私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

きょうは 姫路へ行きましたが・・

2017-12-29 14:36:03 | 日記
 12月29日(金)  天気:曇り のち 晴れ?   室温;14.5℃

 きょうは 姫路へ行きましたが さっぱりでした。 お天気は 良くないし 電車は 満員だし 29、
30日は どこも お休みだし・・。  好古園と姫路城の門松を見て 護国神社へ絵馬を見に行くと
姫工の生徒が描いた絵馬は ここではなく 広峯神社だったし 総社へ絵馬を見に行くと 新聞に
載っていた 不動さんの絵馬は 元旦からの展示で まだ 展示されていません・・・。
 イーグレひめじへ行くと お休みで 文化情報姫路1月号は 入手できず、カフェ・ゆうゆうゆうで
休憩しようにも カフェも 本日の営業は 終了しました? お休みです。
 山陽百貨店の美術画廊を覗いて 駅へ戻りましたが 遅れていた電車が 出たところ・・。 次の
電車は 約30分待ち。 久しぶりに ホームで 駅そばを 食べて 時間をつぶしました。 時間通りに
来た 12:31の電車で帰りました。 きょうは 門松を見ただけです。 こんなことで いいお正月が
迎えられるのでしょうか。 電車から見える京見山の東尾根は いまだに 山火事の跡が 痛々しい。





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姫路の旧街道を歩く 室津道篇①

2017-12-26 13:53:59 | 歴史探索
 12月26日(火)  天気:晴れ 時々 曇り   室温:14.4℃

 きょうは 室津道の一部を歩いて来ました。 入手した ”気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く”
を参考に スタート地点の備前門跡から 冑山まで歩きました。 一回で 全ルートを歩くのは 大変な
ので 何回かに分けて歩き その都度 このページに追加します。 ルートの全体は <こちら> を。
 きょうは 電車で 姫路へ行き 駅の観光案内所で 姫路市教育委員会 文化財課 昭和58年 発行
の ”『室津道』をたずねて (広畑区小坂ー福沢町)” をいただき これも参考にします。
  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 28日 残っていた 町坪構居跡などを歩き 備前門から 夢前川の才崎橋まで 今回ルートは 完了し
ました。 英賀城跡の周辺は 2014.7.27の官兵衛ゆかりの地めぐりのページから 流用しました。

 10:20 姫路駅を出発し 西二階町商店街を歩いて 備前門跡へ行きます。 ”『室津道』をたず
ねて” では 福沢町は 江戸時代は 福中村で 姫路の郊外だった。 そこに 室津道と書いた古地図
があるので 室津道の発着点を 福沢町としておく とあります。 
  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
1.備前門(福中門)
 備前門は 姫路城の西の玄関口。 外門と内門で構成される枡形構造のこの門は 西国街道を
介して 備前方面に通じることから この名で 呼ばれました。 (のちに 福中門に改称) 姫路藩にと
って 西国への起点となるこの門は 同時に 室津道への起点でもありました。
 平成29年の発掘調査によって 地下に眠る備前門の石垣が 発掘され 姫路城大天守や 西の丸
が築城された頃の工法が用いられていたことが 判っています。


2.千代田町の常夜灯
 1868年 室津道の出入り口に設けられた常夜灯。 現在は 千代田公園に移されています。
台石に 「あぼし むろつみち」、「慶応四戌辰年夏」 とあります。
 「文化財見学シリーズ 「室津道」 をたずねて」 では 「元は 公園の北の水路のそばにあった」
と紹介されています。


3.千代田町の道標
 室津道脇にある道標ですが 「あぼ志美ち」 とあります。 明治以降 参勤交代の終了や 陸上
交通の発展に伴い 室津が 歴史上の役割を終えた一方で 網干は 依然として 揖保川水運との
中継地として栄え 後には 工業地域として発展しました。 網干を目指した人々にとって この道
は 「網干道」 なのです。


4.冑山神社
 冑山は 播磨国風土記14丘の一つ 「冑丘」 に比定。 姫路城主・本多政武が 姫路城の裏鬼
門を守るため 社領8石を寄進し 創建し 総社の社家が 祭祀していた。 1843年 大火により
焼失・再建、さらに 昭和20年の空爆により 全焼。 現在の社殿は 昭和41年に 再建されたもの。


 JR姫新線の踏切を渡り 西延末公民館の前を南西方向に 室津道を少し歩いてみました。
この辺りから南は 道は ほぼ まっすぐですが 西延末から北は 屈曲が多い。 用水路沿いに
道があったのだろう・・。

5.手柄山
 手柄山の名の由来は 諸説あるようですが 姫路に 移り住んだ渡来人が、 稲を刈るのに鎌を使う
のを知らず、直接手で 稲を刈ったから 「手刈りの村」 といった という説です。 「播磨国風土記」には
「手苅丘」 として 記載されています。  山頂には 三等三角点:手柄山 49.19mがあります。
 旧石器時代から 古墳時代にかけての遺物が 数多く採集され かって 多くの遺跡が存在したことが
うかがえます。
 室町時代には 三輪外記次郎なる人物が 構居(防御施設を備えた館) を構え 江戸時代には 刀
鍛冶が居住し 作刀したそうです。 特に 著名な刀匠は 「手柄山氏繁とのこと。 幕末・維新の戦い
で 奮闘した永倉新八が 愛用した佩刀は この手柄山氏繁の作と 言われている。


6.JR山陽本線
 私鉄 山陽鉄道として 明治21年に 兵庫駅ー明石駅間が 開業。 翌年 竜野駅まで延伸しまし
た。 姫路市とJR西日本との間では 姫路駅ー英賀保駅間(約4.6km) に 新駅を設置する方
向で 合意しており 今後 この地域の姿が 大きく変わる可能性があります。

 
7.高(尊)清水地蔵
 荒川地区は 夢前川の河道付け替え後も 伏流水の豊かな地域で 各所に清水が 湧き出して
いたそうです。 この高(尊)清水も かっては 豊かな湧水でしたが 河川改修による水位の低下
で 今は 枯れてしまっています。



8.町坪構居
 英賀城の支城で 秀吉の英賀城攻め当時の領主は 三木支配下の町坪弾四郎と言われてい
ます。 英賀攻めの緒戦で 落城しましたが 町坪勢が いったん これを 奪還。 しかし 黒田官兵
衛によって 再び攻め落とされ その後は 官兵衛の弟・利高が 守ったとされています。
 27日夜 テレビを見ていると ピエール滝が 姫路城を訪れていました。 番組のなかで 播州
皿屋敷ののことが 話題になり お菊に惚れていたのは 町坪弾四郎と 言っていましたが・・。
 本丸跡の周囲に 堀だったと言われる用水路(公民館の傍)が 残っているほか 150m南西の
堀跡と伝わる場所に 町坪氏を弔ったもの とされる五輪塔塚が 残されています。
 公民館前には お地蔵さんあり その前に 水を湛えた水槽がありますが 水は 湧水ではなく
ポンプで 汲み上げた水だそうです。




9.町坪の常夜灯
 町坪西川(今は暗渠)の川筋を通った室津道に 建てられていた常夜灯。 今は 棚田交差点南の道路脇の
歩道にあります。 「金毘羅大権現 慶応二年(1866)丙虎 願主為右衛門」 とあります。 室津道は
金毘羅参りの庶民が よく利用したそうです。 室津道は 広い県道になっている南から ここで 方向を変えて
町坪の集落の細い道を 東へと進みます。 町坪公民館は 一つ南の道にあります。

10.法輪寺
 臨済宗のお寺。 開創は 平安時代で 天台寺院であったと言われています。 南北朝の頃 播
磨守護・赤松則祐が 妙心寺派の禅寺とし 寺号も 宝林寺と改めます。 嘉吉の乱で 赤松氏が
討たれた後は 英賀・三木氏の崇敬をうけますが 秀吉により 英賀城は 落城。
 その英賀城攻めの折 秀吉の来訪を予期した寺側が 茶釜に茶を たぎらせて待っていたところに
秀吉が立ち寄り 茶を所望。 ところが 平侍のなりであったため 誰も秀吉と判らず 白湯しか出さ
なかったため ”湯沢山 茶くれん寺” の寺号を与えられたという 有名なエピソードがあります。
 境内に 秀吉が 座って お茶を飲んだと言われる 腰掛石があります。  今の腰掛石は 平成
25年に 竜山石で 再現されたものです。  榧(カヤ)の保存樹もあります。


11.荒川神社
 元は 手柄山西麓にあり 1328年に 町坪に遷座するも 1432年の洪水で 流出。 1533年
現在地に遷座しますが 戦乱で荒廃し 前出の法輪寺の寺地内に 再建。 1711年に 再び 現在
地に 遷座されました。 水の神である水波能女神を 奉ずるのは 暴れ川であった夢前川旧流路
の洪水被害を たびたび受けてきたからと 推測されます。



12.付城
 付城とは ①本城とは別に 要所に築いた城。 出城のほか ②攻撃の拠点として 敵城の近くに
築いた城という 二つの意味があります。 JR英賀保 東方地区にあった付城も 英賀城の出城であ
ったという説と 秀吉が 英賀攻めの際に 築いたという二説があるようです。
 付城の堀があったと推測されている場所に お地蔵様が祀られており そばに建つ 「関門西堀之
跡」 という石碑には 付城が 英賀城の一部と 歌う英賀保村歌の一節が 刻まれています。
 付城村は 英賀城の城下の一部と 立ちつとい 関門西堀などいいて 村のほとりに おくゆかし
このお地蔵さんは まけず地蔵というのでしょうか。


13.山崎山
 山上に 英賀三木氏配下の山崎惣右衛門の構居がありましたが 秀吉の弟・秀長の攻められ 落城。
その後は 英賀城攻めの拠点となったそうです。 山上の削平地には 麓にある亀山本徳寺廟所から
登ることができます。 山崎山86mの登ると 城之台の碑があり 英賀保の町が 一望できます。




14.山崎の石灯籠
 1846年 建立。 「(金)常夜灯」 とあります。 山崎は 夢前川の渡しがあり 金毘羅参りの旅人が
よく利用していました。 当時 参詣客を乗せて 大阪と丸亀を往復した金毘羅船があり 人々は 寄
港地の室津を目指していました。 一方で 四国路に 旅のできない人たちは 山崎に 「金毘羅大権現」
の分霊を祀り この灯籠に 火を入れ 祈願したそうです。 元は 12m北西の旧才崎橋東詰にあった。

15.英賀城跡
 戦国期 9代140年にわたり 英賀を治めた三木氏の城。 港湾を備えた海上交通の都市として
さらに 英賀本徳寺を柱とする 一向宗の寺内町として栄えました。
 中浜2丁目辺りに 「城内」 という字があり この辺りに 本丸があったと考えられています。 秀吉
により 解体され 城郭内の形跡は 残されていませんが 中浜1丁目と 2丁目の境の水路が 堀跡と
推定されているほか 英賀神社本殿裏に 土塁が残っています。
 2014.7.27に 官兵衛ゆかりの地めぐり・英賀で 英賀城、英賀神社周辺を歩いたときの
ページ ”英賀本徳寺跡の碑” <こちら> を見てください。

 英賀城は 「岩繋城」 ともいわれ 南は 海、西は 夢前川、東は 水尾川に面し 北は 湿地帯
で 守るのに 大変都合のよい城であった。 鎌倉時代には 砦が 造られていたが 室町時代
になると 播磨の守護大名であった 赤松氏の一族が 守った・・・。
 本丸跡碑の裏に 「中浜地蔵」 があります。 少し探し回って 英賀薬師堂(旧法寿寺跡) へ
行きました。 ここは 英賀城 井ノ上口之跡 といわれ 今でも 土塁の一部が 残っています。
井ノ上口之跡は 英賀城の十城門の一つです。

 奥には 三木家一族の墓所があります。 山崎山に 亀山本徳寺の西山御廟建立のため
同所にあった 初代城主 三木通近らの墓所を ここに 移した。
 右隅には 英賀城の土塁が 一部 残っており 長さ約10m、底幅約10m。 薬師の
北側に 幅約18mの外堀が あったそうで 今ある溝は その名残でしょうか?

 英賀神社は 社記によると 「播磨国風土記」 にある英賀彦神・英賀姫神を祀る 古い神社で 町名
の由来も ここにある。 天満宮は 嘉吉年間に完成したとみられ 境内には 寛文7年(1794) 銘の
手洗鉢や 寛政6年(1794) の狛犬があり 拝殿には 江戸期の絵馬が 多く残っています。 また
明治時代の扁額もあるそうです。 拝殿脇に 「播磨灘物語」 の文学碑があります。 司馬遼太郎は 祖父
の代まで 播州門徒だったそうで 自ら その末裔と名乗っていたそうです。  本殿の北に 土塁が残って
いて 英賀城公園には 野中口之跡の碑があり この辺りが 英賀城の城郭の北端だったようです。 




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姫路の旧街道を歩く 室津道篇① 予告

2017-12-23 14:30:36 | 歴史探索
 12月23日(土)   天気:晴れ のち 曇り   室温:13.5℃

 きのう FMゲンキのフリーマガジンの ”冬号” を入手しました。 冬号の ”気まぐれ途中下車
姫路の旧街道を歩く” は 室津道篇①(福中町~町坪~才崎橋東詰) です。 姫路城の西玄関
口・備前門から 山陽本線沿いに 南西方向に進み 英賀保駅の北を通り 夢前川の才崎橋まで
歩くようになっています。
 姫路市教育委員会 文化財課 昭和58年発行の文化財見学シリーズ11 『室津道』 をたずねて
(広畑区小坂~福沢町)には
 室津は 摂播五泊の一つ 古代からの重要な港だった。 江戸幕府は 姫路藩に 飛地として治め
させた。 室津~姫路の道は 「室津道」 と言い 明治には 「県道」 となった。  だが 道幅は 6尺、
広いところで 9尺、しかも 屈曲が多かった。 今は 草に埋もれていたり 区画整理で 消えたりした
ところもある。 ここでは 江戸時代の室津道を たどってみよう  とあります。
 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 2016.1.12 才崎橋から西の揖保川の八十の渡しまでの ”室街道を行く” は < こちら >
を、2017.10.9 魚吹八幡神社から西を歩いた ”垣内探訪 「室街道」” は <こちら> を見
てください。
  
 この先 広畑を通り 網干の揖保川の八十の渡しまでは 歩いたことがあるのですが 今回のルートは
歩いていません。 歩くとすると 網干から 備前門まで行って また 網干まで帰るのは 結構しんどい・・。
 今回のルートでは 冑山や手柄山、山崎山が含まれているので これらを登るとなれば 足が重いし
コースから外れた荒川神社や 法輪寺(茶くれん寺)、英賀城 もあるし・・・。
 
今回のルート沿いの見所として
1.備前門(福中門):姫路城の西の玄関口、室津道の起点
2.千代田町の常夜灯:1868年 室津道の出入り口に設けられた常夜灯
3.千代田町の道標:室津道脇にある道標で 「あぼ志美ち」 とある。
4.冑山神社:播磨国風土記の14丘の一つ。 姫路城の裏鬼門。
5.手柄山 :播磨国風土記の 「手刈丘」
6.JR山陽本線:私鉄 山陽鉄道として 明治21年 兵庫駅ー明石駅間が開業。
7.高(尊)清水地蔵:荒川地区は 伏流水の豊かな地域で 各所に清水が湧き出していた。
8.町坪構居:英賀城の支城で 領主は 町坪弾四郎といわれる。
9.町坪の常夜灯:町坪西川の室津道に建てられていた常夜灯。
10.法輪寺:平安時代に開かれた 臨済宗のお寺。 秀吉から 茶くれん寺の寺号を。
11.荒川神社:元は 手柄山の西麓にあった、水の神・水波能女神をまつる。
12.付城 :英賀城の出城? 「関門西堀之跡」 の碑がある。
13.山崎山:山上に 山崎惣右衛門の構居があった。
14.山崎の石灯籠:1846年 建立。 金毘羅参りの旅人のため?
15.英賀城跡:戦国期 9代140年にわたり治めた 三木氏の城。
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安富町の三森城跡

2017-12-21 16:00:37 | 山歩き
 12月21日(木)   天気:晴れ   室温:14.9℃

 きょうは 安富町の三森城跡、通称・城山250mに登ってきました。 結局は 城跡に
登ったのですが さんざん馬鹿なことをして 迷走し 疲れました。 先日は 姫神社の
北尾根にあるという言葉に騙され 迷走しましたが・・。 まあ きょうは なんとか登れた
ので これで 今年やり残したことはなくなり すっきりしました。

姫路市教育委員会 文化財課発行の ”『安富町』 をたずねて” に
 三森城跡は 三森集落の小字城山にある。 昔の京道、現在の県道三木山崎線を見おろす
標高250mの山上に築かれた 中世の山城である。 と記されています。
ネットで調べると
 三森城跡は 宍粟郡の南東部(姫路市安富町)にあって 東へは 加西北条方面の古道、南へは
林田川沿いに 姫路・竜野に至る街道があり、古くからの交通の要衝地点にあった。
 三森・城山の標高250mの山頂部に 小さな曲輪跡と数段の削平跡が見られるが、自然地形に近い。
戦国末期に見られる竪堀や堀切の跡がないため、中世初期の小規模な山城であるといえる。
 三森城の城主については、「赤松家播備作城記」には記載がなく、ただ一つ宝暦5年(1755)の
「播磨古跡考」 佐用の岡田光僴)に 「三森古城 安志庄三森村に有り。 三森近江守と云し
人住之と云」 とあるのが 初見である。 しかし 三森近江守の名は 赤松家臣団に見当たらない。
この 「播磨古跡考」 が 書かれたのは 長水城が落城して 175年後のことである。
  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 10:17 出発。 国道29号線で 安富町へ。 中国道を潜り 姫神社を過ぎた 県道脇の空地に
10:57 駐車。 ここへ来るのも 3回目なので 様子は分かっています。
 近くに 長老?がおられたので 城山へ登る道を尋ねると 子供の頃は ここから 何回か登ったが
いまは 道がないから登れんじゃろう。 林道の先に 鉄塔の巡視路があるから まず鉄塔へ登り
尾根はなるいから 鉄塔から回る方が いいと 教えていただきました。
 言われた通り 林道を歩いて 鉄塔の巡視路へ。 表示板と古い橋があり 慎重に橋を渡り 山へ。
最初は 良かったのですが この杉林は 枝打ちされた小枝が積み重なって すぐに 道が分からなく
なりました。 谷を登ったのですが 尾根に出ると 鉄塔は 左にあったので 巡視路は 左の斜面を
上がったのでしょう。

 谷の斜面を行くと 長老の言われた通り 10mくらいの池があり 苦労して進むと 倒木帯に
出て また汗をかきます。 11:41 尾根の鞍部に登りました。 予想より 南に登ったようです。
 とりあえず 北の鉄塔を見に行きます。 神野溝口線51の鉄塔は すぐ近くでした。 鉄塔から
送電線の延びる 東と西の景色が望めます。 11:45 鉄塔を見て 引き返します。
NETを見ていると
 三森城は 狼煙により 長水城と連絡していたのではないかと言われている。 頂上から尾根筋に少し
下ると狭い鞍部になった所に至る。 そこに 狼煙台があったという。 今は その場所は 送電線の鉄塔
になっている。 三森から三坂(下河) そして 三谷越しの切り通し北尾根に 狼煙台が想定されているが
本当に狼煙台があったのかどうか、有事の際に 狼煙が有効に使われたのか、その確証はない。

 きょう 失敗したのは PCで 地図をプリントするとき 狭い範囲だったので かなり大きくしたの
ですが 地図を見て 距離を目視で測るとき 地図が大きいことを うっかりしていました。
 南西尾根の先端にある 三角点を見に行こうとして 尾根の先から 南東へと。 ところが
尾根の先端と思ったところは 城山の山頂だったのです。 ここから 南東へ行くと・・。
なだらかな尾根はなく 急な尾根ばかり いくら探しても 三角点への尾根はありません。

 この山は 杉が植林されていて 周りの景色が 見えないので 居場所が分かりません。
せめて 周囲の尾根や 山並みでも見えると 居場所が分かるかもしれないのですが・・。
 さんざん探して 諦めて 南西尾根の城山へ。 南西へ行くと 尾根はなく さまよった挙句
12:30 歩いて来た林道へ降りてしまいました。 これには がっくり・・。

 また 巡視路へ入り 今度は 谷を進まないで 急傾斜の山頂目指して まっすぐ 急斜面をよじ
登ります。 一歩一歩 上へ登れば いつかは 頂上へ登れます。 13:18 城山250m・三森
城跡に 登頂。 長老さんが 言われた通り ここには なんもありません。 せめて プレート一枚
ほしかった・・・。 やや広い平坦地があるだけ・・。

 山頂から降りて もう一度 鉄塔51へ行ってみました。 山頂から 鉄塔まで 100mちょっと?
こんなに近い? ここで 持っている地図は かなり拡大したものだと 気付きました。 尾根の様子が
確認できたので 今度は 三角点のある尾根に 簡単に乗れました。 鉄塔から 直ぐ南東へ行けばいい。

 三角点は 少し登った小ピークにあります。 三角点の上に 落葉が積もっていたので 掃除しました。
この四等三角点:大東山 206.9mは 面白い。 標柱が 丸いのです。 上に 金属の円板がついて
います。 このような丸い三角点は 初めて見ます。 

 三角点を見て 東の等高線の緩い方向へ降ります。 左に 鉄塔が見えます。 最後
急斜面を滑り降りると 変電設備のある林道に降りました。 墓地の前には 六地蔵が・・。

 県道を西へ戻ると あごなし地蔵があります。 なにもないので 謂れなどは分かりません。
      縁起の歌  歯の痛み 治し給えかしと 隠岐の国の あごなし地蔵 祀る郷人
 歯痛に ご利益がある?  なぜか そばに 三森城跡の石碑が・・。 もっといいところに 設置
してほしいが 場所が なかったのでしょうか。 一番いいのは 城山の山頂ですが・・。

 城山の南西の麓には 居館跡があるので 見に行きます。 平坦地は いくつもありますが
野麺積の石垣は 見つけられませんでした。

NETには   大手道に長い石垣を残す居館跡
 三森城跡について、特筆すべきは 城山の西南の高台で 大手道あたる場所(字坂口)に武士の居館跡の
石垣が残っていることである。 竹藪の中には 野面積の石垣に区分けされた 幅5m~10m、長さ
20m~40mの屋敷跡が 五段に及ぶ。

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エルミタージュで 編み物と押花展

2017-12-20 15:16:42 | ギャラリー散策
 12月20日(水)   天気:晴れ 一時 曇り    室温:13.5℃

 きょうは 朝日谷のカフェ・エルミタージュへ 佐藤さんらの ”編み物とアート押花展” を
見に行きました。 きょうは お客さんが多く 指定席に座れず 特別席へ。 きょうのカップ
は NARUMIでした。 ところで エルミタージュは 年末まで 展示の変更はなし? 押花は
反射で 写真が 撮れないのですが・・。  新聞を見ると この前行った 「銀の馬車道」 が 日
本遺産に認定されたことが 姫路市の市政10大ニュースになった と載っています。
 帰りに 朝日山の下を歩いていると 芦屋から来たという高年の人が 朝日山は どこから
登るのか と言われるので いっしょに 朝日山に登ってきました。 あまり天気が良くなかっ
たので 淡路島や小豆島は 見えにくく・・。 この方は 大日寺に関心があるのでしょうか?








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