8月31日(金) 天気:晴れ 雲あり 室温:33.3℃
きょうも 燃費の悪い車で 上郡まで ドライブしてきました。 前回のドライブで 寄り残したところを
廻ってきました。 ついでに 「バンカル・夏号」 にあった 播磨の戦争遺跡の 恩徳寺と上郡の忠
魂碑へも寄りました。 播磨の戦争遺跡は まだ 他にもありますが 一応 完了ということに・・・。
上郡では この前 歴史資料館でもらった パンフレット 「赤松氏のふるさとをゆく」 にある 武祖神
社、鍛冶の宝篋印塔、地蔵像板碑を 見てきました。
8:46 出発。 太子町を抜け 山陽道の高架下で 左折。 龍野新大橋を渡り 県道5号線を約
2.1km行くと・・。 失敗して 手前で曲がってしまい 北を回って 恩徳寺に着きました。 ここまで
12.3km。 裏門から 入りましたが 南の県道から入れます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/27/3c53149c1f91abed454d08d300fbcbf3.jpg)
浄土宗西山派の恩徳寺は 養老六年(772) 得道上人開基の古刹です。 得道(とくどう)
上人は 矢田部の出身で 西国33ヵ所霊場を始めた 徳道上人と 同一人物? 法道仙人
の開基という噂?もあるようですが あながち 嘘ではない。 絵巻物にある?
中世 嘉吉元年 赤松満祐一族が 滅んだ際 兵火により 焼失し 廃寺となるが 後 元禄
元年 再建される。 檀家を持たない地域の寺 恩徳寺は 地元の寄付によって 阿弥陀堂
を再建した。 (平成20年9月 完成) 本尊は 十一面千手千眼観世音菩薩。 雨乞いと称
して 始められた 「さいれん(祭礼)坊主」 が 有名。
御詠歌 ”広大の み法も高き 山の端に あらわれ出る 月のさやけさ”
境内の南西の隅に 砲弾形の 「忠魂碑」 があり 書かれているのは 「倶會(くえ)一処」。
バンカルに 「倶會一処」 は 阿弥陀経の中に出てくる仏教用語で 「共に一つの処で会う」
という意味 とありますが これは 極楽往生したら あの世で 会えるということでしょうか?
お墓に 倶會一処 と刻むこともあるようですから これは 合祀墓? 昭和3年 建立。
周りの玉垣も砲弾の形です。 右下に 播磨で一番小さいと 言われる忠魂碑があり これも
砲弾形をしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/8f/e1fe49936e139260b8dcc6d82b48129d.jpg)
前に 大嫌いな?「機雷」 があります。 なぜ このお寺に 機雷があるのかは 分かりません
が 機雷を見るのは 初めて です。 直径1mほどあるでしょうか なかなか存在感があります。
水雷罐は 下附 舞鶴要港部 とあり 機雷碑は 昭和3年に建設、寄贈者の名前もあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/fb/e61db25d0fbfc24f9e1203299567e492.jpg)
県道を西へ走り 上郡へ。 国道373号線に出て 北へ進むと 国道脇の上郡橋の手前に
「忠魂碑」 があります。 バスは来ないようなので 国道脇のバス停に駐車。 恩徳寺から 16
km。 忠魂碑は 大きいので 国道から見えます。 道路下の病院に 駐車できるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/5d/6f9af2a98ede671e7a74c612d26ef2af.jpg)
土台部が3m、台座部が3m、碑が4mほどの高さで 全体で10mほどの高さがあるでしょう
か? しかし 本にある 二個の大きな「機雷」 の供物が見当たりません。 台座の上にあるの
は 真新しい小さい石燈籠・・。 いつの間に盗られた? キライがないと この忠魂碑を見る価
値も半減します。 忠魂碑の字を書いたのは 元帥 伯爵 東郷平八郎。 上郡の戦没者の名
も刻まれています。 この碑は 北向きのため 写真を撮るには 逆光で 写真が暗くなります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/3f/197252ea9d8fbb07c8102d7864ed81f9.jpg)
戦争遺跡見学を終え 国道を北へ向かいます。 赤松の浄化センターで 右折して 細い道を
1.2km行くと 細野の集落。 忠魂碑から 6.3km、空き地に車を停めました。
まだ 先へ行けますが 道が細く 砂利道なので ここからは 歩き。 山道を歩くのも 久し振り・・。
武祖神社の鳥居の下を潜りましたが 行き止まり。 下の金網の扉を開けて 林道を進むと
寂れた武祖神社がありました。 世話する人がいないようで 荒れています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/ac/353bcfc8bc24792f95d1f55171540754.jpg)
武祖神社は 赤松氏の先祖と伝えられる 源季房(すえふさ)の創建とされ 元弘三年(1333)
に 赤松円心が 大塔官護良親王の令旨を受け 鎌倉幕府に対して 挙兵したとき 当社に 戦勝
を祈願し 摩耶山の合戦で 六波羅探題の幕府軍を破ったと 伝えられています。
かっては 白旗山山麓にあったものを 赤松円心によって 現在の地に 移されたと言われていま
す。 赤松円心ゆかりの場所ですが このまま 廃寺(社)になるのでしょうか・・・。
武祖神社を後にして 岩木甲の鍛冶へ向かいます。 国道に戻り 南へ下り 金華橋を渡り
南へ。 県道451号線に出る手前に 説明板があり 道路脇に車を停めました。 細野から 4.5
km。 智頭急行のガード下を潜り 線路沿いに 100m上がると 土塀に囲まれた 宝篋印塔が
あります。 鍛冶の宝篋印塔は 高さ108㌢の花崗岩製で 基礎に刻まれた銘文から 明徳元年
(1390) に 赤松上村の 「一結衆」 という信仰集団によって 造られた 供養塔です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/58/3c82abc56443952fbc984f115926a96b.jpg)
鍛冶の地蔵像へ行きますが ここは 分かり難い場所でした。 というのも パンフのマップに
橋を渡って すぐ 川に沿って曲がるようになっているので・・。 捜していると 近くの奥さんが
帰って来られ パンフの写真で 板碑の後方が 竹林であることから 竹林が分かり・・。 しかし
地蔵像の前に大きな栗の木があり 像は 道路からは 見えません。
「鍛冶地蔵像板碑」 は 石英粗面岩質で 高さは 180㌢。 銘文から 延文四年(1359) 延行
を願主として 造られたそうです。 船形に彫り込まれた中に 地蔵像が 浮き彫りされています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/cb/f2bd76435b4af00f63ad97711f46fabd.jpg)
車に戻ると 先ほどの奥様が出て来られ しばらく お話させていただきました。 そこに 立派
なお寺がありますよ。 行かないわけには・・。 西蓮寺でした。 船谷山西蓮寺は 東寺真言宗
のお寺です。 詳しいことは 分かりませんが 平成七年に 建て直されたそうで まだ 新しい。
唐破風屋根の向拝には 獏の木鼻、龍の蟇股、波?模様の虹梁、懸魚は鳳、屋根の上の
飾りは 破風飾り? 飾りには 金色の蝶紋が光っています。
山門も 左にある摩尼殿も 立派で 摩尼殿の木鼻は 獏と獅子。 真言宗のお寺なので 摩尼
殿の前にある銅像は 弘法太子(空海)でしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/ad/786a69eac92c3d02a2dde138b17d911d.jpg)
驚いたのは 本堂の前にある石板に彫られた揚羽蝶の御紋。 聞くと 姫路城の池田輝
政の御紋とは 違うようです。 山門の軒丸瓦にも 本殿の向拝の上の装飾にも 揚羽蝶の
御紋があります。 わざわざ 御紋を石版に彫って 置いてあるのはなぜでしょう。
揚羽蝶の家紋は 一般的には 「蝶紋」 と言われ いろいろ種類があるようです。 池田家
の揚羽蝶紋は 蝶の羽を横から見た形で 鎧蝶、浮線蝶、備前蝶などは 蝶の背中から羽を
見た形で 左右対称形です。 蝶紋は 平安時代の平氏一門が 多く用い やがて 家紋とした。
戦国時代の武将・織田信長も 蝶の家紋で 池田家は 信長からもらった?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/bc/9905160b0de111503d5a1447aca33059.jpg)
≪追記≫ 9月8日 「あいたい兵庫」 の最新版 「平清盛」物語の中へ・・・ を入手しましたが
表紙に 揚羽蝶の紋があります。 これが 平家の家紋なのでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/e2/b29c1f011a8afcdd0eaae5520cac90de.jpg)
最後に 鍛冶口の地蔵像板碑へ行きました。 これは 康暦元年(1379) 南北朝後期の
もので 自然石に 地蔵像が浮き彫りにされています。 頭部の三本の横線も意味がある?
鍛冶の宝篋印塔、二体の地蔵像板碑は いずれも 兵庫県指定の文化財です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/06/c2cd5c564be32e58bc0f8e876eb39d09.jpg)
これで きょうの予定は 終わりました。 11:51 帰路につきます。 隈見橋を渡り 国道
を南へ下り 県道5号線を走って 13:06 家に戻りました。
本日の走行距離は 往路:恩徳寺まで 12.3km、上郡の忠魂碑まで 16km、武祖神社
まで 6.3km、鍛冶 宝篋印塔まで 4.5km、地蔵像板碑まで 2.4km、復路:29.9km
で 計:71.4kmでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/6d/f981183e222ff5a4d3bb8e2900ab7b01.jpg)
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きょうも 燃費の悪い車で 上郡まで ドライブしてきました。 前回のドライブで 寄り残したところを
廻ってきました。 ついでに 「バンカル・夏号」 にあった 播磨の戦争遺跡の 恩徳寺と上郡の忠
魂碑へも寄りました。 播磨の戦争遺跡は まだ 他にもありますが 一応 完了ということに・・・。
上郡では この前 歴史資料館でもらった パンフレット 「赤松氏のふるさとをゆく」 にある 武祖神
社、鍛冶の宝篋印塔、地蔵像板碑を 見てきました。
8:46 出発。 太子町を抜け 山陽道の高架下で 左折。 龍野新大橋を渡り 県道5号線を約
2.1km行くと・・。 失敗して 手前で曲がってしまい 北を回って 恩徳寺に着きました。 ここまで
12.3km。 裏門から 入りましたが 南の県道から入れます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/6e/984c4ec9bd119736128d55f4769b0fb0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/01/c4452333e3125d25e2d90b181ad9cd6b.jpg)
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浄土宗西山派の恩徳寺は 養老六年(772) 得道上人開基の古刹です。 得道(とくどう)
上人は 矢田部の出身で 西国33ヵ所霊場を始めた 徳道上人と 同一人物? 法道仙人
の開基という噂?もあるようですが あながち 嘘ではない。 絵巻物にある?
中世 嘉吉元年 赤松満祐一族が 滅んだ際 兵火により 焼失し 廃寺となるが 後 元禄
元年 再建される。 檀家を持たない地域の寺 恩徳寺は 地元の寄付によって 阿弥陀堂
を再建した。 (平成20年9月 完成) 本尊は 十一面千手千眼観世音菩薩。 雨乞いと称
して 始められた 「さいれん(祭礼)坊主」 が 有名。
御詠歌 ”広大の み法も高き 山の端に あらわれ出る 月のさやけさ”
境内の南西の隅に 砲弾形の 「忠魂碑」 があり 書かれているのは 「倶會(くえ)一処」。
バンカルに 「倶會一処」 は 阿弥陀経の中に出てくる仏教用語で 「共に一つの処で会う」
という意味 とありますが これは 極楽往生したら あの世で 会えるということでしょうか?
お墓に 倶會一処 と刻むこともあるようですから これは 合祀墓? 昭和3年 建立。
周りの玉垣も砲弾の形です。 右下に 播磨で一番小さいと 言われる忠魂碑があり これも
砲弾形をしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/7b/626637900bc6b86ddb41d1a2db5481d0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/1d/9be0bddb1f0b0d7bbc51f5cba311e4e5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/8f/e1fe49936e139260b8dcc6d82b48129d.jpg)
前に 大嫌いな?「機雷」 があります。 なぜ このお寺に 機雷があるのかは 分かりません
が 機雷を見るのは 初めて です。 直径1mほどあるでしょうか なかなか存在感があります。
水雷罐は 下附 舞鶴要港部 とあり 機雷碑は 昭和3年に建設、寄贈者の名前もあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/9b/23aa8ff71a769c5b71a3b41b65494b2f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/d0/cbe17ca63747d9f93b33593304c5dd61.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/fb/e61db25d0fbfc24f9e1203299567e492.jpg)
県道を西へ走り 上郡へ。 国道373号線に出て 北へ進むと 国道脇の上郡橋の手前に
「忠魂碑」 があります。 バスは来ないようなので 国道脇のバス停に駐車。 恩徳寺から 16
km。 忠魂碑は 大きいので 国道から見えます。 道路下の病院に 駐車できるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/a9/58fb0853a934f1328eb822baf70fbd1f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/98/7af028a8797e9864137ca4e9b227eee4.jpg)
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土台部が3m、台座部が3m、碑が4mほどの高さで 全体で10mほどの高さがあるでしょう
か? しかし 本にある 二個の大きな「機雷」 の供物が見当たりません。 台座の上にあるの
は 真新しい小さい石燈籠・・。 いつの間に盗られた? キライがないと この忠魂碑を見る価
値も半減します。 忠魂碑の字を書いたのは 元帥 伯爵 東郷平八郎。 上郡の戦没者の名
も刻まれています。 この碑は 北向きのため 写真を撮るには 逆光で 写真が暗くなります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/87/66474a70860b4c237321e0acf0e1e821.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/3f/197252ea9d8fbb07c8102d7864ed81f9.jpg)
戦争遺跡見学を終え 国道を北へ向かいます。 赤松の浄化センターで 右折して 細い道を
1.2km行くと 細野の集落。 忠魂碑から 6.3km、空き地に車を停めました。
まだ 先へ行けますが 道が細く 砂利道なので ここからは 歩き。 山道を歩くのも 久し振り・・。
武祖神社の鳥居の下を潜りましたが 行き止まり。 下の金網の扉を開けて 林道を進むと
寂れた武祖神社がありました。 世話する人がいないようで 荒れています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/49/733efd2ea541a02d0127b9b79f4fcff9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/cd/99ee50dee47984f5985c621f1e76617c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/ac/353bcfc8bc24792f95d1f55171540754.jpg)
武祖神社は 赤松氏の先祖と伝えられる 源季房(すえふさ)の創建とされ 元弘三年(1333)
に 赤松円心が 大塔官護良親王の令旨を受け 鎌倉幕府に対して 挙兵したとき 当社に 戦勝
を祈願し 摩耶山の合戦で 六波羅探題の幕府軍を破ったと 伝えられています。
かっては 白旗山山麓にあったものを 赤松円心によって 現在の地に 移されたと言われていま
す。 赤松円心ゆかりの場所ですが このまま 廃寺(社)になるのでしょうか・・・。
武祖神社を後にして 岩木甲の鍛冶へ向かいます。 国道に戻り 南へ下り 金華橋を渡り
南へ。 県道451号線に出る手前に 説明板があり 道路脇に車を停めました。 細野から 4.5
km。 智頭急行のガード下を潜り 線路沿いに 100m上がると 土塀に囲まれた 宝篋印塔が
あります。 鍛冶の宝篋印塔は 高さ108㌢の花崗岩製で 基礎に刻まれた銘文から 明徳元年
(1390) に 赤松上村の 「一結衆」 という信仰集団によって 造られた 供養塔です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/3b/75d09afe2a1ad75db110d62e43deae37.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/3c/b33a5873bef110654603922c22724365.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/58/3c82abc56443952fbc984f115926a96b.jpg)
鍛冶の地蔵像へ行きますが ここは 分かり難い場所でした。 というのも パンフのマップに
橋を渡って すぐ 川に沿って曲がるようになっているので・・。 捜していると 近くの奥さんが
帰って来られ パンフの写真で 板碑の後方が 竹林であることから 竹林が分かり・・。 しかし
地蔵像の前に大きな栗の木があり 像は 道路からは 見えません。
「鍛冶地蔵像板碑」 は 石英粗面岩質で 高さは 180㌢。 銘文から 延文四年(1359) 延行
を願主として 造られたそうです。 船形に彫り込まれた中に 地蔵像が 浮き彫りされています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/60/150bc276fb632f076ba22abafed46335.jpg)
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車に戻ると 先ほどの奥様が出て来られ しばらく お話させていただきました。 そこに 立派
なお寺がありますよ。 行かないわけには・・。 西蓮寺でした。 船谷山西蓮寺は 東寺真言宗
のお寺です。 詳しいことは 分かりませんが 平成七年に 建て直されたそうで まだ 新しい。
唐破風屋根の向拝には 獏の木鼻、龍の蟇股、波?模様の虹梁、懸魚は鳳、屋根の上の
飾りは 破風飾り? 飾りには 金色の蝶紋が光っています。
山門も 左にある摩尼殿も 立派で 摩尼殿の木鼻は 獏と獅子。 真言宗のお寺なので 摩尼
殿の前にある銅像は 弘法太子(空海)でしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/ec/3145a3934f54a49cec2f57411d55a08d.jpg)
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驚いたのは 本堂の前にある石板に彫られた揚羽蝶の御紋。 聞くと 姫路城の池田輝
政の御紋とは 違うようです。 山門の軒丸瓦にも 本殿の向拝の上の装飾にも 揚羽蝶の
御紋があります。 わざわざ 御紋を石版に彫って 置いてあるのはなぜでしょう。
揚羽蝶の家紋は 一般的には 「蝶紋」 と言われ いろいろ種類があるようです。 池田家
の揚羽蝶紋は 蝶の羽を横から見た形で 鎧蝶、浮線蝶、備前蝶などは 蝶の背中から羽を
見た形で 左右対称形です。 蝶紋は 平安時代の平氏一門が 多く用い やがて 家紋とした。
戦国時代の武将・織田信長も 蝶の家紋で 池田家は 信長からもらった?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/7e/13437a0d51b0e80db55c9b04e9e2b18c.jpg)
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≪追記≫ 9月8日 「あいたい兵庫」 の最新版 「平清盛」物語の中へ・・・ を入手しましたが
表紙に 揚羽蝶の紋があります。 これが 平家の家紋なのでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/36/3e2059fdf0308470beba0804c3755c46.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/e2/b29c1f011a8afcdd0eaae5520cac90de.jpg)
最後に 鍛冶口の地蔵像板碑へ行きました。 これは 康暦元年(1379) 南北朝後期の
もので 自然石に 地蔵像が浮き彫りにされています。 頭部の三本の横線も意味がある?
鍛冶の宝篋印塔、二体の地蔵像板碑は いずれも 兵庫県指定の文化財です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/37/a4471aae12acf8dce996e018b1f195d5.jpg)
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これで きょうの予定は 終わりました。 11:51 帰路につきます。 隈見橋を渡り 国道
を南へ下り 県道5号線を走って 13:06 家に戻りました。
本日の走行距離は 往路:恩徳寺まで 12.3km、上郡の忠魂碑まで 16km、武祖神社
まで 6.3km、鍛冶 宝篋印塔まで 4.5km、地蔵像板碑まで 2.4km、復路:29.9km
で 計:71.4kmでした。
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