
20231008 芝豪「内灘の砂丘」(2014年『朝鮮戦争』下)読書メモ
以前から表記の本は気にかっていたのだが、金沢市立「みらい図書館」に蔵書されていることを知り、借りてきて読んだ。上下巻あわせて1200頁にも及ぶ文庫本だが、「第11章 内灘の砂丘」(82頁)だけを読んだ。
著者は1944年生まれで、金沢大学で4年間を過ごし、元三重県職員で、現在は桑名市に住んでいる79歳である、ということしか分からない。
読書メモ
物語のなかの主人公は蕗原(ふきはら)謙二、軍隊(大尉)経験があり、河北潟対岸の津幡町で鶏と乳牛を飼っている酪農家と設定されている。
1953年3月18日の試射の砲声に反応し、牛の乳の出が悪くなるのではないか、鶏は卵を産まなくなるのではないかと、心配することから始まる。
物語は遡って、1952年内灘砂丘地接収の初期段階から始まり、たたかいが終結する1953年10月までを、暦のように描いていく。あまり文学的思考はなく、その合間合間に知り得た情報に想像力を掛け合わせてちりばめてあり、まあ、ドキュメンタリーの素案のような作品である。
私にとって、これまでに知り得なかったこともあり、そこら辺を拾い集めて、読書メモとしよう。
軍需産業
小松製作所で働いている元戦友からの情報で、「事の起こりは朝鮮戦争です。米軍は武器弾薬を日本のかつての武器製造メーカーに求めたのです。どこのメーカーも青息吐息でしたから、天佑だ、天恵だと喜んで手を挙げ、一斉に造り出したのです。日本経済のためだというのが錦の御旗ですね」、「砲弾製造の主力は枚方工場ですがね、…そこでがんがん造っています」(519頁)という。
蕗原が「朝鮮戦争は終わりに近づいている。…そうなると砲弾はいらなくなるぜ」と聞き返すと、戦友は「米軍が朝鮮戦争で使わなくても砲弾はいります。日本の保安隊がね」、つづけて「内灘が頑強に反対したから、試射ができなかった。…納品ができないと、金が入らない。.昨年9月に1億5000万円の融資を受けて、なんとか持ちこたえていますがね」(521頁)と答えている。
林屋亀次郎
林屋亀次郎が初入閣したのは内灘砂丘地接収問題が表面化する直前の1952年10月30日である。吉田首相は金沢出身の林屋を無任所国務大臣に据えた(522頁)。11月25日に内灘砂丘地接収を閣議決定するや、林屋は石川県知事に一時使用を申し入れ、翌々日の27日、金沢駅に降り立った林屋は1500人の民衆と赤旗やむしろ旗に囲まれた(529頁)。そして4万2000筆の反対署名と青年団の血書が渡された。
林屋の役割は火中の栗を拾うことであり、大清台公園の銅像のように、村の対立を調整する仲裁役でも何でもなかったのである。このような歴史を偽造する銅像は撤去しなければならない。1953年4月24日の選挙では、林屋が落選し、井村が当選した。内灘では井村=1291票、林屋=1273票と、相半ばした(542頁)。

永久接収へ
5月10日、政府は内灘砂丘「再使用」を石川県に打診し、その見返りとして3億1000万円を提示した。俄然、反対運動が激化した。5月30日には兼六園で県民大会(1200人)が開かれたが、6月2日政府は定例閣議で、内灘砂丘継続使用を決定した。
6月3日、内灘村実行委員会は出島権二を新委員長に選出し、1500人が集まって村民大会が開催された(553頁)。10日には、金沢駅前に2000人が集まり、伊関ら政府要人を待ち受けていたが、姑息にも倶利伽羅駅で下車し、県庁に向かった。12日に閣議決定が強行され、反対派は試射場内16カ所に漁具小屋を建てて、たたかいに備えた(559頁)。13日には大根布の鉄条網を挟んで、警察と学生・労働者が衝突した。
14日、北陸鉄道労組が弾丸輸送阻止24時間ストライキに突入した(560頁)。15日に試射が再開され、東京でも、参議院道路脇で座り込みが始まった(564頁)。
出島権二と朝鮮
著者・芝豪は「出島は内灘闘争を朝鮮半島と結びつけて考えることができる数少ない村人の一人。1927年渡鮮…出島のその体験の方がより紹介されるべきであろう」(566頁)と評価している。その根拠は、資料『内灘から三里塚へ 出島権二さんの意思をひきつぐために』(「追悼集」と略す)に収録されている「朝鮮の苦い思い出」を熟読したからである。
芝豪は「朝鮮における出島は日帝の農業部門の尖兵であった。…当時の出島の家には女中3人、作男1人がいた。朝鮮ではお殿様のような暮らしができた。…朝鮮人の徴用に直接協力したこともある。出島の朝鮮体験はおぞましさに満ちていた。その負い目が、出島を内灘闘争に駆り立てた。他国を侵略してはいけない、他国に侵略されてもいけないと」(567頁、追悼集14頁)と、出島の気持ちを代弁している。

1953年7月27日、朝鮮戦争休戦協定が結ばれたが、政府は射程を延長し、試射は続いた(574頁)。林屋の差し金で、大根布で愛村同志会が結成され、村内が激しく対立した。9月6日には中山村長リコール運動が始まり、28日に辞任表明し、10月13日に辞表を提出した(578頁)。
9月28日、権現森の座り込みが終了し、10月4日には小屋を撤去した。11月10日、村長選挙がおこなわれ、出島権二が立候補し695票で落選した。「保守一色の内灘村でよくぞ700票近くも集めた」(585頁)という評価に出島は苦笑するしかなかった。
それから4年後、1957年1月12日、試射場の使用が終了し、3月30日に内灘砂丘地は返還された(585頁)。
1970年代へ
芝豪は「出島は後年、内灘にまたしても起きた災難、金沢火力発電所建設問題では先頭に立って反対し、建設を断念させた。出島は七尾火力発電所建設問題や三里塚唐僧にも関心を示した。内灘闘争で村実行委員長をしたとき、多くの人々が村外から応援に駆けつけてくれた。出島は、そのことが涙の零(こぼれ)るほど嬉しく、生涯、その時の恩義を忘れなかった。それゆえ七尾にも三里塚にも声援を送ったのである」(585頁)と、1952~3年内灘闘争が1970年代に飛び火する様子を、出島権二を通して描いている。
芝豪は多数の資料のなかから「出島権二追悼集」(1989年発行)を選択し、この物語を締めくくったのである。
「出島権二追悼集」は数百部印刷し、各方面に配布・販売したが、石川県立図書館、金沢市立図書館、小松市立図書館、内灘町図書館にも蔵書されている。目次は、出島権二さんの発言・原稿として、「内灘から三里塚へ」、「朝鮮の苦い思い出」、「土地貧乏」(『世界』)、「1953年 内灘解放区」、「今度はアカシアを切るのか」、「三里塚連帯内灘集会 挨拶」、「『三里塚の夏』上映会主催者挨拶」、その他。

以前から表記の本は気にかっていたのだが、金沢市立「みらい図書館」に蔵書されていることを知り、借りてきて読んだ。上下巻あわせて1200頁にも及ぶ文庫本だが、「第11章 内灘の砂丘」(82頁)だけを読んだ。
著者は1944年生まれで、金沢大学で4年間を過ごし、元三重県職員で、現在は桑名市に住んでいる79歳である、ということしか分からない。
読書メモ
物語のなかの主人公は蕗原(ふきはら)謙二、軍隊(大尉)経験があり、河北潟対岸の津幡町で鶏と乳牛を飼っている酪農家と設定されている。
1953年3月18日の試射の砲声に反応し、牛の乳の出が悪くなるのではないか、鶏は卵を産まなくなるのではないかと、心配することから始まる。
物語は遡って、1952年内灘砂丘地接収の初期段階から始まり、たたかいが終結する1953年10月までを、暦のように描いていく。あまり文学的思考はなく、その合間合間に知り得た情報に想像力を掛け合わせてちりばめてあり、まあ、ドキュメンタリーの素案のような作品である。
私にとって、これまでに知り得なかったこともあり、そこら辺を拾い集めて、読書メモとしよう。
軍需産業
小松製作所で働いている元戦友からの情報で、「事の起こりは朝鮮戦争です。米軍は武器弾薬を日本のかつての武器製造メーカーに求めたのです。どこのメーカーも青息吐息でしたから、天佑だ、天恵だと喜んで手を挙げ、一斉に造り出したのです。日本経済のためだというのが錦の御旗ですね」、「砲弾製造の主力は枚方工場ですがね、…そこでがんがん造っています」(519頁)という。
蕗原が「朝鮮戦争は終わりに近づいている。…そうなると砲弾はいらなくなるぜ」と聞き返すと、戦友は「米軍が朝鮮戦争で使わなくても砲弾はいります。日本の保安隊がね」、つづけて「内灘が頑強に反対したから、試射ができなかった。…納品ができないと、金が入らない。.昨年9月に1億5000万円の融資を受けて、なんとか持ちこたえていますがね」(521頁)と答えている。
林屋亀次郎
林屋亀次郎が初入閣したのは内灘砂丘地接収問題が表面化する直前の1952年10月30日である。吉田首相は金沢出身の林屋を無任所国務大臣に据えた(522頁)。11月25日に内灘砂丘地接収を閣議決定するや、林屋は石川県知事に一時使用を申し入れ、翌々日の27日、金沢駅に降り立った林屋は1500人の民衆と赤旗やむしろ旗に囲まれた(529頁)。そして4万2000筆の反対署名と青年団の血書が渡された。
林屋の役割は火中の栗を拾うことであり、大清台公園の銅像のように、村の対立を調整する仲裁役でも何でもなかったのである。このような歴史を偽造する銅像は撤去しなければならない。1953年4月24日の選挙では、林屋が落選し、井村が当選した。内灘では井村=1291票、林屋=1273票と、相半ばした(542頁)。

永久接収へ
5月10日、政府は内灘砂丘「再使用」を石川県に打診し、その見返りとして3億1000万円を提示した。俄然、反対運動が激化した。5月30日には兼六園で県民大会(1200人)が開かれたが、6月2日政府は定例閣議で、内灘砂丘継続使用を決定した。
6月3日、内灘村実行委員会は出島権二を新委員長に選出し、1500人が集まって村民大会が開催された(553頁)。10日には、金沢駅前に2000人が集まり、伊関ら政府要人を待ち受けていたが、姑息にも倶利伽羅駅で下車し、県庁に向かった。12日に閣議決定が強行され、反対派は試射場内16カ所に漁具小屋を建てて、たたかいに備えた(559頁)。13日には大根布の鉄条網を挟んで、警察と学生・労働者が衝突した。
14日、北陸鉄道労組が弾丸輸送阻止24時間ストライキに突入した(560頁)。15日に試射が再開され、東京でも、参議院道路脇で座り込みが始まった(564頁)。
出島権二と朝鮮
著者・芝豪は「出島は内灘闘争を朝鮮半島と結びつけて考えることができる数少ない村人の一人。1927年渡鮮…出島のその体験の方がより紹介されるべきであろう」(566頁)と評価している。その根拠は、資料『内灘から三里塚へ 出島権二さんの意思をひきつぐために』(「追悼集」と略す)に収録されている「朝鮮の苦い思い出」を熟読したからである。
芝豪は「朝鮮における出島は日帝の農業部門の尖兵であった。…当時の出島の家には女中3人、作男1人がいた。朝鮮ではお殿様のような暮らしができた。…朝鮮人の徴用に直接協力したこともある。出島の朝鮮体験はおぞましさに満ちていた。その負い目が、出島を内灘闘争に駆り立てた。他国を侵略してはいけない、他国に侵略されてもいけないと」(567頁、追悼集14頁)と、出島の気持ちを代弁している。

1953年7月27日、朝鮮戦争休戦協定が結ばれたが、政府は射程を延長し、試射は続いた(574頁)。林屋の差し金で、大根布で愛村同志会が結成され、村内が激しく対立した。9月6日には中山村長リコール運動が始まり、28日に辞任表明し、10月13日に辞表を提出した(578頁)。
9月28日、権現森の座り込みが終了し、10月4日には小屋を撤去した。11月10日、村長選挙がおこなわれ、出島権二が立候補し695票で落選した。「保守一色の内灘村でよくぞ700票近くも集めた」(585頁)という評価に出島は苦笑するしかなかった。
それから4年後、1957年1月12日、試射場の使用が終了し、3月30日に内灘砂丘地は返還された(585頁)。
1970年代へ
芝豪は「出島は後年、内灘にまたしても起きた災難、金沢火力発電所建設問題では先頭に立って反対し、建設を断念させた。出島は七尾火力発電所建設問題や三里塚唐僧にも関心を示した。内灘闘争で村実行委員長をしたとき、多くの人々が村外から応援に駆けつけてくれた。出島は、そのことが涙の零(こぼれ)るほど嬉しく、生涯、その時の恩義を忘れなかった。それゆえ七尾にも三里塚にも声援を送ったのである」(585頁)と、1952~3年内灘闘争が1970年代に飛び火する様子を、出島権二を通して描いている。
芝豪は多数の資料のなかから「出島権二追悼集」(1989年発行)を選択し、この物語を締めくくったのである。
「出島権二追悼集」は数百部印刷し、各方面に配布・販売したが、石川県立図書館、金沢市立図書館、小松市立図書館、内灘町図書館にも蔵書されている。目次は、出島権二さんの発言・原稿として、「内灘から三里塚へ」、「朝鮮の苦い思い出」、「土地貧乏」(『世界』)、「1953年 内灘解放区」、「今度はアカシアを切るのか」、「三里塚連帯内灘集会 挨拶」、「『三里塚の夏』上映会主催者挨拶」、その他。
