3月25日(火) 天気:曇り 室温:15.9℃
きょうは 公民館の歴史教室に 出席しました。 本日は 姫路文学館の 玉田克宏先生の ”文学に描かれた
黒田官兵衛” です。 きょうは いつもより 出席者が多く 配布される資料の枚数が 足りませんでした。
4月は 官兵衛ゆかりの地巡りで 御着城か 広峰神社周辺を 歩くそうですが 私は 欠席?
本日の講演内容は
”文学に描かれた黒田官兵衛”
1.黒田官兵衛の生涯(1546~1604)と ドラマチック
天正 3年(1575)-29歳 小寺家が織田信長に 帰属するように説く。
天正 6年(1578)-32歳 荒木村重が有岡城に叛し その説得に赴いて 牢獄に。
天正10年(1582)-36歳 備中高松城を囲み 水攻め。 中国大返し。
天正17年(1589)-43歳 城井谷・宇都宮鎮房を謀殺、家督を長政に譲る。
慶長 5年(1600)-54歳 関ヶ原の合戦に際し 九州を席巻する。
2.官兵衛のあれこれ
①江戸時代
・大名の風聞
「信政公御譚」: 元禄のころ 津軽・弘前藩4代目津軽信政 (森銑三 「近世人物夜話」の「秀吉と如水」より)
中国大返しと 伏見大地震における秀吉と如水のやり取りが 書かれ
信政の聞いていたことの記録で 伏見大地震の翌日 秀吉が死んだという噂が流れ 加藤清正が 駆け付け
無事が確認された。 官兵衛が 駆け付けたとき 秀吉が ワシが死んだと聞いて 嬉しかったろう・・・・と。
「武功雑記」 : 平戸藩4代 松浦鎮信(しげのぶ)
家康は 官兵衛を 播磨の馬商人のあがりと思っていた。(ふしがある)・・・いいイメージではない。
・逸話集
儒学者・湯浅常山 :「常山紀談」 や 岡谷繁実 「名将言行録」 が逸話を広め 後の逸話のもとに。
※長政の遺言状・・渡邊大門氏の説では 将来を見越して 対幕府、対家臣を考慮した。
官兵衛は 天下を狙っていた。 家康を脅かす力があった。 家康に天下を取らせてやった。
黒田に 恩義がある。
②明治時代
・修身の教科書にでてくる。
「黒田如水の鯛」 :「修身説話」 金港堂 1887年 秀吉が 朝鮮を攻めたとき 日根野備中守に軍資金を貸し
返しに来たとき 返済金を受け取らず 鯛を三枚に下ろし 骨の部分のみを使い 吸い物にして出した。
ケチ・・・節約倹約・・・お金は 必要なときに使う。
「黒田如水 事を記す」 : 亀山雲平 「記事論説高等作例規範」 浜本明昇堂 1892年
姫路藩 松原八幡宮 神主
最期を覚悟した如水について・・晩年 如水は 家来につらく当たり 嫌われ者になる。
長政には ワシが最後まで いい人だったら 死後 お前もやりにくいだろう。
長政になって 良かったと言われるよう 嫌われ者で 死ぬ方がいい・・・。
これらの書物は 国会図書館のライブラリーで 検索でき 自由に閲覧できるそうです。
・明治維新から 半世紀が経過し 代表的な歴史書が 旧福岡藩士によって 書かれる。
福本日南 「黒田如水」 (東亜堂書房 1911年)
金子堅太郎 「黒度如水伝」 (博文館 1916年)・・福岡の博物館の資料を見て書いた。
金子は 伊藤博文が 憲法を作るとき 事務を執った。 目薬は 「無限物語」 に出てくる。
若々しい、軍師としての官兵衛は 出てこない。
3.歴史小説のなかの官兵衛 如水から官兵衛官へ
③昭和ー戦前
・エピソードを小説に 長谷川伸 「黒田如水軒」、武者小路実篤 「黒田如水」
・「黒田如水」 の競作 太平洋戦争のころー当時の人気作家 吉川英治、鷲尾雨工、村松梢風
西村京太郎、池波正太郎 「武士の紋章」「真田太平記」
・負の如水像 坂口安吾 「二流の人」・・戦後になって書かれた。 一流は 家康、秀吉。
戦争狂が 二人いた。 官兵衛と 直江兼続
④昭和ー戦後
・ナンバー2 松本清張 「軍師の境遇」 昭和30年頃、高校生向け、本当に力を入れていない。
・軍師の現代性 司馬遼太郎 「播磨灘物語」・・昭和49~50年 読売新聞に連載され 官兵衛が
知られるようになった。 日本の成長期で 合理的:戦国時代を 対比させている。
権力に翻弄された人を描くのがうまい。
商業的合理主義/大航海時代/西洋文明ーキリスト教
司馬遼太郎自身の先祖が 播磨の浄土真宗門徒であった。
⑤昭和から平成へ
・キリシタン大名の視点
九州出身の二人の直木賞作家 : 安部龍太郎と 葉室麟は キリスト教信仰が 官兵衛の生涯を貫いていた
と考えている。
※官兵衛に関する書は たくさんあり 大河ドラマに決まってからも いろいろ出版されている。
※作品の抜粋として 下記のさわりの部分が 添付してありますが 詳細は 省略します。
・吉川英治 「黒田如水」 (朝日新聞社 1943年)
”この上は 何とぞ 私のご処罰を” 半兵衛重治は やがて 悪びれず 信長へ訴えた・・・。
・坂口安吾 「二流の人」 (九州書房 1947年)
”秀吉の死去と同時に 戦争を待ち構えた二人の戦争狂がいた。 一人が 如水であることは・・・”
・松本清張 「軍師の境遇」 (角川文庫 1987年)
”官兵衛は 笑い出した。 「ははあ 殿にも そう見えましたか。 それなら成功です。・・・”
・司馬遼太郎 「播磨灘物語」 (講談社 1973年)
”官兵衛は 若者のくせに 墨絵のなかの人物のような印象でもあった。 墨という黒一色で・・・”
・葉室麟 「風の王国」 (「風の軍師」 講談社文庫 2009年発表)
”デマルカシオンとは 東西に分けることだそうです。 それがし 太閤が キリシタンを禁じた時
豊臣家を倒し 天下を二分すれば キリシタンが 自由に生きられると 考えたのでござる。”
公民館に置いてあった 文学館発行の ”「播磨灘物語」展” の小冊子に 面白いことが書いてありました。
60ページに 歴史学者の磯田道史が 次のように書いているクダリがあります。
・・・・それを語るにはーー沢田源内(1619-1688)--のことに 触れなければならない。 「歴史詐欺」 と
いう仕事があるとしたら この男は 最も 成功した詐欺師であった。・・・・貝原益軒を 見事に騙し それによって
司馬遼太郎が 悩まされ 今日の大河ドラマ考証にまで 影響している。
・・・・ところが 沢田源内という偽系図づくりの名人が これにつけこんだ。 「天文六年より 元和七年迄 八十余年
の佐々木の日記を 偽作して 二十巻とし 『江戸武鑑』 と名付けて 刊行( 建部賢明 『大系図評判遮中抄』 )」した
のである。 大学者であるはずの貝原益軒は この偽書に まんまと 騙された。 黒田家の士であった益軒は
主家の命で 『黒田家譜』 を編むにあたり この 『江戸武鑑』 を しばしば引用し 黒田官兵衛の祖先が 「船岡山
合戦」 で 将軍の怒りを こうむり 備前・福岡に流浪した」 とか 祖父・重隆が 1551年に 足利義輝や 朝倉義景・
長岡(細川)藤孝・朽木貞綱などの歴々と 「武備百首」 という和歌の会に連なった などと書き込んでしまった。
しかし これは 沢田が 創作したでたらめである。 沢田は 偽系師で 「自分こそ 佐々木源氏の嫡流」 と 身分を
詐欺し 古記録を ねつ造して・・・・。 ちょっと調べれば わかる益軒が もっと がんばって 史料を 吟味してくれて
いたらと 思うのだが 益軒は 騙された・・・・・・。
≪ 3月27日 追 記 ≫ ・ ・ ・
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きょう 夕方のNHKニュースで ”荒木村重の謎に迫る” をしていました。 ニュースの中なので 5分ほど
の番組でしたが・・・。
官兵衛は 有岡城の牢に幽閉され 有岡城が落城の際 救出されますが 有岡城落城の際 村重は 逃亡し
その後 官兵衛が 村重に手紙を出し ”姫路で会えると 思っていたのに 会えなくて 残念・・・”。 官兵衛と村重
は 後になっても 意外と 仲が良かった?
ネットで調べると
信長に反旗、逃亡の虚実~荒木村重(1535~86)
摂津の土豪から身を起こした荒木村重むらしげは、織田信長の抜擢を受けて 摂津一国の支配を 任されながら
天正6年(1578年)には 信長に反旗を翻し、その後 一族を皆殺しにされたことで 知られている。
その際 織田軍に包囲されていた有岡城を わずかの供と脱出し 自らは 命を永らえたことで 卑怯な武将と
いったイメージがある。
なぜ 反旗を翻したのか なぜ 一人だけ生きのびたのか など 謎は多い。 通説では 石山本願寺との戦いの
とき 村重の家臣が 密ひそかに本願寺に 兵糧を売っていたことが 露見し その弁明のため 信長のもとに行こ
うとしたところ 一族や 家臣たちから 「行けば殺される」 と言われ 謀反に 踏み切ったとされている。
しかし 実際のところは 三木城の別所長治と同じで 信長に そのままついていくか 毛利輝元に属すかで迷い
毛利を選択したのではないかと思われる。
摂津一国の支配者として 村重は 実に有能だった。 それは 現在も伊丹市に一部残る惣構えの築造に 明ら
かである。 惣構えは 城と城下町を すっぽり包む土塁や堀のことをいう。 北条氏の小田原城の惣構えが
有名であるが 築造年代でいうと 荒木村重の有岡城の惣構えの方が 早い。
城下町を囲み、総延長約4キロ。 堀の深さが 5~7メートル、土塁の高さは 3~5メートルほどで これにより
城下の民衆も守っていたのである。 織田軍の攻撃を 1年近くも はねつけていることからも 惣構えの有効性
が 実証された。
結局、残された一族・家臣は 天正7年の有岡城落城後、信長に捕らわれて 斬殺・焼殺されるが 村重および
嫡男の村次は 尼崎城および 花隈城で 抵抗を続けた。 村重は 最終的には 尼崎から 船で 毛利氏の下に
逃げ その後、毛利氏の庇護のもとで 余生を送った。 秀吉の茶会にも 招かれている。
≪ 4月2日 追 記 ≫ ・ ・ ・
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4月1日の新聞に ”藩祖眠り 播磨古事にも” という見出しで 播磨歴史探訪 黒田職隆廟所 があり
これにも面白いことが 書いてあります。
官兵衛の父・職隆は 小寺氏の重臣で 国府山城へ移り 天正13年(1585)に亡くなった。 職隆が眠る
「黒田職隆廟所」 は 1月に 市史跡 に指定された。 後年 福岡藩士が 藩祖・官兵衛の故郷を訪ねて まとめ
た 古文書 「播磨古事」 に 廟所も登場する。 黒田家の菩提寺だった心光寺の住職が 廟所の存在を 知らせた
という。 ・・・・ 一方で 後世に謎も残した。 「播州にて 一覧せし 諸記録に」 として 官兵衛は 職隆の養子で
実父は 祖父の重隆と 記したためだ。 播磨学研究所 事務局長の藤原さんは 「父は 職隆という定説と比較し
客観的な検証が 必要。 歴史に関心を深める いい機会になる」 と話す。
ある人は 御着にある黒田家廟所には 官兵衛の母と 祖父が 一緒に祀られている。 私は イヤですよ。
主人と 同じ墓に入るのは いいけれど おじいさんと 一緒は・・・と言っていました。
妻鹿に 父親だけの廟所があり 御着に 母と 祖父が 同じ廟所に祀られている・・・。 黒田庄には 別の家
系図がある・・・。 大河ドラマで 放送中ですが 軍師・官兵衛には ”なぞ” が多い。 さて 真実は・・・。
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