私の日帰り散策

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歴史教室4月 赤松氏衰退への道ー赤松義村・政村・義祐・則房

2024-04-16 14:28:43 | 歴史探索

  4月16日(火)   天気:曇り のち 晴れ   室温:23.5℃

 きょうは、公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は、元城郭研究室長の中川 秀昭さんの ”赤松氏 衰退への

道ー赤松義村・政村(晴政)・義祐・則房” です。 4月、5月も 赤松氏の話が つづく予定で、4月は 赤松

の家臣の話だそうです。 今月の話の内容も、登場人物が多く、内容が複雑で、資料も 膨大なので、ごく簡単

紹介します。

  。。。。。 赤松氏 衰退への道ー赤松義村・政村(晴政)・義祐・則房 。。。。。。

Ⅰ 赤松義村登場

 1.赤松義村と洞松院

  ・赤松道祖松丸(さえまつまる・赤松義村)、家督継承(赤松七条家・赤松政資の子)

                       守護(播磨・備前・美作)就任 明応5年(1946).5

  ・赤松氏の有力被官・守護代が 室町幕府に 義村の守護就任を求めた

  ・義村幼少・洞松院(めし様)が 実権握る(あくまで 義村が成長するまでの中継ぎ役)

 2.浦上則宗の専横   <浦上則宗⇔則宗反対勢力(浦上則国中心)>

  ・播磨東西取合合戦:明応5年(1496).8~明応8年(1499) ※播州錯乱とも

  ・浦上則宗の死:文亀2年(1502).6.11 備前三石城で 病死・74歳 (文亀2年.10 赤松政秀 没)

 3.赤松義村の自立

  ・義村の自立傾向が 顕著に(親裁体制整う) 永正12年(1515)

  ・浦上則宗死後、浦上村宗 家督継承 勢力拡大・・・赤松義村・浦上村宗の二重権力構造(対立が生じた)

Ⅱ 細川氏の内紛と赤松氏

 1.細川管領家の家督争い

  ・管領細川政元(摂津・丹波国守護)

  ・明応の政変(明応2年(1493).2~閏4)政元、10代将軍 足利義材を退位させ、足利義澄を 11代将軍に)

  ・細川政元の三人の養子 ●細川義元:関白九条政基の子 ①

              ●細川澄元:細川成之(阿波・讃岐守護)の孫 ③

              ●細川高国:細川政春(和泉守護)の子 ②

  ・永正5年6 細川高国は、①将軍義澄を近江へ追放、新たに 足利義尹(よしただ・義材)を将軍に据える

               ②自身は、細川家惣領として 右京太夫に任命される(丹波・摂津国守護職)

   ※細川家の当主、内紛で わずかな期間に  政元→澄之→澄元→高国 と めまぐるしくかわる

 2.赤松家への影響

  ・前将軍 義澄、追放先・近江で生まれた 亀王丸(のちの12代将軍 義春)を 赤松に託す

  ・船岡山の戦い 永正8年(1,511).7.26 高国軍と義澄軍、摂津・葦屋河原で激突→義澄軍大敗を喫し・・

 3.義村無念

  ・浦上村宗との戦いの火ぶた:赤松義村、二度の備前三石城攻め、度重なる失敗、美作・岩屋城攻め

  ・義村の権威、大きく失墜⇒浦上村宗の権勢高まる 義村、剃髪して「性因」と名乗り、家督を政村に譲る

  ・10代将軍義稙(よしたね)、京・出奔、淡路、さらに 阿波に逃れた、京から 将軍が消えるという事態

Ⅲ 赤松政村(晴政)の登場

 1.赤松政村(晴政)の時代

  ・義村没後・・浦上村宗が 主導権を握り、「播磨・備前・美作」支配と主張

  ・赤松勢の挙兵:大永元年(1521)家臣に奉じられた道祖松丸、浦上の元を離れ、淡路へ逃げる

          道祖松丸は 元服し、政村を名乗る 11歳 (のちに 晴政に改名)

  ・危機的状況に 政村・村宗ら 和睦、山名氏、播磨から 撤兵 大永2年

 2.世に大物(だいもつ)崩れ

  ・大永6年(1526) 細川高国、被官・香西元盛 殺害

  ・大永8年(1528) 細川高国、丹波軍に攻められ、各地流浪の果てに 浦上村宗の元へ

  ・神呪寺(かんのうじ・西宮市)に出っ張っていた赤松政村が 晴元側に内応 ー浦上村宗を背後から攻撃

       浦上村宗以下 数千人が 討ち死に~「大物(だいもつ)崩れ」という

 3.尼子氏との戦い

  ・享徳4年(1531) 村政、浦上党に 英賀で敗れ、明石状に落ちるーその後 庄山城に移る

  ・天分3年(1534) 朝日山で合戦(赤松勢と浦上勢の激闘)・・戦況は 赤松政村派 優勢に

  ・この播磨の状況を 外敵見逃さず・・出雲戦国大名・尼子詮久は 播磨侵略開始 天文6年(1537)冬

  ・天文8年(1539) 政村、幕府に申し出て、従五位下・左京大臣に任じられる、晴政と改名

  ・天文21年(1552) 幕府は 突如、尼子晴久に 備前・美作など 6ヵ国守護職に任命

            ※6ヵ国は 因幡、伯耆、備前、美作、備後、備中

            晴政は 備前・美作の守護職を失う、尼子詮久(あきひさ)は 晴久に改名

 4.赤松晴政の失脚:晴政 出家し、「性熈(しょうき)」と号する 弘治元年(1555)

  ・永禄元年(1558).8.7 赤松氏内部で 騒劇が 勃発 (赤松義祐、父・晴政から 家督を奪う)

  ・クーデターの結果、赤松義祐が 置塩城主となり、政治の実権を握る (小寺則職の存在)

 

Ⅳ 赤松義祐・赤松則房

 1.赤松義祐と その時代

  ・赤松義祐、赤松晴政から家督を奪うも、赤松晴政、赤松政秀と手を結び、義祐に対抗

   ー義祐の実質的な所領は、西播磨の神西(神河・福崎)・飾西・飾東の三郡にすぎなくなっていた

  ・一方、16世紀半ばごろまでに、別所氏、明石氏、依藤氏、在田氏、小寺氏、赤松下野家、宇野氏などが

  ・永禄7年(1564).1.11 赤松政秀が 浦上政宗・清宗親子を 室山城に 急襲、政宗親子は 戦死

  ・赤松晴政 没 53歳 於:龍野にて 永禄8年(1565).1.16

 ◇織田信長の登場・・・16世紀半ば、播磨は ますます畿内の政治的状況に左右されることになる

  ・天正元年(1573) 信長、浦上宗景に 播磨・備前・美作の朱印状交付

           ー赤松氏、播磨一国の統治権を失い、地方領主の地位に転落

 2.最後の赤松当主・赤松則房

  ・赤松義祐⇒則房の家督継承が 永禄末(1570)~元亀年間(1570~1573)か

 ◇羽柴秀吉の播磨侵攻 天正5年(1577).10.23

  ・赤松則房、小寺(黒田)官兵衛孝高の勧誘により、秀吉の傘下に入るー秀吉に従い 播磨各地を転戦

  ・その後、秀吉に従い、賤ケ岳の戦い、四国征伐に出陣、功により 阿波国板野郡に 1万石拝領 天正13年(1585)

  ・その後、則房は 関ケ原の戦いで 西軍に属し、その後 断絶・・赤松一族は 終焉を迎えた

 ★慶長5年(1600)をもって、赤松氏の嫡流・傍流も含め、その一族すべてが姿をけした

  南北朝以降、播磨国に 君臨した赤松氏やその配下の別所氏、宇野氏などの滅亡をもって 播磨国の中世終焉

  江戸時代が 幕開けしたものの、そこに 赤松氏が 加わることはなかった

 

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