私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

湯沢山茶くれん寺・荒川神社・広畑天満宮

2014-07-02 15:11:43 | 歴史探索
 7月 2日(水)  天気:晴れor曇り  室温:31.4℃

 きょうは 官兵衛ゆかりの地を巡る7 佛日山法輪寺 を 歩いてきました。 広報ひめじ7月号の
ふるさと探訪261に 佛日山法輪寺と 町坪(ちょうのつぼ)構居跡 が載っていて ”英賀城攻め
に際し 残った地と 滅んだ地” で 紹介されています。
 湯沢山茶くれん寺 こと 佛日山法輪寺は 井ノ口の荒川小学校の北にあり 町坪構居跡は 県道
415号線の南の 町坪にあります。
 法輪寺の近くにある 荒川神社と 帰り道の京見橋の西詰にある 広畑八幡宮へも 寄りました。

 きょうは 自転車で 回ったのですが 約3kmほど行った マックススバリュで カメラを忘れたこ
とに気付き カメラを取りに 引き返し・・・。 25分ほど ロスしましたが 時間のロスより 自転車
で 走ることのしんどいこと・・。 お尻は痛いし ハンドルを握る掌も 痛くて 豆ができそう・・。
 折りたたみ自転車を処分し 新しく 26インチの”ロシナンテ号” を買ったので 自転車は 軽くな
りましたが 京見橋への坂を 登る頃には もう へろへろ・・。 下り坂になると 楽チンで 英賀保
駅まで すーいすい。
 家から 8kmほどの距離かと 思いますが 一生懸命 漕いで 40分かかりました。 歩道など
の段差で 自転車が 振動するたびに 肉のない お尻に 響きます。  荒川小学校の北に 看板
があり 左折すると 突き当たりが 法輪寺です。 11:40ころ 着きました。
 以前 姫路の低山めぐりをしていたとき 金亀山へ登ったので ここへ 来たことはあります。

 往時 天福元年の頃は 海石山晦蓮寺と号ある天台寺院にして 南北朝の頃 播磨の守護・赤松
則祐公 赤穂郡の宝積寺より 雪渓和尚を 請じて 飾西郡の当地に 宝林寺を開創し 天台刹に改め
禅院とした。 当初は 50石・・・・ 天正八年 羽柴秀吉公 当寺に立ち寄り ・・・・ まもなく 寺号も
佛日山法輪寺と改称した。 ・・・・・ 慶安二年 家光公は 朱印状を下賜・・・。

 広報によると 井ノ口にある佛日山・法輪寺には 官兵衛が仕えた 羽柴秀吉にまつわる 面白い
言い伝えがあります。 英賀城攻めの際 寺に立ち寄った秀吉は 茶を所望しましたが 平侍の
格好をしていたため 「これは 秀吉公のために 用意した茶なので 差し上げられない」 と 白湯
を 出されてしまいます。
 自分が 秀吉だと名乗ると 一同はびっくり仰天。 面白がった秀吉は 茶の接待を受けながら
この寺に 「湯沢山茶くれん寺」 という愛称を付け 九石九升九合の石高を 与えたといわれてい
ます。 当時 十石を 拝領すると 城に奉公しなければならず あえて 一合の不足を願い出たそ
うです。 境内には 秀吉来訪を記念して 植えたとされるカヤの木(保存樹)や 秀吉が 腰を掛
けたといわれる 「秀吉の腰掛石」 を 竜山石で 再現したものがあります。

 法輪寺は 臨済宗のお寺で 禅宗です。 本堂は 質実剛健を旨としているので 木鼻、蟇股
などの装飾的なものは なにもありません。 わずかに 山門に 虹梁、蟇股、懸魚がありました。
説明板に 徳川家光の名があったためか 軒丸瓦にある寺紋は 三葉葵?

 法輪寺を後にして 荒川神社へ行きます。 氏子の荒川地区は 八世紀の『播磨国風土記』
にみえる 「伊和里」 にあり 10世紀前半の 「倭名類聚抄」 にみえる 伊和郷が のち 東西
分郷されて 成立した伊和西(岩西)郷に ほぼ相当する。 伊和西郷は 応永五年(1398)
伏見宮家領となった。・・・・・・


 大井川に架かる大石橋の東が 金亀山の登山口です。

 荒川神社を後にして 県道を南へ下り 町坪構居跡へ向かいます。 JRの踏切を越え 少し
南へ下り 東へ曲がり・・・。 この辺りは 新興住宅地で 空き地もあり 目印がなにもなく
分かりにくい。 誰かに聞こうにも 誰もいません。 探し回っていると 一人のおばあさんに
出会い・・。 このおばあさんが ボランティアガイドとして 100mほど歩いて 案内して
くれました。 道路の角 2mほどのスペースに 五輪塔があります。 ここが 英賀城の出城の
一つ 町坪構の遺構ですか。 英賀城攻めの際し 滅ばされ 今は 五輪塔が残るだけです。
 石柱には ”領主は 町坪騨四郎主水佐と 『播磨鑑』に記す”  最近 移設された?


 町ノ坪を後にして 帰路につきます。 京見橋まで戻ると 大きな神社があるので 寄って
みました。 南の大鳥居へ回ると 廣畑天満宮でした。 帰るとき 西へ出ると ここに 由緒が
ありました。 社伝によると 廣峯天幡宮の源祀は 霊亀年間(715) に始まるといい 昌泰
四年(901) 菅原道真公が 九州へ下向の途中 広畑の高浜の汀に 上陸した際 当地の
人々は 道真公の仁徳を 深く仰いだという。・・・大宰府で 道真公が 帰幽後 廣畑天満宮と
称するに至った。

 境内に入ると 茅の輪があります。 潜り方が分かりません。 多分 3回 潜るのだろうと
∞字形に回りましたが これが正解でした。 これで 疫病のお祓いができた・・。
境内には 鳩がたくさんいて 近づいても逃げません。 エサを与えているので 人慣れして
いるようです。 忠魂碑を見て 西から出ました。 説明板に 玉垣に 司馬遼太郎の関係者
の名があると 書かれていますが 探す気にはなれません。

 西の出口辺りは うっそうとした森で これは 姫路市自然保護条例により 指定された
保存樹です。 自転車を ちんたら ちんたら 漕いで 帰りました。 家に帰り 汗を拭くと
白いやわ肌の両腕が 赤く日焼けしています。 そんなに いい天気とは思いませんでしたが。

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