アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

小説『野田山日記 甦えれ魂』(第5回)

2024年02月26日 | 落とし文
孝昌公園へ


【朝鮮人特攻兵の刻銘】

二〇〇〇年夏
「こんにちわ。」
「ウゥー、ワン、ワン、ワン。」
「おい、おい、もう十年も来てるんだから、吠えなくてもいいじゃないか。チビ。」
 チビの泣き声を聞きつけた具仁哲が顔を出し、「おお、入れや」と、コウを招き入れ、玄関に入ると、右側に応接室と書斎があり、大量の資料が占領している。
「出羽町公園に大東亜聖戦大碑が建てられたのをご存知だと思いますが、見てこられました。」
「いや、まだ見てないが。」
「刻銘のなかに、朝鮮人の名前が何人かあるんですが」と、写真を見せると、
「あっ、卓庚鉉(タク・キョンヒョン)君じゃないか」と、絶句し、書斎に入り、ガサゴソやっていて、一本のビデオテープをもって戻ってきた。
「これはね、三年前の八月十五日にSBSが放映したものやが、これに鹿児島県の知覧飛行場から特攻隊が出撃したのを特集しているんや。このなかに戦死した十一人の朝鮮人特攻隊員の名前が記録されているんで、帰ってから見てくれんか。その、出羽町公園へ行ってみたいが、今からじゃだめかな。」
「じゃ、行きましょうか」と、仁哲さん運転の軽トラに乗って、ふたりは出かけることにした。
 護国神社の駐車場に入るなり、仁哲さんは「でかいなぁー」といって、運転席から見上げた。碑の前面には、「大東亜/おほみいくさは/万世の/歴史を照らす/かがみなりけり」(大東亜共栄圏を建設するために/天皇が始めた戦争は/千年も万年も続く/日本の将来を照らし出す/お手本である)、「ああ大東亜聖戦は/誇りは高しわが心/誉れを世々に伝ふべし/栄光とはに消ゆるなし」(大東亜共栄圏をめざした/正義の戦争は/気高い誇りが/わたしの心を満たしている/その名誉を世代を越えて/伝えなければならない/聖戦を遂行した栄光は/永遠に消してはならない)と刻まれ、裏面には「八紘爲宇」(世界の隅々まで支配して、天皇を頂点にした一つの国にしよう)と刻まれ、台座には、「賛同者」の名前が刻まれていた。
「卓庚鉉君たちの名前は何処ですか。」
「ここです」と、コウは裏側に回って、台座を指さした。
「卓君はね、第五一振武隊でね、五月十一日に出撃して、そのまま帰ってこなかったんや。わたしは、第一〇四振武隊に所属していて、第一陣は四月十二日に出撃したんやが、わたしは選考から漏れて、生き残ったんやが」と、つぶやきながら、その手は、愛おしげに刻銘をなぞっていた。
 突然、「おい、具仁哲君じゃないか」の声がして、仁哲は、一瞬たじろいで、
「卓君か。」
「そうだ。わたしは朝鮮人として、惨めな死後を過ごしているよ。もう少しで、おまえも、ここに入るところだったな。冷たい、石の塔のなかに。」
「ああ、あの年の春に、家族に別れを告げるために、金沢に帰ったんやが、その時に尹奉吉先生とお会いして、特攻隊として出撃することをたしなめられ、それがわたしの決意を揺るがしてね、銓衡から落ちたんだよ。そのまま戦争が終わるまで、二回目の出撃がなくてね、生き延びたんや。」
「そりゃー、幸運だったな。」
「帰ってきてから、自分の選択が間違っていたことに気付いてね、それで、いろいろ勉強したんや。」
 朝鮮では一九四四年に徴兵制が施行され、解放までに二〇万人も動員された。十月に、学生を対象にして兵役志願の受付をはじめたが、多くの学生はこれを無視したり、行方不明になったり、とくに民族系学校ではほとんど志願しなかった。それで、朝鮮総督府はさまざまな圧力をかけて、志願を強制した。朝鮮、東京などに志願適格者が七千人ほどいたが、志願を拒否する朝鮮人を逮捕したり、脅しまくって、五千人に志願させた。平壌では、二百人の学徒兵による義挙事件が起きて、七〇人以上が逮捕され、最高十二年の懲役刑を受けている。入営後も、中国に派遣されるや、次々と脱走して、中国解放軍に参加し、長沙作戦では、一七〇人も脱走した。
 尹鐘鉉の手記「東京昌平館での崔南善(チェ・ナムソン)氏と李光洙(イ・グヮンス)氏との討論」(姜徳相著『朝鮮人学徒出陣』より孫引き)には、3・1独立宣言を起草した崔南善が東京に来て、留学生を集めて兵役志願を薦めている様子が書かれている。学生達は、<先生(崔南善)、二五年前の挙族的3・1闘争の時、独立宣言文の草案は誰が作成したのですか。先生ではありませんか。どうして忘れてしまったのですか。魂の抜けた人と対話する価値はありません>、<先生たちに民族魂があるのか、ないのかを知りたいだけです。日本に同調することはできないということです。我々の故郷はどうですか。供出、徴用、甚だしくは未婚の女性を挺身隊の美名のもと、前線慰安婦として連行しているではないですか>、<崔先生一行も3・1闘魂を反芻して、血の代価はただちに求めねばならぬと約束してください。そして故郷の父母兄弟を拷問しないよう、有形無形の圧迫をしないよう警告してください>、<志願、逃亡、監獄、この中のひとつを私たちが選ぶことですが、我々の行動指針になりそうな話をしてください。巷間に聞こえる噂は故郷にいる老父母を苛めているようで、これは本当に我慢がなりません。先生方も、小磯朝鮮総督からそそのかされてきたのではないですか>などと反論して、志願を拒否した。
「ああ、どうして私たちに、そんな機会がなかったのかなぁ。そのために、こんな牢獄のような、石碑のなかに閉じ込められて、故郷に帰りたくても帰れないんですよ。」
 ふたりが、手を取り合って泣いている様子を、端から見ていたコウは、
「卓さん、聖戦大碑にたいする批判が方々から起きており、なんとかして、卓さんを閉じ込めている石碑の鍵を開けますから、もう少し待っていてください。」
 大東亜聖戦大碑の建立計画については、一九九八年七月の『北国新聞』で報道された。真宗門徒の中村信さんは、注意喚起のビラを作り、機会あるごとに配布したが、大概は「護国神社の境内に建てられるんやから、手の出しようがない」と傍観していた。時がたち、二〇〇〇年八月四日に完成・除幕の日を迎えた。碑には、天皇制を謳歌・賛美する文言であふれていた。それは虚飾ではなく、天皇制イデオロギーが現実世界を支配していることの反映であった。しかも、朝鮮人特攻兵や水戸市立五軒小学校、ひめゆり学徒隊、鉄血勤皇隊などが無断で刻銘され、さらに、碑は石川県が管理する本多の森公園(出羽町公園)に設置されており、管理責任を追及された県知事は、都市公園法第十六条(みだりに区域を変更してはならない)を踏みにじり、出羽町公園を都市公園から除外することによって、うやむやにしてしまったのである(二〇〇一年十一月)。

二〇一二年初春


【気仙沼】

 長く寒かった冬が終わり、野田山もようやくお彼岸を迎えた。ハナとコウは墓花を片手に、熊手、竹箒を抱えてお墓に到着したが、落ち葉は墓域を覆い、一面茶色く染まっていた。ハナが、
「父ちゃん、母ちゃん、掃除に来たよ」と声をかけ、お墓に花を供えると、少し、華やかになったようで、キヨの声が聞こえてきた。
「長い冬やったな、おまえが来ないと、あいそむない(寂しい)し、ほれ、こんなに落ち葉がたまって、緑の絨毯が隠れてしまったし、南側の法面が崩れて、苔が台無しじゃないか。松の根っこがお墓の下にまで張ってきて、なんか傾(かた)がってきたような気がするなぁ。」
 コウは、黙って、落ち葉を掻き集めはじめたが、なかなかの重労働で、大きなゴミ袋十個がいっぱいになった。掃き終わると、見違えるような緑が現れ、夏に向かえば、その緑は野田山墓地で一番美しくなるだろうと、満足げに眺めていた。
 ハナは、いつもの愚痴かと、やり過ごし、
「母ちゃん、去年、花巻市晴山のお墓参りをしてきたし、近くの横川公園には省三おじさんの記念碑が建っていたし、母ちゃんが先生をしていた須江小学校にも行ってきたよ。」
「地震と津波はどうやった。」
「晴山は海岸から五〇キロも離れた山あいやし、須江小学校は海岸から七キロほどやが、海抜二一メートルあるので、大丈夫やったみたいや。陸前高田市では松一本を残して松原がそっくりなくなっていたし、気仙沼じゃ大きな漁船が陸にあがって、まわりの民家は流されて土台だけが残っていて、見てられなかったよ。大船渡の碁石海岸の近くで宿をとったけど、ほとんどの部屋が被災者で埋まっていたわ。福島原発の事故から、まだ半年やし、福島の方へは行かなかったわ。」
「そうか、関東大震災みたいやな。十三歳のときやったな。その時もたくさんの人が亡くなったし、朝鮮人もたくさん殺されたそうや。」
「それからね、母ちゃんが作った飾糸縫いを持って、仙台の朴沢松操学校にも行ってきたよ。先生がね、八〇年も前の生徒が作った作品に、ものすごく感動しててね、学校の宝物にしたいと言っていたわよ。」
「わたしが卒業したのが昭和四年(一九二九年)で、不況から戦争に向かう時代でね、それなりにがんばっていたんだよ。わたしが一番美しいときだったかな。」
「いつだったか、吉野せいの『洟をたらした神』を渡したら、その時泣いていたのは、そのころを思い出していたんですね」という、コウに、
「あんな苦労は、わたしだけで十分だったのに、ハナがあんたと一緒になるって言うから」と、そのあとは言葉にならなかった。
 ひと仕事終えたコウは、長年気になっていることをトシに尋ねてみることにした。
「お義父さん、小窪家のお墓がどうしてこんなに広いんですか。」
「祖父の利兵衛は瓦や石材関係の仕事をしていて、寺町桜畠には四、五軒の家を持ち、鶴来には山林を持っていて、とても羽振りがよかったんや。一八九五年の県税中商業税分賦等級別交名簿を見ると、金沢市の戸数は二万六三九戸で、納税者は四分の一の五三三〇人で、利兵衛は上位から一七一番目にリストされていたんや。だから、野田山墓地の一等地ともいえる新墓地丙のこの地に、百平方メートルもの墓地を確保できたんや。」
「でも、今は宅地も山林もなく、墓地だけになったのはなぜですか。」
「一九〇九年、父徳三郎が四四歳のときに、二つ目のお墓を建てているんで、この時点ではまだ没落してなくて、一九一六年の北陸商工業名鑑には徳三郎の名前が出てこないから、それまでに没落したんやろう。本多家の保証人になっていたという話も聞いとるが、今となってはよくわからんな。」
「利兵衛さんはどうして、一八九五年に息子・徳三郎名のお墓を建て、十四年後の一九〇九年に利兵衛名のお墓を建てたんやろうね。もしかして、二つ目のお墓には遺骨ではなく、差し押さえ逃れのための金銀財宝でも隠されているんじゃないかな。」
「確かに、二つ目のお墓にはお骨を納める入口がついとらんのや。コウ君や、探してみたらどうや。」
 ふたりは、笑い転げていた。
「お義父さん、七月には、韓国に帰った尹奉吉先生に会いに行く予定なんで、具仁哲さんにも知らせに行ってきます。」
「そうか、奉吉さんによろしく伝えてくれよな。」

二〇一二年七月
 上海爆弾事件から八〇年が過ぎた。二〇一二年七月、コウとハナは亡きケンとトシの思いを背負って、尹奉吉に会うために、小松から韓国に向かう旅客機のなかにいた。旅客機は日本海(東海)を西に向かい、航路上にある独島をわざわざ迂回し、朝鮮半島を横断して、仁川空港に着陸した。バス停で清凉里(チョンニャンニ)行きのバスを見つけ、乗車口で、運転士に、「イルボンサラム。ハングル ノー。チョンノサーガ」と告げて、乗車した。コウは、ここ十年ほど、不二越強制連行訴訟の準備のために、繰り返し韓国を訪問しており、案内人がいなくても、ひとりバスに乗って、目的地に行くことぐらいはできるようになっていた。
 ふたりは鐘路三街(チョンノサーガ)でバスを降り、タプコル公園の前にさしかかると、ハナに「ここが3・1独立運動の発祥の地だよ」と説明しながら通り過ぎて、YMCAホテルにチェックインした。簡単な昼食をとり、街に出てタクシーを拾い、「ヒョチャン コンウォン。ユンボンギル イサ」と告げて、乗り込んだ。運転手はたどたどしい朝鮮語を理解したようで、すぐに目的地に向かった。
 孝昌(ヒョチャン)公園に到着し、尹奉吉の墓標の前で、コウは呼びかけた。
「尹奉吉先生、ケンの息子とトシの娘が来ましたので、お声を聞かせてください。」
「なんだ、日本語じゃないか。久しぶりに聞くなぁ。トシやケンと話したとき以来だから、六〇年ぶりかな。上海虹口公園の検問を通るときはな、日本語がペラペラだったから、簡単に入れたのさ。でも、その時のドキドキは今でも忘れないさ。ところで、誰だって。」
「ケンの息子とトシの娘と言ったでしょ。」
「おお! そうか。トシさんとキヨさんはどうしていますか。」
「ふたりとも亡くなりました。父は尹奉吉さんは故郷へ帰ってしまったし、話をする相手がいなくなって、寂しいと言っていました。韓国へ行く機会があったら、先生に会って来いよと言われていました。」
「そうですか、そんなに言っていただくとうれしいかぎりですね。」
「ケンさんも、もう亡くなっているんでしょうね。」
「はい。二〇年前に、八八歳で亡くなりました。今は、日本海の波の音と松林のざわめきを聞きながら、ヨシと一緒に死者の人生を満喫しているようです。今日来たのはね、『上海爆弾事件後の尹奉吉』という小冊子を作ったので、梅軒尹奉吉義士記念館にお届けするためなんです。」
「ほう、どんな本ですか。」
「こんな冊子です。全体で一五〇ページほどありますが、三分の二は資料の復刻です。」と言って、カバンからとり出して見せた。
「じゃあ、それは、記念館に所蔵された後にでも、ゆっくりと見せていただくことにしましょう。ところで、日本を離れて、六〇年以上たちますが、野田山はどんな様子ですか。」
「ずいぶん変わりましたよ。先生が帰国された後の在日朝鮮人は、生活に追われて、野田山のことを気にかけている余裕もなかったようです。でもね、具仁哲さんは、金昌律さんが写した写真を大事に保管していて、一九八七年にそれを公開したんです。そしたら、それが尹南儀(ユン・ナミ)さんに伝わって、一九八八年に野田山まで来られたんですよ。」
「それは、弟から聞いているな。」
「それから、仁哲さんはいろんなところに働きかけました。大学の先生、学生、それに真宗僧侶や門徒たちも、先生のことを記憶にとどめるために、たいへんな努力をしていました。」
「あら、西崎さんを忘れないでよ。西崎さんは中国から帰還してきて、戦争なんてまっぴらと言って、暗葬碑設置にも、大型トラックをだして、あの大きな碑石をのせてきてくれたじゃありませんか。それに、印刷屋の小森さんもいたしね。」
「ほお、いろんな人がいたんですね。それで、宗教者って、暁烏敏の弟子たちのことですか。」
「イヤ、むしろ、暁烏とは真逆で、新興仏教青年同盟の流れですね、自坊の境内に『兵戈無用』という碑を建てたり、小学校に隣接した土地を買い取って、『九条平和の碑』を建てたりして、不戦を誓う宗教者たちです。そんな仲間が、朝鮮人も日本人も、たくさん集まってきて、話がトントン拍子に大きくなって、暗葬地を保存しようという運動が盛り上がって、九二年に殉国碑と暗葬碑が建てられました。」
「ずいぶんと、変わったなぁ。あの時の仁哲くんは、私の剣幕におされてか、意気消沈していましたが、よく頑張ってくれたんですね。」
「でもね、暗葬の碑を守り続けてきた仁哲さんも、三年前に亡くなって、今は、甥の具賢沢(ク・ヒョンテク)さんがその役を引き継いでいます。私はハナと一緒に暮らすようになって、時々野田山のお墓に行くんですが」と、話すコウを遮って、
「あの小窪家の墓地ですか。よく、あそこで、トシやケンと話したなぁ。」
「それで、近くにある仁哲さんのお墓にもお参りするんですが、そのたびに『尹奉吉先生が韓国に帰ってしまい、遂に、話す機会がなかった』と、悔しがっていますよ。」
「何を話したかったのかなぁ。特攻隊のことなんだろうなぁ。」
「そうだと思います。二〇〇〇年に、出羽町公園に大東亜聖戦大碑という大きな記念碑が建てられてね、もちろん、先の戦争を賛美する碑なんですが、その碑の一部に、八人の朝鮮人の名前が刻まれていてね、それを仁哲さんに調べてもらったんですよ。そのうち七人の名前が知覧特攻平和会館に記録されていて、朝鮮人特攻隊員として出撃して、沖縄方面で戦死していることを突き止めたんです。彼らは十七歳から二五歳の青年でした。仁哲さん自身は第一〇四振武隊に所属していて、この部隊の出撃が四月十二日だったんですが、銓衡から外れたようで、行かずにすんだんですが、仁哲さんは複雑な気持ちだったんでしょうね。もしも選ばれて、戦死していたら、自分の名前も聖戦大碑に刻まれるところだったんですからね。先生が揺さぶってくれなかったらと思うと、ゾッとしていたんじゃないでしょうか。」
「その八人って、どんな人なんですか。」
「聞かれると思って、仁哲さんからお聞きしたメモを持ってきました。八人のうち、崔貞根さんは飛行第六六戦隊で、四月二日に徳之島飛行場から出撃して、アメリカの巡洋艦に突入して二五歳で戦死しました。卓庚鉉さんは五月十一日に知覧から出撃して、二四歳で戦死しました。金尚弼さんは四月三日に新田原から出撃して、二五歳で戦死しました。朴東薫さんは三月二九に嘉手納から九七式戦闘機で出撃して、十七歳で戦死しました。李允範さんは知覧から出撃して、フィリピン方面で戦死しました。二三歳でした。李賢載さん五月二七日に出撃して、十八歳で戦死しました。韓鼎実さんは六月六日に出撃して、二〇歳で戦死しました。もう一人の都鳳龍さんはわからなかったそうです。みんな、先生よりも若いですね。」
「日本という国は残酷だなぁ。植民地にして、二進も三進も行かないようにして、徴兵し、特攻機に乗せて、身体をハンドルに縛り付けて、戦死したら聖戦大碑に名前を刻んで、同胞を二度三度踏みにじっても平気なんだからね。」
 コウにもハナにも、返す言葉はなく、しばらく沈黙が続いたあと、話題を変えて、
「ながいあいだ処刑地が三小牛山の『南東の高台』と信じられていたんですが、二〇〇八年にSBS放送が処刑地調査をおこなって、『西北の谷間』という結論を出したんで、私たちも再調査をしようと相談していた矢先に、仁哲さんが亡くなってね。その翌年仕方なしに、数人で処刑地調査チームを作って、公文書や当時の地図を集めて、三小牛山をくまなく歩きました。その結果処刑地は『西北の谷間』であると確信が持てて、みんなで、お花やお酒を持ち寄って、お参りしてきました。」
「そうですか、わたしの足跡が少しづつ明らかになってきているんですね。」
「ところがね、それまでは、処刑地に自由に入ることができたのに、自衛隊が金網で囲って、もう出入りができなくなりました。他にも、困ったことに、五、六年前にね、殉国碑の建立は違法だから撤去せよと主張する連中が現れたり、今年に入っても、殉国碑の前に嫌がらせの棒杭を立てたり、説明板に石を投げて傷をつけたりね。」
「どんな連中なんですか」と、尹奉吉は腹立たしげに聞き返すと、
「歴史認識の欠片(かけら)もない、極右の連中ですよ。まあ、誰も動じませんがね」と、吐き捨てるように答えた。
 NA某とKA某は、二〇〇六年四月二四日付の「職員措置請求書」で以下のように主張している。①殉国碑が規定より高い、②人倫に反する行為を慫慂している、③墓地なのに骨が納められていない、④金沢在住ではなく、許可を受ける資格がないと。
 右の四点を検討すると、①隣接する戦没者墓苑には殉国碑以上に高い記念碑が建てられ、②戦没者墓苑の墓碑はアジア人民を多数殺戮した人々を祀っており、③暗葬地には、回収出来なかった尹奉吉の遺骨が眠っており、④尹奉吉は金沢の地で生を終えており、いずれも筋違いの難癖である。
 NA・KAの措置請求にたいして、金沢市監査委員会は「本請求は、違法・不当な財務会計上の行為の防止・是正を目的とする住民監査請求の要件を欠く監査請求である」として、内容には踏み込まずに、五月二五日に却下した。
 それから十五年後、二〇二一年にもNI某は、尹奉吉顕彰碑には遺骨が埋葬されておらず、墳墓ではないので、墓地使用を取り消せと、蒸し返している。日本では、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視しており、遺体を埋める「埋め墓(葬地)」とは別に、集落の近くに「参り墓(祭地)」を建て、祭祀するという「両墓制」をとる地域もあり、NIの主張はあたらない。
 たとえば、野田山山頂近くに加賀藩初代藩主・前田利家(一五九九年没)の墓があり、そのふもとの桃雲寺(野田町)には、「高徳院殿贈従一位行亜相桃雲見公大居士(利家の戒名)」と刻まれている五輪塔がある。利家の夫人芳春院が山頂まで登るのが困難なため、桃雲寺に参り墓として建てられたようだ。
「ところで、不二越に連れてこられて、その後帰国した女の子たちはどうしていますか。あの時は、野田山まで会いに来てくれてね、ホントに嬉しかったよ。」
「帰国直前に先生を訪問した三人のことですね。裁判準備のために、話を聞いたんですが、泣きの涙ですよ。まず私が泣き、通訳が泣き、本人が泣いて、もう、その時はおしまいでした。不二越でのことは予想していたんですが、帰国してからのことに衝撃を受けました。」
 怪訝な声で、尹奉吉は「なんで。帰国すれば問題ないじゃないですか。」
「それがね、アジア各地に派兵された日本軍兵士のための性奴隷として、朝鮮人女性を動員していたことはご存知でしょ。それを『挺身隊』と呼んで動員していたんで、勤労挺身隊も慰安婦も一緒という風評が立っていて、そのために、彼女らが帰国しても、不二越に動員されたことを一切口外できず、結婚後、不二越に動員されたことが知られると、離婚や別居を強いられていたんですよ。植民地時代に日本が蒔いた種が、解放後に芽を出して、彼女たちを苦しめ続けていたなんて、考えもしませんでした。」
 韓国の辞書で、「挺身隊」を調べてみると、「太平洋戦争時日本軍の慰安婦として強制従軍した女性たち」(ニューエース国語辞典)、「太平洋戦争時日本帝国主義軍隊の従軍慰安婦として引っ張られた女性たち」(標準国語大辞典)などと記載されている。
「そりゃあ、わたしも気付かなんだな。それで裁判はどうなりました。」
「一九九一年と二〇〇三年に富山地裁に提訴して、四年後の富山地裁判決では、日韓請求権協定で解決済みといって、国と不二越の責任を認めなかったんです。二〇一一年には最高裁の決定が出されて、終わり。おばあさんたちは悔しさと怒りで爆発していました。」
二〇〇七年九月十九日の富山地方裁判所の判決は「強制連行、強制労働ではなかった」という国と不二越の主張を退け、低年齢児童の勧誘、公務員(国)による勧誘、欺岡(だまし)による勧誘、賃金未払い、保護者を無視した連行、脅迫による勧誘、監禁・虐待、児童労働、強制徴用など、強制連行・強制労働の事実についてはおおむね認めたが、「日韓請求権協定」で日本の責任はなくなったとして、原告の請求を棄却し、日本による侵略戦争と植民地支配という戦争犯罪を全面的に居直った。
 具体的にいくつかの点を見ると、①低年齢児童の勧誘は欺罔または脅迫によると認定しながら、「ILO二九号条約」に違反した行為として認定せず、とりわけ「児童に対する強制労働」であったことをあいまいにした。②苛酷な労働、粗末な食事、外出・通信の制限、衛生環境の劣悪さ、賃金の未払いについては認定されたが、その結果として労災、病気が多発し、逃亡者、死者まで出ていたことが認定されていない。③空襲や帰国時に原告たちが死の危険にさらされていたことを認定せず、不二越と国が安全配慮義務違反に問われているにもかかわらず、まったく問題にもしていない。八・二富山大空襲では市街地のほとんどが焼失し、原告たちが生き残ったのは奇跡的な偶然によるとしか考えられない。また、一九四五年七月の戦争真っ只中に、沙里院へ工場を疎開させるために、機械や少女たちを乗せた船を、日本海を横切って清津港へ向かわせ、米軍の攻撃で六隻のうち三隻まで沈没させられた。これこそ本当に九死に一生を得た偶然としか考えられない。国と不二越が原告たちをこれほど危険にさらしてまで、軍需工場で働かせた責任を問わない事実認定とは一体何なのか。④皇民化教育については一言触れられているが、その根本原因である朝鮮への植民地支配、民族差別などについて全く書かれず、むしろ儒教の影響にすり替えている嫌いがあり、この裁判の本質である日本の侵略戦争のなかで引き起こされた歴史的事件であるという事実があいまいにされている。⑤強制徴用された唯一の男性原告については、「国家総動員法及び国民徴用令に基づく徴用令書」により、「法的義務を課され」「やむを得ず徴用に応じ」「同原告が望んだものではない」から、「強制された連行であり、労働であった」と、強制連行・強制労働の事実を認めたが、しかし裁判官は「当時の法令に基づいてなされたもの」として、国にも不二越にも責任がないと、法的責任については否定した。
 ふたりの会話を聞いていたハナが、怒ったように口を尖らせて、
「裁判では争点にならなかったけど、姜徳景さんの辛い人生のことも知ってほしいわ。」
「不二越から逃げ出した徳景さんのことですか。」
「そうよ。一九四四年五月、十五歳のときに四五〇人の朝鮮女子勤労挺身隊のひとりとして、釜山から博多を経由して、不二越に連行されて来たんですが、重労働と空腹に耐えられず、鉄条網のすき間から逃げ出し、工場周辺に住む朝鮮人の家をめざしたんですが、道に迷って、憲兵に捕まってしまったんです。彼らにレイプされたあと、大本営と仮皇居の地下壕をつくっていた長野県松代まで連行されて、来る日も来る日も軍人の相手をさせられたと話しています。戦後、乳児を抱えて帰国しても、日本軍への協力者として、周辺はもちろん家族からも受け入れられず、釜山に出て働きながら、幼子を育てていたのに、その子も四歳のときに肺炎で亡くなってね。徳景さんはだれとも共有できない心の闇を抱えながら、ひとりで生き、一九九二年六二歳のときにナヌム(分かち合い)の家で生活を始めたが、六八歳で亡くなりました。なんと悲しい人生じゃないですか。不二越訴訟の打合せのすき間を見つけて、ナヌムの家を訪問しても、かける言葉も見つからず、ただ横に座り、徳景さんのことを想っていました。」
 徳景さんが連行されていった松代では、一九四五年三月から「松代倉庫新設工事」と呼ばれた仮皇居の建設が始まっていた。西松組と鹿島組が請け負い、七〇〇〇人の朝鮮人労働者が従事させられていた。米軍の上陸に備えて、天皇の松代移動を七月十五日と決め、突貫工事が進められた。朝鮮人労働者のなかでは、工事完成後には機密保持のために、全員殺されるのではないかという不安が広がっていた。過酷な工事で、事故死・病死が相次ぎ、全体の一割にも達する六五〇人が不本意な死を強いられたという証言もある。工事開始から半年にも満たない間でのことである。帰国は八月二二日に始まり、十月中旬まで数次にわたったと言われている。
「なんということか。私たちが『兎と狐』を演じて、朝鮮人の団結を呼びかけ、植民地支配に抵抗しようと訴えていたのに、同胞たちが、最も過酷な人生を強いられた女性たちを労(ねぎら)いもせずに、差別するなんて、」
「奉吉さん、その原因を作ったのは日本ですから、日本を責めるべきだと思います。」
「ああ、私の決断とたたかいは、なんだったんだろうか。」
「そりゃぁ、違いますよ。八・一五に朝鮮人が自由になった途端に、数十人の在日朝鮮人が野田山に駆けつけてきたじゃないですか。朝鮮人は、心のなかに先生の魂を抱きながら耐えていたんじゃないですか。釜山で、あの歓声をお聞きになったでしょ。」
「コウさんは、ここ十年、度々こっちに来ていながら、私には一度も会いに来てくれなかったんですね」との、不満げな尹奉吉に、
「はい、不慣れな土地で、言葉も通じないし、裁判の準備でぎっしり予定が埋まっていて、行きたいところがいろいろあったんですが、ほとんど、おばあさんたちとの打合せに時間を使っていました。」


【チョンテイルの像の前で】

 ハナが横槍を入れて、
「そうでもないでしょ。ふたりでソウル清渓川の川縁(べり)を、東大門市場まで歩いたわね。若者たちが全泰壱(チョン・テイル)像の前で激しく歌ってたわ。光州の李金珠(イ・クムジュ)さんに会ったあと、『五・一八記念公園』へ行ったわね。民主化を求めて、亡くなったたくさんの学生が眠っていたわ。『ナヌムの家』にもたびたび訪問してたじゃない。それに、春川(チュンチョン)遺族会を訪問した帰りに、南怡島(ナミソム)に立ち寄って、メタセコイアの並木道を歩いて、ペ・ヨンジュンとチェ・ジウの気分も味わってきたし、朴賢緒(パク・ヒュンソ)さんの車で江華島(カンファド)の支石墓遺跡にも連れていってもらったじゃない。いろいろうまい目にも遭ってんですよ。」
「そうやな、西大門刑務所へも行ったな。過酷な植民地支配が再現されていてね、目も開けられませんでした。大きなポプラの木があってね、独立に命を賭けた朝鮮人が、ポプラの木を見上げて、慟哭(どうこく)しながら死刑場に引かれていったそうです。処刑された遺体は、屍躯門(シグモン)から運び出され、遺族に渡されることもなく、裏山の共同墓地に葬られたそうですが、奉吉さんと同じ差別的扱いですね。そういえば、野田山の陸軍墓地管理事務所の際にも、大きなイチョウの木がありましたね。」
「ああ、覚えていますよ。秋になると、大粒のギンナンがたわわに実っていましたね。」
「私たちも、秋にはお墓掃除に野田山へ行くんですが、イチョウの木を見上げながら、ギンナンが奉吉さんの涙のようだと、想像をふくらませながら、拾っていました。でもね、奉吉さんも故郷に帰り、涙も涸れ果てたのか、ギンナンの実も小さくなってきましたね。」
「そうですか。こっちに来てからは、たくさんの同胞が来てくれるんで、泣いてる暇なんかありませんよ。」
 ちょっと暗くなりかけた会話を、ハナの明るいトーンで、
「それにね、おいしいものいっぱい食べているしね。」
「どんなもの。」
「まあ、私たちはいつも、地下鉄鐘路五街駅近くの韓国教会百周年会館に泊まるんです。そこはとても安くしてくれて、原告のおばあさんたちと一緒に泊まって、裁判の打合せをしてるんです。弁護士には近くのリース・ホテルに泊まってもらうんですが、そのホテルの前に老夫婦がやっている小さなメシ屋があって、そこのスンドゥブチゲ(純豆腐チゲ)が本当においしいんですよ。使い古して、でこぼこした小さなアルミ鍋に一人前づつ入っているんですよ。」
「朝食はいつもそこだったな。それにね、韓国の食事は、朝も昼も夜も、辛いものばっかでしょ、四、五日過ごすと、もう、イヤッという感じでね、そんなとき鐘路五街駅近くにおかゆ屋さんがあって、そこで熱々のおかゆを食べるのが最高なんです。」
「そんなに辛いんかなぁ。」
「いちばん辛かったのはね、新門路(シンムンノ)にある真相究明委員会を訪問したときで、その地下食堂で食べたタコ料理チュクミだったね。これこそ、口からも目からも火が吹き出すような辛さだったなァ。」
「あぁ、チュクミは半端じゃないからな。」
 コウは話を戻して、「まあ、それはそうと、一生懸命ネジを巻いても、巻いても、立ちはだかる壁が厚くて、なかなか前に進まなくてね、みんなの期待にこたえられなくて、申し訳なくて。」
「ところで、おふたりは、このあとはどうなさいますか」と、私たちの旅の疲れを気遣ってくれた尹奉吉を無視して、ハナは、
「だいぶ前ですが、暗葬地を訪れていた尹南儀さんとお会いしたんですよ。そのとき、三人で写した写真が、これ。私たちの宝物よ」と、得意気に言って、財布から写真を取りだして見せた。
「いやー、南儀はじいさんになっちまったなぁ。」
 うれしそうな声を聞いて、ふたりは尹奉吉に別れを告げ、YMCAホテルで一休みし、地図を片手に、仁寺洞(インサドン)の町並みを楽しみながら、日本大使館に向かった。ところが、近づくにつれ、警察官の数がどんどん増え、「少女像」の周りは警察官で埋め尽くされていた。三週間前に、日本の極右が「少女像」に嫌がらせの棒杭を縛り付けたという事件があり、警戒が厳しく、ふたりはその場を離れることにした。
       
(おわり)

『野田山日記 甦えれ魂』を粗末な文庫版92頁の紙媒体にしました。送料とも300円を下記口座に振り込んでいただければ、送ります。(残部僅少)
口座番号:00710-3-84795 口座名:アジアと小松


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小説『野田山日記 甦えれ魂... | トップ | 20240226 もしも原発事故な... »
最新の画像もっと見る

落とし文」カテゴリの最新記事