私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

シーショアで 石井 久志 油絵展

2012-11-29 13:20:03 | 日記
 11月29日(木)   天気:曇り    室温:16.8℃

 きょうも 暇で することも無いので 新舞子のホテル・シーショア御津岬へ行ってきました。
この前 高田の古民家ギャラリーの展示会で ホテル・シーショアで 絵の展示があることを
知りました。 11月いっぱいなので きょう、あす 中に行かないと・・。

 ホテルのエントランスに ライオン?のブロンズ像があり 一瞬 ヌエかと思いましたが
これは 古代ギリシャ神話に出てくる ”アレッツオのキメラ” だそうで 頭は ライオン、
体は 山羊、尾は 龍だそうです。

 ホテルでは 「石井久志 油絵展」 をしていました。 案内状がないので 詳しいことは
分かりませんが 1942年 たつの市生まれ 姫路美術協会会員。
 聚遠亭や 龍野城の埋門の絵もありました。 私が 一番好きなのは 波が打ち寄せる
岩場で 釣りをしている絵ですが 値段は・・・。 



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 ホテル・シーショアは 新舞子海岸の海水浴場にあるので ワイキキビーチのホテルの
ように ホテルから直接 砂浜に出ることができます。 屋外に シャワー設備もあります。
ちょっと 海岸を歩いてみました。


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現存12天守をめぐる旅

2012-11-25 13:37:03 | 日記

 11月25日(日)  天気:快晴  室温:16.5℃

 きょうも 先週の日曜に続いて BSプレイアムで 12時から 新日本風土記選 「全国名城
現存12天守をめぐる旅」 の放送がありました。
 12天守は 国宝の 彦根城、松本城、姫路城、犬山城の 4城と 松江城、丸亀城、高知城、
松山城、丸岡城、弘前城、備中松山城、宇和島城 の 8城です。
 こういうドキュメンタリー番組のいいところは 行くことのできない お城を 映像で 見ること
ができ 知ることのできない 裏話を 知ることが できることです。 また 12の城を 一挙に 全部
紹介してくれるのも ありがたい。 ただ NHKなので コマーシャル休憩がないので 1時間 ト
イレにも 行けない・・・。

※いつだったか 松江城の築城年が わかり、松江城が 国宝に指定されました。 国宝は 5城です。


1.彦根城
 井伊家四代・井伊直政の築城。 小高い丘に建つ。 豊臣秀頼に睨みを利かすため築城。
 天守閣は 三層三階。 入母屋、切妻、唐破風の飾り屋根が 組み合わされている。
 直政の死後 直継が 慶長9年から約20年かけて 築城。 佐和山城の石垣や
 建造物の多くが 彦根山に運ばれたと伝わる。
 12月25日 BS-TBSで ”栄華を極めた名城”という番組で 彦根城が紹介され
 石垣は 穴太衆が積んだ 「牛蒡積」で 大石の周囲に小石を隙間なく詰める 「鎧積」とか・・。





2.松本城
 10世紀の終わりの築城で 深志城といわれた。 家康を牽制するため造られた。
 天守閣は 五層六階、連結複合式。 黒漆塗りで 烏城といわれる。
 天正10年 小笠原氏が 家康の援助で復帰し 城の大改修を行い 名称を 松本城と改めた。
 



3.松江城
 小さい山・亀田山を利用して建てられている。 天守は 三層三階で風格がある。 築城の際
 人柱が必要になり 盆踊りのとき 鶴の浴衣の娘を捕え 人柱にした。 亀山には 鶴がいい・・。
 以来 娘の怨念で 盆踊りが行われなくなった。



4.丸亀城
 四層重ねの石垣の高さ60mは 日本一。 万治三年の築城。 70mの小さな亀山に建つ。
 三層三階の天守は 現存12天守のうち 最も 小振り。
 12月11日 7時から BS-TBSで ”栄華を極めた名城” という番組があり
 兜を被った武士に見える 意匠を凝らした天守閣は 国宝?で 重要文化財。
 高松城の出城として 讃岐港を監視するため建てられた。
 江戸時代になり 一国一城令で お城は 取り壊しとなるが 木で隠し 免れた。
 幕藩体制となり 丸亀藩は 5万石を与えられ 城主の山崎家治(石垣造りの名人)が
 高さ22mの野面積みの石垣を築き 400年間 天守を支えた。




5.高知城
 慶長六年(1601) 築城開始、山内一豊の築城。 丘の上に建つ。 6階建。
 日本で唯一 天守とつながる本丸御殿が 現存する。 鷹城とも呼ばれる。
 12月15日 BS5 「日本の城紀行」 でも 紹介されました。





6.姫路城
 五層六階の白鷺城。 昭和34年の修理の際 心柱が腐っていたため 新しい心柱に
 笠形神社の御神木(90cm×25m)が切り出され 姫路城へ運ばれた・・。 地元の人は・・。
 姫路城は 1346年に 赤松貞範が 姫山に山城を築いたのが 始まりとされ 時は流れ
 天正8年 黒田官兵衛は 羽柴秀吉に姫路城を建叙する。
 関ヶ原の合戦後 徳川家康は 池田輝政を配した。 輝政は 約9年を費やし 城を改修し
 五層七階の天守閣を築いた・・。



7.松山城
 135mの丘に建つ 四国最大の城。 三層三階の連立式天守。 江戸時代の初めに築城され
 1854年に再建。 築城の名手?加藤嘉明の築城。 難攻不落、敵をまどわす 迷宮の砦。
 正岡子規の句 ”松山や 秋より高き 天守閣”



8.丸岡城
 福井県では 唯一。 平山城。 柴田勝豊の築城。 二層三階の望楼型天守で 内部には
 柱が多く 雪に耐える構造。 天正四年(1576) の建築で 現存する最古の天守閣?
 図面がないので 写真を元に再建された。
 「霞ヶ城」の由来は 合戦時に 大蛇が現れて霞を吹き 城を隠したという伝説による。
 屋根瓦には 寒冷地であるという 気候事情により 石瓦が 葺かれている。


9.弘前城
 東北地方 唯一の現存する天守で 三層三階の天守。 銅板葺き。 桜の名所。


10.備中松山城
 12天守のうち 最も険しい場所・標高430mの山、天然の岩盤に建つ。
 17世紀後半の築城。


11.宇和島城
 白亜の三層三階の天守。 五角形の縄張りで 海に面した水城。 藤堂高虎の設計。
 伊達家の城で 江戸時代に再建された。 宇和島城については こちら も見てください。



12.犬山城
 木曽川沿いの丘に建つ 三層四階の優美な天守。 室町時代の建築様式を残す 望楼型の天守。
 濃尾平野が一望できる。 織田信康(信長の叔父)の築城。 別名 「白帝城」、成瀬家の所有。
 日本で 一番古い 木造天守閣で 関ヶ原の合戦後 現在の天守が築かれたと伝えられる。
 元和3年 尾張徳川家の家臣・成瀬正成が 拝領した。


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官兵衛ゆかりの地巡り

2012-11-24 16:15:48 | 歴史探索
 11月24日(土)  天気:曇り  室温:15.9℃

 きょうは 岡山県の南東部をドライブしてきました。 ”黒田官兵衛ゆかりの地を巡る”
のパンフレットに 備前・福岡の妙興寺があるので これを 訪れるのが 目的ですが
福岡近辺の郷土館や 長船の刀剣博物館を訪れ 刀の展示を見て
帰りに 伊部の伝統産業会館の備前焼ギャラリーに寄り 
( 備前陶芸美術館では 人間国宝の展示がありますが 有料で 撮影禁止なのでパス )
国道脇にある 重要文化財の三重塔のある真光寺に 寄ろうとしたのですが どこにあるか
分からず・・・。  最後に 国宝の閑谷学校に寄り 125kmほど ドライブしてきました。

 9:12 出発。 国道2号線で 西へ行き 9:35 龍野西ICから 山陽道に入ります。
山陽道を 26km走り 9:53 備前ICを降りて 国道2号線に乗ります。 山陽道は 400円。
2国を西へひた走り 備前大橋の手前で 左折。 吉井川に沿って南へ行くと 河川敷のゴル
フ場・長船カントリーCに出ます。 50年くらい前 ここで ゴルフをしたことがあるよーな・・・。


 土手から降りて 路地を行くと 駐車場があり 場所が分からず 停めました。 10:19
駐車。 備前ICから 18.9km、家から 57kmでした。 七つ井戸の横とは つゆ知らず・・。
駐車場の脇では 黒田官兵衛の幟が 揺れていますし 壁には 黒田サミットの張り紙が・・。
黒田官兵衛ゆかりの五都市(長浜市、瀬戸内市、姫路市、福岡市、中津市)が 集まるようです。


 すぐ先が 目的地 妙興寺でした。 教意山・妙興寺は 本尊は 三宝尊で 脇侍は 四天王。
応永十年(1403) 播磨の国主・赤松則興の子 日伝上人によって 創建された日蓮宗の
寺院です。 本堂には 鬼子母神が祀られ 毎月8日の晩に 鬼子母神講が営まれています。
 山門の前に 「黒田官兵衛父祖之墓所」の碑が建っていて この寺には 官兵衛の曾祖父・
高政のものと伝えられる墓があります。


 面白いことに 山門を潜ったところに 仁王門があります。 こういうのは 初めて。
朱塗りの仁王さんも立派で 腰巻きがきれいです。
 なんと 右に神社があり 備前焼の狛犬があるじゃないですか。 嬉しくなります。
本堂に お参りします。 横の大銀杏の黄葉は 落葉が始まっています・・。
この大イチョウは 瀬戸内市指定の重要文化財だそうです。


 本堂の奥に 黒田家の墓があります。 手前には 宇喜多興家公の墓もあります。
黒田官兵衛の曽祖父・高政が 近江の在所を離れ 当時の商都・福岡に移住し 力を付け
その子・重隆は 福岡で育ち 長じて 姫路に移り 小寺家の家臣として仕え 父・職隆、
官兵衛と 代々家名を高め 後に 官兵衛の子・長政が 慶長五年に 筑前52万石の
大名として 博多の西に築城した時 その城下を 黒田氏発祥の地・備前福岡にちなんで
「福岡」 と名付けた。 長政は よほど 備前福岡に愛着を覚えていたのであろう。
ここ 妙興寺に 高政のものと伝えられる墓が残っている。
黒田家の歴史については 10月11日の 大河 「軍師・官兵衛」 に を参照してください。

 宇喜多直家は 幼少の頃 父・興家と共に 福岡の豪商・安部善定の保護のもとに成長し
その後 浦上宗景に仕えた。 直家は 永禄四年に 宗景を攻めて 讃岐に放逐し 岡山城を
拠点として 威力を備前一帯に張った。 興家は 福岡で没し その供養塔が妙興寺にある。

・・・・九州の福岡市は もともと「博多」と呼ばれていた地に 慶長6年福岡藩初代藩主・黒田
長政が 城を築く際、先祖の地であった 備前・福岡にあやかって、福岡城と命名しました。
それ以来 中洲を流れる那珂川を境に 東を博多、西を福岡と呼ぶようになりました。
 市名を決める明治の市議会で 投票結果13票対13票の同数に 割れ そこで、旧福岡藩
の武士だった議長が 一議員として 投票し1票差で 福岡市になりました。・・・・


 摩利支天堂に行きました。 摩利支天堂は 栄町町内会の守り神・摩利支天様をお祭し
ています。 もともと 摩利支天は インドの神様で 陽炎(かげろう) を神格化したもので
三面(忿怒、菩薩、童女面)六臂(八臂)の天女の姿で表わされ 猪の背に乗っているのが
特徴といわれ わが国では 中世 忿怒の摩利支天は 武士の守り神として 崇められて
きました。
 福岡一文字派の碑に行きました。福岡一文字派は 鎌倉時代初期の則宗を始祖として
多くの名工を輩出して 黄金時代を迎えました。 中でも 則宗や 宗吉らは 後鳥羽上皇
の御番鍛冶として 召し出されています。 当時の一文字派の刀工たちは 福岡庄の吉井
周辺に居住し 皇室の庇護を受け 広い給田を所有 安定した生活の力で 鍛刀していた。
 この時代 備前刀は 古備前派から 長船派、国宗派、福岡派一文字が 相競うように
輩出し 刀剣の質、量共に 黄金時代を迎えています。 特に福岡派の作風は 日本刀の
原形で 古雅の上に 優美さを加え 一世を風靡しました。
 こうして 福岡の名が 天下に知れ渡り 福岡一文字は 長船とともに名刀の代名詞に
なりました。


 次は 福岡の市跡です。 福岡の市は 鎌倉時代 福岡庄で開かれていた 定期市の
一つだった・・。 弘安元年(1278) 一遍上人が 福岡の市で 説法する様子を描いた
「一遍上人絵伝」は 絵巻物にした伝記で 当時の風俗を知るうえで 貴重なものです。
正式には 「一遍上人聖絵」 で 今も 京都の歓喜光寺に 国宝として保存されている。


 吉井川の土手下の河原は 長船カントリークラブで 平日ですが ゴルフをしている人も
います。 ゴルフ場内のこんもり盛り上がった丘・稲荷山が 福岡城跡です。 川の西の
古山が 本城山と呼ばれ この小山が 城跡だという説もあるようですが・・・。
 正平五年(1350) 足利尊氏が その子・直冬の離反を鎮圧するため 大軍を率いて
西下する途中 福岡に40日あまり 駐屯したという記録があるそうです。
 その後 福岡城に登場する武将は 山名、赤松、松田、浦上などあるが 文明15年
(1483) 松田、山名の連合軍が 福岡城を守備する赤松、浦上の連合軍を攻め落と
すのに 50日もかかったと 伝えられる大激戦が 世にいう 「福岡合戦」 である・・。


 土手から降りて 福岡郷土館へ行きました。 妙興寺もそうでしたが ここ郷土館にも
グループが来ています。 郷土館は 無料でしたが 特別面白いものは ありませんで
した。 郷土館は 大正3年 に建てられた洋風の病院の建物を利用して 福岡ゆかりの
武具や 生活用具、医学書などが展示してあります。
 七つ井戸を探しながら 狭い福岡の街を歩きましたが 古民家が並ぶ 昔の家並みは
古い歴史の残照であり それ故 司馬遼太郎の 「播磨灘物語」 の冒頭の舞台となるのです。


 室町時代の備前福岡は 山陽道で最大級の商都として 栄えましたが 宇喜多氏に
よる 岡山城下町作りへ 多くの商人が引き抜かれ 大洪水による荒廃により・・。
 往時の福岡の繁栄を 現況から想像することはできませんが 東小路、上小路など
整然と区画された街であったことが窺え 市場小路、後小路、横町、殿町、茶屋市場
など 昔をしのばせる 呼び名も 残っているそうです。 殿町は 武士の居住地?


 車を停めた脇が 「七つ井戸」 の一つでした。 七つ井戸は 各小路に 一つずつあり
生活用水や防火用水に利用されたそうです。 吉井川が水源のため 枯れることはない。
 11:34 車に戻り 川に沿って 細い道を北へ行き 長船刀剣博物館へ行きます。
福岡から 3.4km、11:44 刀剣博物館に着きました。 ここも人が多く 車を
40台停められるが 空き場所が・・・。 なんとか 空きスペースに停めました。
きょうは ベーゴマの大会があるの?
「備前おさふね刀剣の里」 には 刀剣博物館、今泉俊光記念館、長船鍛刀場、長船刀剣
工房、ふれあい物産館 があります。 博物館は 500円。


 1階展示場で 「お守り刀展覧会」 をしています。 写真を盗りたいのですが 禁止。
ポスターで 我慢してください。 お守り刀は 女性の護身用? 護身用だけに 小刀で
装飾もきれいです。 女性の着物姿の写真もあり 盗りたくなるのを ぐっと我慢・・。
2階へ上がると 日本刀が展示してあります。 こちらは 長いので 盗っても収まら
ないし 歯幅も狭いので ピントも合わないでしょう。 


 刀の鐔(つば)もあり 意匠を凝らしたものもあります。 これは 象がん?
鞘の漆塗りのものもあります。
 日本刀は 直刀で代表される上古刀と 平安末期から 室町末期の古刀 および 慶長
から 江戸時代の新刀、江戸末期の新々刀 と分類する時代別変遷があります。  また
備前、大和、山城、美濃、相州で それぞれ違った特質をもっており これを 「五ヶ伝」 と
いっています。  五ヶ伝とは 五つの地域の刀工の作風であり 伝とは 伝承の意です。


 1階の 「刀剣の世界」 は 写真OK。 撮りまくろうか と思えど 撮るものがない・・。
備前長船の歴史や 備前刀 また 日本の鉄と日本刀について パネルや 映像で解説。
「一遍上人聖絵」 は 武士が刀を抜いて 一遍上人に 斬りかかろうと 身構えています。
これは 武士の妻が 一遍上人に 弟子入りして 尼になったので 主人が怒っている様子
が描かれているのだそうです。
 日本の伝統美術工芸のすべてを 集結した刀剣は 世界に誇るべき総合芸術作品だそう
です。 鍛刀場、工房、物産館を廻りましたが 見るものは ありませんでした・・。



 国道2号線に出て 東へ戻ります。 国道の脇に 備前焼伝統産業会館があるので 寄り
ました。 2階がギャラリで 作品の展示と販売をしています。 ここも 撮影禁止ですが
作品をアップで撮らないで 全体を撮れば いいと 了解を得ました。


 コーヒーカップや花瓶などのほかにも 龍や狛犬のような 美術品も多くあります。
ただ ちょっとした花瓶が 58000円。 10センチほどの狛犬が 35000円。
いいなと思う美術品は 15万円。 とても 手も足も出ません・・・。


 備前焼の七不思議。 1.投げても割れぬ 備前すり鉢・・高温で焼くため強度が強い。
2.冷たいビール、温かいお茶・・緻密な内部組織のため比熱が大きい。 3.きめ細かな
泡で うまいビール・・微細な凸凹があり 発泡能力高い。 4.長時間おくと うまい酒に・・
内部に微細な気孔がるため 通気性があり 酵母菌の働きが活発になる。 5.新鮮で・・・


 産業会館の隣が 陶芸美術館。 人間国宝・伊勢崎 淳の 「大地の聲を聴く」 展を
していますが 有料で 撮影禁止なので 止めました。 見ればよかった・・・。


 重要文化財の三重塔のある 真光寺に寄ろうと思ったのですが どこにあるのか 分からず・・。
国道を さらに 東へ戻り 閑谷学校の標識を見て 左折。 国道から 4kmほど 北へ入った
ところが 閑谷学校。 何カ所か 駐車場がありますが どこも ほぼ満車。 すごい人です。
 駐車場から 校門へ向かうと 手前に はんち といわれる池があり 錦鯉が泳いでいます。
はんは さんずいに 半ですが 漢字の表示はできません。 ちは 池です。


 閑谷学校は 藩直営の学校で 庶民を対象とした 現存する 学校建物 としては 世界最古
のものと言われています。 寛文10年(1670) の創建です。 藩主・池田光政が 重臣・
津田永忠に その建築を命じ 光政の死後 元禄14年に完成しました。 光政は 池田輝政ー
利隆の子で 輝政の孫に当たります。 1616年には 姫路城の城主になっています。
 旧閑谷学校は 特別史跡で 講堂は 国宝で 重要文化財。 こういう 二重指定もあるのです
か。 講堂、校門(鶴鳴門)、聖廟、閑谷神社、文庫、石塀(付 飲室門) は 重要文化財です。


 正面の校門の屋根には 鯱(しゃち)が乗っていて 左右の石塀は 重文です。 石組は
「切り込みはぎ式」 といわれる頂部の丸い 隙間のない 精巧なものです。
右の入口から 入ります。 入場料500円。 閑谷学校の建物の屋根瓦は 備前焼です。
折角の赤い瓦も 雨の降りそうな曇り空で 色が冴えません。
 講堂は 入母屋造り、錣(しころ)葺きの大屋根です。 周りの縁側を歩くことができます。
花頭窓(火灯窓)の形が 特徴的です。 昔は 儒学(朱子学)が教えられたそうです。
上郡の大鳥圭介も ここへ通い 学んだ・・。


 聖廟は 中に 孔子像が祭られているそうで 孔子の徳を称え その霊を祀る儀式・釈菜が
10月に行われ 金色に燦然と輝く孔子像を拝観できるそうです。
 隣りの建物が 閑谷神社で学校の創始者・池田光政を 祀っています。 周囲の塀の軒丸
瓦には 池田家の家紋・揚羽蝶の紋が 並んでいます。


 下の写真は 校門の左にある碑ですが 後ろの石塀が 重要文化財です。
紅葉を見ながら ぶらぶら歩いて 車に戻りました。 14:43 帰路につきます。
国道2号線に戻り 東へ。 帰りは 山陽道は 使わず ずっと2国を走りました。
 相生市街に入るまでは 車も信号も少なく スムースに走れます。 この車では
県境の船坂峠や 鯰峠の坂登りには 難儀します。 幸い 大型トラックが 前を
走っていて 後ろについて走りました。 15:50 帰ってきました。


 本日の走行距離は 往路:福岡まで 57.0km、刀剣博物館まで 3.4km、閑谷学校
まで 寄り道含め 17.9km、復路:46.3kmで 計:124.6kmでした。
往路は 山陽道を走り 燃費が 0.5km/Lほど 落ちましたが 帰りは 国道を走り なん
とか 燃費を戻し 25.5km/Lに 回復しました。 実燃費は 24kmほどでしょう・・。
平均燃費が表示されるので つい 見ながら運転するので 疲れます。

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兵庫県立こどもの館

2012-11-21 14:38:59 | 日記
 11月21日(水)  天気:晴れ+雲   室温:19.3℃

 きょう 出かけた帰りに 県立こどもの館に寄ってきました。 この前 古民家ギャラリーで
もらった案内状の 樫木和子 キルトの世界 「華 間を綴る 美」 を見るためですが 
残念ながら 写真禁止!   屋外の庭園などに 展示してあるキルトを撮りました。
 家に帰り ”姫路まちなか建築めぐり” のパンフレットを見ると 欄外の ”足を伸ばして” に
書写の里・美術工芸館とともに 「こどもの館」が 載っていました。



 こどもの館は 豊かな自然の中に建つ文化施設。 様々な機能を持ち ダイナミックに
空間構成された本館。 対照的に 小さなスケールの工房、両者を結ぶ長い園路で
構成されています。 コンクリート打ちっぱなしの建物は 一見して 安藤忠雄の設計と
分かりましたので 建物の写真は 撮りました。 1989年 竣工。
 初めて行ったのですが 本館内は 通路が分かり難く 迷路のよう・・。



樫木和子のキルトの世界は (案内状より)
 美しい藍に魅せられ 針を持つ日々。 もう30年になるかしら・・・。 ・・・
 自然が育む豊かな色が 手仕事によって引きだされ 名も無き創り手の心意気や
 美意識が凝縮された 大らかな味わい。
 生活の中で愛され 使い込まれ 時間を経て趣深く育った 力強く 聡明な【藍の色】。
 布と向き合い 過去から未来へ想いを馳せ 巡らせながら 自身のデザインを創造する。
 ・・・・
 手芸のキルトが 工芸の世界で認められ 賞を頂いた上に こうして 支援を頂き
 皆様の前で 作品を披露できる喜びに 感謝申し上げます。 ・・・
 そんな藍の布の素晴らしさを 皆様に 感じて頂けたら 幸いです。




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 屋外にも キルトが展示してありますが 洗濯物や 布団か毛布を干しているようで
なんとなく 違和感があります。


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感状山城跡 かんじょうさん 305m

2012-11-20 14:53:25 | 山歩き

 11月20日(火)  天気:晴れ・雲あり  室温:17.9℃  地図:二木(ふたつぎ)

 きょうは 相生の感状山城跡に 登ってきました。 10月30日の歴史博物館の「特別展 赤松円心・
則祐」 つながりです。 感状山は、赤松則祐が 足利尊氏から 感状をもらったことから その名が付いた
のです。 感状山の山は さん、ざん、せん とも 呼ばれるようです。
 何ヵ月か前 新聞に 県立歴史博物館の学芸員が 県内の近世城郭を紹介するサイトを作ったという記
事がありました。 30年かけて 撮った写真を配して 姫路城、竹田城など、15ヵ所を紹介し 一番の
おすすめは 相生の感状山城 とあり 気になっていました。
 感状山は 三度目。 一回目は 2002.8. 「はりまハイキング」 を参考に 南の八柱神社から 尾
根を歩きました。
 久し振りに 山に登りましたが きょうは 暑かったのか 汗が タラタラ・・・。
登り初めは 息が上がりましたが なんとか 膝を痛めることなく 階段を 上がることができました。

 9:21 出発。 太子町を抜け たつの市に入り 龍野新大橋を渡り 県道5号線で 相生に向かいま
す。 二木峠を越え 相生市に入り 真広の信号で 右折して その先で 左へ進むと 羅漢の里に出ます。


 矢野町瓜生では 刈り入れの終わった田圃 あちこちに かかしを展示しています。
この前の鹿ヶ壺山荘の周辺にも ありましたが こちらの方が 数では 勝るようです。


 羅漢の里に着き 車を停めましたが もう少し先に 停められそうです。 400m先の橋を
渡った右の駐車場に 停め直しました。 10:05 駐車。 ここまで 20.4km。
県道5号線を走って 峠の坂を登り 20km走る間に 燃費が 0.5km落ちました・・。
 羅漢の里では ”もみじまつり” をしているので もっと 紅葉が きれいかと 思いましたが
紅葉は いまいちです。 特に 見るものもなさそう・・。


 感状山城跡650mの標識を見て 薄暗い杉林を 羅漢の石仏へ進みます。 100mほど 進むと
右に 擬木階段があり ここが 登山口。 ここに 感状山城跡の説明板があります。
 感状山城跡は 瓜生(うりゅう)城とも呼ばれ 鎌倉時代に 瓜生左衛門尉によって 創築された。
その後 南北朝、室町期に 赤松一門の居城となった。
 建武三年(1336) 天皇に逆らって 都を追われ 九州に落ちていった足利尊氏。 後醍醐天皇
の追撃の命を受けた 新田義貞が 播磨に進攻し 則祐が 感状山城に 立てこもり 防戦。


 このとき 市川沿いに 書写山を中心に 第一防衛陣、揖保川沿いに 城山城を中心に 第二防
衛陣、千種川沿いに 白旗城を中心に 第三防衛陣を築き 新田軍6万に対し 徹底抗戦した・・。
 この間に 尊氏は 九州を制圧し 体勢を立て直し 海と陸の二手に分かれ迫り 最後には
湊川の戦で 勝利する・・。
 長い擬木の階段が ジグザグに続きます。 ゆっくり 一段一段 上がるしかない・・。


 先に登った女性に追いつきました。 先に行ってくれと言われましたが 後ろから写真を撮る
のでと 先に行ってもらいました。 擬木階段が終わると 岩が出てきて 崩れかけた石段。
石垣もあるので この辺りから城跡でしょうか?
 感状山城跡の城郭構成は 連郭式、階郭式の縄張りで 典型的な戦国山城の地取となって
おり 山頂部を中心に 総石垣造りで 建物跡と思われる礎石群が 盛時のまま残っているそう
です。 崩れかけた石垣も たくさんありますが 石は どこから運んだのでしょう?


 感状山城は 南北に延びる尾根に 細長く点在するようです。 「←大手門」 の道標の
あるところが 尾根出合で 右から 八柱神社からの尾根道が 合流します。
 左に曲がり 尾根道を進みます。 階段道も終わり なだらかな道になります。 


 少し登ると 「物見岩」。 ここは尾根の先端のような所で 岩が露出しています。 木が茂り
見晴らしが 遮られていますが 南に 矢野川の流れがが見え 播磨灘は かすんでいますが
最奥には 西島が形良く見えます。 ここに 見張り小屋でもあったのでしょうか?


 さらに進むと 左に平坦地があり 「出曲輪」 の表示があります。 ここは 倉庫跡?
南西方向が開け 周りの景色が見渡せます。 尾根を右に上がります。  道標に
「大手門→」 とありますが 大手門が どこにあったのか 分かりませんでした。
大手門があったということは 門の周囲には 塀もあったのでしょうか?


 ここから 右への登りは やや 急で 岩の露出する滑りそうな道です。
上に上がると ここは 絶好の展望台。 東から南が見渡せます。
南西方向の鉄塔のある山が 宝台山でしょうか?


 この辺りの平坦地が Ⅲ曲輪? 石垣があり 崩れた石や 岩が散乱しています。
残っている石垣は 2m程度の高さで まだ 石積み技術の発達していない 戦国時代に
積まれた石垣は やや粗い積み方です。 石垣だけ見るのなら 平福の利神城や 和田山
の竹田城の方が いいでしょう。


 標識は Ⅲ曲輪とか Ⅱ曲輪とか 南曲輪とか ありますが 境界ははっきりしません。
尾根の長い平坦路には 「南Ⅱ曲輪」 とあります。
 平坦路の一段上が 山頂の感状山城跡でした。 11:15 305mの頂上へ登りました。
ここは 広い平坦地で 本丸跡?  ここは 国の史跡です。
 城跡の標柱には 301mとありますが 地理院の地図にある標高点305mの方が
正しいでしょう。 三角点はありませんが 傍に 相生市の感状山 基準点があります。


 ここも 城山城と同じように 東が開け 展望良好。 本にある 東に 大倉山、アンテナの
的場山、直ぐ下の権現山の岩壁は 確認していません・・・。 地面に転がる石は 建物の
礎石でしょうか? なにも無いので 写真を撮って 北へ降ります。


 北に 三濃山が見えるかと思いましたが 左に紅白の鉄塔があるので 手前の山のようです。
テープを見ながら 左へ降りると 「北曲輪群」 の標識がありますが 雑木が茂り 平坦地や
石垣は 確認できません。 尾根に沿って 南へ戻ると 尾根の西斜面に 「腰曲輪群」 の標識
がありますが 雑木のヤブ。 地図には 等高線の広がりがありますが・・・。


 斜面の細い道を戻ると 出曲輪に戻ります。 えっ 井戸跡は? 気付かず・・。 出曲輪
から 登った道を降りました。 後方、北に見える紅葉の山の 後方の緑の山が 三濃山?


 擬木の階段を慎重に降ります。 階段は 降りるときの方が 膝にくる・・。 なんとか
登山口に降りて 右へ行きます。 折角なので 瓜生羅漢の石仏へ行きましょう。 


 羅漢渓が もう少し 紅葉していると いいのですが・・・。 イチョウは 黄色くなって 葉が
落ち 黄色の絨毯。 羅漢渓には 句碑もあるようで 芦田秘窓と 岡田指月 があった?
 橋を渡って 流れの左の石段を上がり 大岩の間を抜けると 羅漢石仏があります。


 大きな岩に窟が彫られ 岩窟は 幅7.7m、高さ約5m、奥行約4mで 釈迦如来を中心に
普賢菩薩、文殊菩薩と 16羅漢が並んでいます。 暗いので 細部は よく見えません・・。
 伝説では 石仏は 朝鮮の僧・恵便・恵聡一行が 隠れ住み 後世の人々に 仏縁を結ぼう
として 造ったと言われています。 真言宗の山伏の作で 戦国武将を弔うための 供養仏
とも 言われ 室町時代のものと 推定される・・。


 羅漢の里に戻ると 茅葺屋根の隼光鍛刀場があり 裏では 水車が回っています。
鍛刀場には 鉄を溶かす炉があるようですが 今でも 小刀を造っているのでしょうか?
12:15 車に戻りました。
羅漢の里の紅葉やサザンカを見て 12:27 帰路につきます。


 県道44号線に出て 北へ行くと 矢野町上や 中野辺りから 感状山の姿を見ることが
できます。 真広の交差点に戻り 左折して 県道5号線を戻ります。 途中で お昼を済
ませ 13:55 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路:20.4km 復路(含寄道):23.0kmで 計:43.4kmでした。


 県立歴史博物館の 「城郭研究情報」 のページにある 15城は 姫路城、竹田城、感状山城、利神城、利神城、
明石城、洲本城、三日月陣屋、龍野城、置塩城、赤穂城、出石城、黒井城、篠山城、有岡城、尼崎城 です。
 行ってないのは 有岡城と尼崎城です。
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コメント
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