私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

「京都1200年の旅」 陰陽師 安倍晴明

2012-03-28 11:59:17 | 日記
 3月28日(水)  天気:晴れ 曇り 風あり  室温:17.2℃

 きのう 神戸から帰って 夜 テレビを見ていると BS朝日で 知られざる物語 「京都1200年の旅」
という番組があり 「陰陽師 安倍晴明」 を 放送していました。 この番組が 好きで いつも 見ていますが
陰陽師に関しては マニアでないと 知らないかも・・。 関心がある人は 少ない・・・。
 レポーターは 歌舞伎役者の市川亀治郎で 変なタレントではなく 落ち着きがあるが いい。 写真は テレ
ビ画面を 撮ったので 荒れています。 テレビを見てから 時間が 経ったので 内容を 忘れてしまって・・。
 なにを 書くのだったか・・・?  4月10日 再放送がありました。
 最初に 下鴨神社の みたらし川で行われる 子供の無病息災を祈る ”流しびな” が ありましたが・・。
陰陽道には 表と裏があり 賀茂御祖神社(下鴨神社) は 陰陽道の裏の本拠地?


 平安時代の陰陽師・安倍晴明は 死後2年で 神様になり 以前の住まいであった 晴明神社
に 祀られています。 以前は 御所の北東にあり 御所を守る鬼門だった? 鬼門も 陰陽道で
す。 神社の提灯の星印は 陰陽五行説に 由来する。 夢枕獏氏も 俳優も 絵馬を奉納してい
る?
 安倍晴明は 当時の陰陽寮という役所の役人で 陰陽寮は 占い、天文、暦、漏刻(時間を計
る)の部門に 分かれていて 晴明は 天文部門を 担当した。



 神社にある桃は 清浄なもので 厄除け、魔除けの意味があり 多くの人が 触るので ぴかぴか
に 磨かれています。 桃太郎の昔話も 面白い。 鬼門に当たる 丑、虎の方向にいる鬼退治に 魔
除けの桃・太郎が 鬼門の反対方向の 申、酉、戌を 連れて行くのです。 ”鬼は 外っ!”の豆まき
の節分も 陰陽道が 関わっている・・・。
 平安時代の橋を移設した ”一条戻り橋”は 上京区の晴明神社の南にあります。 晴明の家には
式神が 居たのですが 奥さんが 怖がって どこかへ捨てて と言ったかどうか 知りませんが 晴
明は 戻り橋の下に 隠していたそうです。


 聞いた話では 晴明のライバル・芦屋道満が 晴明の父親を 殺害し 切り刻んで 戻り橋から 流
したのです。 それを知った晴明は 亡骸を 拾い集めて 生き返らせたのです。 それで 戻り橋?
 意外な人物として 千利休の屋敷も 敷地内に あったそうですが 千利休と 陰陽師の関係は?
晴明神社には 晴明の念力により 湧きでたと言われる 古い井戸 ”晴明井”があり 飲めば 病も
治った・・。 利休は この井戸水で お茶を淹れた?
 路地裏の分かり難いとろに 命婦稲荷神社があり ここの ”鉄輪の井戸” は 昔の妻が 呪いを
かけていたのを 晴明に見破られ 井戸に 身を 投げたことから 縁切りの力もある・・・。


 法然の浄土宗 清浄華院に 身代泣不動縁起 絵巻が 残っていて 三井寺の僧・智興が 重い病にか
かり 苦しんでいた。 晴明が 占って 身代わりがいれば 重病の僧の病は治る・・。 若い証空
が 身代わりとなりますと・・。 証空は 痛みに苦しみ・・。 絵の中の 不動明王が 涙を流し ”汝は
師に変わらん 我は 汝に変わらん” と言って 証空の身代わりとなって 地獄に落ちると 閻魔大
王が 驚いて ひれ伏し 不動明王を この世に 返し 証空の病も 治った・・。 本堂には 身代(み
がわり)泣不動(絵)が 祀られているそうです。


 晴明と 道満の対立は 様々な物語に 創り上げられ 歌舞伎や 浄瑠璃で 脚色され 面白 お
かしく 演じられたようです。 見ていませんが 映画 「源氏物語」 にも 安倍晴明が 出演した?
「枕草子」 に 陰陽師が 出てくる?


 二条城の南にある神泉苑には 恵方社があり 陰陽道により 決められる 恵方を 向いている。
恵方は 干支の 「十干」 によって 決まっていて 5年周期だそうです。 今年は 北北西で 来
年は 南南東? 恵方社では 毎年 大晦日の夜 恵方の方向に 向きが 変えられるそうです。
お参りする人が 北北西を 向いて 拝めるよう 社は 南南西に 向けられているのです。


 神泉苑といえば 以前の 「京都1200年の旅」 で 放送された 平安初期 天長元年の干ばつ
の際 東寺の空海と 西寺の守敏の雨乞いの話も 面白かった。 年上の守敏が先に 雨乞いの
祈祷をしたが 雨が降らず 空海が 雨乞いをすると 雨が降り 空海が勝利した。 これを恨んだ
守敏が 空海を待ち伏せして 後ろから矢を射たが お地蔵さんが 横から出てきて 矢を受け・・。
背中に矢の跡があるお地蔵さんが 矢取地蔵。 以来 東寺は 栄え 西寺は 衰退していく・・。
まるで 陰陽師のライバル 安倍晴明と 芦屋道満の戦いのようです。
雨乞いの祈祷が行われた 神泉苑には 水の神・龍の棲む池があり 今でも 清らかな水が湧く?
右下の絵は 重病の僧・智興を 安倍晴明が 占っているところだったか・・・。

 都の北西にある 大将軍八神社は 1200年の歴史のある神社で 方位除けの神様、陰陽道の
方位神・大将軍が 祀られ 陰陽道と 深いかかわりがあります。 陰陽道のお堂・方徳殿には 平
安から鎌倉時代にかけて 造られた 80体の大将軍 神像群(重文?)があり 北斗七星になぞらえ
て 配置してあるとか・・。 像には 鎧冑を付けたものと 昔の装束のものの2種類あるそうです。
社号の八神社は 陰陽道の暦神(八将軍)を 祀るという意味です。
 京都には まだまだ 陰陽師に関する 面白いものが ありそうです。

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神戸 大輪田泊を巡る

2012-03-27 15:33:47 | 日記
 3月27日(火)  天気:晴れて暖かい  室温:17.5℃

 きょうは 「大輪田泊」 周辺を 歩いてきました。 福原京と 大輪田泊を 語らずして 清盛を 語ることは
できない? 私は 特別 平清盛を崇拝しているわけではなく NHK大河ドラマも 見ないので 清盛個
人に 関することは 別とし 清盛ゆかりの史跡・歴史的遺構を 訪れました。 きょうは 暑くも 寒くもなく
いいウォーキング日和でした。
 21日に 相生の万葉岬で 出会った魔女のような女性が 神戸は 清盛人気で 盛り上がっている と
言っていたので 土日は避けて 平日に 行かないと・・・。 とすると バイパスや 阪神高速は 混むので
車は止めて 電車にしないと・・・。 という訳で 兵庫駅まで 電車で 行きました。
 予定したルートは 以前の NHKの ”歴史ウォーク”と 似たル-トかもしれませんが ひょうごツーリズム
協会発行の 「あいたい兵庫キャンペーン2011」 という雑誌(パンフレット) の ”清盛の夢路を たどる
旅” を 参考にしました。 ほかにも ”KOBE de 清盛 2012” というのもあるようです。
 が 調べると ”清盛七辯天めぐり”があり 七つの災いから逃れ 七つの福を授かる と言われ・・。
七つ 全部 回ることはできませんが 安全弁天(和田神社)、音楽弁天(真光寺)、勉強弁天(済鱗寺)、
運動弁天(恵林寺)は 廻りましたが ”兵庫七福神” というのも あったりして・・・。
 きょうは よく歩きました。 えッ 家に帰ったら 万歩計が ない!!
下の図で 歴史館の位置は もう少し北で 入江橋の近くで 石椋も 少し北の 運河が 曲がる角です。


 網干駅始発の 8:29 新快速に乗ります。 神戸まで 1110円。 始発なので 好きな席に座れます
が 姫路で 満席に。 兵庫で 降りたいのですが 新快速は 停まりません。 神戸から 引き返し 9:
22 兵庫駅に 到着。 まず 恵林寺に 行きます。 北の恵林寺から 南の和田神社へ 同じ道を 通らず
一筆書きで 各所をめぐり 歩くことが できるでしょうか?
 駅前の道を 東へ歩くと 蛭子神社がありました。 とりあえず 写真を撮りましたが 蛭子神社は 「兵
庫七福神」 の恵比寿さんでした。 手に 釣竿と鯛を持っているので 漁の神様? 航海の神様?
 国道に沿って 東へ行くと 済鱗寺があります。 お寺ではなく 普通の民家のようですが 入口に 表示
があり お寺と分かります。 仮の本堂に 本尊・阿弥陀仏像が お祀りされています。


 済鱗寺は 清盛七辯天の一つで ”勉強弁天” 清盛が 安芸の国 厳島神社から 勧請し 兵庫に
七つの辯財天を 祀ったのが はじまりです。
 済鱗寺の北が 恵(え)林禅寺。 貞和二年(1346) 錦江省文禅師 開山の 臨済宗の寺院で
清盛七辯天の一つ ”運動弁天”。 本尊は 十一面観世音菩薩。


 寺記によれば 清盛公が 経ヶ島を造るとき 波風の難によって 島が流され 人柱を用いて ようやく
成就したとされる。 その後 島の安全のため 七ヶ所に 弁財天の社を建てた。 恵林寺境内の波除
弁天は ちょうど 経ヶ島の北の端に当たる。 空襲で 全ての伽藍を 焼失し 阪神大震災で 全ての
伽藍が 全壊した。 その後 再興もなり 平成15年11月 落慶法要が 盛大に 執り行われた。


 国道を渡って 金光寺へ向かいます。 正確な場所が 分からなかったので 聞きまわりました。
新聞の声の欄に 街中で 会話が少ない。 出会った人には 声をかける という声があり 普段 人
と 話すことがないので 積極的に 声をかけます。 特に 若い女性には・・。 この辺に 金光寺は?
自転車の男の人が 親切に 連れて行ってくれました。 国道から すぐだったのに 南を 大回り・・。
 『平家物語』 によると 清盛が 経ヶ島築造に 着手したと言われる 承安三年(1181) の開基。
金光寺は 清盛が 海中より 引きあげたといわれる 金色の薬師如来像を 本尊とする。


 金光寺の 直ぐ南が 能福寺。 道路から 日本三大仏 といわれる 兵庫大仏が 見えます。 清盛
が 51歳で 出家した寺として 有名。 清盛は 平家一門の祈願寺に定め 大伽藍を 建立して 八棟
寺と 称された。 京で 没した清盛の遺骨は 遺言により 住職が持ち帰り 寺領内に 埋葬され 「平
相国廟」が 造立された と言われていますが・・。 宝篋印塔が 一つしかない・・。 もうひとつは
法印塔で 九重塔でした。 能福寺は 清盛七辯天の ”清盛くん” で 兵庫七福神の ”毘沙門天” です。
 平安末期 八棟寺に 平相国廟が 造立されたが 平家滅亡と 同時に ことごとく 破壊され 能福寺
は 灰燼に帰した。 後に 平家一門の盛衰を 哀れんだ北条貞時公は 一基の石塔を 建て 清盛公
の霊を弔った。 これが 清盛塚(十三重塔)・・・・ 後で 行きますよ。


 奥に 御所造りの優美な本殿があります。 驚いたことに 庭を見ていると 立札があり 兵庫の豪
商 「北風正造君 顕彰碑」 で 中に 姫路藩が 官軍の攻撃を受け 城下町が 戦場になろうとしたとき
彼が仲裁に入り 軍需金15万両と 引き換えに 紛争を 解決した。 現在 白鷺城が 無傷で 現存する
のは この人のお陰です・・ とあります。 姫路在住の 私としては 見過ごすことはできません。
また 神戸発展の功労者でもある。 なお この顕彰碑の揮毫は 伊藤博文です。


 入江橋に出て どっちへ? 右に進み 若くない女性に 聞きますが・・。 「兵庫城跡」 の標柱があり
天正9年(1581) 池田信輝が この辺りに 兵庫城を 築いた。 明治元年 城の一部に 最初の兵庫
県庁が おかれた・・・。
 ここは 新川運河で キャナルプロムナード ということは 散歩道? かんかん照りでなければ 散
歩するには いい雰囲気ですが プロムナードに 階段状の段差があるのは 困ります。 転びそうに
なりました。 入江橋の袂に 清盛くんの人形があります。 この辺りが 大輪田泊跡?


 次は 「古代大輪田泊の石椋(いわくら)」 ですが これがまた 分かり難いところにあります。
というか 「あいたい兵庫」 の地図も 私の頭も いい加減です。 入江橋から 運河に沿って 北へ行く
と 角に 「石椋」 が ありました。 清盛による日宋貿易の拠点となった 大輪田泊(港)。 この巨石は
奈良時代から 平安中期の港湾施設と考えられる 遺構が発見され 大輪田泊の石椋の石材だった・・。
下流側には 築島水門があり 清盛塚の絵が 描いてあります。 停泊中の漁船は 水門から 出入り?


 水門の横に 来迎寺 通称 築島寺があります。 阿弥陀仏を 本尊とする浄土宗のお寺。 清盛が
経ヶ島を 築造する際 たび重なる暴風と 大波のため 工事は 難攻した。 時の陰陽師は これは
龍神の怒りである。 人柱と 一切経を書写した 石を沈めると 成就するであろうと 言上した。 この
とき 松王丸17歳が 私を身代わりに 沈めてくださいと 申し出た。 応保元年(1161) 松王丸
は 海底に沈み 経ヶ島造営は 完成した。 松王丸の菩提を 永く弔うため 当寺が 建立された。 境内
には 松王丸の供養塔や 清盛の寵愛を受けた 妓王と 妓女の墓があります。


 築島橋を 南へ下ると 歴史館。 コスプレの若者がいます。 平清盛を中心に 平家ファミリー7人
で 構成されたPRキャラバン隊 「神戸・清盛隊」 が 登場と パンフレットにあるので それのようです。
入場料300円を払って 歴史館に入りました。 歴史館では 清盛の生きた 平安時代の暮らしの紹介。
 遺跡の展示など 約800年前の神戸が 紹介されていますが 予想通り? 私には あまり 見るべき
ものは ありませんした。 出口で 新聞にあった 「兵庫津まち歩きマップ」 を もらって 歴史館を 後
にします。
 地図の上では 行程の半分くらい 歩いたかと 思いますが 脚が疲れて ブログを書く手も 疲れてき
ました・・・。 最後まで たどりつけるか・・。 フゥー・・



 一筆書きで 歩くつもりでしたが すぐ近くに 入江橋があったので 橋を渡り プロムナードに 戻り
ました。 後で考えると 南の大輪田橋を 渡れば 良かった・・。 運河に沿って 南へ歩くと 住吉神
社があり 神社の境内に 「清盛塚」 があります。  「清盛塚」 は 前に 書きましたが 鎌倉時代に
足利貞時が 建立した 高さ約8.5mの 石造十三重塔です。 足利氏といえば 源氏一族の源義国?
が 足利荘に 住んだことから 足利姓 を名乗った。 言わば 源氏の流れを汲む 一族ですが・・。
 昭和20年の空襲で 焼けて 黒くなっています。 横にある 「琵琶塚」 との間には 昭和43年 清盛
像が 建てられました。


 道路向かいの北に 真光寺があります。 境内の広い お寺です。 兵庫七福神の「音楽弁天」で
清盛七辯天の福禄寿です。 真光寺は 時宗の開祖 一遍上人が 亡くなったところに 建立された
お寺で 時宗は 太鼓や 鉦(かね)を 鳴らしながら 念仏を唱える 「おどり念仏」 という布教方法の
ため 音楽弁天? また 福禄寿の 福は 幸福、禄は 高給、寿は 長寿につながる と言われる。


 右手に 鐘楼、観音堂があり 正面の奥が 本堂です。 観音堂のご本尊は その昔 輪田岬の
海底より 霊光を放っていたのを 漁師が引き上げると 観音様の像だったので お祀りしたとか・・。
 手前に お膳水の井戸があります。 清盛公が ここへ来たとき 一遍上人が この井戸の水で
お茶を 献上したとか・・。 左奥に 小高く積まれた無縁如来塔、 さらに奥に 歌碑があります。


 一遍上人の御廟所には 南北朝時代の石造 五輪塔があり 県史跡で 重要文化財。 一遍
上人は 13歳で 出家して 全国遊行し 正応二年(1289) 現在の真光寺で 亡くなります。
 御詠歌 ”旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき”
上人は 四国 道後の豪族・河野家に 生まれたそうです。 この河野家は 先日の「網干まちな
か歩き」 で訪れた 「誠塾」 を開いた 河野東馬 の先祖であることは 間違いない?
  ・・・・「サーラ」49号の 「河野東馬先生のこと」 ~没100年に寄せて~ を 参考にしました。
追記:その後 河野家の家系を 入手することができ 一遍上人は 第七代孝霊天皇から 数えて
46代の河野通広の子 智真坊 であることが 判明しました。 当時は 河野 という姓ではなく
越智 だったかも・・・。
 ここも 第二次世界大戦で 空襲に遭い 全山焼失し 阪神大震災により 観音堂、鐘楼等
が 倒壊し 平成になって 再建されました。 五輪塔が 黒いのは 空襲で 焼けたから・・。


 団体様が来たので 引き揚げます。 南の清盛橋を渡ります。 右は 兵庫運河、左は 新川。
橋を渡ると 薬仙寺。 薬仙寺は 兵庫七福神の 寿老人。 福禄寿の鶴亀に対し 鹿を伴っ
ていることが多く この鹿は 千年以上生きている鹿で その肉を食べると 長寿を 得る?


 薬仙寺は 平清盛が 後白河法皇を 幽閉した地。 花山法皇の歌碑があり ”有馬富士 ふも
との霧は海に似て 波かと聞けば 小野の松風” 花山法皇は いろいろあって 19歳で 出家
し 三田の花山院に 隠棲。 大輪田の海を愛し しばしば この寺に 滞留した。


 また 薬仙寺には 「萱(かや)御所蹟碑」 もあり 運河拡張工事のため 当寺内に 移された。
萱の御所は 牢の御所とも 言われており 清盛が 後白河法皇を 幽閉した場所と伝えられて
いる。 文覚上人が 御所に忍び込み 後白河法皇より 院宣を授かり 源頼朝に 平家追討を
勧めたという・・。 また 後醍醐天皇が 隠岐の島より 還幸の際 病床に伏し ここの霊水を
薬水として 献上し 服用せしところ たちまちにして 快癒されたという 井戸もあります。 


 兵庫工業高校の前に 絵画パネルがあり 防波堤に 魚が 描かれています。 水族館?
工業高校の塀に沿って 歩き やっと 最終目的地 和田神社に 辿り着きました。 大きな赤い
鳥居があります。 疲れましたァ・・。 兵庫駅に着いてから 3時間 ずーっと 歩きっぱなしです。
 和田神社は 七辯天の 「安全弁天」 で 七福神の 「弁財天」 です。 境内に 車が 多く停めて
あるのは 安全弁天だから? 神社で 車の お祓いが 受けられるようです。 社号額は 阪神
大震災で 関西一の大きさを誇った 石鳥居が 倒れ そのとき 掛けていた額 だそうです。


 清盛が 安芸の厳島神社から 市柿嶋姫大神(弁財天)を 勧請し 福原の発展と 住民の繁栄を
祈願して 海上の安全を つかさどる 安全弁天を 祀る。 元は 蛭子の森 と呼ばれた 神域で 現
在地より 南西800mの 海岸にあったそうです。 狛犬の脚に 苞帯?が 巻いてあるが・・・。
奥には 菱垣廻船問屋が 航海安全を願って 享保13年に 奉納した 石鳥居もあります。
 参道の左に ご神木の二代 「影向の松」 があります。 和田明神の使いとして 信仰される白蛇
が 初めて 姿を 表わした松です。



 お参りを終えて 帰ろうとすると 駐車場から 銅板葺きの立派な社殿が 見えます。 ここまで
来たら 寄らない訳には・・。 隣なので 寄りました。 三石神社でしたが なんと 祭神は 神功
皇后で 神功皇后ゆかりの社でした。 弓を持った 神功皇后の銅像があります。 この弓で 姫
路の麻生山から 弓矢を 射たのでしょうか? 三本の矢 伝説の地を めぐったことがあります。
 脇の老人が 抱いているのは 皇后の子 応神天皇だそうです。 とんだ めっけものでした。 


 三石之遺蹟があり 石が 三つあります。 これは 神功皇后が 三つの石を持って 安産を祈った
処とか・・。 三つの石ということは 神功皇后と 夫の中哀天皇と 息子の応神天皇だと思うのです
が・・。 盃状穴石造物という石(陰石?)もあり これは 女性のシンボルを 表わすのですが・・・。
 帰路につきます。 当初の予定では すぐ近くの和田岬駅から 電車で 帰ろうと思ったのですが
和田岬線は 三菱専用通勤電車で 昼間は 便がありません。 約2km 歩いて 兵庫駅へ戻ります。


 途中 食堂で 昼食。 国道に出ると なんとなく 見たことのあるような家が・・。 近づいて見る
と 義叔父さんの家で まだ 表札が かかっていました。 結婚した頃ですから 40年くらい前
に 来たことがあります。
 兵庫駅で 13:49 に乗り 神戸駅へ行き 13:55 の新快速に 乗りました。 乗った電車は
運良く 赤穂行で 乗り換えしないで 網干まで 帰れました。 隣に座った老婦人は 本を出して 一心
不乱に 数独を やっていました。 電車は 14:45 網干に着きました。 やれやれ・・・・。
 帰ってから 歴史館でもらった ”まち歩き” マップを見ると 兵庫駅の東に 福海寺、福厳寺、惣門の
碑が あります。 寄れば良かった・・。 時すでに 遅し・・・。
 。。。。。。。。。。                       。。。。。。。。。
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平家塚 と 万葉岬

2012-03-24 13:12:53 | ドライブ
 3月21日(水)  天気:晴れ 暖かい?   室温:18.1℃

 きょうは 天気がいいので 相生近辺を ドライブしてきました。 上郡町小野豆の 「平家塚」 と相生の
南端にある 「万葉岬」 へ。 新聞に 金ヶ崎の万葉岬で ツバキが 見ごろを迎えた とあったので きの
うの休日は 外して わざわざ 平日に 行ったのですが 多くの人が訪れていて 駐車場も 満車状態でし
た。 神戸の清盛ゆかりの 「大輪田泊」 周辺を 歩きたいのですが なかなか タイミングが 合わないの
で とりあえず 小野豆の 「平家塚」 へ行ったのです。 しかし きょうは ツイていませんでした。
 久し振りに 温泉にと 相生のペーロン温泉に行くと きのうの代休で 休み。 ならばと 赤穂ハイツ
へ足を伸ばすと ハイツも 休み・・。 ホテル万葉岬で 昼食を と思ったのですが 手ごろな値段のもの
がないしぃ・・・。


 9:22 出発。 国道2号線に出て 西へ向かいます。 相生駅を過ぎ 竜泉の信号で 右折して 県道
44号線を 北へ向かい 9:56 真広の信号で 左折して 県道5号線を西へ。 椿峠を越え 上郡に入
ると 工事中で 片側交互動通行で うっかり 通り過ぎるところでした。 平家塚の道標を見て 慌てて
右折。 県道450号線に入り 集落を抜け 細い山道を登ります。
 県道5号線から 3.3km、小野豆の集落に 着きました。 地図にある真勝寺を 探しますが・・。 聞く
と 後を継ぐ人がなく もう 取り壊されたそうです。


 急カーブを 曲がった先に 道標があったので 脇のスペースに 車を停めましたが ここは 民家の庭
だった? 誰もいないので・・。 10:22 駐車。 家から 28.2km。
 上郡町小野豆は ”落人伝説の里” で 寿永四年(1185) 壇ノ浦の戦いに敗れた平家一族の重臣
(清盛の死後 平家の総大将?)平経盛(つねもり 1124~1185:平清盛の異母弟) が 四人の家
来と共に 源氏の追手を逃れ 山里のこの地に落ち延びてきた と いい伝えられ・・・。  経盛を 供養
するため 五輪塔が建てられた。 標高300mのこの集落は 上郡町に残る 7つの山頂集落のひとつ
だそうです。  案内図を見て 道標のあるところから 折り返すように 山道?を登り まず ジャンジャ
ン穴へ行きます。


 古い石垣に沿って行くと 誰かの好きな廃墟があります。 分岐を 左に行くと すぐ ジャンジャン
穴があります。 机とベンチがあるので 分かります。 壇ノ浦の戦いで 破れ 九死に一生を得た
経盛は 家来 数人を連れ 小舟で 瀬戸内の東方を目指し 播磨の国の西の端 相生の入江に
漂着した。 人目を避け 小野豆に たどり着き このジャンジャン穴を見付け 生活をしていた。
 一方 源氏の武士たちは 平家の残党を探し求めた。 谷川に 茄子のヘタが 流れてくるのを 見
付けたり また 鶏の鳴く声を聞き 人が住んでいる。 探し出せ・・・。 敦盛たちは 見付けられ
寿永四年九月 経盛は 自害した。(61歳) 家臣は 遺骸を見晴らしの良い この地に 葬った。
 洞窟の名前の由来は 中に向かって 声をかけると 中から ジャンジャンと 反響するから?
敦盛は 壇ノ浦の戦いで 敗れた際 海に身を 投げたと 思っていましたが・・・。


 養和元年(1181) 清盛が 病死すると 平家は 京都から落ち延び 福原へ戦場を移すことになり
一ノ谷の合戦で 源義経の不意打ちを受け 船で屋島へ逃げ 屋島の戦いでは 義経の奇襲を受
け 壇ノ浦の合戦では 船戦に不慣れで 不利と思われていた源氏が 潮の流れが変わり 逆転。
このとき 平氏は 三種の神器を 海に捨てたため 回収できず 義経は 源頼朝から 叱責を受け・・。
元歴二年(1185) 平家は 断絶。 源平合戦については 面白い話が いろいろ あるようです。

 擬木階段を上がり ふれあい公園に。  公園の下から 南の展望良好で 鉄塔が並ぶ 宝台山が
すぐ近くにあり 南西方向には 麓の集落が見えます。


 一段上が ふれあい公園で 平家塚(五輪塔)があります。 佐用の道満塚や晴明塚のように
山の上に ポツンとある方が 雰囲気が いいと 思うのですが・・。 わざわざ 公園として整備す
る意味があるのでしょうか? いずれ 小野豆集落が 廃村になると 平家塚も埋もれてしまう?
佐用町大畑には 平知盛(清盛の息子)塚があるらしいので また 機会があれば 訪れたい・・。
 舗装道の県道を歩いて 車に戻り 10:45 車を出し 坂道を下ります。


 県道5号線に降りて 東へ戻り 真広の信号で 右折して 県道44号線で 竜泉へ。 国道2号線
を戻り 相生駅を過ぎ 陸橋を渡り 市街を南へ抜けて 国道250線に出て 11:24 ペーロン温
泉へ。 小野豆から 17.9km。 残念ながら お休み。 国道250号線を走り 12.3km、11:51
赤穂ハイツに 着きましたが ここも お休み。
 国道250線を戻り 相生湾を見ながら 南へ走り 御津町との境界にある万葉岬へ。 12:25
ホテル万葉岬の駐車場に到着。 結局 小野豆から 50.6km 走りました。 ホテルで 昼食を と
思いましたが 手頃なものが ありません。 お昼は 千円以下でないと・・。 ホテルのロビーには
ツバキの写真が 展示(写真展)してありました。 それにしても 駐車場も満車で 人が多い。 世
の中には なんと 元気で 暇な 老人が 多いことか・・・。


 ツバキ咲くー はるなのにー♪ 瀬戸内海国立公園の 「万葉の岬」 は 瀬戸内海を 見下ろす高台で
山部赤人の ”縄の浦ゆ 背向に見ゆる奥つ島 漕ぎ廻る船は 釣しすらしも” と 詠まれた和歌もある。
これは 室津の藻振り鼻の碑にあった? 縄の浦は いまの相生湾だそうです。
 当地で 詠まれた万葉集の和歌が 多いことから 「万葉の岬」 と 呼ばれている。 ツバキは 相生市
の市木で 岬には 40種200本があるそうです。 品種も 描いてあり 光源氏、源氏車、紅乙女、蝦夷
錦、雛侘助 などが ありますが 私には 白、ピンク、赤などの 色の違いしか 分かりません。
 椿は 花が落ちるかとから 首が落ちる連想で 縁起が悪いと 嫌う人も多いようですが 逆に 春の
木と書くことから 縁起がいい という人もあり 私は好きです。 まあ お見舞いには 持参しない方が・・。





 鳴島万葉歌碑に 刻んである歌は ”室の浦の 湍門の埼なる 鳴島の 磯越す波に 沾ぬれにけ
るかも ” (詠み人知らず)と 書いてあるそうです。 漢字も難しい・・。
 きょうは 久し振りに 金ヶ崎の先端の波打ち際まで 降りてみました。 距離は 700mほどある
でしょうか? 擬木の階段が多く これを往復すると 翌日 ふくらはぎが 筋肉痛ゥ・・・。


 海岸は 岩場ですが 遊歩道があり 鰯浜まで歩くことができますが 浜辺の景色だけ見て
引き返しました。 たまに 広ーい海を 見るのも 気持ちが 良い。
車に戻り 14:02 帰路につきます。



 国道250号線に降りて 右折して 東へ戻ります。 海岸沿いの国道は 景色も 天気も良く
絶好のドライブコースです。 4月の歴史教室は 室津探訪ですが その室津を 国道から見な
がら 車を走らせ 14:59 家に帰りました。
本日の走行距離は 往路:小野豆まで 28.2km 万葉岬まで 50.6km 復路:20.4km
で 計:99.2kmでした。 最近 また ガソリン代が値上がりし 152円になっています。

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「ひめじ緑いち」

2012-03-19 12:28:55 | 日記
 3月19日(月)  天気:晴れ・曇り  室温:18.4℃

 きょう 姫路に行き 用事を ひとつ、ふたつ 済ませ 大手前公園で 開かれている 「ひめじ緑いち」
を 見てきました。 春の恒例行事 「ひめじ緑いち」 も 今年で 40回目を迎えるそうで 40回記念
”花と緑のあふれるまちづくり” として ガーデニング・コンテストなどの 記念行事が 行われているそう
で 抽選会もあるそうです。 ガーデニング・コンテストでは ミニガーデン部門と 寄せ植え部門が あ
ったのですが 参加者は 意外と 少なく さびしい感じがしました。 業者の即売コーナーの方が 賑わ
っていて・・・。 どれが 優秀作品だったのでしょう?
 朝 いい天気だったので 薄着で行ったら 日が陰り 風が冷たく 寒くなり 早々に 引きあげました。
寒くなければ 好古園へ行こうと 思ったのですが・・。 行列のできる店で 鯛焼を買って 帰りました。

 即売コーナーでは 満開の梅や 枝垂れ梅、サンシュユ(ミズキ科)、ハナミズキ、ハナカイドウ、
マンサク、アセビ、ミツマタ などの花がありました。



≪寄せ植え部門≫


≪ミニガーデン部門≫



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交流ステーションアで 春蘭展

2012-03-17 12:53:07 | 日記
 3月17日(土)   天気:雨 後 曇り   室温:15.8℃

 きょうは ”雨が しとしと 土曜日 ぼくは ひとーりでー・・♪♪” 手柄山の交流ステーションへ 行
きました。 きょう あす の二日間 ”春蘭展” (姫路蘭友会)をしています。 日本の春を感じさせる
シュンランが 約100点 展示されています。









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