小松基地50年の歴史(概略)
小松基地問題研究会(1994年)
(1)海軍飛行場建設
海軍小松飛行場は日本海と今江潟(現在ではすでに埋め立てられ、水田化している)との間の砂丘地に作られた。上空からは日本海と今江潟が一つの水面のように見えて、その間にある飛行場が発見されにくいという理由で太平洋戦争の末期に急遽建設されたと言われている。
日米開戦の年、1941年8月、海軍が今江潟西側241町歩(現在の小松基地)の砂丘地・松林を買収した。ところが10月には農地開発営団は今江地区を開発地区に指定し、12月から「食料増産のための開墾」がはじまった。日本海から吹きつける季節風や砂嵐から田畑を守ってきた松林が、敗戦まじかの飢えを補うために、次々と切り倒されていった。
しかしこの開墾は海軍飛行場建設のための予備工事もしくは仮装工事であったようだ。そもそも開墾用地が海軍の所有地であり、開墾が始まってから海軍大将が視察に来たり、海軍機による空からの測量が繰り返しおこなわれていたこと。また開墾作業にたずさわった安宅町のYさんは、係員から「この伐採作業は飛行場建設用地造成のためである」との説明を受けている。また1942年5月に32町歩の開墾を完了したが、ほぼ同時期に安宅新町にグライダー用の滑空場も完成している。
1943年4月「食料増産のための開墾」という名目そのものが取り払われ、「舞鶴鎮守府小松飛行場建設事務所」が設置された。本格的な海軍飛行場建設に切り替えられたのである。新たに261町歩の民有地が強制的に買い上げられた。1坪当りわずか26銭であり、それも支払われなかったのもかなりあったと言われている。当時2円50銭で地下足袋2足と酒1升しか買えなかったことを考えると、1坪26銭がいかに安いものだったかがうかがえる。
(2)強制連行してきた朝鮮人を動員
このころは、すでに若者はことごとく戦地に送られ、小松飛行場建設には「囚人部隊、軍属部隊、内地徴用工員、朝鮮徴用工員」(小松基地発行『はくさん』より)が動員され、完成までの1年半に延べ20万人が動員された。最も多かったのは受刑者と思われる。『戦時行刑実録』によれば1939年11月から敗戦時まで、金沢刑務所から、毎日200~350人の受刑者が動員されている。
勤労報国会で動員された安宅町のYさん(故人)は「砂丘地に100m×1500mの滑走路をほとんど人力だけで建設した。しかも食べ物がわずかしかなく、昼夜問わずの突貫工事であったので、作業中に何人も倒れていった。 朝鮮人がかなり動員されていた」と言っておられる。草野町史の編集に携わったMさんは「朝鮮人たちは安宅松の林のなかにいくつもの掘建て小屋を建てて生活していたと年寄りから聞いた」と言っておられる。
戦時中、日本に強制連行され、鉱山や土木事業などに強制労働させられていた朝鮮人は約100万人といわれている。尾小屋鉱山や小松製作所でも朝鮮人が動員されていたことが資料的にも明らかになっているが、小松飛行場建設での動員についてはまだ確たる資料が少なく、調査が必要である。
また安宅新町史を編集されたAさんの母親は「腹をすかせた受刑者は、監督の目を盗んで近くの畑のイモを食べたのがみつかり、溜池にほうり込まれ、首筋をつかまれ、溺れそうになるまでのリンチを受けていた」と語っている。
こうして1944年11月、南北滑走路(現在の滑走路に直角)が完成した。翌45年6月に、海軍の空中特攻専門部隊(神雷部隊)が小松に配属された。7月には神雷部隊の一部が、朝鮮半島の浦項付近の迎日基地に移動した。ソ連参戦の場合にウラジオストクを爆撃するためである。迎日(浦項)基地が朝鮮-中国侵略にとって軍事的に重要なのは、1950年朝鮮侵略戦争でも同様であった。
このように、小松基地の前身海軍小松飛行場は、強制連行されてきた朝鮮人や受刑者の強制労働によって作られ、出来あがった飛行場からはアジア侵略の特攻機を出撃させたのである。
(3)第6航空団設置反対闘争
1945年10月22日、海軍小松飛行場は米軍に接収され、米軍航空隊の補助レーダー基地となった。1950年アメリカの朝鮮侵略戦争では、300万とも5おお万ともいわれる朝鮮人民を虐殺した米軍機は、沖縄をはじめとした日本の基地から出撃したのである。小松基地も、米軍レーダー基地としてふたたびアジア=朝鮮人民に流血を強制するという二重の犯罪を犯したのである。
この米日による朝鮮侵略戦争に対して、金沢大学の学生や小松の労働者は反戦運動を展開した。勅令311号(連合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令)違反による不当逮捕が相次いでいる。
1958年、米軍の接収解除と同時に、航空自衛隊の派遣隊が置かれ、自衛隊の継続使用=F86Fジェット機の基地化をめぐって、石川県内の世論は真二つに割れた。安宅新町の住民は「土地を返せ」「第2の内灘闘争を」とムシロ旗を掲げて決起した。第1次ファントム裁判の原告団長の福田俊保さんは、安宅新町の住民であり、当時の青年団の中心メンバーとして先頭でたたかいぬかれた。
1960年4月、安保闘争で激動している真っただ中で、小松基地は近代装備を備えたモデル基地として、基地建設が始まり、翌1961年2月に完成した。450人の隊員、2400メートルの滑走路を擁する航空自衛隊小松基地が開設されたのである。はやくも5月からスクランブル(緊急発進)体制に入った。
7月5日には第6航空団が設置され、F86F1個飛行隊(約40機)、T33A練習機10機が配備され、隊員約1000人にふくれあがった。
(4)第2次拡張F104J配備反対闘争
1963年に入ると、ロッキード社のF104Jを小松基地に配備しようとする動きが強まってきた。5月の小松市長選挙は「F104Jを受け入れるのかどうか」をめぐって争われ、小松基地誘致の張本人である和田伝四郎は敗北し、F104J反対をかかげた藤井栄次が当選した。この選挙結果は小松市民がいかに戦争のための基地強化に反対しているかを示している。
1963年6月20日、防衛庁はF104J導入のために基地拡張(滑走路延長)計画を発表した。防衛庁は「基地拡張を認めなければ、防音校舎建設は中止する」という全く卑劣な態度をとってきた。そもそも「F86Fがやかましい」から防音校舎建設が進められてきたのであり、本末転倒も甚だしいものであった。あまりにも卑劣なやりかたに激怒した小松市民は、とりわけ騒音直下で暮す住民たちは基地拡張反対闘争に起ちあがった。
8月13日、牧地区住民500人は反対同盟を結成し、「牧地区は孫子の代まで騒音に悩まされる。いかなる補償もはねかえし、F104Jを阻止しよう」と決議し、耕耘機20台が先頭に立って、ムシロ旗をかかげて小松市内をデモ行進した。
ところがF104J反対を公約にして当選した藤井市長は態度を豹変させ、F104J受け入れを声明した(次回市長選挙で藤井は落選)。これを受けて防衛庁は翌1964年2月より測量を開始したが、反対派は拡張予定地に突入して実力阻止闘争をたたかいぬいた。警察に守られて打たれたクイは、その夜のうちに十数本、2月26日には60数本が引き抜かれた。
3月22日には、49万5000㎡の拡張工事を強行し、滑走路は2400mから2700m(両端のオーバーランを加えると3300m)に延長された。この拡張工事によって小松基地は本格的なジェット機基地に生まれ変ったのである。
1965年3月には第205飛行隊(F104J23機)が編成され、小松基地の第6航空団は、隊員1500人、第4飛行隊(F86F)、第205飛行隊、その他の構成となった。ところが半月もたたないうちに、小松基地から発進したF104Jが美川沖で墜落したり、浜佐美町の農地に標的を落して農婦を気絶させるなど次々と大事故を起こしていくのである。
(5)ファントム差し止め裁判がはじまる
アメリカのヴェトナム侵略戦争が激化し、日本も参戦国化してゆくなかで、小松基地は機能が強化され、訓練が激化されていく。1969年2月8日、戦闘訓練中のF104Jが金沢の住宅密集地に激突し、4人の死者と数十名のケガ人を出すという大惨事を引き起こした。小松基地は4人の死者の喪も開けないうちに戦闘訓練を再開するなどきわめて強引な態度である。この事故を契機にして、ヴェトナム反戦闘争と結合して小松基地反対闘争が再燃する。
1971年、防衛庁は「民間空港のジェット化のため」という理由で、滑走路のカサ上げが打ち出された。根強い基地反対派の存在と金沢での大事故の直後に「F4ファントム導入のためのカサ上げ」とは言えなかったのである。このようなだまし討ちによってカサ上げの了承を取った防衛庁・小松基地は間髪を入れず、1972年4月F4ファントムの配備を発表した。
この年の8月にはファントム導入の是非をめぐって小松市長選挙がおこなわれ、「ファントムお断わり」を公約にした竹内革新市長が誕生した。小松市民の基地反対の意志がきわめて強いことが三たび明らかになったのである。
1973年3月から10月にかけて滑走路のカサ上げ工事が強行された。翌1974年8月防衛庁は小松市にたいして正式にF4ファントム配備を申し入れた。竹内市長と小松市議会は動揺の渦に飲み込まれ、1975年小松市は防衛庁との間で「10・4協定」を締結した。
他方9月、基地周辺の反対派住民は12人の原告団(福田俊保団長)を結成し、F4ファントムの飛行差し止めを求めて裁判闘争に突入した。1975年12月5日、第1回口頭弁論から19年間、途中から第2次原告団も加わって、今日までたたかいぬいている。
(つづく)
小松基地問題研究会(1994年)
(1)海軍飛行場建設
海軍小松飛行場は日本海と今江潟(現在ではすでに埋め立てられ、水田化している)との間の砂丘地に作られた。上空からは日本海と今江潟が一つの水面のように見えて、その間にある飛行場が発見されにくいという理由で太平洋戦争の末期に急遽建設されたと言われている。
日米開戦の年、1941年8月、海軍が今江潟西側241町歩(現在の小松基地)の砂丘地・松林を買収した。ところが10月には農地開発営団は今江地区を開発地区に指定し、12月から「食料増産のための開墾」がはじまった。日本海から吹きつける季節風や砂嵐から田畑を守ってきた松林が、敗戦まじかの飢えを補うために、次々と切り倒されていった。
しかしこの開墾は海軍飛行場建設のための予備工事もしくは仮装工事であったようだ。そもそも開墾用地が海軍の所有地であり、開墾が始まってから海軍大将が視察に来たり、海軍機による空からの測量が繰り返しおこなわれていたこと。また開墾作業にたずさわった安宅町のYさんは、係員から「この伐採作業は飛行場建設用地造成のためである」との説明を受けている。また1942年5月に32町歩の開墾を完了したが、ほぼ同時期に安宅新町にグライダー用の滑空場も完成している。
1943年4月「食料増産のための開墾」という名目そのものが取り払われ、「舞鶴鎮守府小松飛行場建設事務所」が設置された。本格的な海軍飛行場建設に切り替えられたのである。新たに261町歩の民有地が強制的に買い上げられた。1坪当りわずか26銭であり、それも支払われなかったのもかなりあったと言われている。当時2円50銭で地下足袋2足と酒1升しか買えなかったことを考えると、1坪26銭がいかに安いものだったかがうかがえる。
(2)強制連行してきた朝鮮人を動員
このころは、すでに若者はことごとく戦地に送られ、小松飛行場建設には「囚人部隊、軍属部隊、内地徴用工員、朝鮮徴用工員」(小松基地発行『はくさん』より)が動員され、完成までの1年半に延べ20万人が動員された。最も多かったのは受刑者と思われる。『戦時行刑実録』によれば1939年11月から敗戦時まで、金沢刑務所から、毎日200~350人の受刑者が動員されている。
勤労報国会で動員された安宅町のYさん(故人)は「砂丘地に100m×1500mの滑走路をほとんど人力だけで建設した。しかも食べ物がわずかしかなく、昼夜問わずの突貫工事であったので、作業中に何人も倒れていった。 朝鮮人がかなり動員されていた」と言っておられる。草野町史の編集に携わったMさんは「朝鮮人たちは安宅松の林のなかにいくつもの掘建て小屋を建てて生活していたと年寄りから聞いた」と言っておられる。
戦時中、日本に強制連行され、鉱山や土木事業などに強制労働させられていた朝鮮人は約100万人といわれている。尾小屋鉱山や小松製作所でも朝鮮人が動員されていたことが資料的にも明らかになっているが、小松飛行場建設での動員についてはまだ確たる資料が少なく、調査が必要である。
また安宅新町史を編集されたAさんの母親は「腹をすかせた受刑者は、監督の目を盗んで近くの畑のイモを食べたのがみつかり、溜池にほうり込まれ、首筋をつかまれ、溺れそうになるまでのリンチを受けていた」と語っている。
こうして1944年11月、南北滑走路(現在の滑走路に直角)が完成した。翌45年6月に、海軍の空中特攻専門部隊(神雷部隊)が小松に配属された。7月には神雷部隊の一部が、朝鮮半島の浦項付近の迎日基地に移動した。ソ連参戦の場合にウラジオストクを爆撃するためである。迎日(浦項)基地が朝鮮-中国侵略にとって軍事的に重要なのは、1950年朝鮮侵略戦争でも同様であった。
このように、小松基地の前身海軍小松飛行場は、強制連行されてきた朝鮮人や受刑者の強制労働によって作られ、出来あがった飛行場からはアジア侵略の特攻機を出撃させたのである。
(3)第6航空団設置反対闘争
1945年10月22日、海軍小松飛行場は米軍に接収され、米軍航空隊の補助レーダー基地となった。1950年アメリカの朝鮮侵略戦争では、300万とも5おお万ともいわれる朝鮮人民を虐殺した米軍機は、沖縄をはじめとした日本の基地から出撃したのである。小松基地も、米軍レーダー基地としてふたたびアジア=朝鮮人民に流血を強制するという二重の犯罪を犯したのである。
この米日による朝鮮侵略戦争に対して、金沢大学の学生や小松の労働者は反戦運動を展開した。勅令311号(連合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令)違反による不当逮捕が相次いでいる。
1958年、米軍の接収解除と同時に、航空自衛隊の派遣隊が置かれ、自衛隊の継続使用=F86Fジェット機の基地化をめぐって、石川県内の世論は真二つに割れた。安宅新町の住民は「土地を返せ」「第2の内灘闘争を」とムシロ旗を掲げて決起した。第1次ファントム裁判の原告団長の福田俊保さんは、安宅新町の住民であり、当時の青年団の中心メンバーとして先頭でたたかいぬかれた。
1960年4月、安保闘争で激動している真っただ中で、小松基地は近代装備を備えたモデル基地として、基地建設が始まり、翌1961年2月に完成した。450人の隊員、2400メートルの滑走路を擁する航空自衛隊小松基地が開設されたのである。はやくも5月からスクランブル(緊急発進)体制に入った。
7月5日には第6航空団が設置され、F86F1個飛行隊(約40機)、T33A練習機10機が配備され、隊員約1000人にふくれあがった。
(4)第2次拡張F104J配備反対闘争
1963年に入ると、ロッキード社のF104Jを小松基地に配備しようとする動きが強まってきた。5月の小松市長選挙は「F104Jを受け入れるのかどうか」をめぐって争われ、小松基地誘致の張本人である和田伝四郎は敗北し、F104J反対をかかげた藤井栄次が当選した。この選挙結果は小松市民がいかに戦争のための基地強化に反対しているかを示している。
1963年6月20日、防衛庁はF104J導入のために基地拡張(滑走路延長)計画を発表した。防衛庁は「基地拡張を認めなければ、防音校舎建設は中止する」という全く卑劣な態度をとってきた。そもそも「F86Fがやかましい」から防音校舎建設が進められてきたのであり、本末転倒も甚だしいものであった。あまりにも卑劣なやりかたに激怒した小松市民は、とりわけ騒音直下で暮す住民たちは基地拡張反対闘争に起ちあがった。
8月13日、牧地区住民500人は反対同盟を結成し、「牧地区は孫子の代まで騒音に悩まされる。いかなる補償もはねかえし、F104Jを阻止しよう」と決議し、耕耘機20台が先頭に立って、ムシロ旗をかかげて小松市内をデモ行進した。
ところがF104J反対を公約にして当選した藤井市長は態度を豹変させ、F104J受け入れを声明した(次回市長選挙で藤井は落選)。これを受けて防衛庁は翌1964年2月より測量を開始したが、反対派は拡張予定地に突入して実力阻止闘争をたたかいぬいた。警察に守られて打たれたクイは、その夜のうちに十数本、2月26日には60数本が引き抜かれた。
3月22日には、49万5000㎡の拡張工事を強行し、滑走路は2400mから2700m(両端のオーバーランを加えると3300m)に延長された。この拡張工事によって小松基地は本格的なジェット機基地に生まれ変ったのである。
1965年3月には第205飛行隊(F104J23機)が編成され、小松基地の第6航空団は、隊員1500人、第4飛行隊(F86F)、第205飛行隊、その他の構成となった。ところが半月もたたないうちに、小松基地から発進したF104Jが美川沖で墜落したり、浜佐美町の農地に標的を落して農婦を気絶させるなど次々と大事故を起こしていくのである。
(5)ファントム差し止め裁判がはじまる
アメリカのヴェトナム侵略戦争が激化し、日本も参戦国化してゆくなかで、小松基地は機能が強化され、訓練が激化されていく。1969年2月8日、戦闘訓練中のF104Jが金沢の住宅密集地に激突し、4人の死者と数十名のケガ人を出すという大惨事を引き起こした。小松基地は4人の死者の喪も開けないうちに戦闘訓練を再開するなどきわめて強引な態度である。この事故を契機にして、ヴェトナム反戦闘争と結合して小松基地反対闘争が再燃する。
1971年、防衛庁は「民間空港のジェット化のため」という理由で、滑走路のカサ上げが打ち出された。根強い基地反対派の存在と金沢での大事故の直後に「F4ファントム導入のためのカサ上げ」とは言えなかったのである。このようなだまし討ちによってカサ上げの了承を取った防衛庁・小松基地は間髪を入れず、1972年4月F4ファントムの配備を発表した。
この年の8月にはファントム導入の是非をめぐって小松市長選挙がおこなわれ、「ファントムお断わり」を公約にした竹内革新市長が誕生した。小松市民の基地反対の意志がきわめて強いことが三たび明らかになったのである。
1973年3月から10月にかけて滑走路のカサ上げ工事が強行された。翌1974年8月防衛庁は小松市にたいして正式にF4ファントム配備を申し入れた。竹内市長と小松市議会は動揺の渦に飲み込まれ、1975年小松市は防衛庁との間で「10・4協定」を締結した。
他方9月、基地周辺の反対派住民は12人の原告団(福田俊保団長)を結成し、F4ファントムの飛行差し止めを求めて裁判闘争に突入した。1975年12月5日、第1回口頭弁論から19年間、途中から第2次原告団も加わって、今日までたたかいぬいている。
(つづく)