日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その188)

2007-08-24 07:34:27 | Weblog
○昭和54年7月2日(月)晴。
 ○○先生から隔離待合室に呼ばれた。自分の意志が変わっていないことを言った。そしたら、意外なことに、どうしたらうまく大学を出れるかを考えないといけないなあと言ってくれた。医局長の立場から、僕が大学を辞めない様にするしかなかったのだ。しかし、今は、それがもう不可能だと思っている。教授には、明日の回診の時に言おうと言うことになった。出来るだけ早やく言っておくべきだと言うことになった。
○昭和54年7月3日(火)晴。
 朝、H教授にその旨を言うと、12月まで、出来ることなら3月一杯までいて欲しいと言われた(スタッフが足りないので)。宮医大とのつながりを今後も続けてもらいたいと言われた。午後の回診後に呼ばれて、出来れば、あと2カ年いて欲しいと言われた。12月まで、スライドの整理とCHDの教材用の作成と国家試験の手引きの改訂版を12月の半ばまでに終えて、12月のポリクリの学生が終わった時点で最近帰って、年末・年始の診療を佐伯でしようと思う。
○昭和54年7月10日(火)晴。
 回診があり、その後、○助教授の所に行った。意外にも、引き留められる感じはなく、僕ならばどこに行ってもちゃんとやっていけると言われた。教育の田原と言うことで、スライドの整理と学生の教育を最後までしっかりしてあげたいと思う。
○昭和54年7月23日(月)晴。
 西田病院に11:00に行った。かっぷくのいい副院長(院長の長男、産婦人科医、西田猛史おさひと、共に慈恵医大出身)にも会った。ニコニコされていた。西田茂院長が、「あの難しい猛史が、婦人科の部屋は、今までどうしても他の科に譲ろうとしなかったのに、新生児室にと言うと、何故かコロッと明け渡した。先生が新生児をしてくれると言うので、猛史が大変喜んでいる」と言った。この病院では、病理があって、赤ん坊がよくわからないで死んだ時には解剖して、親を納得させていると言われた。前も、そんな事例があったとのこと。副院長の話は、とても上手だったと(大学で)講義を受けた姉が言っていた。小児科外来になるべき所にも行った。まだ、全く出来ていなかったが、ちゃんと設計図には、それなりに書かれていた。
○昭和54年7月30日(月)晴。
 ○○町立病院行きであった。患者さんが多かったが、12:30には、終えられた。そして、又、大学に行った。高齢の西田茂院長が、わざわざ宮医大小児科まで病院の車で(田中事務長と一緒に)来てくれて、H教授と会って話をちゃんと付けてくれたのだ。
○昭和54年7月31日(水)晴。
 西田茂院長が、佐伯に帰る途中で、○○町立病院に寄ってくれた。とてもニコニコしていた。本当に嬉しそうだった。H教授と西田茂院長の話し合いで、来年の3月まで大学病院にいることになった。後、まだ、8カ月もあるのだなあ。その間、更に、進化している様に、大学で学べることを出来るだけ吸収して、大学を去りたいと思う。
*写真は、開業した時に出版した「続・為になるかも知れない本(中)」の2ペ一ジの内容。


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