私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

太子歴史資料館で 企画展・お殿様 ご到着

2016-02-29 14:04:46 | 歴史探索
 2月29日(月) 閏日  天気:曇り のち 晴れ   室温:17.5℃

 きょうは 太子町鵤の歴史資料館で行われている 企画展 ”小野の様ご到着 ~山陽道 鵤宿・
本陣 五百井家から~” を見に行きました。 先日 NHKのローカルニュースで 紹介していました。

 太子町周辺は 古くから 都と九州を結ぶ 山陽道が通り 地域の歴史や文化に 大きな影響を与
えてきました。 特に 江戸時代には 鵤は 宿場町に指定されて 本陣が置かれ 大いに栄えまし
た。 そして 本陣を勤めていた五百井家には 参勤交代のために 休泊した大名や 幕府役人の休
泊の際の宿泊帳など 多くの資料が残されています。 そこで 今回 それらの資料を 中心に 鵤を
通った諸大名と それをもてなす本陣や 宿場の人々の様子を紹介し 太子町発展の基礎となった
宿場町・鵤について みていきたいと思います。

江戸時代の山陽道
 江戸時代の山陽道は 公式には 中国路といい 幕府勘定奉行の支配下で 沿道諸藩が管理する
 脇街道 (脇往還) だった。  その出発点・終点は 資料により異なるものの  一般には 大坂~
 小倉間128里(約512km)と 言われています。

先触れ帳
 大名は 参勤にあたって 1年~数ヶ月前には 本陣に予約を入れていました。
 本陣では いつ、どの大名から 休泊の依頼が来たかを 先触れ帳に記録していました。
下宿割帳
 大名行列の一行で 本陣で休泊するのは 殿様とその側近だけで 家臣たちは 旅籠など
 に 分宿しました。 そのため 宿割り役人が 先乗りして 宿舎を 割り振っていました。
休泊帳(その1)
 本陣では 実際の休泊にあたり その到着・出立刻限、本陣で 何を用意し どのような品を
 献上し それに対し どのような品が 下賜されたかなどを 休泊帳に記入していました。
休泊帳(その2)
 休泊帳には それだけでなく 川が渡れず(川支え) 予定が変更になったなどの事情や
 幕府役人に出した食事の献立なども記され 後の手控えにされました。

あの大事件を起こす人たち
 時は幕末 尊王攘夷のあらしが吹き荒れていた 文久2年(1862) 混乱する幕政を改革する
 ため 薩摩藩の国父・島津久光が 藩兵1000人を率いて 上洛しました。 3月18日 蒸気船
 天佑丸に乗って 鹿児島を出発、 瀬戸内海を通って 4月2日 室津へ到着。 一行548名は
 本陣薩摩屋に宿泊しました。 ・・・ 久光らは 4月6日 朝 室津を出発、四ツ時(10時過ぎ) に
 鵤に 到着。 小休したのち 京へ向かいました。 これは その時の記録です・・・・・。

急な宿泊(文政5年)
 赤穂藩森家では 江戸から国元へ帰るこの年 正条に泊ると 先触れで連絡していたが 東海道で
 川支え(川止め) があり 予定を変えて 鵤で泊るつもりになっていた。  しかし 鵤に その時 その
 連絡はなく 6が23日に 宿割り衆が 来て 急に その日 鵤に泊ることを 知らせてきた。・・・ 

斑鳩寺大開帳とぶつかる(文政13年)
 この年 3月2日から 4月2日まで 60日間 斑鳩寺大開帳が行われた。 その最中の閏3月12日
 佐賀藩鍋島家が 斑鳩宿に 宿泊した。 国入りのために 共回りも 通常の10倍多く さらに そこに
 龍野藩・大目付 大野九郎兵衛が 大開帳の視察にやってきた。 そのため 町中は 大混雑となり・・・。
川が増水してきているので(弘化2年)
 土佐藩山内家(松平土佐守)は 参勤にあたって 往復とも 鵤宿での小休を常とし この年も
 帰国に際して 5月29日に 小休されるという 連絡があり いつも通りに 準備していた。
 しかし 川が急に増水してきていると 知らせがあり 揖保川が 川支えになると困るので 
 土佐藩では 鵤での小休を キャンセルして 直行し 急いで 揖保川を渡ることとした・・・・。

奥方たちの帰国と長州征伐
 幕末になると 本陣を利用する人たちに 大きな変化が出てきます。 文久2年(1862) 閏8月
 参勤交代制度が 緩和されるとともに 江戸に住むよう決められていた大名の妻子が 国元に住
 んでも いいことになりました。 これ以後 大名本人の休泊は 減りましたが その奥方たちが
 相次いで 帰国し 本陣を利用しました。
 帰国が認められて 最初に鵤宿に休泊したのは 松平家長門守(毛利定広、毛利家世子)の奥方
 だった。 その後 元治元年(1864) 京・禁門の変を きっかけに 2回の長州征伐、 そして 倒幕
 の出兵と 多くの兵が 山陽道を往来しました。 鵤宿 そして 本陣五百井家も 幕末の大きな動き
 の中で 翻弄されていきました。 

幕末の鵤宿と本陣五百井家
 鵤は 宿場町に指定され 宿泊施設としての本陣はありましたが ①人や荷物を運ぶ 人足や馬を
 手配する問屋場がなく 前後の姫路や正条宿・片島宿から 人馬を呼んでこなければならず また
 ②本陣が 山陽道から 300mあまり 奥まった場所にあって 便利が悪いこともあり 大名の利用が
 減少。 徐々に 宿場町としての活気を失っていきました。
 その本陣も 築250年を越え 安政元年(1854)の地震、同4年7月の台風で 大破してしまいま
 した。  そのため 斑鳩寺近くから 山陽道沿いに移して 再建し 心機一転を はかりましたが
 文久2年(1862)に 参勤交代制度が 緩和され さらに 慶応(1865~)に入ると それも 実施さ
 れなくなりました。
 大名が 来なくなって 状況は 改善されず 五百井家では 龍野藩の扶持米を 頼むなどして 本陣
 の維持に努めました。
 やがて  明治になり 本陣は 姿を消しましたが 東西と南北を結ぶ 交通の要衝として 町は 再び
 活気を取り戻し 現在の太子町に つながっていきます。
本陣存続につき御歎願(明治4年)
 明治になり 本陣制度は 廃止となったが 勅使や新政府の役人、諸藩の知事など 身分の高い人が
 安心して 休泊するために 本陣を残してくれるよう 旧龍野藩領 鵤(原)、片島、正条、千本の
 四つの本陣が 連名で 歎願したもの。

 2階の企画展を見て 1階へ降りて パンフレットを漁っていると 「伝説の将軍 藤原貞国」 の
小冊子(見本 300円) がありました。 パラパラっと ページをめくると おもしろいことが書いてあり
ます。 姫路の冑山、手柄山は 「播磨国風土記」 の冑丘と手苅丘に 由来する山ですが 手柄山
は 藤原貞国が 異賊を退治した手柄に由来するとか・・、  貞国が 冑山を
”甲山 うちもてみれば もののふの てがらの山に 弓はりの月” と詠んだとか・・・。
 魚吹八幡神社は 異賊討伐に向かう貞国が 戦勝祈願をした神社のひとつで 戦いの後 浜辺に
陰陽の鬼面が 残されていて それらは 神社のご神宝となり これによって 武神祭が始まったと言
われている・・・・・。  
 帰る途中 網干駅の北にさしかかると 重機が置いてあり 近寄ると 道路工事をしているよう
です。 やっと 駅前の再開発工事が 始まったようです。 まだ 家は 立ち退いていませんが・・。


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赤穂文化会館で 赤穂美術家連合会展2016

2016-02-26 16:53:58 | ギャラリー散策

 2月26日(金)  天気:晴れ or 曇り   室温:16.2℃

 きょうは 赤穂へドライブし 赤穂市文化会館で行われている ”第8回 赤穂美術家連合会展”
を見に行きました。 11日の新聞に 載っていましたが 切り抜いて 保存してありました。
 会場に 会長の田中繁雄さんがおられ お話しすることができました。 田中さんや 堂本さんは
”群像の会” の会員です。  受付に 置いてあった ”女・女・女展” と ”四季彩 絵画展” の案
内状をいただきました。  また 来週と 再来週 赤穂へ行かなくては・・・。
 赤穂へ行く前に 相生の 「ぶどうの木」 へ寄り 赤穂からの帰りに 坂越の「尼子塚(尼子義久
の首塚)」 へも 寄りましたが これは 別のページにします。
 相生のぶどうの木から 高取峠を越えて 赤穂へ降りましたが きょうは この道路は 車が少なく
坂越橋の信号の手前まで スムースに 下ることができました。 信号も 一回待ち。 新しい橋も
ほぼ 完成しています。


 連合会展には 会員30名による 洋画、日本画、工芸、書、写真の計37点が展示されています。
    開催にあたって
 このたび 郷土の美術文化の振興普及に努め 作家相互のジャンを越えた交流と 親睦を
図るため ”第8回 赤穂美術家連合会展” を開催いたしました。 各分野での創作発表で
すので 是非 ご覧いただき ご指導くださいますよう お願いいたします。  会長・田中繁雄

 お祝いの言葉
 梅のつぼみが 一つ二つとほころび始める佳き季節となりました。
ここに 第8回 赤穂美術家連合会展が開催されますことを 心よりお喜び申し上げます。
 また 会員の皆様方には 平素から 赤穂市の芸術・文化の発展と振興に ご尽力いた
だいておりますことに 敬意を表しますとともに 感謝申し上げます。

 優れた作品は 見るものに 感動を与え 美術に接する楽しみが生まれ 教養が見につきます。
それらの作品を通して 会員の皆様方が こよなく美術を愛し 制作活動に力を注がれ 切磋琢
磨しながら 美術を通して 社会貢献をされている様子が 伝わってきます。 美の追求と創造の喜
びを 生活の中に 位置づけられ さらに高いものを 求めて精進されている その姿は 私たちにと
って 生涯学習の素晴らしい実践の手本です。 今回の作品展も 市民の皆様に楽しんでいただ
けるものと確信しています。       平成28年2月吉日    赤穂市教育長  尾上 慶昌






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赤穂市 坂越の尼子塚

2016-02-26 16:35:58 | 歴史探索
 2月26日(金)  天気:晴れor曇り   室温:15.8℃

 きょうは 赤穂へ ”美術家連合会展” を見に行った 帰りに 坂越の ”尼子塚” を見て来ました。
いつだったか ”赤穂富士・尼子山 絵画展” へ行ったとき 坂越を元気にする会の会長さんから
西山寺に 尼子義久の首塚があると お聞きしたので 確認に行きました。 赤穂へ行くときは い
つも 相生の 「ぶどうの木」 へ寄り モーニングをいただきます。 
 11時過ぎに 出発したのですが 太子町は あちこちで 道路工事をしていて 渋滞で 時間がか
かり ぶどうの木に着くと 12時前で ぎりぎり セーフ、 モーニングに 間に合いました。 BGM
で 流れていたのは 讃美歌312番でしたが ジャズ風に アレンジされた トランペットの演奏で
耳に 心地よかった・・。  この後 行った 赤穂美術家連合会展は 別ページにします。



 赤穂文化会館へ行って 赤穂美術家連合会展を見て 坂越橋へ戻り 尼子義久の首塚を見るため
坂越駅の西へ行きます。 山裾にある西山寺に 首塚があると聞いていたので・・・。  細い道を通っ
て 高野山 真言宗 西山寺へ行きましたが 探しても 首塚は 見当たりません・・。  悪いことに 奥に
墓地があり ひょっとして 墓地にあるかも・・・。 時間の無駄でした。  しかし 運のいいことに 寺を
出ると 高齢の人がおられ 尋ねると あそこの道路脇の電信柱の所にあると 教えていただきました。


 電信柱の陰に 「尼子塚」(別名 首塚、采女塚) がありました。 この道路ができる時 この
場所に 移設されたそうです。 五輪塔があるだけですが 標柱があるので 確認できます。
 標柱には ”尼子義久とも 赤松一族の富田采女の塚とも伝えられている。 五輪塔の火輪、
水輪、地輪を積み上げたもので 元は 数基の五輪塔があったと考えられる。” と書かれています。

尼子義久の首塚について インターネットで 調べると 下記の話がありました。
     ≪ちくたく のむかし話≫
    第1話 「尼子山落城」             (高野地区民話)
 今から 400年ほど前、戦国時代のことです。 尼子義久という武将が、高野(こうの)の山(今の尼
子山)に立てこもり、毛利元就の大軍と 戦いました。
 尼子山は 三方が険しくて、東側は 尾根道が ダラダラと佐方(さかた)の方まで 続く地形です。
この尾根道も 狭いうえに 何箇所か とぎれていました。 尼子山の頂上に行くためには、険しい坂道
を登るしか 方法はありません。  義久は 頂上に城を築き、まわりには 高い塀をめぐらしました。
 そして 塀のそとには大きな石をたくさん積み重ねておき、頂上に通じる坂道には 竹の皮を敷き詰め
て 毛利軍を待ち構えていました。
     ・・・・・・・・ 中略 ・・・・・・・・・・
 「ほかに、何かよい計略はないものか」と、毛利の軍は また相談していました。 そこへ、一人の
老婆がやってきました。 この老婆は 尼子山の裏の佐方に住んでいましたが 大事な息子を尼子の
軍に殺されたため 尼子義久をうらんでいました。 「尾根づたいに 城まで行ける道がありまっそ」 と
老婆は 言いました。 「何を申すか、あの尾根道は 狭いうえに、何箇所も とぎれているではないか。
嘘を申すと ただでは すまさんぞ」 「ウンニャ、ワシしか知らん道がある。 この道を教えなかったもん
で ワシの息子は 尼子の兵に 殺されたんじゃ」
 毛利の軍は、老婆を道案内にして 尾根道を調べました。 老婆の言ったとうりです。 城に通じる道
がありました。 しかも 尼子の軍は この道に気づいていません。 毛利の軍は 夜襲を計画して 大軍
を尾根道から登らせました。  不意をつかれた尼子の軍も よく戦いましたが、 全員 討死にし ついに
尼子城は 落ちました。
 その時 はねられた義久の首は 浜市まで 飛んでいったと いうことです。  浜市の「尼子将軍の首
塚」が そうだと 伝えられています。
 佐方の老婆が 道を教えたということで、その後 佐方の人と高野の人は 縁組しないというほど 仲が
悪かったそうです。
 また 毛利軍の火攻めが 何度も 失敗したことから 尼子山には 竜神様が 住んでいると 噂される
ようになりました。 そのため 雨が降ってほしい時には、尼子山で 雨乞いの行事が 行われました。

 ところで 話は変わり 私ごとになりますが いつだったか 温室植物園で 多肉植物展を見た
とき 売店で 100円で買った 多肉植物 「ハオルチア ウンブラティコーラ」 の花が やっと 咲き
ました。 細い茎が 10cm以上伸びた先端に 咲いた 小さい頼りない花ですが 大事に育てた
甲斐がありました。 まだ 次々と 咲きそうです。  また 昨夏の暑さで 失敗し 枯れそうになっ
ていた シャコバサボテンも 持ち直し なんとか 三つ花を 咲かせることができました。

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エルミタージュで トールペイント展

2016-02-24 13:45:53 | ギャラリー散策
 2月24日(水)  天気:曇り   室温:15.4℃

 きょうは 朝日谷のカフェ・エルミタージュへ 福澤さんの ”トールペイント展” を見に行きました。
福澤さんと 藤谷さんは 太子町で ”トールペイント ママのポケット” を経営されています。
 きょうは 雨の降りそうな曇り空でしたが 風が強く 自転車で行くには 寒かった・・・。









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書写の里で アンコール・ワットへのみち

2016-02-23 13:18:31 | ギャラリー散策

 2月23日(火)  天気:曇り  室温:15.9℃

 きょうは 書写の里・美術工芸館ヘ 新春特別企画 ”アンコール・ワットへのみち 神々の彫像”
を 見に行きました。 行ってみると いつもは 2、3台しか 停まっていない 広い駐車場も 10台以上
駐車、館内にも 20人以上の人がいました。 大変 人気があるようです。 もちろん 写真は 禁止!


 古来 クメール族は インド伝来のヒンドゥー教や 仏教の世界観を 土着の山岳信仰と融合させ
独自の宗教思想を 育みました。
 9~15世紀に 現在のカンボジア領域を 中心に 勢力を誇ったアンコール王朝は 各地に 豪壮
華麗なヒンドゥー教や 仏教の石造美術を残しました。 特に 長く王朝の中心部であったカンボジ
ア北西部シェムリアップ州には アンコール・ワット寺院に 代表される主要遺跡が 群集しており
寺院や そこに 安置された神仏の彫像は 王の強大な権威と神性を 具現する営みを 背景として
造形されたのでした。


 この展覧会は 寺院の核として 造形された ヒンドゥー教、仏教の様々な尊格を かたどった 石造
丸彫り像の優品を 通じて 東南アジアに 燦然と輝く 12世紀アンコール・ワットの美術様式が 形
成されるまでの プロセスをたどります。
さらに ミャンマーのパガン王朝 (11~13世紀)、 タイのドヴァーラヴァティー国 (6~11世紀)
など 周辺の彫像遺例も 紹介し インドシナ半島における 豊かな宗教彫刻の世界へと誘います。


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