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私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

波賀城跡&伊和神社

2012-09-27 15:26:57 | ドライブ
 9月27日(木)  天気:晴れ   室温:29.7℃

 きょうは 波賀町まで ドライブし ついでに 波賀城跡・城山(じょうやま)に登りました。 車で・・。
麓にある戦争遺跡の忠魂碑を 見るためです。 帰りに 一宮町の神戸小学校に寄り 忠魂碑を
見て さらに 伊和神社に お参りしてきました。 これで 「播磨の戦争遺跡」 は 終了?
 兵庫県西播磨県民局 発行の ”先進のACT回廊 武士のこころ息づく 西播磨” のパンフレット
にある 「名刀のふるさとタタラを巡る道」(伊和神社) も 終わりにしたいと思います。
波賀城・城山458mは 「宍粟50名山」の48番の山ですが この山は 名山?

 9:35 出発。 太子町、たつの、新宮を走り 10:16 山崎で 国道29号線に合流。 国道を
北上します。 波賀町有賀で 右折すると 市民局。 ここで 文化創造センターを 訪ねると 少し
先らしい。 カーブを 右に上がると 文化創造センターのある波賀公園。


 11:01 到着。 家から 48.5kmでした。 駐車場の隅に 大きな忠魂碑があります。 後
方が開け 後ろに見える山は 大甲山でしょう。 きょうは 天気も良く 空気も澄み 空も青い。
 忠魂碑の正面にある星印は 陸軍の印か。 側面に 陸軍大臣 板垣征四郎書とあり 表に
も裏にも 昭和16年に 西谷村と溝谷村の忠魂碑を 合祀したと 彫られた碑があります。


 盛り土のような丘の上には 力石があり 土俵のように丸く並べられています。 昔から 各部
落のお宮とか 集会所の前の広場に 力石が たくさん置かれていました。 若い人たちは 力石
を持ち上げたり 抱いて歩いたりしながら 力自慢を競っていました。 力石には 集めた名
が刻んであります。  波賀公園から 山の上の波賀城跡を 望むことができます。


 波賀公園の駐車場入口には 昭和3年に建設された 上野発電所のフランシス水車の羽根車
が 展示してあります。 文化創造センターを 後にして 波賀城へ登ります。 「←波賀城」の道
標を見ながら 集落を抜け 細い林道を登ります。 真正面から 眩しい日差しを受け 急に暗い
日陰に入ると 一瞬 何も見えなくなり・・。 ヘアピンカーブを 何度か曲がり 市民局から 2.8km
登ると 駐車場。 11:21 駐車。 林道を200mほど歩くと 波賀城入口です。


 11世紀の初めころまで この地域は 伯可荘として 石清水八幡宮の荘園になっていました。
有力者であった芳賀氏は ここに 初めて城を築いたと 推測されています。
 13世紀中頃 秩父から 中村氏や大河原氏が この地に移ってきました。 中村氏は 初代
光時から 戦国時代末期の吉宗まで 20代にわたって 波賀城主であったといわれ 波賀城を
修理、拡張し これを拠点に 赤松氏などの支配下で 勢力を維持したものと思われます。
羽柴秀吉が 播磨を制圧したとき 北の守りの拠点とした・・・。
 この城は 山陽道と日本海側を結ぶ 因幡街道や それと 千種を結ぶ美作道と 三方に通じ
る街道を眼下にする 戦略的な要衝の地にあります。


 冠木門を潜り 波賀城へ。 丸太階段を下り 登り返すと 東屋があり 左に道がありますが
ロープが張られ 通行禁止。 木製の階段を上がると 復原された天守閣(櫓?)へ出ます。
ここからは 南から西、北へかけて 雄大な眺めです。
 ここの石垣は 天正年間(~1572)以前のもので 石材は レンガ状の節理にそって割れた
横長石が多い。 コーナー部を 角石、角脇石といった用途の意識は まだ なく 算木積みは
未発達である。 現在の石垣は 当時の積み方を 復元したものです。


 白い土塀の裏を上がると 山頂です。 ここに 宝殿神社奥の宮が あります。 麓の市民局
の東に 宝殿神社がありました。 宍粟市史跡や 宍粟50山48番や 波賀町文化財の標柱が
あります。  この城山は 麓から 三層の植生に分かれているとか・・。


 11:52 車に戻り 林道を下ります。 波賀市民局の方へは戻らず 直接 国道へ降りまし
た。 国道29号線を南へ下ります。 来るとき 神戸(かんべ)小学校の入口を確認しておいた
のに 手前で 曲がってしまって・・。 一宮市民局で 道を確認。 小学校に停められるそうです。
 陸橋の下で 左折して 神部小学校へ。 12:18 駐車。 波賀城から 11.7km。
この辺りは のどかなものです。 小学校に 不審者が 侵入しても なんの御咎めもなし・・。


 さっき 校庭の東にあると聞いたので 校庭を歩いて 忠魂碑へ。 大きな木の陰にあります。
石垣の上に 玉垣に囲まれた 立派な碑ですが 木陰のため 少し暗い。 陸軍少将 伊豆心
夫と彫られていると 思うのですが 見え難い・・。 裏には 大正十年六月 閏賀川原に建設。
昭和五年 小学校校庭に移転・・・神戸村 とあります。 玉垣は 何かの形を表わしている?


 神戸小学校を後にし 国道を 0.8km下ると 道の駅播磨いちのみや。 ここは 伊和
神社の傍なので ちょうど いい! ここに 停めて お昼を食べ 神社に お参りしましょう。
 昼食は 素麺800円を いただきました。 たこ焼きと おにぎり付き。


 表参道から 境内に入ります。 大鳥居の下で 深く一礼して 随身門へ。 門の内部は
真っ暗ですが 中には 随身さんが いらっしゃいます。 門に向って 右が 左大臣?
手水舎も立派で 龍の口から 水が流れています。 写真を見て 気付いたのですが 手水
鉢を支えているのは なんでしょう。 子ども?



御由緒あらまし
 当神社は 第13代 成務天皇甲申歳(144) の創祀と伝えられ 延喜の制では 名神大社
 に列し 播磨国一の宮で 旧国幣中社の御社格であります。
 御祭神は 大己貴神(おなむちのかみ)と申し(又の御名を大名持御魂神・大国主神とも申し
 又 伊和大神とも申し上げる) 国土を開発、産業を勧めて 生活の道を開き 或いは
 医薬の法を定めて 治病の術を教えるなどして 専ら 人々の幸福と世の平和を図り給うた
 神であります。
 大神が 播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い 播磨国中を御巡歴になって 国造りの事業を
 されたことは 播磨国風土記に 記載の通りであります。 


 その御神徳を仰いで 播磨国開発の祖神 総氏神様と崇め 古来 農業、工業、商業等の
 産業の神、福の神、病気平癒の神として 又 御社地が 因幡街道(現在の国道29号線)の
 ほぼ中央にあたる交通の要衝にあるため 旅行者の守護神、交通安全の神として
 播磨国はもとより 遠近の人々の崇敬篤き神様であります。
 約55000平方メートル(約17000坪)に及ぶ境内には 杉・桧等の大樹が 繁茂し
 自ら襟を正す神神しさを 保っております。
 御社殿は 一の宮の名にふさわしい入母屋造りの豪壮・雄偉な建築であります。
                       播磨一宮 伊和神社


 写真を撮ったのは 最後なのですが 説明上 この辺りに載せないと・・・。 拝殿の御由緒書に
境内の図があり それに 大きく赤矢印で 本殿の裏に 「鶴石」 が 示してあるのです。 行かない
わけには いかない・・。 本殿の裏に 玉垣に囲まれ 「鶴石」 が祀られています。
 「鶴石」 は 昔 伊和大神から 豪族・伊和恒郷に 託宣あり。 驚き見るに 一夜のうちに 杉桧
 生い茂りて 聖地を成し 空に鶴群れ舞い その中 大き二羽 北向きで眠り その跡に 神殿を
 造り奉斎せり。 これ 当社の起源なりと伝う。
 鶴の居た石を 鶴石 または 降臨石 という・・・とあります。
 伊和神社の本殿が 全国でも珍しい 北向きである 由来だそうです。


 宍粟には ”おっさん顔” の狛犬が 多いようですが ここの狛犬も やや間の抜けた おっ
さん顔で 面白い。
 拝殿正面の唐破風屋根に 16弁の菊の御神紋があり 提灯にも 菊花紋があります。
菊の御紋は 天皇家の紋かと 思いますが 御由緒には 書いてありません・・・。



 拝殿の天井には 古い絵馬が 多く奉納されています。 安政とか 嘉永二年の年号が見え
ます。 武将が馬で戦っているのは 分かりますが 誰が 何の戦いなのか さっぱり分からず。


 広い神社の境内を ぐるっと一周 廻りました。 西の参道にも 随身門があり 随身さんが
おられます。 市杵島姫神社がありましたが 寄れば良かった・・。 市杵島姫は 天照大神
の子で 水の神。 通称 弁天さん。 広島の厳島神社の祭神でもあり イツクシマは イチ
キシマ から 転じたもの?


 13:39 車に戻り 帰路につきます。 山崎まで 国道29号線で戻り 中国道を潜った
下広瀬で 右折して 県道26号線に入り 新宮で 国道179号線に合流して たつの、太子
を通り 14:43 家に帰ってきました。


 本日の走行距離は 往路:波賀城まで 51.3km、神戸小学校まで 11.7km、道の駅まで
0.8km、復路:37.4kmで 計:101.2kmでした。 
この前 ガソリンを入れ 高砂・加古川へ行き きょう 波賀町へ行きましたが 現在 走行距離
188kmで 平均燃費は 26.4km を表示しています。 さーて 実燃費は?
 車に乗ると バッテリーの充電量が少ないため エンジンが 騒音とともに廻り 100m走ると
燃費は 0.1km低下・・・。 実際は 走る前に エンジンがかかり 落ちるのですが・・。
やまあそさんの新車の燃料計は 12目盛のようですが やっぱり 10目盛の方が・・・。

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続・播磨の近代建築

2012-09-25 14:24:18 | ドライブ
 9月25日(火)  天気:晴れて 爽やか   室温:29.0℃

 きょうは この前の 「播磨の近代建築」 の残りの高砂商工会議所 と 加古川市立図書館を見る
ため 加古川まで ドライブしてきました。 いい天気で ドライブ日和でした。 ついでに 浜の宮公
園の 「播磨の戦争遺跡」 も訪れました。  明石の茨木酒店は パスして 「播磨の近代建築」 は
一応 終わりますが 「姫路の近代建築」 が残っています。 「播磨の戦争遺跡」 は 加古川市山手
の 「六連隊之碑」 が残っていますし 一宮町 と 波賀町にも 「忠魂碑」 があるそうだし・・・。

 きょう 9時前の交通情報で 姫路バイパス 事故で 渋滞 と言っていたので 姫路まで 下を走ろう
と思っていたら 9時過ぎには 事故の処理は 終わった・・。 やっぱり バイパスで行こう・・。
太子東IC近くまで行くと 新幹線の高架の手前から渋滞で バイパスに入ることさえできません。
引き返して 姫路まで 県道を走りました。 最悪!

 9:20 出発。 一旦 バイパスの入口近くまで行き 引き返し 県道415号線(和久今宿線) で
東へ行き 手柄山を抜け 10:05 姫路南ランプから バイパスに乗りました。 10:17 加古川西
ランプで 降りて 県道43号線で 南へ向かいます。 真っ直ぐ南へ走ると 山電荒井駅に突き当り
ます。 ”バンカル” には 荒井駅の近くにも 戦争遺跡があると書かれていますが 車を停める場
所もなく 左折して 東へ進みます。


  高砂駅東の踏切を渡り 南へ。 商工会議所は この辺りですが・・。 走りまわっていると
十禅寺があり 道路脇に停められそうです。 10:42 道路脇に駐車。 家から 37.7km。
十禅寺に寄ります。 山門は 三門のような構造で 面白い形です。 本堂も立派で 県の文化財?
 十禅寺は 空海(弘法太子)の開創と伝えられ 空海が 中国渡航に際し 海上安全を 地蔵菩
薩に祈願。 帰朝後 鎮護国家や内海航行安全の祈願所として 創設。 本尊は 阿弥陀如来。



 一時 廃退していたが 律空悦道上人が 元禄六年に 再建。 嵯峨帝 弘仁六年(815) 法然
上人が 四国に 左遷の折り 上陸され 真言宗から 浄土宗に 改宗。 庫裏も大玄関も文化財?


 すぐ近くの七宝山・善立寺へ行きます。 バンカルに 戦争遺跡 「戦死者の墓」があるとあ
るので・・。 真宗西本願寺派のお寺で 本尊は 木仏・阿弥陀仏(恵心作)。 創建は 永正
八年(1511)。 開基・正西坊(1477~1560) は 但馬国 豊岡の光行寺住職の弟なり。
 光行寺は 聖武天皇 御由緒ある寺にて 後年 後鳥羽天皇 第三皇子 雅成親王 入寺さ
れ 住職となる。 依って 光行寺の什物(じゅうもつ)は 凡て 十六の菊花紋章である。
山門の軒丸瓦も 菊の御紋です。


 裏の墓地には 「天竺徳兵衛の墓」 があります。 徳兵衛は 慶長17年(1613) 高砂に
生まれ 寛永三年(1626) 15歳で 御朱印船の船頭 清兵衛の書役として 長崎より シャム
(タイ)に渡り 同五年 帰国。 寛永七年 オランダ船に乗り 再び シャムに渡る。 帰国後
詳細なる見聞録を 長崎奉行所に献じ 異国文化を伝達。 84歳で 没し ここに 埋骨される。

 本にある 人間魚雷回天 特別攻撃隊 轟隊に所属し マリアナ海域で 戦死した 池淵信夫
少佐の墓を探すには 苦労しました。 軍人の墓が 何基もあるので・・。 ”若人は 国を思い
て 出てゆけり 海の彼方に 白波のこして” は 新婚で 出撃する夫を見送った 妻の歌。


 善立寺の角を左に曲がると 高砂商工会議所があります。 これは 「播磨の近代建築」 です。
昭和初期の洋風建築で 内装の装飾などを含め 建築当時のイメージを今に残す 貴重な資
産で 地域の景観形成に 重要な役割を果たしています。 平成18年 県の景観形成重要建造
物に指定されました。 内部を案内していただきました。 中庭には 鳥居があり 祠が祀られて
います。 階段や 二階の会議室の天井の造りは レトロな雰囲気を 醸し出いています。



 高砂商工会議所は 華麗な装飾に囲まれた 重厚で 格調高い外観です。
兵庫県の景観形成重要建造物に 指定されている 高砂商工会議所は 地元で採れた竜山石を
外装の一部に使い 昭和7年(1932) 高砂銀行として 建てられました。 当時は 天井まで
吹き抜け 2階部分には 回廊があり 銀行ならではの 重厚な造りだったそう。 ほかにも 周辺
には 歴史的な建物が多く 9月15,16日の18時からは 辺り一帯で 「万灯祭」 が 開催され
ます。 ライトアップされた商工会議所にも 注目。
 軒下に彫刻された植物の葉と 羊の角のような柱上部の飾り。 これらの美しい装飾は 昭和
初期に 流行したモダニズムの影響だそう・・。


 県道へ戻り 相生橋を渡り 県道718号線を 真っ直ぐ進むと 浜の宮公園に出ます。 公園
の手前に 駐車場が見えたのですが 気付くのが遅く 通り過ぎてしまいました。 公園の南東角
で 左折して 北東にある駐車場に 車を停めました。 11:27 駐車、十輪寺から 4.2km。
 広い公園で 碑がどこにあるのか 分かりません。 散歩中の人に尋ねると どうやら南西隅に
あるらしい・・。 北東隅から 南西隅まで 幼稚園の運動会を見ながら てくてく歩きます。


 玉垣に囲まれた 小さい祠の後ろに 「陸軍航空通信学校 尾上教育隊跡」 の碑があり 10m
横に 「陸軍航空第百十四 教育飛行連隊 発祥之地」 の碑があります。 どちらの碑も新しいも
ので 平成7年 建立? 教育隊の碑は デザインも 新しいものです。
 広ーい公園は 一面 黒松の森ですが 本には 播州松巡りの名所だった公園には 兵舎跡な
どが 今も 松に隠れるように残っている とありますが どこにあったのでしょう・・。


 最後に 加古川図書館へ行きます。 県道を戻り 養田で曲がれば 一本道と思ったので
すが 曲がる所を間違え あちこち うろうろ 走りまわり・・・。 やっと 図書館にたどり着き
ました。 12:20 駐車、公園から 9.0km。 隣のカトリック教会に停めましたが 図書館
に 1台分 空きがあったので 車を移動しました。 図書館の裏は 金剛寺浦公園です。


 加古川市立加古川図書館は 周囲を圧倒する荘重なたたずまい。 昭和10年(1935) の
建造。 当初は 加古川公会堂として 利用され 内部には 大小の会議室のほか 映画の上
映や 演劇の上演、講演会などが 行われた 多目的ホールがあったとか・・。
 東を正面とする外観は 左右の両翼を 段階的に後退させることで 立体感を与えています。
設計は 兵庫県建築士会の初代会長として 知られる置塩 章さんによるもの。 2008年度 県
の景観形成重要建造物に 指定されました。
 アールデコ調のデザインを メーンとする建築の中で ひときわ目を引くのが 2階のステンド
グラス。 幅約2m、高さ約1.5mの半円窓から放たれる 色とりどりの光に見入ってしまいます。



 図書館の外観を見るついでに お隣の教会も見学。 レトロで 雰囲気のある建物です。
12:39 帰路につきます。 東の県道に出て 北へ走ると 加古川バイパスの入口に出ます。
 加古川バイパス、姫路バイパスを走り 13:15 家に帰りました。 帰りは 35分ほど。


 本日の走行距離は 往路:十輪寺まで 37.7km、浜の宮公園まで 4.2km、加古川
図書館まで 9.0km、復路:30.0kmで 計:80.9kmでした。 間違わずに 最短距離
を走れば 10kmくらい短縮できるかも・・。
 この車も 心を入れ替えたのか 今回は すこし まじめに走ってくれました。 土曜日に
ガソリンを 満タンにして きょう 80kmほど走りましたが 平均燃費は 25.2km/L と
表示しています。 宍粟か 丹波へ行って 長い下りを走れば もう少し 伸びるのですが・・。
 丹波の兵庫陶芸美術館で 「中国陶磁名品展」 をしているので 観たいのですが 撮影
禁止なので 行っても このページで 発表できませんし・・・・・。

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龍野 散策

2012-09-19 13:41:58 | 日記
 9月19日(水)  天気:晴れ   室温:29.6℃

 きょうは 龍野の街を ちょこっと 歩いてきました。 きのう 播磨の近代建築を訪ねて 赤穂へ行
きましたが 雨が降ってきて たつのの醤油資料館へ行くことが できませんでした。 きょう リベン
ジに 行ったのですが ついつい 帰り討ちに遭い あちこち 歩いてしまいました。
 驚いたことに 醤油資料館の中を見学していると 「播州電鉄」 に関する資料があり・・・。 展示し
てある資料 「播電鉄道 沿線案内」 は 観光用?もので 面白くありませんでしたが 資料館の人に
資料を頂き お話を聞くことができました。 近くに 播電の関係者が 住んでいる・・。
 本当は 醤油資料館は 前のページの ”播磨の近代建築” に 入れるべきなのですが 話が長く
なりそうなので 新しいページにしました。 あしからず・・。

 駐車場があるかどうか 分からなかったので 北の歴史文化資料館に 車を置き ①資料館・別館、
②醤油倉(カネヰ醤油)、③如意寺、④本行寺、⑤龍野醤油資料館、⑥法雲寺、⑦龍宝寺 を訪れ
ました。 地図を見ると 宮本武蔵が 龍野藩で 修行したお寺など まだまだ見るものがありそう・・。


 10:04 出発。 JRの陸橋を渡り 国道179号線に出て 北へ走り 龍野橋を渡り 市街を
抜け 龍野城の埋門の前を左に登り 10:29 歴史文化資料館の駐車場に 駐車。 白い土塀
に沿って 東へ下ると 角が 醤油資料館の別館でした。 が 週末のみ開館のため 門は閉ま
っています。 外から レトロな建物の外観を 撮りました。 対面が カネヰ醤油の醤油蔵です。


 川に沿って 南へ下ると お寺があったので 軽ーい気持ちで ちょっと寄り道。 ここは 松龍山
如来寺でした。 西山浄土宗の如来寺は 天文二年(1533) 当案賢正上人の開基で 本尊は 阿
弥陀如来(鈴懸の弥陀)。 御霊堂:藩主 脇坂家総霊牌奉安菩提寺。
 寺伝によると 延文元年(1356) 神岡郷 大住寺に創建された喜多野氏の菩提寺 大義寺が 嘉
吉の乱の後 山名軍の兵火で 焼失した際 本尊は 炎の中より 助け出され 近くの皿池に沈めら
れ 難を逃れた。 後になって 池より仏像を掘り上げ 賢正上人に託し 天文二年(1533) 内山
城主 塩津新左衛門等に依って 龍野の地に 如来寺を 開いたといわれている。
 十王堂(庚申堂)には 三十三観音も 安置されている。( 揖保西国第22番札所 )


 見ることはできませんでしたが 開山堂には 賢正上人像、釈迦三尊像、四天王像、釈迦十大
弟子像、十六羅漢像などが 安置されているそうです。 ひょっとして 頼めば 拝むことができた
のでしょうか? 十王堂の青い像は 不動明王かと思いましたが 手が六本の青面金剛像でした。
 鐘楼堂は 文化三年(1806)の建立で 山門(四脚門)は 享保15年(1730) の建立。


 たつの市文化財の 「涅槃図」 は 説明板と 写真がありました。 涅槃図には 右下に 慶安四年
(1651) 狩野永納筆とあり 絵は 細部にいたるまで 丁寧な描写がなされ 全体の調和がとれた
構図であり 彩色も美しい。 下のほうには 鳥や虎などの動物が描かれているようです。
 本堂の前には 三木露風先生 筆塚があり 天才詩人・三木露風先生 遺愛の筆を 昭和41年
松龍山 如来寺の境内に埋めて 筆塚を築き 傍に ”松風の 清きみ山に ひびきけれ 心澄むら
ん 月明らけく” の歌碑を造る とあります。  三木 露風は 明治22年 たつの市生れの 詩
人、童謡作家、歌人、随筆家で 童謡 赤とんぼ の作詞で 知られています。


 十王堂には 十王尊像があり ちょうど 奥さんが 掃除されていたので 十王像を見せていた
だきました。 十王は 冥府で 死者を生前の罪行によって裁く 十尊で 初七日は 秦広王、以下
十日ごとに 初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪
王が 裁きます。 お堂には 十王像の左側にも 仏像がありましたが・・。
 十王像を見るの初めてです。 できれば 釈迦三尊像、釈迦十大弟子像も見たかった・・・。



 如来寺で すっかり 時間をとってしまいました。 如来寺の前が うすくち龍野醤油資料館でし
た。 きょうは 資料館の近代建築を 見るために 来たのです。 資料館、醤油蔵は 国の登録有
形文化財で 兵庫県の指定文化財です。 入館料は 10円なので 外観だけでなく 中も見学し
ましょう。
 19世紀中頃に 建てられた醤油蔵二棟を 古い形態に修復し これに 改装した旧本社社屋を
加えて 誕生した醤油資料館は 龍野地方の地場産業である 「うすくち醤油」 の生産工程を公開
している 有形民俗文化財を利用した ユニークな資料館です。 醤油蔵と 醤油造り行程の全貌を
伺うことのできる 全国でも 数少ない貴重な施設です。



 うすくち龍野醤油資料館は ノスタルジックな町並みに残る 昭和?の洋館です。
しょうゆの産地として有名な たつの市。 その旧市街地に ひときわ目を引く レンガの洋館が
あります。 ヒガシマル醤油の資料館となっている この建物は 昭和7年(1932) に 菊一醤
油の事務所として 建築。 外観は ルネサンス様式を取り入れ 左側に 玄関を配置、右側は
屋根の一部を 三角にするなど 左右非対称でありながらも バランスの良さが特徴です。 醤
油蔵や レンガの煙突など 古い建物が残る 周辺風景との一体感も 見逃せません。
 資料館から 北に 徒歩2分のところにある別館は 大正12年(1924) 龍野醤油組合として
建てられたものです。 1階は 展示室、2階は 日本画家の常設展を 週末のみ 開館。





 資料室に展示してある資料を見ていると 「播電鉄道沿線案内」 という冊子があったので 係
りの人を呼んで 見せていただきました。 新宮~網干港の路線図は ありますが 内容は 沿線
の観光案内で 参考になりません。 播電が 地元の名産品の素麺や醤油などの物資を輸送し
たことは知っていましたが・・・。
 係り員の話では 以前 この冊子を見せてくれと言われ 貸したことがあるとか・・。 誰でしょう?
インターネットのページを 打出した資料を頂きました。 資料の中に 歴史が書いてあり ”これに
対して 地元有力者の堀豊彦を中心とする・・”とあり この堀さんの関係者が 近くに住んでいる・・。


 資料館の西に 日蓮宗の本行寺があったので 寄りましたが これというものはなく・・。
縁起・由来などを書いたものが あるといいのですが・・・。


 南へ廻ると 真宗大谷派の法雲寺。 山門の軒丸瓦には 脇坂家の輪違紋があります。 山門
の前に柵があり 通れません。 横の通用口から入ります。 立派な紋がありますが・・。


 法雲寺の向かいが 紫雲山 龍宝寺。 ここも 真宗大谷派のお寺です。 このお寺の彫り物は
大変 立派でした。 ただ 梁の間で しゃがんで 押さえつけられていた老婆?は・・・。
 障子が開いていて 内陣を見ることができますが 仏像はない・・・。



 きょうは ここで引きあげます。 醤油資料館、如来寺の横を歩き 資料館・別館の前を戻り
ます。 11:58 車に戻り 帰路につきます。
 来た道を戻ります。 龍野の街を抜け 龍野橋から 国道179号線を南へ。 ちょっと 寄り道
をして 12:49 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路:9.5km 復路:10.0kmで 計:19.5kmでした。 


 まだ 高砂商工会議所と加古川図書館が 残っていますが 姫路近辺の近代建築を調べてみると
 ・旧姫路電話局 総社本町 昭和5年
 ・市立美術館 旧陸軍第10師団兵器庫 明治39年
 ・第10師団長 官舎 1924年
 ・県立姫路工大 旧姫路高等学校 本館、講堂 新在家本町 1926年
 ・京見会館 1914年
 ・旧三十四銀行 姫路支店
 ・浅田化学工業 倉庫 1876年
 ・カトリック教会 ザビエル館 1949年         ・・・・・など いろいろあるようです。

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播磨の近代建築を訪ねて

2012-09-18 14:07:53 | ドライブ
 9月18日(火)  天気:曇り 後 雨 一時激しく   室温:27.3℃

 きょうは ”播磨の近代建築を訪ねて” ということで 赤穂、相生、網干をドライブしてきました。
先日の折込広告 ”リビング姫路 9月15日号” にあった ”明治・大正・昭和に時間旅行” を参考
に 明治から 昭和にかけて造られた 多くの名建築が残っている播磨地域を訪れます。
 東は 明石から 西は 赤穂まで 今でも現役で活躍している 近代建築を 紹介します。 この秋は
”ちょこっと” タイムトラベルしてみませんか とありますが 明石の老舗酒造・茨木酒造 事務所と
高砂の高砂商工会議所 と 加古川の市立図書館は パスします。 また 別の機会に。

 きょうは 赤穂の市立民俗資料館と 相生の第一ガスサービスショップ(旧水月旅館)と 網干の
婦人服飾店たけだ(旧網干銀行本店)と ついでに  ”リビング姫路 ” には 載っていない ダイセル
異人館の 4ヵ所を訪れました。 龍野町のうすくち龍野醤油資料館は 途中で 雨が 激しく降って
きたので 行くのを 止めましたが 2、3日中に 行きたいと思います。


 9:33 出発。 国道2号線に出て 西へ向かい 相生で左折して 南の国道250号線に乗ります。
高取峠を越えた下り坂で 渋滞? 事故で 片側交互通行。 坂を下り 赤穂市街に入り 細野町
の信号を直進して 千種川の土手を 南下。 新赤穂大橋で 右折。 赤穂城の大手門を 横目で見
ながら西へ進み 上仮屋の信号で 左折して 200mほど進むむと 右に 資料館が見えてきます。
 しみけんさんのページに 駐車場がある と書いてありました。 無料駐車場に 10:26 駐車。
ここまで 26.6km。 赤穂市立民俗資料館の入館料は 100円です。 建物を観るのが 目的で
すが 折角なので 中を見学しましょう。 資料館は 兵庫県指定の重要有形文化財です。


 赤穂市立民俗資料館は 和と洋が調和した日本最古の塩務局庁舎で 明治41年(1908) の
建築。 塩業で栄えた赤穂の塩務局として建築され 昭和58年(1983) からは 民俗資料館と
して使われています。 入母屋、切妻などの形を 巧みに組み合わせた屋根が特徴で 白緑色の
外壁が 青空にマッチ。 きょうは 生憎 雨の降りそうな どんよりとした曇り空ですが・・・。


 館内2階には 天井から張り出した梁の一部を 室内装飾として取り入れた 「ハンマービーム」 が
あり 明治の洋風建築の貴重な遺産となっています。 建物裏には 塩倉庫や レンガ造の文書庫
もあります。 扇形の装飾窓を 館内から見ると 飾りの影が すりガラスに映り 幻想的な雰囲気。
当時 塩務局で働いていた人たちも 心和んだに 違いありません。




 11:02 資料館を後にして 相生に向かいます。 高取峠を越え 相生に戻り 公園前を直進
して 海沿いに進むと 第一ガスサービスショップがあります。 11:26 店の駐車場に駐車。
資料館から 12.3km。 外壁は 板張りで かなり傷んでいます。
戸を開けて 中に入ると 1階は 土間で 物置? 誰もいないので 勝手に 2階に上がると 2階も
物置? 昔の面影は 見る影もありません・・。 早々に 退散・・。


 相生の第一ガスサービスショップは 旧水月旅館で 海沿いで 造船所の栄枯盛衰を見守った。
造船業が 最も盛んだったころ 相生湾に面した相生地区は 飲み屋やダンスホールなどが 立ち
並ぶ繁華街でした。 賑わっていた当時の面影を忍ばせているのが 今は ガスショップになって
いる。 大正12年(1923) に建てられた本館は 造船所指定の旅館として 接待などなどに使わ
れ 中庭を挟み 別館もある大きな旅館だったようで 詩人・野口雨情が 宿泊し 「播磨港節」 を
作詞した旅館として有名らしい。


 国道250号線を そのまま 東へ戻ります。 カーブは 多いが 車も少なく 信号はなく 走り
やすい。 室津で いったん停車し 景色を撮って さらに東へ。 七曲がりを過ぎ 網干に入り
網干大橋を渡り 右に曲がり 真っ直ぐ南へ行くと ダイセルに着きます。 12:09 ダイセル
の駐車場に 駐車。 相生から 20.7km。 駐車場の隣が 異人館です。


 ダイセル異人館(外国人技師住宅): 明治41年(1909) ダイセルの前身である日本セル
ロイド人造絹糸の工場が この地に建設された。 工場の操業にあたり 技師長にイギリス人
クリーン 他に 5名の技師職工を イギリス・ドイツ・スイスから招き 翌年 工場地の一角に彼
らの居宅として 洋風住宅が建設された。 そのうち二棟が 現存しており 一棟は 会社のクラ
ブハウスとして活用され もう一棟は 内部も ほぼ当初のまま 保存され 資料館として活用さ
れている。



 様式は 19世紀末のイギリスのコテージの類似意匠がみられるが アメリカのコロニアル
スタイルの共通点が多いという。 周囲には ユーカリ樹もあって 異国的な雰囲気があり
市内では珍しい一角になっている。 兵庫県の住宅100選に選ばれ 姫路市都市景観重要
建築物等に指定されている。



 最後に 婦人服飾店タケダへ行きます。 昔の網干銀行本店で いつだったか ”あぼしまち
なか歩き” で 訪れたことがあります。 橋本商店街の入口で 車を停めることができないので
少し西にある 「あぼしまち交流館」 に 停めました。 12:40 駐車。 ダイセルから 1.1km。
 このときは 雨は降っていなかったので 傘は持たず 歩いて タケダヘ行きましたが 帰る
頃には 雨が降り始め・・・。 交流館に戻ると 土砂降り・・。



 旧網干銀行本店は 網干の商店街に漂う どこか懐かしい異国の香り・・。
橋本町商店街の西入口にそびえるレンガ造りの洋館。 網干のランドマークとして 親しまれて
いる この建物は 大正10年(1921) に 網干銀行本店として 建てられ 昭和45年(1970)
に 婦人服店”たけだ”として 生まれ変わりました。 レンガや花崗岩などを用いた建物の最大
の特徴は 円形部分の屋根に載せられた銅版のドーム。 路地から部分的に見えるドーム屋
根は 中東にいるかなような エキゾチックな雰囲気を漂わせている。
 銀行の吹き抜け天井に 吊るされているゴージャスなシャンデリア。 大正初期のモダンなデ
ザインの照明器具は 今でも 活躍中。 吹き抜けは 今は ありません・・。


 タケダの奥さんは 優しい人で 店の中の写真を 撮らせていただきました。 「リビング姫路」
の記事を読まれたようで 高砂、加古川にもあることを ご存知でした。


 交流館に戻ると 熟年のフラダンスチームが・・とうこさんは いない?ようで・・・施設訪問? 
龍野の醤油資料館へ行くのは 止めて 帰ることにしました。 山電網干駅前に出て 県道27
号線を真っ直ぐ。 13:12 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路:赤穂まで 26.6km、相生まで 12.3km、網干のダイセルまで
20.7km、交流館まで 1.1km、帰路・家まで 3.9kmで 計:64.6kmでした。

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千年水と御形神社

2012-09-13 15:23:04 | ドライブ
 9月13日(木)  天気:晴れ   室温:33.4℃ まだ暑い

 きょうは 宍粟市の 「千年水」 と 「御形神社」 へドライブしました。 水が 残り少なくなったので
いつものように 福地渓谷の 「文殊の水」 へ行こうかと 思いましたが 御形(みかた)神社へ まだ
行ったことがないので 「千年水」 を 汲んで 御形神社へ寄ることにしました。
 御形神社は パンフレット ”武士のこころ 息づく西播磨” に 「宍粟の歴史景観・文化遺産を巡る
道」 という項目で 載っています。 山崎の街は この前 歩いたので きょうは 御形神社だけ 訪れま
す。 伊和神社に 寄っても 良かったのですが いつでも 行けるでしょう。

 9:11 出発。 太子町、たつの市を通り 新宮で 国道179号線を離れ 県道26号線を 北上。
山崎で 国道29号線に入り さらに北へ。 安積橋で 右折して 国道を離れ 県道6号線に入りま
す。 三方町に入り 左折して 前川橋を渡り 県道521号線を 北へ5.4km行くと 「千年水」。
県道521号線は 緩い登りで 細い山道で おまけに一部工事中で 走り難い道です。
10:33 到着。 ここまで 55km、1時間20分 かかりました。 着いたときは 夫婦が 汲んでい
ましたが 蛇口を一つ空けてくれ すぐ 汲むことができましたが 帰るときには 3組汲みに来て
30分待ち・・。 私は ちょうど いいタイミングでした。


 千年水の由来 :「播磨風土記」 の御方(みかた)の条りに 「鉄を生かすは 金内と称う」 とあり 公
文には 金屋、タタラ場、鍛冶屋敷、堤ヶ谷、カマス置場等 鉄に因んだ場所と 数ヵ所のタタラ址が
あります。 この地より北へ100m先は 手洗渕鉄山で 高殿や千種への馬路も残っています。
 古歌に 「朝日さす 夕日かがやく この奥は 真金千杯 うるし千杯」 タタラの炉の色は 真赤
に 燃える朝日、夕日の色をもって 最上とした。
 公文の枝郷小原、溝谷は 木地師の里で 小椋姓ばかりである。 木地屋、鉄山、うるし採取、
炭焼き等 山は栄え 賑やかで 但馬との交流も多かった。 往来の人々のオアシスとして 千年
の前より 飲用されてきました。
 最近 水質検査も 実施され 美味しい湧水として 大変 喜ばれています。   西公文


 20分ほどで 水を汲み 10:33 南へ戻ります。 4.5km下り 左折して 高見橋を渡ると
400m先が 御形神社です。 手前の広い駐車場に 車を停めました。 なんと 駐車場の脇に
播磨の戦争遺跡には無い 大きな 「忠魂碑」 があります。 いつ建立されたのが 分かりませ
んが 字を書いたのは 陸軍中将・男爵 安東貞美。 好き嫌いは 言えませんが 機雷はなし・・。
 神社とは 関係はないようで 在郷軍人会が 建てたものらしい・・。 あちらこちらに 忠魂碑が
あるらしく 神戸小学校にもある?


御形神社の御祭神は
 本殿 : 葦原志許男神・相殿神素戔嗚神・高皇産霊神・月夜見神・天日槍神
 末社 : 佐閉神社(右側) 日吉神社(左側)

御形神社 御由緒略記
 当社は 「みかた神社」 または 「たかみさん」、「県社」 などとも 申し上げます。
当社のご祭神は 葦原志許男神(アシハラノシコヲノカミ)と申し、又の御名を 大国主神(オオクニ
ヌシノカミ)とも 申し上げます。 志許(シコ)は 元気のある、武勇に優れた、或は神威赫(シンイ
カク)たる神といふ意味であります。
 この神様は 今の高峰山に居られて この三方里や但馬の一部も開拓され 蒼生(アヲヒトグ
サ)をも定められて 今日の基礎を築いて下さいました。
 しかし その途中に 天日槍神(アメノヒボコノカミ)が 渡来して、国争ひが起こり 二神は 黒葛(ツ
ヅラ)を 三條づつ 足に付けて投げられましたところ 葦原志許男神の黒葛は 一條は 但馬の気
多郡に 一條は 養父郡に そして最後は 此の地に落ちましたので 地名を三條(三方)といひ伝
へます。 又、天日槍神の黒葛は 全部 但馬国に落ちましたので そのところの出石に お鎮まり
になり 今に 出石神社と申します。
 やがて 葦原志許男神は 事を了へられて この地を去られるに当り 愛用された御杖を形見と
して その山頂に 刺し植えられ 行在の標とされました。 以って 当社の社名 「御形」 は 形見代・
御形代より 起こりました。



 その刺し植えられた所に 社殿を建てて お祀り申しましたのが 当社の創祀であります。 やがて
奈良朝の宝亀三年(772) 里人数人が 一夜の間に 三本の大杉が 山神社の森に鼎立(ていり
つ)するという霊夢を見 これは 山頂の大神の当地への ご遷座の所望であらう との事で 早速
ご社殿を造営し お祀り申し上げたのが 当地での起源であると 「夜の間の杉の伝説」 は 伝え
ています。
 尚 当社は 古くより蟇目(ひきめ)の祈祷を 伝へてをり 特に 難病治癒に霊験あらたかな神社
として 知られています。


 本殿の建立は 奈良朝 宝亀三年(772)が創建で その後 再建立、さらに 室町末期に 再々
建立がなされ それが 現存する本殿です。
 本殿は 三間社流造、桧皮葺で 側廻りに 高欄を付けた椽を設け 柱の上の組物は 三ッ斗
の出組で 軒支輪を配し 木鼻や手挟(たばさみ) 蟇股などには 室町末期の様式技法を伝える
繊細な木組や彫刻が 彩色も施されている。 明治36年 透塀が新設され 現状の姿に整えられた。
 昭和42年 国の重要文化財に指定され 宍粟市では 唯一の重文建造物です。 昭和46、7年
に 解体復元工事が 施工されて 室町時代後期の見事な彫刻や 繊細な組物が 甦がへりました。
 パンフレットの 「御形神社御由緒略記」 が 長文なので 写真と文が 大幅にズレてしまい・・。



 大きな鳥居を潜って 境内に入ると 右に 小さい小屋のような建物があり 物置かと思いましたが
帰りに 覗くと 観音堂でした。 左に 屋根が高い 手水舎があり 龍の口から水が流れ 気持ちが
いい。 正面が 神門(随身門)で 中に 大きな随身さんがおられます。 彩色が施され 目が大きく
なかなか迫力があります。 神門の右に 天然記念物の ”正福寺桜” と ”五色椿” の木があります
が 今は 花が咲いていないので・・・。
 境内の右奥にある 忠魂社 は 先代・住職さんが 皇紀2600年を記念して 昭和15年に建立さ
れたそうです。 神社は 死者を祀ることを 嫌うそうですが 今は 境内末社として 396柱を祀って
いる。 ここには 大砲の砲弾があったそうで 今でも 台座があるが 砲弾は 格納してある・・。


 神門を潜ると 正面に 日本一大きいと言われるジャンボ絵馬があり 今年の干支・辰(龍)が
描かれています。 神門の前に 宍粟市指定文化財の 「左義長羽子板」 と 「御前勇戦図絵馬」
の説明板が ありましたが これは 物置に 仕舞ってあるそうで 見ることはできません。
・「左義長羽子板」 は 正月15日 宮中で 行われた左義長(とんど)の様子が 表・裏に描かれ
ているそうで 正徳三年(1713)のもの。 54.5×17.5cm。
・「御前勇戦図絵馬」 は 打出浜での 最後の戦いで 奮戦する巴御前の勇姿が描かれ 嘉永
七年(1846)に奉納された。 204.5×147.5cm。 巴御前は 木曽義仲の愛妾で 平安
時代の女性武将で 平家と戦い 最後まで 義仲を助けた?
 石段の下にある石灯籠は 面白い形をしてます。 三段の石積の上に 灯籠が乗せてあり 足
の形も変わっていて 上には 鳩が止っています。 これも 忠魂碑と関係があるのでしょうか?


 左の建物は なんだったのか? カーテンは 開いていましたが・・。 社務所? 舞台には 「百人
一首図」 が 17面 掛けてあり 百人一首の歌仙全部が 描かれた 全国的にも 珍しいもので 県
内では 唯一のもので 極めて貴重。 江戸末期の弘化三年(1846)に奉納されたものです。



 本殿は 「流造」 ですが 流造とは 伊勢神宮の神明造から発展し 屋根が反り 正面屋根が
前に曲線形に 長く伸びて 向拝となったもの。 本殿を 横から見ると 屋根が正面に長く流れて
いるのが よく分かります。 室町時代の木組や彫刻は 本殿より 拝殿の方が 分かりやすい。
 拝殿の屋根の上にある破風飾りの 丸い金色の紋は やはり 神紋だそうで ”抱き茗荷”と
言うそうです。 この紋は 陰陽道と関係がある? ここに 陰陽道が出てくるとは・・。 茗荷紋に
も 深い謂われがあるようです。 抱き茗荷は 女性自身に似ている?(写真は一番下に)


 本殿の後ろに 「願掛け鈴」 があり これを鳴らすと ロープで つながった杉の御神木に通じ
御神木の鈴が鳴り 願い事がかなう。 ここは 知る人ぞ知るパワースポットだそうです。
御神木の杉は 樹齢700年、御由緒略記にある ”一夜の間の杉” です。


 帰り際 物置?の戸を開けると 鍵はかかっておらず 中へ入ることができ 観音堂でした。
金色の観音像が たくさん納められています。 2、3日前 歴史教室で 観音さんを勉強した
ばかりなので ちょうど良かった。 しかし 手の多い千手観音しか 分かりません・・・。
 写真をよく見ると 右膝を立てた像(如意輪観音)も 十一面もあるようです。 馬頭観音は?
こんなに たくさんあるのなら 一つ貰えないかな? 三十三間堂には 千手観音が千体ある?

 えぇっー! これは 33体の観音像で ”西国三十三所”の観音様ですか? 神社に 33ヵ寺
の観音があるのは おかしいっ!・・・これは 神仏習合の名残だそうで 御形神社が この辺り
三地区の氏神社として お寺から預かった? 御形神社は この辺りの13番札所になっている。


 車に戻り 帰路につきます。 道標だったか 石碑だったか あると思ったのですが 捜して
も 見付けられません。 すこし南の田圃の中にあるそうです。
 国道429号線に出て 南下。 安積橋まで戻り 信号待ちの間に 西の山を撮ったのですが
黒尾山は あの山かな? 国道29号線を南下して 山崎で 県道26号線に入り 西の国見山
を 撮りました。 新宮へ戻り たつのを抜け 13:26 家に 帰ってきました。
 帰路は 概ね下りなので パネルに表示される平均燃費が 21.4kmだったのを 必死で
運転し 23.1km/L に 回復させました。 この車を運転すると 疲れが どっとでます。


 本日の走行距離は 往路:55.0km 御形神社まで 4.9km 復路:51.0kmで
計:110.9kmでした。 帰路 下り基調だったからか 60~70kmくらいの速度で
走ると 意外と静かに 調子良く走りました。
 私は この車は 欠陥車だと思うのですが 8月は プリウスを抜いて 月間販売台数が
トップになったとか・・。 信じられません・・。 こんな車を運転してる人の顔を見たい・・。
 。。。。。。。。。  。。。。  。。。。  。。。。  。。。。  。。。。  。。。。  。。。。。。。。
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