20250227 辻政信も内灘へ……その狙いは?
昨年11月、内灘文化財保護審議会会長の竹田菊夫さんが「実録 内灘闘争―悲劇の挫折から復興」と題して話した。石川郷土史学会ブログ(https://ishikyodo.exblog.jp)には、「辻政信が内灘を訪れ、村民たちに座り込みが効果的だと説いた」という。しかし辻政信が東亜連盟(石原莞爾の指導により創立された国家社会主義団体)の活動家を連れて、内灘に入ったのは、住民とともにたたかうためではなかった。

写真はネット上から拝借
第16回衆議院予算委員会(1953/7/8)の議事録を見ると、辻政信は「その渦中に立つて第一に強調したことは、暴力はあくまで否定せよ、絶対に警官に抵抗してはならない。第二は国有地にすわり込むことは違法であるから、民有地に集結して合法的にやれ。第三はいかなることがあつても共産党の扇動に乗つてはいけない。この三つの条件を強く要求しました」「絶対にこの砂浜には赤旗を立ててはならない、あなた方の行動はあくまで日の丸のもとに合法的に冷静にやりなさいということを述べまして試射開始を迎えた」と話している。
試射着彈地・権現森に集う地元住民にたいして、「警察に従え」「座り込むな」「赤旗を立てるな」と説教し、たたかう民衆を分断し、抵抗は止めて、さっさと家に帰れと言っているのと同じである。
内灘闘争のリーダー・出島権二さんは「1953年内灘解放区」(1989年『内灘から三里塚へ』)のなかで、「権現森で坐り込みを続ける村民の前に、右翼東亜連盟員を引き連れた辻政信が現われ、坐り込みを解除させたのですが、何故私達が辻政信を信用したのか。国会前で坐り込んでいたとき、行動を共にしていた日本山妙法寺の僧侶が、辻政信と懇意であり、前を通る度にねぎらってくれるので、段々信用するようになったのです。その頃はもう『藁をもつかむ』という心境になっていて、うかうかとのってしまったが、結局辻政信は闘いを切り崩すためにやって来たのですね。」と述べている。
他方、アメリカのT・ボルト中佐に面会した辻政信は「十五日の射撃開始を何とかして一日延ばしてくれぬか」と、1日だけアリバイ的に延期してくれと懇願しているのだ。
竹田さんよ、辻政信を持ち上げて、歴史の真実を裏返しにしないでくれよ。
<資料>
第16回国会 衆議院 予算委員会 第18号 昭和28年7月8日 281~
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101605261X01819530708&spkNum=273
○辻(政)委員 この運動が外部からの扇動に乗せられておるような印象を政府の方はお持ちのようでありますが、これは絶対にそうではないということを私は身をもつて見て参りましたから、御参考に簡単に申し上げておきます。
六月十五日射撃再開の新聞報道を見まして、私は身をもつてそこに飛び込もうと決意をいたしました。ある者は宛名とののしり、ある者は扇動と非難をしましたが、好意を持つた者はみな危険の渦中に私が入ることをおそれて、極力とめたのであります。
六月十四日の夕方現場に到着しましたときの状況は戦場さながらであります。まつたく戦場であります。千数百名の武装警官が赤旗を立てた労組と渡り合つている。村民は村長の軟弱な態度を責めるために役場を包囲して暴力を振つている。そこに共産党のオルグが全国から入つて扇動しようとしておる。それに対して新聞記者はまた全国から集まつておりまして、まつたく戦場と同じ光景でありました。
その渦中に立つて第一に強調したことは、暴力はあくまで否定せよ、絶対に警官に抵抗してはならない。第二は国有地にすわり込むことは違法であるから、民有地に集結して合法的にやれ。第三はいかなることがあつても共産党の扇動に乗つてはいけない。この三つの条件を強く要求しましたところ、村民は全部非常な熱意をもつて賛成をして冷静に行動をしてくれたのであります。
それが終つてから私は米軍のキャンプに参りまして三田村国警隊長に会つて、特に冷静に行動されるように、扇動者と地元の取扱いを区別をするようにということを懇々申し上げまして了解を得、次いでアメリカのT・ボルト中佐に面会をしまして、十五日の射撃開始を何とかして一日延ばしてくれぬか、現場の空気はごらんの通りである、もし無理をして不祥事件が行つたならば、日米親善関係を永久に破壊する、そう申しましたところ、彼は冷然たる態度で、私は第一線の指揮官です。日本政府は十五日にやつてよろしい、こう言つて参りました。それに基いてアメリカの司令官から、あした射撃の開始を命令しておるから、そのまま実行するものである。自分は政治家でない、こういう冷やかな態度をとつたのであります。
これに対して、私は、あなたはそういうならば分隊長と同じではないか、いやしくも第一線の最高責任者として、この現場の空気を正しく後方に知らして、司令官をして大局を誤らさないこともまた第一線指揮官の使命ではないか、こう申しました。そうすると彼は私は代議士ではありません。あなたは日本の政府に言いなさい、こういうけんもほろろのあいさつで、私もむつとして参りまして、長い間戦場で君たちのお手並を拝見したが、あしたはまた久しぶりに君たちのお手並を拝見しようと申しまして、村民とともに弾着点の権現山に夜を徹したのであります。
私はその際に特に現場で感じましたことは、約七百名の老弱男女か集まつておりましたか、赤ん坊をおんぶしたおかみさんが非常に多い、七十人以上のおばあさんがおる、小学生の生徒がおる、そうして七百名ばかりがあの砂浜の上にかがり火をたいて夜を徹したのであります。雨が降つて参りましたから、どうぞお帰りくださいということを申し上げまして、大部分の者は冷静に家に帰へりましたが最後まで約四十名の漁師が残りまして、私と一緒に弾着点にすわり込む決意をしたのであります。
翌朝になると約百名の警官が散開体形で包囲して参りました。私有地といえども立ちのけ、射撃の危険があるから、こういう理由でありますが、住民は非常に激昂して、まさに不祥事件が起ろうとするような空気でありました。その中に入つて両方をなだめて、警官は民有地の中の者を立ちのきを命ずることはできない、もし民有地の中に危害を加えるようなことがあつたならば、これはアメリカの落度であるから、米軍によく通報しない、この住民たちにけがさせないことについては私が現場において責任を負う、こういうことにしまして、ようやくその衝突を防いだのであります。
東京から持つて参りました日の丸の旗を立てて、地元の人に対しては、絶対にこの砂浜には赤旗を立ててはならない、あなた方の行動はあくまで日の丸のもとに合法的に冷静にやりなさいということを述べまして試射開始を迎えたのであります。八時五分に第一発が出たときに、とうとうやりやがつた、えらい遠慮しとるね、こういう声が異口同音に聞えて参りました。アメリカは手控えまして、小さな口径のたまを撃つたために、危険は起らなかつたのであります。
私は九時にそこをたちまして、地元の人の、助けてください、お願いしますという涙声を聞きながら、まず金沢に行つて柴野知事に会つて現場の状況を詳しく申し上げ、善処をお願いしまして、開院式の朝東京に帰つて参りました。外務大臣の秘書官を通じてただちに現場の切迫した状況をお伝えしようとしましたところ、今日に至るまであなたから私はまだ回答を受取つておらぬのであります。あなたは現場に行かれない。現場の認識をしようと思つたならば、国会議員として現場を見た者の、その報告をなぜ聞こうとしないのか。何によつてあなたは真相をつかもうとされるのでありますか、その点について承ります。
昨年11月、内灘文化財保護審議会会長の竹田菊夫さんが「実録 内灘闘争―悲劇の挫折から復興」と題して話した。石川郷土史学会ブログ(https://ishikyodo.exblog.jp)には、「辻政信が内灘を訪れ、村民たちに座り込みが効果的だと説いた」という。しかし辻政信が東亜連盟(石原莞爾の指導により創立された国家社会主義団体)の活動家を連れて、内灘に入ったのは、住民とともにたたかうためではなかった。


写真はネット上から拝借
第16回衆議院予算委員会(1953/7/8)の議事録を見ると、辻政信は「その渦中に立つて第一に強調したことは、暴力はあくまで否定せよ、絶対に警官に抵抗してはならない。第二は国有地にすわり込むことは違法であるから、民有地に集結して合法的にやれ。第三はいかなることがあつても共産党の扇動に乗つてはいけない。この三つの条件を強く要求しました」「絶対にこの砂浜には赤旗を立ててはならない、あなた方の行動はあくまで日の丸のもとに合法的に冷静にやりなさいということを述べまして試射開始を迎えた」と話している。
試射着彈地・権現森に集う地元住民にたいして、「警察に従え」「座り込むな」「赤旗を立てるな」と説教し、たたかう民衆を分断し、抵抗は止めて、さっさと家に帰れと言っているのと同じである。
内灘闘争のリーダー・出島権二さんは「1953年内灘解放区」(1989年『内灘から三里塚へ』)のなかで、「権現森で坐り込みを続ける村民の前に、右翼東亜連盟員を引き連れた辻政信が現われ、坐り込みを解除させたのですが、何故私達が辻政信を信用したのか。国会前で坐り込んでいたとき、行動を共にしていた日本山妙法寺の僧侶が、辻政信と懇意であり、前を通る度にねぎらってくれるので、段々信用するようになったのです。その頃はもう『藁をもつかむ』という心境になっていて、うかうかとのってしまったが、結局辻政信は闘いを切り崩すためにやって来たのですね。」と述べている。
他方、アメリカのT・ボルト中佐に面会した辻政信は「十五日の射撃開始を何とかして一日延ばしてくれぬか」と、1日だけアリバイ的に延期してくれと懇願しているのだ。
竹田さんよ、辻政信を持ち上げて、歴史の真実を裏返しにしないでくれよ。
<資料>
第16回国会 衆議院 予算委員会 第18号 昭和28年7月8日 281~
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101605261X01819530708&spkNum=273
○辻(政)委員 この運動が外部からの扇動に乗せられておるような印象を政府の方はお持ちのようでありますが、これは絶対にそうではないということを私は身をもつて見て参りましたから、御参考に簡単に申し上げておきます。
六月十五日射撃再開の新聞報道を見まして、私は身をもつてそこに飛び込もうと決意をいたしました。ある者は宛名とののしり、ある者は扇動と非難をしましたが、好意を持つた者はみな危険の渦中に私が入ることをおそれて、極力とめたのであります。
六月十四日の夕方現場に到着しましたときの状況は戦場さながらであります。まつたく戦場であります。千数百名の武装警官が赤旗を立てた労組と渡り合つている。村民は村長の軟弱な態度を責めるために役場を包囲して暴力を振つている。そこに共産党のオルグが全国から入つて扇動しようとしておる。それに対して新聞記者はまた全国から集まつておりまして、まつたく戦場と同じ光景でありました。
その渦中に立つて第一に強調したことは、暴力はあくまで否定せよ、絶対に警官に抵抗してはならない。第二は国有地にすわり込むことは違法であるから、民有地に集結して合法的にやれ。第三はいかなることがあつても共産党の扇動に乗つてはいけない。この三つの条件を強く要求しましたところ、村民は全部非常な熱意をもつて賛成をして冷静に行動をしてくれたのであります。
それが終つてから私は米軍のキャンプに参りまして三田村国警隊長に会つて、特に冷静に行動されるように、扇動者と地元の取扱いを区別をするようにということを懇々申し上げまして了解を得、次いでアメリカのT・ボルト中佐に面会をしまして、十五日の射撃開始を何とかして一日延ばしてくれぬか、現場の空気はごらんの通りである、もし無理をして不祥事件が行つたならば、日米親善関係を永久に破壊する、そう申しましたところ、彼は冷然たる態度で、私は第一線の指揮官です。日本政府は十五日にやつてよろしい、こう言つて参りました。それに基いてアメリカの司令官から、あした射撃の開始を命令しておるから、そのまま実行するものである。自分は政治家でない、こういう冷やかな態度をとつたのであります。
これに対して、私は、あなたはそういうならば分隊長と同じではないか、いやしくも第一線の最高責任者として、この現場の空気を正しく後方に知らして、司令官をして大局を誤らさないこともまた第一線指揮官の使命ではないか、こう申しました。そうすると彼は私は代議士ではありません。あなたは日本の政府に言いなさい、こういうけんもほろろのあいさつで、私もむつとして参りまして、長い間戦場で君たちのお手並を拝見したが、あしたはまた久しぶりに君たちのお手並を拝見しようと申しまして、村民とともに弾着点の権現山に夜を徹したのであります。
私はその際に特に現場で感じましたことは、約七百名の老弱男女か集まつておりましたか、赤ん坊をおんぶしたおかみさんが非常に多い、七十人以上のおばあさんがおる、小学生の生徒がおる、そうして七百名ばかりがあの砂浜の上にかがり火をたいて夜を徹したのであります。雨が降つて参りましたから、どうぞお帰りくださいということを申し上げまして、大部分の者は冷静に家に帰へりましたが最後まで約四十名の漁師が残りまして、私と一緒に弾着点にすわり込む決意をしたのであります。
翌朝になると約百名の警官が散開体形で包囲して参りました。私有地といえども立ちのけ、射撃の危険があるから、こういう理由でありますが、住民は非常に激昂して、まさに不祥事件が起ろうとするような空気でありました。その中に入つて両方をなだめて、警官は民有地の中の者を立ちのきを命ずることはできない、もし民有地の中に危害を加えるようなことがあつたならば、これはアメリカの落度であるから、米軍によく通報しない、この住民たちにけがさせないことについては私が現場において責任を負う、こういうことにしまして、ようやくその衝突を防いだのであります。
東京から持つて参りました日の丸の旗を立てて、地元の人に対しては、絶対にこの砂浜には赤旗を立ててはならない、あなた方の行動はあくまで日の丸のもとに合法的に冷静にやりなさいということを述べまして試射開始を迎えたのであります。八時五分に第一発が出たときに、とうとうやりやがつた、えらい遠慮しとるね、こういう声が異口同音に聞えて参りました。アメリカは手控えまして、小さな口径のたまを撃つたために、危険は起らなかつたのであります。
私は九時にそこをたちまして、地元の人の、助けてください、お願いしますという涙声を聞きながら、まず金沢に行つて柴野知事に会つて現場の状況を詳しく申し上げ、善処をお願いしまして、開院式の朝東京に帰つて参りました。外務大臣の秘書官を通じてただちに現場の切迫した状況をお伝えしようとしましたところ、今日に至るまであなたから私はまだ回答を受取つておらぬのであります。あなたは現場に行かれない。現場の認識をしようと思つたならば、国会議員として現場を見た者の、その報告をなぜ聞こうとしないのか。何によつてあなたは真相をつかもうとされるのでありますか、その点について承ります。