私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

京見山・高射砲台跡

2012-02-27 16:40:48 | 山歩き
 2月27日(月)  天気:晴れ 雲あり  室温:13.2℃   地図:網干(東端)

 きょう 午前中 暇にまかせて 京見山へ行ってきました。 きのう しみけんさんのページを見ると
京見山の砲台跡へ行かれ 砲台跡の石積みの写真がありました。 私も 昨年 5月18日に 京見山の
山火事跡を視察に行った際 砲台跡へ寄ったのですが 石積みを見ていません。 わざわざ 見に行く
価値があるかどうか 分かりませんが 暇だし 簡単に短時間で 行けるので ちょっと 行ってきました。


 きょうは 自転車で行きます。 従って 時間集計も 距離集計も ありません。 適当に 東へ行き
適当に 踏切を越え はりま勝原駅へ。 駅の手前に 夫婦地蔵があります。 石に 二体のお地蔵
さんが彫ってあり 右の地蔵さんは 錫杖を持っています。 子供を授かりたい人に ご利益がある
そうです。 室町時代末期の作?  説明板によると この辺りの地名は 熊見ですが 源満仲が
西国へ下向するとき 熊が出たから という説もあるそうです。 ここで 源氏の祖・源満仲に 会うとは
思いませんでした。
 坂は 自転車を押して 歩きましたが 家から 15分ほどで 登山口に 着いたでしょか?



 登山口に 自転車を置いて 砲台跡へ行くだけなので 手ぶらで スタート。 上の地図は 「京見
山散策マップ」の一部分ですが 砲台跡への道は 描かれていません。 分岐から 折り返すよう
に 南へ尾根道を進みます。 詳しくは しみけんさんのページのGPS軌跡を見てください。
道は はっきりしているので 迷うことはないと思います。 登山口から 真っ直ぐ進み 分岐を 右
の岩の方へ上がります。 自然林の山道を登ると 標識のない分岐に出ます。



 分岐を折り返すように 尾根を南へ 約100m進むと 開けた岩場に出ます。 ここが 砲台跡で
南から振り返ると 高さ50cmほどの石積みがあります。 低い雑木が茂って 一部隠れています
が 石積みは 三辺あり 一辺は 3mほど。 角には 錆びた鉄の金具もあります。
 歴史的遺構なので せめて 標識でも あったらと思いますが・・。 少し雑木を整理して 丸太を
組んで 高射砲の模型でも 作ってもらうと いうことなしですが・・。




 ここは 岩場で 南が開け 展望良好。 東は 明石大橋から 南の家島諸島、小豆島 南西の御
津山脈の東端が見渡せます。 ただし 天気が良ければ・・。 真下には はりま勝原駅の シラサギ
が 羽を広げた形の駅舎が見えます。 山頂の方が 景色は いいのですが きょうは 行きません。
砲台跡を確認して 岩場から 景色を見て 10分ほどいて 下山。
 京見山の周りには 古墳が多くありますが やはり 古墳より 砲台跡の方が いいのは 私だけ?



 登山口から 砲台跡まで 10分ほど 砲台跡に 10分ほど居て 下山も 10分ほどで 計30分で
一件落着。 はりま勝原駅に降りて イオン大津ショピングセンターの前を通って 重い 折畳み自転
車を 必死に漕いで 向かい風に 悪戦苦闘しながら 帰りました。  ツカザキ病院の前まで戻り ふと
この前の歴史教室の ”朝日尋常小学校跡” を思い出し 畑の中を通って 南の小学校跡へ回り 標
識を撮って帰りました。 標識は 「歴史教室 その3」 のページに 入れておきました。

 。。。。。。。。。。。。
 3月5日 手柄山へ行った帰りに 京見橋の上から 去年の京見山の山火事跡が見えました。
天気が 良くなかったので 暗くなっていますが 京見山の東尾根と トンガリ山東尾根の 南斜面
が 茶色く 焦げているのが 分かります。


 。。。。。。。。。。。。。                                   。。。。。。。。。。。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題

2012-02-25 20:41:48 | 日記
 2月25日(土)  天気:雨 後 曇り

 きょう 日帰りで 広島へ帰ってきました。 従妹から 連絡があり 娘が 帰ると言うので 一緒に帰り
久し振りに 母親に会ってきました。 娘は 従妹や 祖母に会うのは 10年ぶり?のようです。

 話題は 変わりますが 昨晩 久し振りに Eテレの「趣味の園芸」 ”世界らん展&カトレア”(再放送)を
見ると 江尻光一さんの息子(江尻宗一?)さんが 講師をしていました。 聞けば 去年 東京ドームの
世界ラン展で 23年育てた セロジネ・・(名前は難しい)で 日本大賞をとった 江尻光一さんが 亡くなら
れたのだそうです。(去年5月?)
 10年以上前 私が 「趣味の園芸」 を見るのを 趣味にしていたころ 江尻光一さんが 講師をされて
いました。 倉敷で行われた「世界ラン展」で ラン(シンビと デンドロ)の育て方の講師をされ 私も一
生徒として 教えていただきました。 確か 江尻先生は 東京農大の教授で 自宅には 大きな温室を
持ち ランを たくさん育てて おられた?



 特別出展された 青いランは 非常に珍しいもので インドネシアの山奥の1800m付近の高地にある
ランだそうです。 採取するときには 花は咲いておらず 見付けるのも難しい。 勿論 ワシントン条約
で保護される花なので 展示後 インドネシアに返されるそです。 白いランが 昨年 江尻さんが 23
年間 育て 日本大賞を獲られたランです。 横にあるのは 育て始めた時の苗です。
今年の大賞は デンドロビウムで 大輪ですが 花としては 平凡?




 25日は 天気が良くないので すこし早目の8時に出発。 国道2号線から 龍野西ICに廻ります。
山陽道を走り ほぼ中間の三原市・八幡PAで トイレ休憩し 娘と運転を交代。 娘が お土産にもみ
じ饅頭を買いたいと言うので 宮島SAへ寄りました。 天気が良ければ SAから宮島を望むことが
でき 弥山の頂上周辺が 寝釈迦か 観音様の横顔に見えるらしいのですが きょうは 生憎のお天
気で 雨は 上がりましたが 霧とモヤで さっぱりです。


 売店では もみじ饅頭が いろいろあります。 にしき堂が 有名ですが 生もみじ しかありません。
何種類か とってきましたので お好きなのを どうぞ。 



 母は 大分 衰えていますが まだ 自分で動くことはできます。 夕方 妹夫婦が迎えにきて
私たちも 帰路につきました。 山陽道は 車は多いものの スムースに走れ 途中で 運転を
交代し 暗くなり始めた 6時過ぎに帰ってきました。 往復で 540kmほど。
 料金は 片道2750円でしたから 平日料金の半額でした。


  。。。。。。。。。。。。                                 。。。。。。。。。。。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国東半島 千年ロマン

2012-02-22 21:02:48 | 日記
 2月22日(水)  天気:曇り 後 雨   室温:15.7℃

 きょう テレビ番組欄を見ていると BS11で 8時から ”国東半島 千年ロマン~悠久の仏像たち~”
とういう番組があり 見ると 今回は 「国東半島 石仏と磨崖仏」という題目でしたが 石仏以外にも 多
くの仏像が 紹介されていて 3回シリーズで 今回が 3回目でしたが なかなか 楽しい番組でした。
 第1回は 「豊後・高田 珠玉の仏像たち」で 第2回は 「宇佐神宮と周辺の仏像たち」ですが 残念
ながら 見ていません。 写真は 横長のテレビ画面を 撮ったので 構図が定まりません。




 豊後高田の巨岩壁に刻まれた 不動明王(8m)と 大日如来像(6m)は 豊後の磨崖仏の代表
的なもので 日本最大級のスケールを誇る 熊野磨崖仏で 平安末期の作で 国の重要文化財で
す。 大日如来像の頭には 螺髪が きれいに彫られています。




 豊後高田市の天念寺の前にある 「川中不動」 は 長岩屋川の川中の巨岩に刻まれている
不動三尊で 江戸時代中期のもの。 不動明王の脇には こんがら童子と せいたか童子。
川の中にあるのは 水害除けの願いが 込められているため。 背後には 奇岩秀峰が 連なり
この辺りは 山岳修業の場でも あったそうです。



 石仏以外にも 仏像が多く紹介され 一番良かったのは 杵築市 小武寺の 木造「倶利迦羅くりから
竜剣像」で 不動明王の化身とされる竜が食べているのは 不動明王が 右手に持っている剣だそうで
竜は 竜王を示す。 鎌倉時代後期の作で 国の重要文化財。 盗難防止のため 普段は 厳重に 鍵
がかけられ 見ることができません。 応暦寺の入口にある仁王像も 石仏です。
最後に 国東半島の仏師も 紹介されていました。









  。。。。。。   。。。。。。   。。。。。。
 2月28日(火) 16:45 BSプレミアムで 再放送された 「世界遺産 時を刻む」 ”重慶の石仏群”
も いろいろと石仏が 紹介され 面白い番組でした。 今 中国では 石仏ブームとか・・。 ある石仏
を造る会社の社長さんは 年収1.5億とか・・。 放送のあった日の売り上げは 100万円以上? 
石仏でありながら 透かし彫りのような 非常に細かい細工が 施されています。



 。。。。。。。。。。                                          。。。。。。。。。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二:寒河 そうご 267m

2012-02-18 14:00:57 | 山歩き

 2月18日(土)  天気:晴れ  室温:12.7℃   地図:日生

 きょうは 岡山県との県境にある 二等三角点の寒河に 登ってきました。 山の名は 福浦向山という
のでしょうか? 三角点の点名は 寒河で 岡山側の名前ですが 三角点の住所は 赤穂市福浦字高塲で
兵庫県です。 福浦は 以前 岡山県和気郡日生町でしたが 昭和38年 兵庫県に越境編入され地区
住民の長年の夢が 実現したそうです。 だから 三角点も 兵庫県になればと 思いますが 岡山県です。
 山は 誰も登らないので ヤブ山でした。 昔は 防火帯のような いい道が あったようですが・・。
H22年には 三角点の測量が 行われ 黄チップが 埋められていました。


 8:38 出発。 きょうも 山陽道で行きます。 国道2号線を西へ走り 9:01 龍野西ICから 山陽道
へ入ります。 トンネルの多い 山陽道を 15.7km走って 9:10 赤穂ICを降りて 国道250号線に廻
ります。 国道を6km西へ走り 福浦橋の信号で 左折。 赤穂線の踏切を越え 南へ向かい海岸に出て 岡山県と
の県境へ。 県境には 何の表示もなく 廃墟が一軒あり 道は 下りになり 峠のようです。
9:30 道路脇のスペースに車を停めます。 国道250号線から 3.5km、家から 37.8km。



 廃墟の柵を越えて 南の小ピーク(70m)へ登ってみました。 寒河の頂上と 登る稜線が見え
手前の尾根には 道がありそうです。 南尾根の120m標高点ピークへ いい道が延びています。
 9:42 スタート。 登山口は ササヤブですが ヤブは 5mほどで終わり 次は シダヤブ。
これも すぐに終わり 次は 枯れススキのような 雑草のヤブ。 道は 防火帯ほどの幅がありま
すが 急で 低木のヤブ・・。 



 急斜面を少し登ると 後方が開け いい眺めです。 鹿久居島が 目の前に大きく横たわっていま
す。 南には 小豆島が 東寄りには 家島が 西には 日生が見えます。 等高線180mまでは 急
な登りで ずるずる滑り 下山時が 思いやられます。 空に雲が流れ 日陰になると 写真が暗い・・。



 防火帯は いつの間にか終わり 荒れた山道になります。 荒れていて 小枝が張り出し 顔を引
っ掻かれます。 枯れ木も 結構多い。 道?を確認しながら 進みます。 荒れた道は うっかりする
と どこも道に見えるのです。 高度が 上がると 東に 赤穂市街が望め 赤穂発電所の煙突から 煙
が 上に昇っているので 風は ないようです。



 兵庫と岡山の県境なので 境界杭があっても 良さそうなものの・・・。 境界は 大きく左に カーブ
していますが 気付きませんでした。 道を探しながら 目の前だけ見ていました。 道が 行き止ま
りかと 見回すと 左に 石を積んだケルン?があり 奥に 三角点がありました。



 10:35 登頂。 50分ほどで 登りました。 山頂は 去年測量があった筈ですが 雑木に囲まれ
展望皆無。 今は 見晴らしななくても 人工衛星の電波で 測量できる? 三角点は 四辺が削ら
れたのか セメントで補修され 何等か確認できません。 こんな山にも 悪さをする人が 来たので
しょう。 あまり 雰囲気のいい場所ではないので 写真だけ撮って 退散。 10mほど下から 赤穂
市街を眺めることができました。 煙突の向こうに見える山は 先々週の”坂越尾崎遊歩道” の 丸
山(二等:尾崎) と 向山でしょう。



 少し降りると 道を外れ・・。 慌てて 道を探すと 2mほど左が道?でした。 ヤブ山は 注意し
ないと・・・。 慎重に降りました。 降りるときは 登るときとは 多少 景色が違います。 防火帯?
の広い道に 出ると もう安心。 道の心配は ありません。 後は 滑らないよう注意するだけ・・。



 11:20 車に戻りました。 下山は 40分ほど。 すぐ 帰路につきます。 海岸を走って 福浦の
集落に戻り 少し南へ行き 五軒屋辺りから 寒河の姿を撮りました。 赤穂線の踏切を越え 国
道250号線に出ます。 気になるのは ここの駅の名前:備前福河です。 備前は むかしの名残
だと思いますが 福浦ではなく 福河なのです。 なぜ? 



 帰りも 山陽道です。 国道を走って 11:48 赤穂ICに入り 11:59 龍野西ICを降り 国道
2号線で 帰りました。 龍野西SAに寄っても 良かったのですが 車が多かったので パスして
途中で スーパーに寄って お弁当を買い 家に帰って 昼食。 12:36 帰着。
本日の走行距離は 往路:37.8km 復路:39.8kmで 計:77.6kmでした。
   。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 最初にも書きましたが 福浦が 岡山であったように 昔から 播磨と備前とは 深いつながりが
あったようです。 戦国時代には 播磨の赤松氏と 備前の浦上氏が 戦いを繰り返したという
歴史もあり・・。 浦上氏は 現在の揖保川町辺りが 出身地なのでしょうか?
備前と播磨のつながりについて もう少し 勉強してみようと思います。
  。。。。。。。。。。                              。。。。。。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史教室「埋れたわが町・網干の歴史」

2012-02-14 14:30:42 | 日記
 2月14日(火)  天気:雨   室温:15.5℃

 きょうは 久し振りに 公民館の 「歴史教室」 に 行きました。 本日の題目は 「埋れたわが町の歴史」
JR網干駅周辺 です。きょうは 生憎の雨模様ですが 地元のことを学ぶ いい機会なので 出席させて
いただきました。

公民館の案内には
 JR網干駅の北から 東方にかけて広がる駅前町では いま 大きな変革の時期を迎えようとしています。
 街の歴史は 常によりよい姿を求めて 前に向かって進み そのために 古い建物を潰し 惜しげもなく
 捨て去りました。 でも 目まぐるしく変わる街に 胸を痛めた人が 記憶をたどりつつ 銀行・播電ホーム、
 そして 水車小屋の位置までをも 図に残しています。 貴重な一枚の図から 埋れたわが町の歴史を
 探ってみませんか? ぜひ 皆さんの知恵と記憶力を お借りしたいと考えております。
                    姫路地名研究会  田中早春先生より   とあります。
配布された資料は
    ”JR網干駅前 昭和初期レトロな賑わいの記録”
1】貴重な記録図をたどってみましょう
 ・昭和初期のJR駅前のようすです
 ・世相の変化が読み取れる資料です
 ・駅前周辺の特徴が読み取れます
2】懐かしい家並みに残る産業遺産
 ・金融機関の数が 多いことが揚げられます
    三八銀行・龍野銀行・新宮銀行・岩見銀行・郵便局
 ・素麺産業と倉庫・・・・・龍野藩の保護があった? 網干では 塩がとれた。
 ・小学校跡地・水車小屋・うなぎ小屋
3】龍野電鉄から播電鉄道へ
 ・播電鉄道の正式名は 播州水力電気鉄道株式会社・・・昭和9年まで
 ・揖保郡の南北を結びつける大動脈でした
 ・廃線時の路線距離は 17.1km
4】富裕層たちの金融会社への参入
 ・三八銀行・龍野銀行・新宮銀行・岩見銀行 設立・・・三八銀行は 後の神戸銀行
 ・御津町岩見港の上西家と 岩見銀行・・・・岩見は 丸亀藩で 休憩所があった。
 ・丸二醤油と上西家
 ・岩見銀行の設立
5】網干港繁栄の時代からの脱落と警告文
 ・川港として 繁栄してきた網干の不安と焦燥感
 ・高文の飾磨県奉職
 ・加東家の古文書からみる 「網干町の心得」 とは
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『播電電車と津市場』(津田 實より)の資料の 「龍野電気鉄道路線図」 のように 網干港から
新宮まで 南北に 電車が走っていたとは この地区に 30年以上 住んでいて 知りませんでした。
 製麺業が 盛んだったようで 何軒か 製麺所があります。 これが ”揖保の糸”の元なのかも。
また うどん屋さんも多く 図の中に 9軒もあります。 倉庫も 異常に多くありますが なにを
保管してたのでしょうか? 
 現在も 残っている家は 本田酒店、飯塚荒物屋、円尾たばこ屋など ごく僅かのようです。

今回の歴史教室は 昭和初期の話で 今は 何も残っていないので 追跡調査することは なさそうです。
先生は 4月には 室津を歩きましょう と 言われていますが 私は この前 行ったので 不参加?



 朝日小学校跡は 日吉山(現在の和久山)の麓にあります。 説明板によると 明治政府が 明治3年
義務教育令を発布し 従来の自主的寺子屋教育から 義務教育にし 明治30年 旭陽、勝原、石海、
余部の四ヵ村組合立の朝日高等小学校を この地に開校した。 明治45年3月 組合を解散 4月に
各村小学校に併設され 当校は 旭陽尋常小学校となった  とあります。



 JR網干駅の南には 荒神社があります。 本殿の周りの玉垣に 寄付した人の名前が彫って
あります。 大正六年とあるので 神社が造られたのも その頃でしょう。 刻銘を見ると 網干銀行、
岩見銀行、新宮銀行、龍野銀行などの 金融機関の名に混じって 播州素麺の名が みられます。



 地図では 現在の和久山は 日吉山となっていて 日吉神社があったそうですが 探しても 分か
りません。 和久山の西裾にある 厳島神社かも? 厳島神社は 大正15年に建立されたようで
すが 玉垣には 龍野銀行、網干銀行、社銀行?の名が 見られます。




 和久山の麓の説明板に ”明治45年3月 組合を解散 4月に各村小学校に併設され 当校は
旭陽尋常小学校となった” とありますが ツカザキ病院と 南の朝日中学校の中間の道路脇には
「旭陽尋常小学校跡」の 標柱があります。 ここには ”明治初期の度々の改革で 旭陽村には
輯盛小学校、勝原村には 育英小学校が置かれた。 明治25年4月の改正により 右二校を併せ
て 旭陽尋常小学校(四年制)、旭陽簡易小学校(三年制)を設立。 校舎を この地に 置いた。
明治24年 改正で 現在の校区ごとに 小学校を置くことになり この地から 現在地に移った” と
あります。 何年か前 地元の ふれあいウォークで 歩いたことがあります。

  。。。。。。。。。。。。                            。。。。。。。。。。。。。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする