6月20日(火) 天気:晴れ 室温:28.5℃
きょうほ、公民館の歴史教室6月の陣に 出陣しました。 今月は、元城郭研究室長の
中川秀昭さんの ”徳川家康の生涯Ⅲ” で、今回は 関ケ原の合戦 前夜からです。 家康は
今回で 没します。 歴史教室は、7、8月は 休講で、9月は 世界遺産登録30周年を
記念した ”姫路城 夏の特別公開” に合わせ、中川先生の案内で 姫路城をめぐる予定です。
。。。。。。 徳川家康の生涯Ⅲ 。。。。。
1.関ケ原の戦い
・前田利家没 慶応4年(1599)3.3・・旧豊臣家臣団のバランスが崩れる
・豊臣七武将の石田三成襲撃計画(慶長4年(1599)3.4)
加藤清正、福島正則、浅野幸長、蜂須賀家政、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興
ー家康の仲裁⇒石田三成失脚、佐和山城に退く(9.26 家康、大坂城西の丸に入る)
★会津征討 慶長5年(1600)6 家康 59歳
・五大老の一人・上杉景勝に 謀反の風聞、家康が 上洛を求めるも 直江兼続が 拒否(直江状)
・家康、会津征討を 呼号(慶長5.616)、家康ら 会津に向け 出発(家康家臣団+豊臣系武将)
・慶長5.7.11~12、敦賀城主 大谷吉継、会津征討の途、佐和山城・石田三成に呼ばれ、密儀(挙兵協議)
・「内府ちがひの条々」:大坂三奉行、徳川家康糾弾状出す(13ヶ条)(慶長15.7.17)
・石田三成ら挙兵 慶長5.7(1600)
・小山評定:慶長5年7.25 福島正則ら 家康に付き、石田三成らを討つことで まとまる
★関ケ原合戦 慶長5年(1600)8~9
2.徳川幕府の成立
★徳川幕府を開く 慶長8年(1603) 62歳
・後陽成天皇の勅使を 伏見城に迎え、将軍宣下を受ける(慶長8(1603)2.11)
★徳川秀忠の将軍宣旨 慶長10年(1605)4.15 64歳
・慶長12年(1607)2 江戸を発ち 駿府に移住・・大御所時代始まる
★徳川家康と豊臣秀頼 二条城の会見 慶長16年(1611).3.28 70歳
3.大坂の陣
・方広寺大仏殿鐘銘事件 慶長19年(1614)7.21 73歳
方広寺 大仏殿寛政:慶長19.8.1 大仏殿開眼供養、方広寺鐘銘:東福寺 長老・文英清韓撰
◇「国家安康」、「君臣豊楽」の鐘銘問題:家康の諱を分断して呪い、豊臣氏の繁栄を
祈願したもの⇒慶長19.7.26 幕府側は 抗議し、開眼供養を中止させた
・片桐且元、清韓:駿府に 弁明に行くも、家康と面会できず
・大蔵喞局 正栄尼が 家康のもとへ 家康 鄭重にもてなす、咎めず
★大坂冬の陣 慶長19年(1614)10.1~12.22)
・徳川軍20万 大坂城を包囲 × 豊臣軍10万 大坂城に籠城
●徳川軍・豊臣軍の構成
・徳川軍:親藩・譜代大名のほか 50家にのぼる外様大名(西国諸大名誓詞提出)
・豊臣軍:浪人衆(真田信繁、後藤又兵衛など)、豊臣譜代大名(大野治長、大野治房など)
・家康、大坂城本丸に向け 備前島から大砲、すさまじい轟恩により 繊維を打ち砕く、天守を直撃
・和睦:慶長19(1614)12.22
・和睦交渉 徳川方:阿茶局、本多正純、豊臣方:常高院(浅井三姉妹の次女・初)
・条件:本丸を残し、二の丸・三の丸の破却(堀の埋め立てなど)
★大坂夏の陣 慶長20年(1615)4.26~5.8
・徳川軍 15万×豊臣軍 5万・・両軍大坂城近郊(南部)で 激突
・主な戦い:道明寺の戦い(慶長20.5.6) 後藤又兵衛討死(56歳)
天王寺・岡山の戦い(同.5.7) 豊臣方×徳川方 最終決戦、信繁討死
・豊臣大坂城 落城と豊臣秀頼・淀殿 自害・・豊臣家滅亡
・大坂城炎上(5.7) 徳川方内通者の放火・・・千姫の脱出
・豊臣秀頼(23歳)、淀殿(49歳)自害 慶長20.5.8 朝 大坂城山里曲輪
大野治長、真田大助(信繁嫡男)など 殉死者 約30人
・豊臣家の名残を ことごとく抹殺(全国各地で 豊臣の残党狩り)
4.徳家康の死:駿府城で没、久能山に埋葬される 元和2年(1616)4.17 75歳
・元和3年(1617):「東照大権現」の神号を受け、日光山に 改葬される
※参考文献:『徳川家康』・『戦争の日本史 関ケ原の合戦と大坂の陣』 笠谷和比古著、
『どうする家康 (徳川家康と家臣団の時代)』 『関ケ原合戦』 『大坂の陣』 二木謙一著、
大坂城天守閣名品展「秀吉と桃山文化」 『大坂の陣と真田戦記』
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