私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

好古園で フラワーデザイン作品展

2017-10-28 15:02:24 | ギャラリー散策
 10月28日(土)   天気:雨のち曇り?   室温:22.0℃

 きょうは 姫路城西御屋敷跡庭園 好古園へ行き あとりえ花なりの ”創立20周年記念
フラワーデザイン作品展 心和ぐ” を見てきました。 雨が降っていたので 駅から大手前
通りを歩くのも 難儀なので 車で行き 好古園の前の駐車場に停めました。(駐車料600円)


      ごあいさつ
 錦秋の候 皆様のご厚意によって 20周年の展示会を迎えられる運びとなりました。
ご協力くださった皆様、長年にわたり 支えてくださった教室生の皆さんに あらためて
御礼申し上げます。  今後とも ご指導、ご鞭撻のほど よろしくお願いいたします。
                      土井万希子  鷲尾尚美









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姫路の旧街道 因幡街道篇4(安富)

2017-10-27 15:33:43 | 歴史探索
 10月27日(金)   天気;晴れて暑い    室温:24.8℃

 きょうは 安富町を 歩いて来ました。 FMゲンキの ”きまぐれ途中下車 姫路の旧街道を
歩く 因幡街道篇④(安富)” と ”『安富町』 をたずねて” (姫路市教育委員会 文化財課
平成20年発行) を 参考にしました。 因幡街道といっても 街道部分は ごく一部です。
 安富町は 姫路の北部に位置する 細長い地域で 大部分が 山地で ほぼ中央を揖保川の
支流の林田川が 南流する。 雪彦山系に水源をもつ林田川が 形成した狭い平野部が 古くか
ら 人々の生活の舞台でした。  『播磨国風土記』 では 宍禾(しさわ)郡の中に 安師(あなし)
里があり 安志がその遺称地であるが 安富町は ほぼこの里にあたるものと考えられる。
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 本日の行程は 国道29号線を走って まず 長野賀茂神社を見て 中国道を潜った 光久寺
の駐車場へ車を停め ここから 歩いて回ります。  安志稲荷、賀茂神社、中国道の南にある
法性寺へ。 中国道の北へ戻り 中学校の正門横にある 陣屋跡から 名坂の今念寺、開善寺
(廃寺)をめぐり 車に戻り 車で 東の三森へ行き 安師比売神社を見ます。
 今回の行程は 24日(火) の ”気まぐれ途中下車の旅 因幡街道篇3~4” の続きです。
下右の地図で 1.長野賀茂神社 2.光久寺 3.安志稲荷 4.安志賀茂神社 5.法性寺
6.安志藩陣屋跡 7.今念寺 8.開善寺(廃寺) 9.安師比売神社 10.教蓮寺 を散策。

 10:09に 出発し 林田町で 国道29号線に出て 北上。  安富町長野で 右折。 少し先が
1.長野賀茂神社で 旧街道に面しています。 賀茂別雷神社の摂社貴船神社を勧請した神社で
社殿は 北向きです。   縁起 当賀茂大明神は 林田の祝田神社、室津の賀茂明神社とともに
京 賀茂大社の播磨荘園として 全国80余ヵ所の神領に それぞれ祀り 鎮護社の一つとして 諸民
の奉斎をうく。 室明神の縁起を 播磨鑑によれば 寛平年間(886)以前とすれば 当神社も その
鎮座創立期は 凡そ 一千年以前とうかがわせらる。 当社の北面せるは その元宮とする室御厨に
鎮座せる賀茂大明神を 当社を通じて 遥拝せし故なり。


 街道を進み 国道29号線を越えると 分岐に突き当たります。 ここに 教蓮寺がありますが
書かれたものが 何もないので 詳細不明。 立派な本堂ですが・・。

 街道は 左へ進みますが この先は 道路脇の溝を 工事中で 車は通れません。 右折すると
下村酒店があり 街道の雰囲気のある古民家風です。 この一帯は 小笠原氏の入封以前から
安志町と呼ばれ 町場を形成していたそうです。 その後 二度の大火に見舞われた? 

 北へ回り 中国道の下を潜り 西へ行くと 駐車場があり 車を止めました。 車を停めたのは
光久寺の駐車場でした。 すぐ上が 2.光久寺で 小笠原家の祈願所。 小笠原遠光は 高倉天皇
より下暘されたと伝えられる 不動明王立像を 本尊とする光久寺を 承安三年(1173)に 建立した
と伝えられ 以後 小笠原家嫡流は 代々不動明王立像を 本尊とする光久寺を 維持した。
 桧の一木造りの不動明王立像は 高さ139.5cmで 平安末期の特徴を持ち 国の重文。

 寛永九年(1632) 小笠原長次は 中津8万石に封じられ 光久寺は 中津城二の丸に 建立
されたという・・・・・。 しかし 5代長邕(さと)は 早世し 3歳の弟・長興を 安志藩一万石に取り
立て 安志藩は 7代を数え 貞孚(さだちか)のとき 維新を迎えた。
 光久寺は 安志陣屋の西側に建立され 本尊・不動明王立像を 祀る本堂の建立は 享和2年
(1802)のことであった。(中津城から移された) 

 賀茂神社へお参りしますが 手前に 安志稲荷神社があるので 寄ります。

 賀茂神社は 祭神は 別雷神(わけいかずのかみ)。 創立年代は不詳。 寿永3年(1184)源頼朝
が 京都の別雷賀茂神社(上賀茂社)に 社領を寄進したという記録があり この中に 播磨国安志庄の
ことが書かれています。  これによると 当社は 賀茂別雷神社の分霊を奉祀し 安志庄の荘園鎮守
として 後に 小笠原家が 安志藩主に 改封されて以降 年々 藩主から幣帛が 奉納され 篤い崇敬
を受けていきました。


 新池に降りて 景色を眺め 車に戻り しばし休憩。

 中国道の下をくぐって 南の法性寺へ行きます。 が 場所が分からず 探すのに苦労しました。
大雄山 法性寺は 臨済宗のお寺です。 享保2年 小笠原氏が 安志に移されて後 藩主の菩提寺
として建立され 天明7年に 改築、さらに 昭和49年に 規模を縮小して 銅板葺き 鉄筋コンクリート
に新築された。 小笠原秀政、忠長父子の木像を祀る。 木像薬師如来坐像、藩主一族の位牌を
安置している。

 また 中国道をくぐって 安富中学校へ行きます。 中学校の正門の横に 安志藩陣屋跡の碑が
あります。 気まぐれ途中下車の地図には 中学校辺りが 陣屋で その南、中国道を跨いで
武家町が描かれています。 説明板には ここに 享保2年(1717)から 明治維新まで 小笠原氏
が藩主として 陣屋を構えていました。 小笠原氏は 大分県中津市から はるばる安志へ 一万石と
して やってきました。 一万石以下の館を城とは言わず 陣屋と呼んでいます。
 しかし 一万石以上は 大名とされたので 参勤交代では 江戸まで行っていました。 明治になって
ここに 明倫小学校が置かれ やがて 安志第一尋常小学校となる。  その後 昭和24年  ここに
安富中学校が建築され 現在に至っております。

 中学校の前を 北へ行くと 左に 今念寺があります。 今念寺は 天台宗の寺院で 栂野妙恵上人
の開山という。 本尊は 薬師如来で 行基菩薩の作と伝わる。 境内に 県指定の文化財の 「石造
五重塔」 があり 弘安3年(1280)の銘があり 県内最古のもので 鎌倉時代後半の特徴がみられ
る。  ここの半鐘は 享保9年(1724)の造で 町内最古のもの。

 裏に墓地があり ここに 稲垣子華の墓があると 勘違いして 散々探し回りましたが 似たもの
はありますが 稲垣の墓はありませんでした。 資料をよく見ると 開善寺の墓地にあるらしい・・。
この後 開善寺へ行き 墓を探しましたが 墓はなし・・。 代わりに 類似の墓を。

 説明板に 地図があり 少し北から 山へ進むと 開善寺(廃寺)があるようなので 行ってみ
ます。 道路から 100mほど山道を登ると 開善寺がありました。 建物は 今にも崩れそう・・。
 周囲は 金網のフェンスに囲まれ 墓地は 見当たりません。 何かの間違い?
開善寺は 安志藩・小笠原氏が 享保2年(1717) 安志へ入封した際に 建立。 小笠原氏は
開善寺、今念寺、法性寺の三ヵ寺を 建立した。 開善寺は 氏寺です。
 稲垣子華は 通称 浅之丞。 岡山県美作の出身で 安志藩校で教え 寛政9年(1797) 他界。

 車に戻り 車で 三森の安師比売神社(安志姫神社) へ行きます。 安師姫神社は 安富町域の
土産神・安志比売の神を祭神とする 古い社です。
 「播磨国風土記」 によると 宍禾郡安師里の元の地名は  酒加里(すかのさと)であったものが 山
守里(やまもりのさと)となり 次いで 安師里となったと 記しています。 さらに 安師の由来は 安師
川からで 安師比売の名に由来すると述べています。  ちなみに 風土記には 「伊和大神が 安師
比売に求婚したが 拒否されたので 怒って 安師川(林田川)の源流を 岩で塞いだ」 という逸話が
ありますが ある人は 「そんなに怒らせたのに 殺されずに済んだのは 安師比売のバックに 大和
朝廷がついていたから」 というのです。 

 ここの狛犬は 面白い形をしていて 直方体の石の形を そのまま生かしたようで 顔の左右は
直角で 前面と側面、後ろの尻尾の面は 垂直です。
 最後に 三森城址に登りたかったのですが・・。 三森城址は 通称城山250mにある中世の
山城で 長水城の砦だったと 考えられています。

≪ 追記 ≫
 11月1日 カフェで 新聞を見ると ”小笠原家の具足” という見出しで 以下の記事が 載って
いました。 (龍野歴史文化資料館)
 武家の有職故実を伝える 名門大名 小笠原家。 大坂夏の陣で 宗家の秀政・忠脩(ただなが)
父子が 天王寺口の戦いで 討死するという悲運が襲います。 忠脩の嫡子・長次が 幼少だった
ため 忠脩の弟・忠真が 宗家を継ぎ 長次は 12歳で 龍野城主となり 中津8万石を 与えられ
移封しました。
 中津藩主4代・長円(ながのぶ)が 死去後 嗣子長邕(ながさと)が 6歳で 早世しましたが 改
易となるところ 大坂の陣での討死が 「父祖の勲功」 となり 国替えで 安志藩が成立しました。
 忠脩の命をかけた戦いが 「家」 を存続させたのです。   下の写真は 藤色威本小札胴丸
具足です。

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第71回 姫路市学童美術展 他

2017-10-26 15:15:03 | ギャラリー散策
 10月26日(木)   天気:晴れ    室温:23.7℃

 きょうは 姫路へ行きました。 いつもの電車(6分遅れ)で 姫路へ行き まず 姫路城三の丸
広場で行われている ”第71回 姫路城 菊花展” を偵察に行きます。 案の定 まだ蕾のものも
あり 少し早いようです。 菊花展は 16日までなので また 後日行ってみます。
 大手前公園では 1日からの全国陶芸市?の準備中で テントが並んでいます。 イーグレ
ひめじの1階では 海外姉妹・友好都市交流写真展をしています。 市民ギャラリーの特別展
示室では ”ぜんかい画廊展” をしていて 第1~第4展示室では ”第71回 姫路市学童美
術展” をしています。
 中井三省堂画廊では 先週と同じく 和田さんの個展をしているので 寄らずに 山陽百貨店
へ。 6階催し場で ”山陽の大絵画展” をしているので 目の保養をして 美術画廊の ”アー
ルヌーボーのガラスの華展” を 覗いて来ました。

 姫路駅から いつまでも工事中の大手前通りを歩いて 姫路所へ行き 三の丸広場で行われて
いる ”第66回 姫路城菊花展” を 見ます。 大輪の菊は 咲いていますが 小菊は まだ蕾のも
のも 多くあります。 咲いているものを撮りました。 仕立てかたによって ドーム菊花壇、ダルマ
花壇、大菊単列花壇、大菊三本立花壇、福助花壇、盆栽花壇など いろいろあります。


 イーグレひめじのフロアでは ”海外姉妹・友好都市交流 写真展” をしています。

 地下の市民ギャラリーの特別展示室では ”11名の作家展とぜんかい画廊展” をしています。
写真は禁止ですが 作家さんの奥さんが来られ 了解していただきました。 和田さんのデコパ
ージュは 暗黙の了解ということで・・。 前開さんに 鳥獣戯画図について 詳しく説明していただ
きましたが 何も覚えていません。 私たちが 見ることのできない 鳥獣戯画図があり ウサギや
猿が 棒高跳び、水泳、アーチェリー(弓)などのスポーツを 楽しんでいる絵もあります。 最後は
ヘビが出てきて 驚いたウサギや猿が 逃げ出す場面とか・・・。 文字はなくても 絵を見れば・・。

 第1~第4展示室では ”第71回 姫路市学童美術展” が行われています。 が 今回は 貼紙が
あり 作品の写真撮影について  ・許可しておりますが 他者の個人名や 学校名が分かるような
写真を SNSにアップしたり 許可なく転用することなどは禁止します。 他の来場者の方が 写る
ような写真の撮影は ご遠慮ください。  とあります。 一応 受付に 名前とブログ名を書き 問題
があるなら 連絡をいただけるよう 言っておきました。 昨年は 問題なかったと思いますが・・。
 会場には きょうの新聞記事の切り抜きが 掲示してありました。

 本年度71回を数える姫路市の 非常に歴史ある作品展です。 市内の幼児、児童、生徒の作品
を通して 書写、造形、図工、美術教育の一層の充実と 発展を目指して 開催しております。
 本年度も 幼稚園児から 中学生まで 数多くの絵と書の力作が 出品されました。 その中から
「特選」 「入選」 に 入賞した 825点を 展示しております。








 山陽百貨店へ行くと 6階・催会場で 芸術の秋 特別企画 ”山陽の大絵画展” をしていました。
美術史上に名を残す物故作家の銘品から 話題作家の最新作など 山陽百貨店が 総力を挙げて
洋画、日本画、掛軸の秀作の数々を 一堂に展観いたします。

 美術画廊では ”アールヌーヴォー ガラスの華展”(エミール・ガレ ドーム兄弟) が行われて
います。 19世紀末に開花し 今もなお その高い芸術性が注目され 世界的に根強い人気を誇る
アール・ヌーヴォーのガラス作品。 自然の産物をモチーフに 洗練された感性と 独創的な想像力で
表現した 巨匠エミール・ガレ 繊細で絵画的表現を特徴としたドーム兄弟の厳選した作品を展開。

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書写の里で 清水公照 すみ つち いろ?

2017-10-25 13:30:44 | ギャラリー散策
 10月25日(水)   天気:晴れ    室温;21.7℃

 きょうは 書写の里・美術工芸館へ 秋季特別展示 ”アジアのやきものー中国と周辺国々
の陶磁器ー” を見に行きましたが 予想通り 写真撮影は 禁止。 展示してあった地図を
撮ろうとして 係員に 注意されました。 中国をはじめ 朝鮮、タイ、ベトナムなどの周辺
諸国のやきもの約180点を 展示し 各国の陶磁文化を 紹介。
 一般展示室の ”清水公照すみ つち いろ” は 写真OKです。


 紀元前から 高度な陶磁器文化をもつ中国は 土器、陶器、炻器、磁器にいたる発展過程の
なかでも 常に 世界をリードしてきました。 そして 朝鮮、ベトナム、タイ、カンボジア、ミャンマー、
フィリピン、そして 日本など アジア各国に展開した陶磁器文化は 中国陶器の影響を強く受けて
きました。 この展覧会では 中国と周辺各国のやきもの約180点を展示し その造形や色、技
術などに見られる影響関係を探るとともに 各国の陶磁文化の独自性についても 紹介します。




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 きょうは 行きはよいよい 帰りは恐い・・。 行きは スムースに走れ なんなく書写の里へ行けま
したが 帰りは 近くの踏切で 大渋滞。 踏切まで 帰ると 電車が 踏切の手前10mで 止まって
います。 私の前には 車が 5、6台停まっていましたが そのうち 2台は Uターンして 去っていき
ました。  しばらくして 停まっていた電車が 進行して 踏切が開き 車が進みますが 私の前で
また 踏切が 遮断。 今度は 上りと下りの往復ビンタ・・。
 上りの智頭急行が 行きましたが 続いて 下りに 見たことのない黒い電車が来て また踏切の
手前で 停車。 黒い電車は MIZUKAZEでした。 調べると トワイライトエクスプレスで 展望車
もあります。 最後尾の展望デッキで 子供が手を振っていました。  やれやれ やっと 踏切が 開
きました。
 進んでいると 渋滞中の対向車の間から 目の前に 車が飛び出し・・ 急ブレーキをかけ 止めま
したが ガガッと 音がしたので 左のガードレールと擦ったかも・・。 飛び出した車は 何の挨拶も
なく 走り去っていきました。 帰って 車を点検すると 疵は ついていませんでした・・・。

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姫路の旧街道を歩く 因幡街道篇3~4

2017-10-24 15:40:03 | 歴史探索
 10月24日(火)   天気:晴れ+雲    室温:22.2℃

 きょうは FMゲンキのフリーマガジンの ”気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く” の
③(林田) と ④(安富) の一部を 歩いてきました。 もちろん 車で。 いつだったか 姫路市
教育委員会 文化財課 平成20年発行の 文化財見学シリーズ ”『安富町』 を たずねて”
を 入手したので 因幡街道と安富町を併せて 歩こうと思いますが 街道は そのほとんどが
国道29号線で 距離もあり 途中 見るものも あまりありません。 また 旧因幡街道は いま
は 不明確で 分からない区間が多いようです。
 きょうは 車で 林田町から 安富町の南の植木野、塩野辺りを 巡ってきました。 また 近い
うちに 安富町の賀茂神社周辺を 歩きたいと思います。

 2012年4月に 自転車で 歩いた ”林田まちなか歩き” は <こちら> を見てください。
 林田の街を抜け 新町橋に着きました。 本日のスタート地点は 林田町の新町橋です。
ここから 北へ歩きます。 新町橋の南に 林田川の渡し があったようです。 橋から 景色を
眺めて スタート。  スーパーの角に 道標がありますが 風化して 文字を読むことができま
せん。 右 因州、左 あんじ?  横の小さいのは 林田村道路元票です。 

 街道を北へ進むと 左に 段医院道の道標があり 奥に 段医院があります。 段家は 大正13年
から 開業する医院で 建物は 大正12年頃に建築され 平成10年頃まで 使用されていました。
 少し先に 大きな鳥居と 石灯籠があります。 祝田神社とありますが・・。 奥へ進むと 小川が流れ
南に 玉垣に囲まれた塩阜神水があります。 聖岡の麓にあり 塩水が湧き 海の水と同じように 満
ち引きしたそうです。(播磨国風土記)

 街道を北へ行くと 右に 白玉稲荷大明神があり ここの大木は くすの木で 保存樹です。

 国道29号線を越えて さらに 北へ進むと ヤエガキ酒造があります。 隣が 長谷川家住宅。
ヤエガキは 1666年 酒屋と材木屋を 創業。 酒造りは 1690年から始められています。
明治14年には 現在の社名となる 「八重墻(やえがき)」 が登場。
 街道に面する住宅は 1845年の建築。 平成5年に 姫路市都市景観重要建築物等に 指定。

 街道のこの辺りには まだまだ古民家が残っています。

 右に大きな鳥居がありましたが 八幡神社の鳥居。 ここから 参道が始まっているのでしょうか。
鳥居の奥には 林田小学校が見えています。

 古民家を見ながら 細い因幡街道を北へ進むと 街道は 国道29号線に合流します。 ここからは
資料の因幡街道篇④(安富) に入ります。  国道を約5km北へ走ると 植木野の信号に出るので
ここで 右折。 護持越橋を渡ります。 資料には ロシア捕虜兵逃走事件とありますが・・・。

 突き当りを 右へ曲がると 植木野 天満神社があり 大きなムクノキがあり 傾いた枝が折れ
ないよう 鉄の金具で支えてあります。 神社の狛犬が 真新しく立派なのは なにか違和感が・・。

 街道を北へ進むと 林田川に架かる植塩橋に出ます。 橋を渡り 国道の交差点を越えます。

 正面の色づいた田の向こうの山すそに 塩野六角古墳公園の表示が見えます。 細い道を
直進し 突き当りを 左へ曲がると トイレの横に 車が停められます。 下の墓地を見ながら
坂道を登ります。 塩野六角墳は 標高150m辺りにあります。 

 塩野六角墳は 古墳時代後期~末期の古墳で 当時では 先進的な多角(六角)墳で 築造に
高麗の尺度が用いられるなど 中央政権の影響を受けたものと 考えられます。 埋葬者は 山部氏
の首長?  下には 直径約7mの円墳もあり どちらも 県指定の文化財になっています。


 きょうの行程は ここまで。 この先は また後日に。 ここから 引き返します。
市教育委員会の資料には 塩野大歳神社③が 載っていて 社叢にカヤの大木6本含まれ
ているとあるので 大戸氏神社を探しますが 見つけることができません。 地図にも 神社
の印はありません。
 国道29号線に出て 南へ下ります。 狭戸大歳神社のカヤ林①を見に行きます。 植木
野の交差点で 右折して まっすぐ進むと 大歳神社があります。 資料に カヤの木は 林
になることが 少ないといわれるが 狭戸の大歳神社の社叢には 10本ばかりが 群生して
いる。 カヤは 木の実が食用になり また 碁盤の適材としても 珍重される。 カヤは 保存
樹で 町の天然記念物です。


 拝殿の天井部の梁は 神木だそうで 平成13年の台風時に 天より降ってきたものだそう
です。 ”しあ輪せの木” として 末永くお祀りしたいと思います。・・・

 境内には 進藤岡右衛門の墓があります。 岡右衛門は 「お万の滝」 の主人公で 塩の村の
若くて美しい娘 お万と ふとしたことから 相思相愛の仲となった侍でした。 しかし 事情が
あって 京に帰り 父の遺言で・・・・    岡右衛門は 享保15年 89歳で 静かにその
生涯を閉じました。・・・・
    ・・・・・・ この続き ”稲葉海道篇④(安富)” は < こちら > を ・・・・・・。

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