で殴られました。」
「不二越には、日本人の女学生も動員されて、隣の寮に入っていたんですが、休みになると家に帰れるし、戻ってくるときにお菓子などを持ってきて、賑やかで楽しそうな声がこっちにまで届いてきました。でもね、私たちは帰りたくても帰れず、お菓子など見たくてもなくて、その笑い声を聞きながら泣いていました。それに、空襲が激しくなると、工場は危ないからといって、日本人の寮は空っぽになっていました。私たち朝鮮人の命は使い捨てで、そのまま工場内の第十二愛国寮での生活と仕事が続いていたんです。そして、八月二日の未明に大空襲があり、私たちは逃げ惑いましたが、何人かは遂に帰ってきませんでした。」
 尹奉吉には、もう、言うべき言葉もなかったが、
「ご飯はちゃんと食べられましたか。」
「とんでもありません。みんな、いつもおなかをすかせて、ペコペコでした。朝は、茶色いご飯と具の入っていない味噌汁とたくあんだけ、昼は三角パンとかいって、手のひらほどのものが三枚で、朝ご飯の足しに出勤前に食べちゃうので、お昼は何もなく、じっと我慢していました。夜だって、ご飯と味噌汁に、腐りかけたイワシかニシンが付くだけでね、とてもおいしいというもんじゃありません。それでね、工場の敷地内を流れている農業用水の縁に生えているセリを摘んで食べるんですが、幼いから毒ゼリと見分けがつかなくて、腹痛を起こしたりしてね。」
「それでね、みんなで、『〽朝ご飯は八銭/昼が十銭/夜が十二銭/合わせて三〇銭』とか、『〽ああ山こえて海こえて/遠く千里を挺身に/はるかに浮かぶ半島の/母のお顔が目に浮かぶ』などと歌って、気を紛らわせていました。もちろん朝鮮語だったんで、舎監は何を歌っているかわからなかったやろうね、ウフフ。」
「戦争が終わって、帰国の準備は進んでいるんですか。」
 萬年が口を開き、
「わしは、不二越に徴用されて、岩瀬工場の食堂で仕事をしていたんやが、残されている六五〇人の女の子を早く帰国させなければならんと思って、富山工場に駆けつけ、会社と話し合ってきたんや。親元からも「早よ帰せ」と、連絡が次々と来るし、それでね、やっと十月に博多から帰国できる目安が立ったんでね。今日は、基鳳にも相談事があって、それで女の子のなかから、奉吉に会いたいという人を募って、三人と一緒に来たんや。泣いてるだけじゃだめでしょ。奉吉のように行動しなくっちゃ。そうでしょ。」
「素早い決断だったな。それで、あんたも引率で行くんですか。」
「はい、妻と基鳳を置いて帰ります。」
「〽アリラン アリラン アラリよ/アリラン峠を越えて行く/青い空には小さな星も多く/我々の胸には夢も多い」と、二題目の歌声とともに、五人は去って行った。

 
【左:1944年の不二越工場 右:1945/8/2富山空襲】

一九四六年三月
 日本によるアジア太平洋諸国への侵略戦争が終わった。朝鮮植民地支配も終わり、在日朝鮮人は、尹奉吉の遺体を探すために、全国から金沢に集結していた。金屋町(現東山)の朝鮮人連盟事務所に集まった若者たちにとって、尹奉吉とは何者なのか、なぜ金沢なのか、ほとんど知る人はなかった。確かに、十三年前の処刑時には新聞で報道されたが、日本語を読めない朝鮮人には何の意味もなかったし、同胞から、それらしきことは聞いていても、十三年という歳月が記憶から消し去っていた。
 ひとしきり、朝連委員長から説明を受けて、各々スコップやツルハシを持って、大型トラックの荷台に犇(ひし)めくように立ち、野田山への出発を待っていた。トラックは、若者たちを振り落とさぬようにと、そろそろと発車し、国道一五六号線を南下し、橋場、武蔵、香林坊、犀川大橋を渡り、広小路を左折して寺町台に入り、野村練兵場の角を右に折れ、長坂村から平栗村に向かった。大乗寺を過ぎると、左手に陸軍墓地があり、その際(きわ)にトラックを横着けにした。
 若者たちはバラバラと飛び降り、陸軍墓地事務所に向かった。木村夫妻は、スコップやツルハシを持った土工たちが、勢いよく上がってくる様子を見て、何事がおきたのかと怯えていた。発掘本部長から、慇懃(いんぎん)に、
「十三年前のことですが、この周辺で尹奉吉が埋葬されているはずですが、どこかご存知ありませんか」と尋ねられても、首を振るだけだった。
 若者たちは、口々に「尹奉吉義士はどこだぁ!」と、朝鮮語で叫びながら、スコップやらツルハシで、あたりじゅうを掘り起こしていた。この騒々しい、若き同胞たちに、尹奉吉は、
「ここだ、ここだ」と答えるが、もちろん尹奉吉の姿は見えず、どこから声がするのかもわからず、あっちを掘り、こっちを掘りしながら、尹奉吉を探していた。
「私の居場所を知っているのは、山本了道さんだ。私が葬られたときに、読経してくださった覚尊院の尼さんだ。早く連れてきてください。」
 この声を聞いた具聖哲(ク・ソンチョル)は飛び出していった。やがて、山本了道を伴って戻ってきた。了道は、跪きながら、
「尹奉吉さま、申し訳ありませんでした。九師団司令部から、近づいてはならないと、きつく言われていて、十三年ものあいだ、一本のお線香も献げることもなく、貴方さまにお会いする機会を逸していました。」
「いやいや、そんなに畏まらなくてもいいですよ。私が三小牛山で気を失い、野田山に連れられてきて、ふと目を覚ましたら、了道さんの読経が聞こえてきて、ああ、ここが私の眠るところなのかと、心が穏やかになりました。事件後に逮捕されて、軍人や警察による扱いはとてもひどくて、どんなにか口惜しい思いをしたことでしょう。それに引き換え、了道さんの優しい読経が、本当に心にしみました。」
「せめて、標(しるし)だけでも立てて、人々に踏まれないようにしなければならなかったのに、このような仕打ちで、貴方さまに、恨まれているのではないかと思い続けてきた十三年でした。そのように言っていただけて、とてもうれしゅうございます。」
 やおら立ち上がった了道は、落ち葉が掃き溜まった通路を指さした。そこは莚(むしろ)が敷かれ、道具が散乱し、休憩場所にしていたところであり、調査隊は大いに驚き、慌てて、落ち葉をかき寄せて、その場を掘り始めると、やがて、尹奉吉の血が染みた刑架が見つかり、さらに掘り進めると朽ちかけた棺が現れてきた。丁寧に土をとり払い、蓋を開けると、そこには尹奉吉が横たわっていた。
 朱鼎均(チュ・ヒョンギュン)が棺に屈み込み、尹奉吉に話しかけた。
「先生、長いあいだ寂しい思いをさせて申し訳ありませんでした。」
「金沢医専に留学して、医学を修めている朱君ですね。」
「はい。これから、みんなで先生を故国に連れていきますからね。金九先生や、愛おしい家族とも再会できますよ。少し手荒な扱いがあるかもしれませんが、がまんしていてください。」
 そこに、写真師の金昌律(キム・チャンユル)がやってきて、棺の中を撮影しようと、三脚を立てた。尹奉吉に焦点を合わせる昌律に、
「写真師のケンを知ってるか。」
「ああ、知ってますとも。処刑されたときの先生の姿を撮った写真師でしょ。」
「一年前に、会いに来てくれたんだが、今日は、顔が見えないですね。」
「厚木飛行場に引っぱられていて、最近やっと帰ってきたようで、本吉町の実家に戻ったんだが、チリーから戻ってきた長兄と折り合いが悪くて、スタジオのうしろに、居室を建てている最中で、連絡はしたんですが、身動きがとれんようです。」
 一九四三年一月二〇日にチリーは日本との国交を断絶し、長兄はすぐに帰国したが、三人の兄弟は帰国のチャンスを逃した。二七日には在チリー日本人のリストを官報(次の市民は指定する場所に強制的に居住すること)に掲載し、兄弟はサンチャゴから一二〇キロも離れたペウモ市の学校もない地区への強制移住措置がとられ、一日二回(九時、十八時)警察への出頭が求められていた。長兄家族は帰国後しばらくは東京にいたが、一九四四年八月、ケン家族が留守中の実家に戻っていた。敗戦後に、徴用を解かれたケンが実家に戻ってきて、写真館を再開しようにも、四人には住むところもなかったのである。
「そうか、戦争のために、兄弟の間にまでひずみが走り、いろんな苦労をしているんですね。」
 朱鼎均は、三月上旬のまだ冷たく、湿った土を、丁寧に丁寧に尹奉吉の遺骨から払い落しながら、ひとつひとつを広げられた呉座の上に並べ、最後に『殉国義士尹奉吉之柩』と描かれた真新しい棺に収められた。同胞たちに抱きかかえられた尹奉吉には言うべき言葉はなかった。
 この大騒ぎを聞きつけて、尹基鳳も野田山に駆けつけてきた。基鳳を見つけた尹奉吉は新しい棺のなかから、
「よお、よく来てくれたね。萬年は来てくれないのか。」
「アポジは、不二越に引っぱられて来た女の子を引率して、昨年末に青陽面に帰ってしまいました。ぼくは、もう少し残っていて、それから帰るつもりです。」
「それはそうと、具仁哲君はどうしているんだ。無事に戻ってきたんか。」
「あの時は、先生の叱咤が相当こたえたようです。しばらく躊躇(ためら)っていたんですがね、頑固一徹な人だから、曲げずに知覧へ向かったものの、うまい具合に、日本の敗戦で、出撃には至らずに、無事に戻ってきたんですよ。」
「そりゃー、よかった。日本のために死ぬなんて、馬鹿げているからな。」
「でもね、帰ってきても、同胞からは、やんやと言われるし、目はうつろになって、近くのお寺にこもりっきりなんです。それで、今日、先生に会いに行こうと言ったんですが、恥ずかしくて顔を合わせられないと言って、…。」
「そんなこと言わずに、来てくれればよかったのに」と、尹奉吉が言いかけ、小窪家の墓地で成りゆきを見守っているトシに向かって、
「トシさんや、今日でお別れですね。みんなと話ができて、この五年間は、長いようで短かったですね。横にいる方はどなたですか。」
「わたしは新聞記者の広戸です。日本の朝鮮植民地支配に抵抗し、上海で日本軍に一泡食らわせた先生を讃え、遺体発掘から帰郷までの記事を準備していたんですが、金沢に駐留する米軍司令部の将校レッチャラーから、記事を差し止められて、憤慨しているんですよ。」
 一九四五年十月二二日に七五〇人の米占領軍が金沢城址の歩兵第七連隊兵舎に到着し、十一月には、そのうちの一部が小松海軍飛行場を接収し、補助レーダー基地として、一九五八年まで使用した(『小松の空』住田正一)。その間に朝鮮戦争(一九五〇~五三年)があり、戦場に送る砲弾の試射場として内灘砂丘が米軍に接収された。このとき、中島ゴンは、朝鮮植民地支配の尖兵として過ごした二〇年を省み、侵略の武器を朝鮮に送るなという在日朝鮮人に連帯して、砂丘地の接収に反対して立ち上がっていた。
「広戸さん、歴史に残る、いい記事を…」と、そこで声がとぎれた。新しい棺の蓋が閉じられ、「マンセー、マンセー」の大合唱と「ウラー」と叫ぶワシリエフらの声に送られ、大型乗用車に乗せられた尹奉吉は野田山を去って行った。
 トシは、戦後にこそ、明るい日差しが注ぐのかと期待したものの、今度は米軍がその悪役を引き継いでいることに、「民主主義という木は人民の血を吸ってしか成長しない」という真理を噛みしめていた。

(続く)

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