私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

逆から見た忠臣蔵 上野介の実像 

2020-12-15 16:52:51 | 歴史探索
 12月15日(火)   天気:晴れor曇り+風   室温:17.6℃

 きのう14日は 赤穂浪士が 吉良邸に討ち入りした日でした。 夜10時から BS-TBS
で ”にっぽん歴史鑑定 「逆から見た忠臣蔵 上野介の実像」 上野介は 悪くない” が放送され
ました。  12月の歴史教室で 「赤穂事件の真相を探る」 を勉強し、事件の詳しい流れは
解りましたが 肝心の浅野内匠頭長矩が なぜ 大事な日に 殿中で 刃傷事件をお起こしたのか
は 解りませんでした。 この放送で 最後に 長矩が 家臣に宛てた手紙で とっさに斬り付けたと
というようなことが書かれていて、上野介への恨みなどが 原因では なかったようです。
 なので 幕府が下した 喧嘩両成敗というのも おかしい話ですが・・・。 なぜ?

 番組は 多摩大学客員教授の河合敦さんに 詳しく解説していただきながら進められます。
  鑑定1:上野介が 斬り付けられた本当の理由とは?
  鑑定2:「幻の書状 公開」、上野介の意外な素顔とは?
  鑑定3:「吉良家最大の悲劇」 は 討ち入り後にあった?

 刃傷事件が起こったのは 元禄14年3月14日。 この日は 勅使奉客の儀が行われる
大事な日でした。 ときの5代将軍・ 徳川網吉から くれぐれも粗相のないようにと 通達
が出されていました。 幸い? 上野介は 額と肩を切られましたが 傍にいた梶川与惣兵衛
が 内匠頭を押さえたので 上野介の傷は 浅く、致命傷ではありませんでした。
 吉良上野介義央は 高家肝煎の儀式の指南役で 浅野内匠頭長矩は 饗応役で いわば 先生と生徒関係です。


 吉良家の先祖は 源氏で 名門の家柄。 上野介の父・満氏は 礼法にたけていて 「吉良流
礼法」 を 書き 大大名を指導していた。 このため 上野介は 将軍・網吉から 厚遇されてい
ました。 教え・指導を受けた大名が 高家に相応の謝礼を払うのは 武家社会の常識でした。 
 上野介は 28歳で 家督を相続、礼法指導役を受け継いでいた。 現・愛知県西尾市の
吉良家は 4200石の旗本で、財政は ひっ迫していた? 浅野内匠頭は 赤穂藩5万石の大大名。


 内匠頭の 上野介への恨みとは? 上野介は 本当に 浅野内匠頭に 露骨な嫌がらせをしたのか?
 上野介が斬りつけられた 本当の理由とは?
 赤穂では いい塩がとれ、将軍に献上していましたが、吉良藩では いい塩ができなかったので
赤穂に スパイを送り 探ろうとしたが 斬り殺された。 これは事実ではない? 三河では 塩を
作ってはいない? 赤穂で 特別方法で 塩を作っていたということもなかった。
 内匠頭は 上野介に 礼法を教えてもらっていたが 謝礼金(賄賂)を頑として払わなかった。
上野介は これを不快に思い、うそを教え 恥をかかせたり、必要な情報を 教えなかったりした?
 内匠頭は 万事不調法で いうべき言葉もありません。 公家集も 不快に思われています。

 儀式の予算は 大名が 負担することになっていましたが 上野介が 1200両(約1億2000
万円)必要と言っても 内匠頭は 700両しか出さない・・。
 これらのことが 恨みを抱く理由だったのでしょうか? 一方的に 内匠頭の方が 悪いようにみえますが・・。

 内匠頭には 心因性の神経症である「痞え」(つかえ)という持病があり、痞えの発作が起こると、
長矩は 顔の右側がひきつり、こめかみに青筋を立てて痙攣を繰り返し、次第に 体の全体をよじる
発作を起こしたとのことです。 三日前にも 薬を飲んだと言われ、突発的に 斬りかかったのでは・・。

 刃傷沙汰のあと 幕府の事情聴取で 傍にいた梶川与惣兵衛の証言で 上野介は 脇差に手を掛
けなかったということで 上野介は お咎めなし。 内匠頭、 殿中を憚らず 理不尽に斬りつけた
ことは 不行き届き至極。 内匠頭は 多くを語らず 同日夕刻 切腹。 家臣にあてた手紙に 突発的にと・・。

 吉良上野介は どんな人物だったのでしょう? 上野介のの故郷は 三河・現西尾市吉良町で
地元には 銅像があり、お寺に 梵鐘を寄贈したり、茶をたしなむ風流人で、領民思いの殿様で、
住民から慕われていたようです。

 地元三河に残した娘に宛てた手紙は 子どもが読みやすいようひら仮名で書かれ、子煩悩な
父親だったことがうかがえます。

 では なぜ 幕府は、上野介を冷遇するようになったのか? その理由とは?
 徳川綱吉は 3代将軍・徳川家光の4男として 1646年1月8日に 江戸城で生まれまし
た。 1680年5月、兄で将軍職を務めていた徳川家綱が病に倒れると、長兄・徳川家綱
には 子が無く、他の兄も既に亡くなっていたため、4男の弟・徳川綱吉に白羽の矢が立った
訳です。 こうして、兄・徳川家綱の養嗣子となると、江戸城・二の丸移り、兄が 40歳で
死去すると、将軍宣下を受けました。

 1687年には、殺生を禁止する法令「生類憐みの令」を発布しますが、庶民は 悪政だと
不満を募らせていきます。 このようなときに 赤穂事件は 起こり、当時の江戸庶民には
娯楽が少なく 仇討ちは 庶民に好まれました。 このため 浄瑠璃や歌舞伎などで 赤穂事件
が 面白おかしく演じられると 庶民には 大受け。 事実とは 違う内容の 「仮名手本忠臣蔵」
が 庶民の間に広まったのです。

 河合先生は 失墜していた幕府の評判をこれ以上落とさないため 吉良を見捨てたと言わ
れます。 まず、江戸城の近くにあった 吉良屋敷を 川向こうの警備の手薄な本所へ移すよう
命じます。 これは 厄介払い? 赤穂浪士の討ち入り・仇討ちを 暗に認めた?

 吉良屋敷の近くの住民が 赤穂浪士が 討ち入りしたら どう対処すべきか。 幕府に問うと
一切構わず、自邸内を守るようにと‥。 吉良邸の前に 赤穂浪士が 店を出し、吉良邸を見
張ったり・・。 吉良邸の見取り図が 赤穂浪士に漏れたり、14日に 茶会をするとの情報
が 漏れたり・・。 吉良上野介も 気が緩み、油断したようです。
 このような状況で 元禄15年12月14日 未明 赤穂浪士の吉良邸討入りが起きました。

 討ち入りの際、上野介は 俵の中に隠れていたところを見つけられたと 言われていますが
遺された書物によると 上野介も脇差で 戦ったそうです。 嫡男・義周も戦いで 傷を負った。

 上野介の首を取った赤穂浪士は 吉良邸から 浅野家の菩提寺・泉岳寺まで 12kmを
歩き、 内匠頭の墓前に 報告。 幕府の採決:赤穂浪士46士は 忠義の志として 武
士の処遇をもって 切腹。

 「吉良家最大の悲劇」 は 討ち入り後にあった? というのも  喧嘩両成敗により
吉良義周に対し 命を捨てて 親・上野介を守らなかったとして 領地没収、身柄は 信濃
高島藩お預け。 義周は 宝永3年 21歳で 病死。 吉良家は 途絶えた・・・・。

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