アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

人力とスコップと 小松飛行場建設期のこと

2020年12月25日 | 小松基地関係資料
小松基地広報紙『はくさん』第一三七号(一九七六年十二月一〇日)

今回は小松基地開設のずっと前、基地一帯が森林におおわれていた頃にはじめて飛行場建設の鍬が入れられた当時の模様を、A町のY・S氏に語ってもらい、過去五回にわたったこのシリーズの最終回を飾りたい。

人力とスコップと 小松飛行場建設期のこと
        (小松基地ができるズッと前のお話)

 一九四一年(昭和十六年)十二月八日、わが国は米英に対して宣戦を布告した。この日は日本軍がハワイを奇襲して大戦果を挙げ、全国民が忠君奉公の一念に燃えた記念の日となった。

 翌十七年四月、小松商工会(現コマツ商工会議所の前身)の要請により、業界のトップを切って菓子同業組合は勤労報国会を結成し、一個隊十名の構成を整えて待機していたところ、向本折地内のなが山に集合との指令が来た。そこは国有地の砂防林で、黒松や赤松が生い繁った所であったが、この森林を伐採する作業が発表された。慣れぬ手にスコップや鍬をにぎり、松の根を堀り、樹上に登って綱を結び、一同根こそぎ引き倒して根元と枝を切断し、幹は製材工場へ、根株は松根油の製造工場へと運搬した。

 そんなある日のこと、係員から「この伐採作業は飛行場建設用地造成のためである」と、はじめて説明があった。

 このあたりの森林や沼沢地は、なが山をはじめ、むじな山、おちん、お芝、がんだまりなど二十を越えるさまざまな名称で呼ばれていたが、それがまたたく間に開拓統合されて、東西に長く南北に広い一望、数十万坪の平坦地に変貌したのは、昭和十七年の晩秋であった。

 新体制が叫ばれ、戦時体制が進められている時でもあり、間もなくこの地に舞鶴海軍施設部が開庁され、事務所や倉庫、作業庫、炊事場、パネル宿舎などが次々と建てられていった。舞鶴海軍施設部の主力は内地徴用工員、朝鮮徴用工員、北方領土のキスカやアッツ島を玉砕寸前に引き揚げて来た軍属部隊であり、これに囚人部隊も加わって、整地、砕石、土砂運搬やコンクリート打ちなどを、技師の指導の下に風雪に耐えながら汗と涙の突貫作業が進められ、東西に走り、南北に連なる滑走路が、人力とスコップで建設されていった。

 伐採作業を終えた私は商業報国会に参加し、小松製作所や寺西鉄工所へ勤労作業に通い、帰れば町内防護団や警防
団、消防団員として銃後の守りに東奔西走した。

 さらに、十八年十一月に舞施隊を訪れ自家通勤の徴用を志願したところ、翌日二等工員に採用され、現在の民航の道路わき一帯に山積みされた木材の検収や、受払い業務の木材係として二ケ年を過ごすことになった。

 福井県若狭の国、三方、美浜駅から送られてきた角用材、丸太、ベニヤ板など約十五万石が、全部戦争遂行のために使用されていった。

 滑走路や各施設の完成が近づくにつれて、三式戦や零戦、隼機、神雷特攻機が全国の各基地から空襲をさけてこの飛行場へ飛来するようになり戦局の重大さが肌にひしひしと感じられた。

 やがて、一億一心、軍民挙げての戦力も及ばず二十年八月十五日、日本海軍の小松基地は、その機能を停止した。

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