私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

青少年館で 龍野美術協会展

2014-03-30 15:06:25 | ギャラリー散策
 3月30日(日)  天気:雨のち曇り+風  室温:21.8℃

 きょうは 山崎のよい温泉へ水を汲みに行き 帰りに たつの市の青少年館へ寄り 第43回
「龍野美術協会展」を 観てきました。 龍野美術協会は 1951年に 誕生し 今年で 63年目
だそうです。 洋画12点、日本画17点、写真7点、書道5点、工芸9点が 展示されています。
 名前の分かるのは 洋画の石井 久志さんと 井上 展也さんだけです。 青少年館周辺の桜も 咲き
始めていました。 きょうは 風が強く 桜が じっとしていないので 撮るのは大変です。







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交流ステーションで 春蘭展

2014-03-29 15:29:12 | ギャラリー散策
 3月29日(土)  天気:晴れのち曇り  室温:23.0℃

 きょうは 手柄山・交流ステーションへ行き ”春蘭展” を 見てきました。 ついてに 温室
植物園へ ”カトレア原種・インターメディア展” を 見に行ったのですが カトレア展は 30日
までのはずなのに やっていません。 終わりかけた カトレアが 少し残っていましたが・・・。
 4月12日からの ”アジサイとクレマチス展” の準備中で 花を搬入中・・・。 仕方がない
官兵衛ゆかりの ”目薬の木” でも 買って 帰りましょう。 目薬の木といっても ティーパックで
す。 バックではなく パック! 健康茶・めぐすりの木は ほのかな苦みがのちです。
 日本にしかない メグスリノキに含まれる ロドデンドロールや タンニンは 健康維持の大切な
成分です。 めぐすりの木・健康茶を飲んでも 黒田家のように 財をなすことはできない?
 急に 暖かくなったからでしょうか 手柄山中央公園では 桜が 咲き始め 三分咲きくらいの木
もあります。

 手柄山からみる ”天空の白鷺” も 覆いが外れ ”天空の黒鷺” 状態です。 交流ステーション
3階で行われている 第25回 ”春蘭展” ( 共催:姫路蘭友会 )を見ます。 春蘭は 可憐で
清楚な きれいな花ですが 花が小さいので このAFのカメラでは 花に ピントが 合わないのは
困ります。 下手な鉄砲を 数多く撃ちますが・・・。




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 緑の相談所の周辺でも 桜が咲き始めています。 赤い梅のような花は ボケ。


 緑の相談所の周辺の桜を見て 南にある温室植物園へ行きます。 ここでは カトレア展を
している筈ですが・・。 次の12日からの展示 アジサイとクレマチスを搬入しています。
 奥の部屋には カトレアが 少し残っていましたが・・・。





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天空の竹田城跡写真展

2014-03-27 15:55:55 | ギャラリー散策
 3月27日(木)  天気:晴れのち曇り   室温:22.5℃

 きょうは 姫路を歩いてきました。 新聞に載っていた おみぞ筋商店街の 「飛び出すアート」 が 描かれている
とあるのを 見て 播磨国総社へ。 これも 新聞にあった 「天空の竹田城跡写真展」 を見て イーグレひめじへ。
 「香寺高校芸術文化発表会」 と 「荒川隆吉 写真展」 を 見ますが これは 別のページで書くとして ヤマトヤシ
キへ。 特選ギャラリーで 「近代巨匠陶芸展」 を 見て 中井三成堂画廊へ。 絵画の赤字処分展をしています。
 山陽百貨店へ行き 6階催し場で 行われている 「絵画の全て」売尽しセール展を見ましたが これは すごい数
の絵画が 展示してありました。 一番?高かったのは 梅原龍三郎の 「カンヌ風景」 で 50cmほどの絵でしたが
3885万円。 平山郁夫の 「薬師寺の森」 は 1260万円。
 最後に 5階の美術画廊で 「人間国宝と近代陶芸巨匠展」 を 見ましたが これも すばらしい作品ばかりでした
が 写真は ありません・・・。
 かえりに 百貨店の地下の御座候を 買いに行ったのですが なんと ここは 行列・・・。 おかげで 13:35に
乗り遅れ 次の電車 13:56まで 20分待ち・・・。

 9:59 網干始発の電車で 姫路に行き 道は曲がっていますが まっすぐ 小溝筋商店街へ行きます。 23日の
新聞に 載っていた 立体的に見える 「飛び出すアート」 を見ます。 が おみぞ筋を歩いても 絵がありません。
絵は どこにあるのですか? 信号の向こうですよ! 立体的に見える絵は ありましたが これを効果的に撮るの
は 光線の具合もあり 難しい。 新聞の写真のように 助手も要るし・・。 シャッターに描かれた絵は 朝早くか
夜遅く シャッターが 降りたときしか 見られません。 きょうは 一つも見られず。






 おみぞ筋を抜け 国道2号線を渡り 総社門跡を通り 北へ歩くと 総社門に出ます。 播磨国総社の門の2階で
「天空の竹田城跡 写真展」 が行われています。 和田山町の写真家・吉田利栄が 過去 約30年間 城跡で撮った
約7万枚の中から 四季折々の写真40点を展示しています。 最近は 観光客が増え 城跡の雰囲気も変わった。
それ以前の 自然なままの貴重な写真を 見ていただける・・・と 新聞に書かれています。



 天空の白鷺は 廻りの覆いが 取り除かれて 天主閣が 透けて見えるようになっています。


 総社を後にして イーグレひめじへ行きますが イーグレひめじでの展示は 別ページで 見てください。
ヤマトヤシキへ行き 特選ギャラリーへ。 ”近代巨匠陶芸展” をしています。
3階の中井三成堂画廊では 消費税UP前夜祭 ”赤札展示即売会”。




 山陽百貨店の6階催し場では 消費税増税直前! 「絵画の全て」 売りつくしセール。 すごい数の絵画が
並べられていて 見て回るだけでも 疲れます。 値段を見て 疲れが倍増・・。 出るのは ため息だけ・・。


 5階の美術画廊では 「人間国宝と近代陶芸巨匠展」。 宮本憲吉、河井寛次郎、金重陶陽、北大路魯山人、
今泉今右衛門、井上萬二、田村耕一・・・。 こちらも 素晴らしいです。


 御座候を買いに 地下へ降りて・・・。 なんと 行列が・・。 姫路駅へ行くと 13:35 の電車に タッチの
差で乗り遅れ・・。 次は 13:56 か・・・。

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香寺高校芸術文化発表会

2014-03-27 15:45:25 | ギャラリー散策
 3月27日(木)  天気:曇り 後 晴れ  室温:22.4℃

 きょうは 姫路を歩いてきましたが イーグレひめじでの ”香寺高校芸術文化発表会” と ”荒川隆吉 写真展”
は こちらのページで 書きます。 香寺高校芸術文化発表会は 29、30日には 書道と 華道の展示もあるよう
ですが・・・。 手柄山・交流ステーションへ 行かなくっちゃ・・・。
 最近 BSプレミアムで 4時から 「シャーロックホームズの冒険」 を 再放送しています。 これが また 面白いの
です。 5月には 「シャーロック3」 が放送される予定です。 なかなか このブログを書く暇が ありません・・・。

 イーグレひめじでは ”香寺高校芸術文化発表会” と ”荒川隆吉・写真展” が行われていますが まず 第3・4
展示室の ”荒川隆吉・写真展” を見ました。 隆吉の 吉 は 土 が書かれていますが 字が出てきません。
なぜか 荒川さんから 案内状をいただていました。 広い展示室に 50点以上の作品が 展示されています。






 第1、2展示室では 2014 ”香寺高校芸術文化発表会” が行われています。 受付で 立派なパンフレットを
もらいました。 校長先生の開催によせて には 本校は 平成9年に 本県初の総合学科高校として スタート
して 17年が経過しました。 総合学科の先駆けとして 様々な取り組みを続けており 芸術文化の分野に
ては 特に 高い評価と頂いております。 平成25年度の美術工芸部の活動を 振り返りますと 春の三ツ山大祭
の造り物 「お菊井戸」 の展示に始まり 県立歴史博物館の特別企画展 「博物館はおばけやしき」 における展示、
姫路駅前サンクンガーデンを飾るオブジェ、秋には地域の祭りのポスター、銀の馬車道車窓アートのデザインなど
多方面からの協力・依頼を受け 地域の活性化に 大いに貢献しております。 ・・・・・



 美術工芸部 顧問は 部員たちの日々の活動は デッサン、油絵等はもちろん 木工、粘土の立体、陶芸、
ガラス、漫画、アニメキャラクターの制作から ファッションデザイん、美術鑑賞など 多岐に渡ります。
 それらの活動を通じて 部員一人ひとりの強烈な個性がぶつかり 互いに刺激し合い 反応することで 自由
で 新しい発想が生まれてきます。 ・・・・・




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 1階へ上がり カフェ・ゆうゆうゆうで 休憩します。 きれいな水仙が 飾られています。
このあと ヤマトヤシキへ行きますが つづきは 前のページを見てください。

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歴史教室 3月号 文学の黒田官兵衛

2014-03-25 13:14:58 | 歴史探索
 3月25日(火)  天気:曇り  室温:15.9℃

 きょうは 公民館の歴史教室に 出席しました。 本日は 姫路文学館の 玉田克宏先生の ”文学に描かれた
黒田官兵衛” です。 きょうは いつもより 出席者が多く 配布される資料の枚数が 足りませんでした。
4月は 官兵衛ゆかりの地巡りで 御着城か 広峰神社周辺を 歩くそうですが 私は 欠席?
 

 本日の講演内容は ”文学に描かれた黒田官兵衛”  

1.黒田官兵衛の生涯(1546~1604)と ドラマチック
  天正 3年(1575)-29歳 小寺家が織田信長に 帰属するように説く。
  天正 6年(1578)-32歳 荒木村重が有岡城に叛し その説得に赴いて 牢獄に。
  天正10年(1582)-36歳 備中高松城を囲み 水攻め。 中国大返し。
  天正17年(1589)-43歳 城井谷・宇都宮鎮房を謀殺、家督を長政に譲る。
  慶長 5年(1600)-54歳 関ヶ原の合戦に際し 九州を席巻する。

2.官兵衛のあれこれ

 ①江戸時代
  ・大名の風聞
   「信政公御譚」: 元禄のころ 津軽・弘前藩4代目津軽信政 (森銑三 「近世人物夜話」の「秀吉と如水」より)
     中国大返しと 伏見大地震における秀吉と如水のやり取りが 書かれ
     信政の聞いていたことの記録で 伏見大地震の翌日 秀吉が死んだという噂が流れ 加藤清正が 駆け付け
     無事が確認された。 官兵衛が 駆け付けたとき 秀吉が ワシが死んだと聞いて 嬉しかったろう・・・・と。
   「武功雑記」 : 平戸藩4代 松浦鎮信(しげのぶ)
     家康は 官兵衛を 播磨の馬商人のあがりと思っていた。(ふしがある)・・・いいイメージではない。
  ・逸話集
   儒学者・湯浅常山 :「常山紀談」 や 岡谷繁実 「名将言行録」 が逸話を広め 後の逸話のもとに。
   ※長政の遺言状・・渡邊大門氏の説では 将来を見越して 対幕府、対家臣を考慮した。
    官兵衛は 天下を狙っていた。 家康を脅かす力があった。 家康に天下を取らせてやった。
     黒田に 恩義がある。

 ②明治時代
  ・修身の教科書にでてくる。
   「黒田如水の鯛」 :「修身説話」 金港堂 1887年 秀吉が 朝鮮を攻めたとき 日根野備中守に軍資金を貸し
     返しに来たとき 返済金を受け取らず 鯛を三枚に下ろし 骨の部分のみを使い 吸い物にして出した。
     ケチ・・・節約倹約・・・お金は 必要なときに使う。
   「黒田如水 事を記す」 : 亀山雲平 「記事論説高等作例規範」 浜本明昇堂 1892年
                 姫路藩 松原八幡宮 神主
           最期を覚悟した如水について・・晩年 如水は 家来につらく当たり 嫌われ者になる。
           長政には ワシが最後まで いい人だったら 死後 お前もやりにくいだろう。
           長政になって 良かったと言われるよう 嫌われ者で 死ぬ方がいい・・・。
    これらの書物は 国会図書館のライブラリーで 検索でき 自由に閲覧できるそうです。
  ・明治維新から 半世紀が経過し 代表的な歴史書が 旧福岡藩士によって 書かれる。
   福本日南 「黒田如水」 (東亜堂書房 1911年)
   金子堅太郎 「黒度如水伝」 (博文館 1916年)・・福岡の博物館の資料を見て書いた。
     金子は 伊藤博文が 憲法を作るとき 事務を執った。 目薬は 「無限物語」 に出てくる。
     若々しい、軍師としての官兵衛は 出てこない。

3.歴史小説のなかの官兵衛 如水から官兵衛官へ

 ③昭和ー戦前
  ・エピソードを小説に 長谷川伸 「黒田如水軒」、武者小路実篤 「黒田如水」
  ・「黒田如水」 の競作 太平洋戦争のころー当時の人気作家 吉川英治、鷲尾雨工、村松梢風
              西村京太郎、池波正太郎 「武士の紋章」「真田太平記」
  ・負の如水像 坂口安吾 「二流の人」・・戦後になって書かれた。 一流は 家康、秀吉。
       戦争狂が 二人いた。 官兵衛と 直江兼続

 ④昭和ー戦後
  ・ナンバー2 松本清張 「軍師の境遇」 昭和30年頃、高校生向け、本当に力を入れていない。
  ・軍師の現代性 司馬遼太郎 「播磨灘物語」・・昭和49~50年 読売新聞に連載され 官兵衛が
     知られるようになった。 日本の成長期で 合理的:戦国時代を 対比させている。
     権力に翻弄された人を描くのがうまい。
    商業的合理主義/大航海時代/西洋文明ーキリスト教
    司馬遼太郎自身の先祖が 播磨の浄土真宗門徒であった。 

 ⑤昭和から平成へ
  ・キリシタン大名の視点
   九州出身の二人の直木賞作家 : 安部龍太郎と 葉室麟は キリスト教信仰が 官兵衛の生涯を貫いていた
   と考えている。
  ※官兵衛に関する書は たくさんあり 大河ドラマに決まってからも いろいろ出版されている。

  ※作品の抜粋として 下記のさわりの部分が 添付してありますが 詳細は 省略します。
   ・吉川英治 「黒田如水」 (朝日新聞社 1943年)
     ”この上は 何とぞ 私のご処罰を” 半兵衛重治は やがて 悪びれず 信長へ訴えた・・・。
   ・坂口安吾 「二流の人」 (九州書房 1947年)
     ”秀吉の死去と同時に 戦争を待ち構えた二人の戦争狂がいた。 一人が 如水であることは・・・”
   ・松本清張 「軍師の境遇」 (角川文庫 1987年)
     ”官兵衛は 笑い出した。 「ははあ 殿にも そう見えましたか。 それなら成功です。・・・”
   ・司馬遼太郎 「播磨灘物語」 (講談社 1973年)
     ”官兵衛は 若者のくせに 墨絵のなかの人物のような印象でもあった。 墨という黒一色で・・・”
   ・葉室麟  「風の王国」 (「風の軍師」 講談社文庫 2009年発表)
     ”デマルカシオンとは 東西に分けることだそうです。 それがし 太閤が キリシタンを禁じた時
       豊臣家を倒し 天下を二分すれば キリシタンが 自由に生きられると 考えたのでござる。”


 公民館に置いてあった 文学館発行の ”「播磨灘物語」展” の小冊子に 面白いことが書いてありました。
60ページに 歴史学者の磯田道史が 次のように書いているクダリがあります。
・・・・それを語るにはーー沢田源内(1619-1688)--のことに 触れなければならない。 「歴史詐欺」 と
いう仕事があるとしたら この男は 最も 成功した詐欺師であった。・・・・貝原益軒を 見事に騙し それによって
司馬遼太郎が 悩まされ 今日の大河ドラマ考証にまで 影響している。
・・・・ところが 沢田源内という偽系図づくりの名人が これにつけこんだ。 「天文六年より 元和七年迄 八十余年
の佐々木の日記を 偽作して 二十巻とし 『江戸武鑑』 と名付けて 刊行( 建部賢明 『大系図評判遮中抄』 )」した
のである。 大学者であるはずの貝原益軒は この偽書に まんまと 騙された。 黒田家の士であった益軒は
主家の命で 『黒田家譜』 を編むにあたり この 『江戸武鑑』 を しばしば引用し 黒田官兵衛の祖先が 「船岡山
合戦」 で 将軍の怒りを こうむり 備前・福岡に流浪した」 とか 祖父・重隆が 1551年に 足利義輝や 朝倉義景・
長岡(細川)藤孝・朽木貞綱などの歴々と 「武備百首」 という和歌の会に連なった などと書き込んでしまった。
 しかし これは 沢田が 創作したでたらめである。 沢田は 偽系師で 「自分こそ 佐々木源氏の嫡流」 と 身分を
詐欺し 古記録を ねつ造して・・・・。 ちょっと調べれば わかる益軒が もっと がんばって 史料を 吟味してくれて
いたらと 思うのだが 益軒は 騙された・・・・・・。


≪ 3月27日 追 記 ≫ ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 きょう 夕方のNHKニュースで ”荒木村重の謎に迫る” をしていました。 ニュースの中なので 5分ほど
の番組でしたが・・・。
 官兵衛は 有岡城の牢に幽閉され 有岡城が落城の際 救出されますが 有岡城落城の際 村重は 逃亡し
その後 官兵衛が 村重に手紙を出し ”姫路で会えると 思っていたのに 会えなくて 残念・・・”。 官兵衛と村重
は 後になっても 意外と 仲が良かった?


ネットで調べると
 信長に反旗、逃亡の虚実~荒木村重(1535~86)
 摂津の土豪から身を起こした荒木村重むらしげは、織田信長の抜擢を受けて 摂津一国の支配を 任されながら
 天正6年(1578年)には 信長に反旗を翻し、その後 一族を皆殺しにされたことで 知られている。
 その際 織田軍に包囲されていた有岡城を わずかの供と脱出し 自らは 命を永らえたことで 卑怯な武将と
 いったイメージがある。
 なぜ 反旗を翻したのか なぜ 一人だけ生きのびたのか など 謎は多い。 通説では 石山本願寺との戦いの
 とき 村重の家臣が 密ひそかに本願寺に 兵糧を売っていたことが 露見し その弁明のため 信長のもとに行こ
 うとしたところ 一族や 家臣たちから 「行けば殺される」 と言われ 謀反に 踏み切ったとされている。
 しかし 実際のところは 三木城の別所長治と同じで 信長に そのままついていくか 毛利輝元に属すかで迷い
 毛利を選択したのではないかと思われる。

 摂津一国の支配者として 村重は 実に有能だった。 それは 現在も伊丹市に一部残る惣構えの築造に 明ら
 かである。 惣構えは 城と城下町を すっぽり包む土塁や堀のことをいう。 北条氏の小田原城の惣構えが
 有名であるが 築造年代でいうと 荒木村重の有岡城の惣構えの方が 早い。
 城下町を囲み、総延長約4キロ。 堀の深さが 5~7メートル、土塁の高さは 3~5メートルほどで これにより
 城下の民衆も守っていたのである。 織田軍の攻撃を 1年近くも はねつけていることからも 惣構えの有効性
 が 実証された。
 結局、残された一族・家臣は 天正7年の有岡城落城後、信長に捕らわれて 斬殺・焼殺されるが 村重および
 嫡男の村次は 尼崎城および 花隈城で 抵抗を続けた。 村重は 最終的には 尼崎から 船で 毛利氏の下に
 逃げ その後、毛利氏の庇護のもとで 余生を送った。 秀吉の茶会にも 招かれている。


≪ 4月2日 追 記 ≫ ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 4月1日の新聞に ”藩祖眠り 播磨古事にも” という見出しで 播磨歴史探訪 黒田職隆廟所 があり
これにも面白いことが 書いてあります。 
 官兵衛の父・職隆は 小寺氏の重臣で 国府山城へ移り 天正13年(1585)に亡くなった。 職隆が眠る
「黒田職隆廟所」 は 1月に 市史跡 に指定された。 後年 福岡藩士が 藩祖・官兵衛の故郷を訪ねて まとめ
た 古文書 「播磨古事」 に 廟所も登場する。 黒田家の菩提寺だった心光寺の住職が 廟所の存在を 知らせた
という。 ・・・・ 一方で 後世に謎も残した。 「播州にて 一覧せし 諸記録に」 として 官兵衛は 職隆の養子で
実父は 祖父の重隆と 記したためだ。 播磨学研究所 事務局長の藤原さんは 「父は 職隆という定説と比較し
客観的な検証が 必要。 歴史に関心を深める いい機会になる」 と話す。
 ある人は 御着にある黒田家廟所には 官兵衛の母と 祖父が 一緒に祀られている。 私は イヤですよ。
主人と 同じ墓に入るのは いいけれど おじいさんと 一緒は・・・と言っていました。
 妻鹿に 父親だけの廟所があり 御着に 母と 祖父が 同じ廟所に祀られている・・・。 黒田庄には 別の家
系図がある・・・。 大河ドラマで 放送中ですが 軍師・官兵衛には ”なぞ” が多い。 さて 真実は・・・。
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