10月27日(金) 天気;晴れて暑い 室温:24.8℃
きょうは 安富町を 歩いて来ました。 FMゲンキの ”きまぐれ途中下車 姫路の旧街道を
歩く 因幡街道篇④(安富)” と ”『安富町』 をたずねて” (姫路市教育委員会 文化財課
平成20年発行) を 参考にしました。 因幡街道といっても 街道部分は ごく一部です。
安富町は 姫路の北部に位置する 細長い地域で 大部分が 山地で ほぼ中央を揖保川の
支流の林田川が 南流する。 雪彦山系に水源をもつ林田川が 形成した狭い平野部が 古くか
ら 人々の生活の舞台でした。 『播磨国風土記』 では 宍禾(しさわ)郡の中に 安師(あなし)
里があり 安志がその遺称地であるが 安富町は ほぼこの里にあたるものと考えられる。
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本日の行程は 国道29号線を走って まず 長野賀茂神社を見て 中国道を潜った 光久寺
の駐車場へ車を停め ここから 歩いて回ります。 安志稲荷、賀茂神社、中国道の南にある
法性寺へ。 中国道の北へ戻り 中学校の正門横にある 陣屋跡から 名坂の今念寺、開善寺
(廃寺)をめぐり 車に戻り 車で 東の三森へ行き 安師比売神社を見ます。
今回の行程は 24日(火) の
”気まぐれ途中下車の旅 因幡街道篇3~4” の続きです。
下右の地図で 1.長野賀茂神社 2.光久寺 3.安志稲荷 4.安志賀茂神社 5.法性寺
6.安志藩陣屋跡 7.今念寺 8.開善寺(廃寺) 9.安師比売神社 10.教蓮寺 を散策。
10:09に 出発し 林田町で 国道29号線に出て 北上。 安富町長野で 右折。 少し先が
1.長野賀茂神社で 旧街道に面しています。 賀茂別雷神社の摂社貴船神社を勧請した神社で
社殿は 北向きです。 縁起 当賀茂大明神は 林田の祝田神社、室津の賀茂明神社とともに
京 賀茂大社の播磨荘園として 全国80余ヵ所の神領に それぞれ祀り 鎮護社の一つとして 諸民
の奉斎をうく。 室明神の縁起を 播磨鑑によれば 寛平年間(886)以前とすれば 当神社も その
鎮座創立期は 凡そ 一千年以前とうかがわせらる。 当社の北面せるは その元宮とする室御厨に
鎮座せる賀茂大明神を 当社を通じて 遥拝せし故なり。
街道を進み 国道29号線を越えると 分岐に突き当たります。 ここに 教蓮寺がありますが
書かれたものが 何もないので 詳細不明。 立派な本堂ですが・・。
街道は 左へ進みますが この先は 道路脇の溝を 工事中で 車は通れません。 右折すると
下村酒店があり 街道の雰囲気のある古民家風です。 この一帯は 小笠原氏の入封以前から
安志町と呼ばれ 町場を形成していたそうです。 その後 二度の大火に見舞われた?
北へ回り 中国道の下を潜り 西へ行くと 駐車場があり 車を止めました。 車を停めたのは
光久寺の駐車場でした。 すぐ上が 2.光久寺で 小笠原家の祈願所。 小笠原遠光は 高倉天皇
より下暘されたと伝えられる 不動明王立像を 本尊とする光久寺を 承安三年(1173)に 建立した
と伝えられ 以後 小笠原家嫡流は 代々不動明王立像を 本尊とする光久寺を 維持した。
桧の一木造りの不動明王立像は 高さ139.5cmで 平安末期の特徴を持ち 国の重文。
寛永九年(1632) 小笠原長次は 中津8万石に封じられ 光久寺は 中津城二の丸に 建立
されたという・・・・・。 しかし 5代長邕(さと)は 早世し 3歳の弟・長興を 安志藩一万石に取り
立て 安志藩は 7代を数え 貞孚(さだちか)のとき 維新を迎えた。
光久寺は 安志陣屋の西側に建立され 本尊・不動明王立像を 祀る本堂の建立は 享和2年
(1802)のことであった。(中津城から移された)
賀茂神社へお参りしますが 手前に 安志稲荷神社があるので 寄ります。
賀茂神社は 祭神は 別雷神(わけいかずのかみ)。 創立年代は不詳。 寿永3年(1184)源頼朝
が 京都の別雷賀茂神社(上賀茂社)に 社領を寄進したという記録があり この中に 播磨国安志庄の
ことが書かれています。 これによると 当社は 賀茂別雷神社の分霊を奉祀し 安志庄の荘園鎮守
として 後に 小笠原家が 安志藩主に 改封されて以降 年々 藩主から幣帛が 奉納され 篤い崇敬
を受けていきました。
新池に降りて 景色を眺め 車に戻り しばし休憩。
中国道の下をくぐって 南の法性寺へ行きます。 が 場所が分からず 探すのに苦労しました。
大雄山 法性寺は 臨済宗のお寺です。 享保2年 小笠原氏が 安志に移されて後 藩主の菩提寺
として建立され 天明7年に 改築、さらに 昭和49年に 規模を縮小して 銅板葺き 鉄筋コンクリート
に新築された。 小笠原秀政、忠長父子の木像を祀る。 木像薬師如来坐像、藩主一族の位牌を
安置している。
また 中国道をくぐって 安富中学校へ行きます。 中学校の正門の横に 安志藩陣屋跡の碑が
あります。 気まぐれ途中下車の地図には 中学校辺りが 陣屋で その南、中国道を跨いで
武家町が描かれています。 説明板には ここに 享保2年(1717)から 明治維新まで 小笠原氏
が藩主として 陣屋を構えていました。 小笠原氏は 大分県中津市から はるばる安志へ 一万石と
して やってきました。 一万石以下の館を城とは言わず 陣屋と呼んでいます。
しかし 一万石以上は 大名とされたので 参勤交代では 江戸まで行っていました。 明治になって
ここに 明倫小学校が置かれ やがて 安志第一尋常小学校となる。 その後 昭和24年 ここに
安富中学校が建築され 現在に至っております。
中学校の前を 北へ行くと 左に 今念寺があります。 今念寺は 天台宗の寺院で 栂野妙恵上人
の開山という。 本尊は 薬師如来で 行基菩薩の作と伝わる。 境内に 県指定の文化財の 「石造
五重塔」 があり 弘安3年(1280)の銘があり 県内最古のもので 鎌倉時代後半の特徴がみられ
る。 ここの半鐘は 享保9年(1724)の造で 町内最古のもの。
裏に墓地があり ここに 稲垣子華の墓があると 勘違いして 散々探し回りましたが 似たもの
はありますが 稲垣の墓はありませんでした。 資料をよく見ると 開善寺の墓地にあるらしい・・。
この後 開善寺へ行き 墓を探しましたが 墓はなし・・。 代わりに 類似の墓を。
説明板に 地図があり 少し北から 山へ進むと 開善寺(廃寺)があるようなので 行ってみ
ます。 道路から 100mほど山道を登ると 開善寺がありました。 建物は 今にも崩れそう・・。
周囲は 金網のフェンスに囲まれ 墓地は 見当たりません。 何かの間違い?
開善寺は 安志藩・小笠原氏が 享保2年(1717) 安志へ入封した際に 建立。 小笠原氏は
開善寺、今念寺、法性寺の三ヵ寺を 建立した。 開善寺は 氏寺です。
稲垣子華は 通称 浅之丞。 岡山県美作の出身で 安志藩校で教え 寛政9年(1797) 他界。
車に戻り 車で 三森の安師比売神社(安志姫神社) へ行きます。 安師姫神社は 安富町域の
土産神・安志比売の神を祭神とする 古い社です。
「播磨国風土記」 によると 宍禾郡安師里の元の地名は 酒加里(すかのさと)であったものが 山
守里(やまもりのさと)となり 次いで 安師里となったと 記しています。 さらに 安師の由来は 安師
川からで 安師比売の名に由来すると述べています。 ちなみに 風土記には 「伊和大神が 安師
比売に求婚したが 拒否されたので 怒って 安師川(林田川)の源流を 岩で塞いだ」 という逸話が
ありますが ある人は 「そんなに怒らせたのに 殺されずに済んだのは 安師比売のバックに 大和
朝廷がついていたから」 というのです。
ここの狛犬は 面白い形をしていて 直方体の石の形を そのまま生かしたようで 顔の左右は
直角で 前面と側面、後ろの尻尾の面は 垂直です。
最後に 三森城址に登りたかったのですが・・。 三森城址は 通称城山250mにある中世の
山城で 長水城の砦だったと 考えられています。
≪ 追記 ≫
11月1日 カフェで 新聞を見ると ”小笠原家の具足” という見出しで 以下の記事が 載って
いました。 (龍野歴史文化資料館)
武家の有職故実を伝える 名門大名 小笠原家。 大坂夏の陣で 宗家の秀政・忠脩(ただなが)
父子が 天王寺口の戦いで 討死するという悲運が襲います。 忠脩の嫡子・長次が 幼少だった
ため 忠脩の弟・忠真が 宗家を継ぎ 長次は 12歳で 龍野城主となり 中津8万石を 与えられ
移封しました。
中津藩主4代・長円(ながのぶ)が 死去後 嗣子長邕(ながさと)が 6歳で 早世しましたが 改
易となるところ 大坂の陣での討死が 「父祖の勲功」 となり 国替えで 安志藩が成立しました。
忠脩の命をかけた戦いが 「家」 を存続させたのです。 下の写真は 藤色威本小札胴丸
具足です。
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