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アジアと小松

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小松基地問題研究会

スマラン事件と『青壮日記』

2014年10月17日 | 日本軍性暴力関係原資料
スマラン事件と『青壮日記』

 ここに、『文蔵2012.1』があり、秦郁彦の「スマランの慰安婦たち~『青壮日記』は語る」が所収されている。秦郁彦は岡田慶治が遺した自伝『青壮日記』に拠って、スマラン事件を「藪の中」追い込み、もみ消そうとしている。

 秦郁彦は2009年段階で「スマラン事件裁判資料」の全部に目を通す立場にあり、少なくとも証言被害者D.A.J.K、被害者E.C.v.d.P、オランダ人看護師Pabst、起訴状、松浦主計中尉、小林俘虜収容所大尉、山口兵站参謀、中田抑留所所長、村瀬憲兵中佐の証言をもとに半藤一利、保阪正康らと討論しているにもかかわらず、3年後の「スマランの慰安婦たち~『青壮日記』は語る」には、それらの資料にほとんどふれることなく論を進めている。

 秦が参考にした被害者の証言としては、ジャン・ラフ=オハーン(J.A.O`H)さんとエリー・デル・プローグ(E.C.v.d.P)さんの2人だけであるが、「スマラン事件裁判資料」には12人の証言が記録されている。しかも、岡田慶治によって強姦されたL.Fさんの証言があるにもかかわらず、岡田慶治の証言との対比検証を回避している。

 これでは、都合の悪い資料にはふたをして、都合の良さそうな資料から引用して、自説を主張しているといわれてもやむを得ない。これこそが歴史修正主義者の手法なのだろう。

 秦は岡田慶治の自伝『青壮日記』を使って、スマラン事件全体のイメージを形成している。『青壮日記』の「将校倶楽部の婦人達を良く可愛がってやったつもりである。その御本尊の彼女達が告訴している。それも嘘八百を並べ」という部分を引用して、岡田慶治を善人に仕立て上げ、擁護している。

 ではまづ、岡田慶治によって強姦された被害者L.Fさんの証言(「BC級バタビア裁判・スマラン事件資料」18p)から引用しよう。

<被害者L.Fさんの証言>
 その晩将校は8名いた。…9時頃岡田は各将校に一名づつ我々を指定した。彼自身には私を選んだ。岡田はマレー語で、寝室へ行けと云ったので、私は行くと、彼は後について来た。約3分間位彼と話をした後、彼は私にベッドに寝ろと云ったので、私は之を拒むと、彼は私の両肩を掴み、私をベッドに押し倒した。私も劇しく抵抗したが、彼が私を寝台の上に投げ出すのを防げなかった。同じ慰安所で働いていた仲間で、憲兵に同じやうなことをやられた人の話では、斯かる際に抵抗するのは虐待されるだけで無駄だと云ふ話を聞いていたので、私は抵抗はいい加減でやめて、岡田に性交を許さした。然も、その性交中私は彼の顔面に喰付いてやったら、彼は平手で私の顔を殴った。

 この時の情景を秦郁彦は「高橋少佐ら8人の将校(引用者:岡田も含む)と8人の女性は会食した後、個室に消えた。『青壮日記』はカップルになった道子(引用者:被害者L.Fさん)との交情ぶりを当今のポルノ小説も顔負けの筆致で描写している」と書いた後、『青壮日記』から引用している。

<岡田慶治の『青壮日記』>
 皆それぞれのカップルが浮き浮きした足取りで各人の部屋に引き取っていった。彼女が裸になれという。越中褌を不思議そうに見ていたが、とうとう紐を解いて彼の手を取って寝台に上がった。
 胸に目をやると乳房がムックリ盛り上がっている。思わず唇を押し当て右手を伸ばして下腹部に手をやると既に秘所はジットリと愛液が溢れていた。道子は起き上がって枕の下からサックを取り出して一物に装着して横になった。二人の激しい息遣いが室内の空気を揺るがせた。

 何という落差だろう。「婦女子を強制売春に連行した罪」「売春強制罪」「強姦罪」で訴追されている岡田慶治が獄中で執筆した「自伝」である。自ら犯した暴力と強姦を、あたかも合意(疑似恋愛)の上での性的関係であるかのように描くことによって、責任を回避しようとしている。

 しかも、同時期に書かれた妻子への遺言状(『世紀の遺言』所収)には「私の魂はお前の傍に帰って常にお前達の幸福を守るでせう。否むしろお前達の心の中に入っていくでせう」と締めくくっている。

 L.Fさんの証言と『青壮日記』の落差はもちろん、「遺言状」と『青壮日記』の落差も私には理解できない。妻には貞淑を求め、自らには性的奔放を容認している。これが戦地での日本人男性の姿である。そして生きて帰った軍人たちは、戦地での行為を封印して、良き夫、良き父として振る舞ってきたのだ。

 石川県では偉人とたたえられている八田与一も1940年11月に占領地海南島に出かけ、妻への手紙に「海軍には殆ど慰安隊がない。大隊本部所在地には四、五人宴会の接待が居いてあるのみで」と「慰安婦」の数の少なさに不満を書き漏らしている。

 戦前の男性と女性はこのようないびつな関係であり、そのような男女関係を前提にして、軍として女性を連行し、慰安所に監禁し、強姦をほしいままにしていたのだ。いずれの女性にとっても、耐えられない時代だったのだ。そして現在も引き続きこの価値観を継承しようという勢力が存在する。「慰安婦」問題が過去の問題ではなく、優れて現在の問題であることを示している。

(注)日本軍は1939年2月に海南島を占領し、外務省、陸軍、海軍は台湾拓殖会社に、「慰安所」設置を依頼し、海南島各地に多数の「慰安所」が設置され、現地、中国、台湾、朝鮮の女性が「軍隊慰安婦」を強制された。八田与一は占領後の1940年11月に海南島の発電・水利調査に出かけ、妻への手紙に「海軍には殆ど慰安隊がない。大隊本部所在地には四、五人宴会の接待が居いてあるのみで」(『水明り』28P)と不満を書き漏らしている。
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