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小松基地問題研究会

尹奉吉義士亡命の動機は―治安維持法か?[再修正版]

2017年08月30日 | 尹奉吉義士
尹奉吉義士亡命の動機は?

「勅令」で治安維持法
 治安維持法は1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行された。同時に「勅令」で朝鮮、台湾、樺太で施行された。水野直樹さんの論文「治安維持法の制定と植民地朝鮮」によれば、1ヶ月後の6月13日、朝鮮総督府高等法院検事長は各検事局検事正あてに「治安維持法ノ適用ニ関スル件」を通牒した。
 「朝鮮ヲ独立セシムルコトヲ目的トシ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シ或ハ其ノ目的事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シ又ハ其ノ実行ヲ煽動シタル者等ニ対シテハ治安維持法ヲ適用スヘキモノト解釈候條此ノ趣旨ニ依リ取扱本日成度此ノ段及通諜候也。追テ支庁検事及検事々務取扱ニ対シテハ所轄検事正ヨリ本文ノ趣旨移牒相成度申添候」
 こうして治安維持法が朝鮮に適用され、朝鮮独立運動をターゲットにして、過酷な弾圧が始まったのである。

マスコミの反応
 同論文では、治安維持法制定にたいする朝鮮人の反応について報告している。
 『東亜日報』(5/13)社説「治安維持法実施について――波及する影響如何」では、まず取り締まりを行なうにはこれまでの制令第7号で十分であり、治安維持法によって思想・知識の研究が抑圧されるのは文化発展を阻害するとし、社会の病的現象を解決せずに社会運動を抑圧するのはかえって過激運動を煽動するものであると批判し、法の適用と解釈が「低級俗吏」によって行われないよう望む、と付け加えている。
 『時代日報』(5/13)社説「治安維持法施行について」で、制令と同じように解釈・適用の範囲が広汎にわたる恐れがあり、「国体」など曖昧な概念が用いられていることを鋭く批判した上で、制令と合わせて朝鮮の未来を二重三重に拘束するものと論じて、その撤廃を主張した。『朝鮮日報』も2回にわたって社説を掲載したが、その論旨は上の両紙と同じである。
 また、治安維持法は普通選挙の実施に伴う無産階級の政治運動への対応策であって、普選が実施されていない朝鮮に治安維持法のみを施行するのは「差別的取扱ニシテ矛盾モ亦甚シ」と批判する者などの声が紹介されている。

治安維持法の暴威
 同じく水野論文「日本の朝鮮支配と治安維持法」では、朝鮮半島における治安維持法弾圧の苛酷さを報告している。1925年11月末には朝鮮共産党事件で検挙が始まり、翌年までに3人が獄死(保釈後病死)している。日本での最初の適用は1926年1月の京都学連事件だから、朝鮮での適用の方が早かったのである。
 1928年に治安維持法が改正され、「国体変革」の罪に死刑を加えた。朝鮮での「国体変革」とは朝鮮独立運動を含んでいる。水野論文「治安維持法による死刑判決―朝鮮における弾圧の実態」によれば、1926年から45年までに、少なくとも48人に死刑判決(治安維持法+刑法)が出され、処刑されている。【2018年8月20日注:ETV特集「治安維持法―検挙者10万人」では、朝鮮での治安維持法による死刑は59人】尹奉吉が亡命する直前までに10人が処刑されており、李黒龍(後述)から治安維持法に関する情報を得ていたであろう。
 このように、朝鮮では治安維持法がらみで多数の死刑判決、処刑が強行されていたが、日本では1人の死刑判決も出されなかったのである。また、1928年から38年までの治安維持法違反で無期懲役を言い渡された者は日本ではわずか1人だったが、朝鮮では39人、懲役15年以上の刑については、日本では7人なのに、朝鮮では48人であった、と指摘している。

1927年新韓会結成
 1925年11月、治安維持法が朝鮮共産党に適用され、「民族資本の情操を代表する右派勢力は一層対日妥協」(『評伝尹奉吉』)へと向かったが、1926年には左派は第2次朝鮮共産党を組織し、右派勢力中の非妥協派やキリスト教勢力との間で同盟関係を結ぶことになった。6月10日に「独立万歳運動」をたたかったが、期待したほどの効果がなく、民族共同戦線結成の気運が強まり、1927年2月新幹会が創立された。
 新幹会は①農民教育、②耕作権の確保、③朝鮮人本位の教育、④言論、集会、結社の自由、⑤協同組合運動、⑥白衣と網巾の禁止を掲げた。同年11月には新幹会禮山支部が設立され、尹奉吉らに大きな刺激を与えた。
 しかし、合法団体である新韓会も治安維持法の対象にされ、新韓会鉄山支会(京畿道光明市鉄山洞)結成の文書に「民族的力量を総合して2重3重に縛したる苛酷なる鉄鎖を2000万人の握り拳を以て粉砕する」と書かれていた点に、「国体変革」条項を適用して、1930年7月には朝鮮総督府高等法務院の有罪判決が出されている。
 判決文「朝鮮ノ独立ヲ達成セムトスルハ我帝国領土ノ一部ヲ僣窃シテ其ノ統治権ノ内容ヲ実質的ニ縮小シ之ヲ侵害セムトスルニ外ナラサレハ即チ治安維持法ニ所謂国体ノ変革ヲ企図スルモノト解スルヲ妥当トス」(新幹会鉄山支部設置にたいする治安維持法違反事件)

李黒龍との出会い
 新幹会のような農村啓蒙運動でさえも、監視・弾圧の対象となり、朝鮮人民にとっては、息もできない状況に置かれていたなかで、1927年3月、尹奉吉らは木渓農民会を組織し、5つの実践目標を立てた。①増産運動、②共同の購買組合結成、③国産愛用運動、④副業の奨励、⑤生活環境の改善である。土地の無償提供を受け、カンパを募って、復興院を建設し、学習と交流の場を確保した。
 尹奉吉らの活動を聞きつけて、時兆社記者を名乗る李黒龍(イフンニョン)が尹奉吉を尋ねてきた。李黒龍は大韓独立軍(金佐鎮将軍)のオルグであり、会合を重ねる毎に尹奉吉の朝鮮独立への気持ちが昂まっていった。
 1929年2月28日、復興院の完成を記念して、学芸会を催し、「兎と狐」を上演した。翌日、尹奉吉は徳山警察署に呼び出され取り調べを受けた。
 まず、上演された「兎と狐」とはどんな寓話なのかを確認しておこう。『評伝尹奉吉』(金学俊著)では、「狡獪な狐が軟弱な兎と亀のエサを横取りする」物語と書かれているが、イソップ寓話を調べてみると、「ずるい狐」という寓話がある。
 「2匹の猫が食べ物の取り合いをしている。そこへ狐が現れ、その食べ物を2つに分け、公平に分けようとする。しかし、片方が大きいことに気付き大きい方を少し食べる。すると反対が大きくなる。再び大きい方を食べる。それを繰り返し、しまいには全部を狐が食べてしまう」という寓話である。

亡命の道を決断
 尹奉吉らは2匹の猫を兎と亀に変え、食べ物を狐に奪われるという寓話に書き替えた。無益な争いは第三者の私腹を肥やすという教訓であり、朝鮮人は互いに争わず、民族主義者も共産主義者も共同して日帝とたたかうことを、言外に訴えている。
 警察の監視と弾圧にもめげず、4月23日、22歳の尹奉吉は農村啓蒙運動のために、月進会(ウオルジンフェ)を組織した。①農家の副業の奨励、②山林、果樹栽培、③農民の教養向上のための学術討論会や学芸会の目標を立てた。
 すでに、合法的な団体である新幹会にも弾圧の手が伸びており、月進会を結成した尹奉吉らも厳しい監視の下に置かれ、自由ではなかった。1年後の1930年3月亡命の道を決断するのであるが、妻の裵用順は当時の尹奉吉について、「農村活動を通じ、もうこれ以上大きな志を繰り広げるのが難しくなったと考え、重い荷を背負って上海に向かったのでしょう」と話している。
 ところで、「兎と狐」上演後、尹奉吉は警察への出頭を命じられたのだが、その直接的な容疑は何だったのだろうか? 基本情報が少なく断定はできないが、「兎と狐」上演に治安維持法違反容疑がかけられたのではないだろうか?
 
 
参考文献:
 水野直樹論文①「治安維持法の制定と植民地朝鮮」(2000年)、②「日本の朝鮮支配と治安維持法」(1987年『朝鮮の近代史と日本』)、③「治安維持法による死刑判決―朝鮮における弾圧の実態」(2014年「治安維持法と現代」)、金学俊著『評伝尹奉吉―その思想と足跡』(2010年)


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