私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

上郡アルプス

2013-12-30 16:15:16 | 山歩き

 12月30日(月)  天気:晴れのち曇り  室温:11.2℃   地図:上郡

 きょうは 上郡アルプスに登ってきました。 しみけんさんのレポートを見て 私のブログ ”私のマイカー

日帰り登山” の年末を 山歩きで 終えるのに ちょうど いいと思い・・・。 朝 起きた時は どん曇りだった

ので きょうは やめようと 思っていましたが 日が差してきて 明るくなったので 急遽 行くことに。

 地図は しみけんさんのページから コピーさせていただきました。 以前、『はりま歴史の山ハイキング』

を 見て、生駒山に 登ったのは いつだったか・・・。 2004年2月8日だったかも・・・。



 9:20 出発。 太子町を抜け たつの市に入り 山陽道に下で 左折して 進むと 龍野新大橋に出ます。 橋を
渡り 県道5号線に乗ると 登り下りや カーブはありますが 上郡まで一本道。 上郡あゆみ橋を渡り 上郡駅前を
通り 山野里の信号で 右折して 北へ行くと コープがあり コープの裏が登山口です。 10:20 墓の横のスペー
スに 駐車。 ここまで ちょっと余分な所を走ったので 31.3kmでした。 ちょうど 1時間。
 10:27 スタート。 登り始めは やや急です。 道は はっきりとした一本道です。


 所々に岩場もあり 岩の上からは 見晴らしも良好ですが きょうは モヤが濃く 南方向は モヤっとして 播磨
灘は 見えません。 「馬の蹄岩」 の表示がありますが どれが 蹄跡なのか?  縦走する西尾根が 見渡せると
ころもあり 前方に 生駒山の山頂~二の丸跡、 西の大鳥山の見えるところもあり 岩歩きもあり 楽しい展望の
尾根歩きです。





 11:10 生駒山、生駒山城跡本丸跡に 登頂。 途中で 一緒になった地元の人?は 東へ降りると 北の見晴
らしが いいと言っていましたが 遠慮しました。 この人とは ここで 別れ 一人で 二の丸跡へ行きます。
 生駒山城跡は 登山口にも書いてありましたが 南北朝時代の築城といわれ 現在残る縄張りは 戦国時代(16
世紀)の後半頃のものと思われ 二つの尾根を 中心に 曲輪跡、石積、土塁、堀切、井戸跡などが残っている。
 赤松氏の白旗城の入口部をかためる 出城として 築城されたと・・・。 本には 現在残っている石垣は 戦国時
代に 宇喜多氏によって 築かれた・・。 城は 天正五年(1577) に 落城。 


 本丸跡から 直接 西へ降りると 直ぐ下に コンクリの祠があり 石仏が安置され 「清水 のみ場」 のプレー
トがあります。 本には 数十年前まで ここに 建物があって 人も住み 街まで 犬が買い物に降りていた・・。
 二の丸跡は 南に向かって 3段、4段と削平地が 伸びています。 展望もあり ここから 本丸跡も望めます。


 二の丸跡から 降りる道が・・。 平坦地の一番北に 小さなプレートがあり トラロープもありました。
このコースの下りは どこも 急な激下りです。 急な下りを降りると 堀切跡。 左に ”はね上げ橋跡”の
表示板があります。

 なだらかな尾根道は 北の見晴らしがよく 下に 蛇行する千種川、東方向の奥には 白旗山が見えている

のでしょうか? 地図を見ると 手前に 四等:柏野 400mがあり 重なっていますが・・・。

「はりま歴史の山ハイキング」 にある愛宕山・苔縄城跡を 確認するのを 忘れていました。


 前方に 大鳥山280mを見ながら 11:46 鞍部に降りました。 ここから 等高線9本を登る 急登です。
低いシダの茂る一本道の登りで しみけんさんも書いておられる 難所です。 登るにつれ 後方が見えるよう
になり 二の丸跡のピークが もっこりと大きい。 ここは 景色を見ながら 休み、休み登りましょう。


 12:01 大鳥山に登りました。 鞍部から 15分。 私も 結構 早い? ここは 邪魔なものがなく
東から 南にかけて 見渡せます。 南には これから歩く 縦走路が 段々と 低くなりながら 連なっています。
岩に腰を降ろし 一休み。 ここまで来れば 後は 大した登りはなく ほとんどが 下りです。 日が 陰り
風が吹くと 寒くなります。 雨は 降りそうにありませんが 少し暗くなり 写真も 暗くなり・・・。



 登山道、縦走路は 手造りで 整備されたようですが 木の切株が 地面から出ているのには 困ります。
パロディ北アルプスの岩を過ぎ 岩を登った 次の270m等高線ピークは 大観峰。


 ここからの下りで このコースでは 唯一? 南西方向が見えます。 下に 岩木川、JR、奥に 大池が見えます。
12:33 鉄塔跡。 コンクリートの基礎台座が 四つ残るだけです。

 240mピークからの下りは 急で トラロープを掴んで 下ります。 下った先は 小美女平200m。
ハゲ山で 美女のイメージは 湧きませんが・・。 しみけんさんのレポで ここで 方向を90度変えるように
なっています。 左へ降りなくては・・。


 幸い 道標もあり 下山路は すぐ分かりましたが ここも 激下り。 ここは 吊り尾根になっていて
東の170mの尾根に 登り返します。 12:55 170m小ピーク。 ここも 北が 大展望です。


 しばらく なだらかに 歩くと 関所岩に 突き当ります。 どういう意味なのか 分かりませんが・・・。
登山道を遮り 通せんぼ。 ここは 岩の右を巻いて 通過させていただきました。


 13:12 羽山に登りました。 四等三角点:山野里 192.9mで このコース唯一の三角点です。 ここも
大展望で 歩いた北側の稜線が 一望できます。 このとき 雲の間から 太陽が顔を出し 山を 明るく 照らし
てくれました。 ここからの下りに 札があり ”丹東公民館への急坂 雑木の中 道悪し 下山 注意!!” と
あります。 この札の上に 赤い布がありましたが 大柿布だった?


 急な下りを降ります。 道も はっきりしているし 地籍調査の杭・テープもあり 問題なく 下ります。
ところが 鞍部近くまで降りると テープ・杭が 左よりにあり 雑木のヤブで 道が分かりにくい。 左へ降りて
みたが 落葉が積もり 道はなさそう。 雑木ヤブを 強行突破して 鞍部へ降りると ここに 道標があり・・・。
 ここは 邪魔な雑木を切るか 木に 目立つ目印のテープを付けるか 何かしてほしいものです・・・。 


 鞍部の道標を 左に降りると 分かりにくい道標がありますが・・・。 ここは テープで 見えやすい印を
付けてほしい。 斜面を降りると 道らしきところに 降りました。 倒木を潜ると 墓もありました。
民家の間を抜け 13:37 舗装路に出ました。 駒山城跡登山口 1.1kmか。 しみけんさんと 同じ
所へ降りたようです。


 舗装路を てくてく歩いて 車に戻りました。 13:46 車に戻りました。 ほんの 9分ほどです。
一息入れ 帰路につきます。 上郡アルプスの全景を撮ろうと 探しますが いい場所がない。 上郡橋
の袂から 一枚 撮りましたが 山が 暗い。 あゆみ橋に戻り 来た道・県道5号線を戻ります。


 途中 マックスバリューに寄って ちょっと 買い物をして 帰りました。 15:11 帰着。
久し振りの山歩きも しみけんさんのレポのお陰で 問題なく 歩くことができました。
 上郡アルプスは 大したヤブはなく 歴史お一端に触れながら 展望の尾根を 楽しく歩ける いいコースで
した。 本日の走行距離は 往路:31.3km、復路:29.9kmで 計:61.2kmでした。

 それでは みなさん よいお年を お迎えください。 来年も 宜しく お願いします。
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イッピン 銀色に輝く 淡路瓦

2013-12-29 15:35:26 | 日記
 12月29日(日)  天気:晴れ   室温:14.5℃

 きょうは 24日(火)に BSプレミアムで 放送された ”空に輝く銀色の波模様 ~兵庫 淡路瓦~ ” をアップします。
建築家・安藤忠雄が 設計した 「淡路夢舞台 国際会議場」 には 6万枚の淡路瓦が 使われ 銀色に輝いています。

 淡路島には 良質な粘土が 豊富にあり、古くより 屋根瓦の生産が 行われてきました。 その歴史は、約1400年前
の飛鳥時代まで 遡ると言われていますが、その代表的な製法が 「いぶし焼き」 で 400年の歴史をもっています。
 いぶし瓦は、工程の最後に 生ガスを使って 燻化(還元焼成)を行うもので、瓦表面に 炭素膜ができ、淡い銀調の
色艶を帯びた瓦が 出来上がります。 (株式会社ミハラのページより)



なぜ 粘土が 銀色に輝くのでしょう。
 瓦を機械で 成型すると 手で持てるくらい硬くなります。 これに 細かい粒子の粘土などを溶かした液体の
”はけ土” を 掛けると 表面が クリーム状の質感になります。 これを 窯に入れ 割れないように ゆっくり
温度を上げ 20時間かけて 1000度まで 上げます。 


 火を止め 窯を閉じ ガスを封入して 不完全燃焼させ いぶす。 窯の温度を 3日かけて 徐々に下げる。
表面に 炭素膜ができ 光を反射して 輝くようになる。 


 さらに 表面を ビニールホースで 磨き 滑らかにすると 光沢が増し 淡い銀色になる。 



 日本橋のギャラリーには 瓦と同じ材料で作った 箸置き、小皿、コースターなどの おしゃれ小物が並んでい
ます。 コースターは 吸水性があり 水を吸うので 冷えた水が入った コップなどを 置くのに 適しています。
座面に 瓦を使った椅子もあります。


 淡路瓦には 鬼瓦もあります。 基本的には 瓦と同じ製法ですが 鼻などのパーツは かき破り という方法で
引っ付けます。 接合する面に 櫛のようなもので 小さい溝を付けて 接合します。 接合すると 鼻の部分を
掴んで 全体が 持ち上げられるほどの 接合力があります。 細部を ヘラで削り 表面を 丁寧に仕上げ 艶を
出します。  今も 銀色の輝きを 追い求め 職人の技を未来へ伝える・・・・。



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日本玩具博物館で おもちゃの馬

2013-12-27 14:09:09 | ギャラリー散策
 12月27日(金)  天気:晴れ のち 曇り   室温:13.9℃

 きょうは 香寺町の日本玩具博物館へ行ってきました。 先日の新聞に 来年の干支にちなんだ 「おもちゃの馬」
の特別展が 開かれている とあり また クリスマスにちなむ特別展 「世界のクリスマス」 も行われています。
 きょうは 神戸新聞の人が 来て 写真を撮っていましたが・・。 28日の新聞には 姫路の護国神社で 「新年万燈
祭」 の試験点灯があった との記事があり 宮司さんは 「来年の干支である午は 神さまの乗り物として 神聖視され
てきた・・・天馬が現れ 輝かしい年になってほしい」 と話した とあります。

 きのうから 歯の調子が悪く きょう 歯医者へ行くことに。 出掛けるついでに 新聞に載っていた 日本玩具博物館
へ行くことにしました。 歯医者を終えて 10:40 出発。 姫路バイパスから播但道に廻り 11:10 船津ランプで
降ります。 播但道は 300円。 左へ曲がり 県道81号線を進み 大礼橋を渡って すぐ 左折して 細い道を進み
左へ、右へ曲がると 博物館に出ます。 船津ランプから 1.8km、家から 33.8km。 前の駐車場に 11:15
駐車。 入館料は 500円。  博物館は 古民家風の建物で 館内は やや暗く やや寒い。


 新聞には 来年の干支の午にちなんだ 国内外の玩具など 約350点を 一堂に集めた特別展 「おもちゃの馬」 が
香寺町の日本玩具博物館で 開かれている。 日本人が いかに馬を愛し 大切にしてきたかが うかがえるとともに
世界各地のユニークな馬の造形も 楽しめる展示となっている。


 馬は軍事、農作業、運輸など 多彩な分野で 人とつながりがあり 古来 多くの玩具が作られてきた。 東北地方
では 八幡馬や 木ノ下駒、三春駒が 代表格で いずれも 木製。 神様のなどの乗り物として 節句や 祭礼に作ら
れた ワラ製の馬では 八朔の馬、忍び駒がある。 土製では 堤人形や稲畑人形などもある。 絵馬も展示され・・。


 海外でも 馬は神の使いや 乗り物、軍事の象徴などに例えられる身近な存在。 ロシアのドゥイムコボの
馬は 素焼きで 装飾性の豊さが目立ち アフリカでは シマウマをモチーフにしたものが 目を引く。






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 奥の6号館では 55カ国のツリーや 人形など クリスマスにちなむ 約一千点を展示した 特別展「世界のクリス
マス」 が開かれています。 ツリーのほか クリスマス向けの伝統的なオーナメント(飾り) も集められています。
 地域色の豊かさとともに 冬季に光の復活や 新年の豊作など 人々の様々な願いがこもるクリスマス造形の多
様さを紹介しています。 光を象徴するドイツの麦わら細工の太陽、キリスト降誕を表わすスロバキアのトウモロコ
シの皮製人形などが並ぶ。


 クリスマスの行事は キリスト教の普及とともに 世界各地に広がり それぞれの地の信仰や 冬の風習と結び
ついて 定着すると アジアでもアフリカでも ユニークな造形が 花開きました。





 ツリーでは ろうそくに火をともすと 暖かい空気で 丈夫の羽根が回るドイツのキャンドルスタンドや ミニチュア
の妖精が彩るツリーなどが 来場者の目を楽しませる。 各地の風土や人々の心に をめぐらせてもらえれば・・・。



 12:10 帰路につき 来た道を戻りました。 船津ランプから 播但道に入り 姫路バイパスを走って
帰りました。 13:04 帰着。
本日の走行距離は 往路:33.8km 復路:33.3kmで 計:67.1kmでした。
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黒田官兵衛ゆかりの地・ 廣峯神社

2013-12-25 15:25:36 | 歴史探索
 12月25日(水)  天気:晴れ 一時 曇り   室温:15.5℃

 きょうは 廣峯神社へ行ってきました。 この前 観光案内所で ”黒田官兵衛ゆかりの地めぐり・
広峰” を もらったので・・。 パンフレットは このほか 青山、英賀、妻鹿、御着めぐり なども
あります。
 黒田家飛躍の地となった廣峯神社。 広峰の御師(おし)たちは 官兵衛の祖父・重隆の作った目薬
を 御神府に添えて 売り 黒田家の冨だけでなく 土木の技術や 各地の情報を伝えたと 言われてい
ます。 きのう配布された 「広報ひめじ1月号」 に ふるさと探訪で 廣峯神社が 載っているので
かないと・・・・。
 廣峯神社には 以前 作畑ガールと 行ったことがありますが、きょうは パンフにある 北の薬師
堂、御師屋敷、吉備神社、荒神社、天祖父社などを パンフレットにある順に 歩きました。
パンフレットには
 江戸時代の 「夢幻物語」 によれば 官兵衛の祖父・重隆は 廣峯神社に参詣。 御師・井口大夫
から 黒田秘伝の目薬を依頼され ほどなく 艶福長者となったと 記されています。 当時の廣峯神社
の大別当は 官兵衛の主君・小寺政職の弟であり 廣峯神社の御師の中に 官兵衛と同じ家紋を持つ
黒田姓の家があることからも 黒田家と廣峯神社の深い関係がうかがえます。 廣峯神社は 農耕の
神として崇められ 農業指導なども 行っていました・・・。

 9:58 出発。 国道2号線に出て 東へ行き 姫路の町に入り 市民会館の信号で 左折。 美術館
の前を通り 野里を抜け 白国の信号を 直進すると・・・。 前に来たことはありますが この山道は
こんな急な登りで こんなに急カーブが 多かった?
 10:48 やっとのことで 鳥居の前に駐車。 ここまで 19.4km。 冷や汗をぬぐい スタート。
右の参道ではなく 左の舗装路を進みます。 道路脇に並ぶ提灯の ”紋” は 社紋? 織田信長と同じ
木瓜紋? なんで? と パンフに 書いてあります。

 舗装路が カーブする上が 1番の ”憩いの広場”。 御師屋敷跡(谷口家)に作られた公園の奥に 黒田家が
目薬の材料にしたといわれる”めぐすりの木” が 植えられています。 谷口家の祖は 赤松一族と言われ 神社
の宮司でした。 明治になり この地を離れる際 約1万坪の土地を 姫路市に寄贈した。 (谷口家の碑より)

 廣峯神社は 2千年以上前に 素盞鳴尊(すさのおのみこと)と その御子神で 植樹の神様である五十猛尊
(いそたけるのみこと)が 白幣山に鎮座され 奈良時代に この山を訪れた吉備真備が 御神託を受けて
社殿を建立したと 伝わっています。 遣唐使として 唐で 陰陽道を極めた 真備が この学問を 日本に広め
たいと考え 素盞鳴尊を 「星の運行を司どる神」で 「祇園精舎の守り神である牛頭(ごず)天王の化身」
であるとして 日本の暦を司る神としました。 白幣山は 吉備神社辺りに記されているので 地理院の
地図で 廣峯神社から 北西に伸びる破線の道を たどったところにある 310mのピークのようです。
 牛頭天王は 疫病の神として 崇められ 平安時代に 都で 疫病が流行った時 清和天皇の夢枕に お告げ
があり 廣峯の御分霊を 京都にお迎えしたところ 疫病が収まり それを祝って はじめられたのが 祇園
祭で その後 建立されたのが 八坂神社です。 鎌倉時代より 廣峯神社は 祇園本社として 崇敬を集め
室町時代には 熊野にも 劣らぬほどの参詣者が 山を訪れたと 記されています。

 神社への石段脇に 2番の ”宝篋印塔” があります。 高さ234センチの印塔は 室町初期のもので
どこかに埋れていたのを 掘り出して 現在地に移設されました。 宝珠の一部が 欠けているが 貴重な
遺品である。

 表門・随神門は 元禄十年(1697) の建物。 三間一戸。 通常は 八脚門の形式をとるが
中央通路の幅を極端に広くとり 親柱を省略して 平入門とした 珍しい形式である。 煩雑な彫刻
などが少なく シンプルで 上品。 中には 随身(神)さんが おられますが 目の細かい網があり
ガラスもあり 撮ることができません。
 拝殿は 桃山時代 寛永三年(1626) の建立。 姫路城主の本多忠政が 再建。 正面十間、
側面四間の大建築で 舞台造りになっています。 その規模は 国内でも 最大級と言われています。

 現在の本殿は 室町中期 再興の建物で 文安元年(1444) の建立。 桧皮葺き入母屋造り。
正面十一間、側面は 庇を含め四間の大建築である。 当本殿は 建立年代が明らかな上に 類例の
少ない 中世における神仏習合殿として 特異な建築構成をもった きわめて価値の高い 貴重な遺構
の一つである。
 古い歴史を持つ廣峯神社には 数多くの文化財が 保存されていて 本殿、拝殿、宝篋印塔が 国の
重要文化財です。  境内には 摂社が 3棟、末社が 8棟あり 江戸時代の神社本殿の建築で 時
代の特徴をよく表わし 建築様式の変遷が 判る貴重な建物です。 姫路市指定の有形重要文化財です。

 パンフの3番は 拝殿。 4番は 休憩展望台。 ガラス張りの展望台から 播磨灘が 一望でき
双眼鏡も設置してあります。 白く輝く播磨灘を撮ったつもりですが 写っていたのは 汚れたガラ
ス面。  ここに 官兵衛ゆかりの地スタンプ台帳があり 24ヵ所巡るようになっています。
 行っていないのは 佐用城跡、有岡城跡、竹中半兵衛の墓、兵庫県立考古博物館の 4カ所です。
 竹中半兵衛の墓には 三木美術館へ行くときにでも・・・。 墓は 秀吉が 三木城を攻めた時
陣を張った 三木城北東の平井山の近くにあるようです。 

 5番の地養社は 拝殿の左にあります。 牛頭天王をもてなしたという 蘇民将来を お祀りするお社。
備後風土記によると 牛頭天王が 疫病を流行らせて 巨旦将来の国を滅ぼしたとき よくしてくれた
蘇民将来に 「蘇民将来之子孫なり」 との護符を付けた 茅の輪を腰につければ 厄災から逃れること
ができるといわれ 全国で行われている 「茅輪くぐり」 の由来が ここにあります。
 地養社の左から 6番の薬師堂へ行きます。 ここからは 山道です。 薬師如来は 素盞鳴尊の
くしみたま を 表わし 病気を治してくれる仏様です。 このように 日本の神さまは 様々な仏が
化身として この世に現れたものです。 薬師堂は 新しい建物で 最近 建て直された? 薬師堂の
前を 左に進みます。

 7番の御師屋敷(魚住家) は 赤い屋根の大きな建物なので 分かります。 廣峯神社には 社家や
下級神官で組織された御師制度があり 東は 若狭から 西は安芸まで お札を配って廻ったと 言われ
ています。
 官兵衛の時代は 50家以上もあった御師屋敷は 現在 残るのは わずかかに2家(魚住家、肥塚
家=非公開)のみ。 あとは 廃墟になっています。 屋敷があった跡なのか 石垣が残っているところは
何カ所もありました。 山道を進むと 崩れた石垣がありましたが この上が 8:黒田家屋敷跡?
 この辺りは 道が分かりにくい・・・。 「吉備神社←」 の道標のあるところから 左の階段道を
上がります。

 少し登ると 屋根に覆われた 荒神社と 吉備神社が 並んでいます。 9:吉備神社は 吉備真備が
最初に社殿を建てた 白幣山の山頂にあります。 岡山の下級官吏の子として生まれた 真備は 勉学に
励み・・・遣唐使として 唐に渡り 陰陽道を極めた真備ですが 他にも 兵学を含め十二道を修め
藤原仲麻呂の乱では 孝謙天皇の軍師を務め 日本初の軍師と言われています。 学者から 右大臣
まで 昇進したのは 菅原道真と 二人だけ。
 吉備真備が 唐から帰るとき 姫路を通りかかり この地が 四神相応の地であることから 広峰に
社を構えた。 即ち 北に 玄武:丘陵・・広峰山、 東に 青龍:大河・・市川、 南に 朱雀:平地
・・姫路平野、 西に 白虎:大道・・西国街道 があります。 中国では 刺繍も習得。 これにより
針供養の風習も 当社が 元宮と言われています。

 御師屋敷・藤井家(廃墟) の前を歩いて 10:本殿の裏へ戻り 摂社・末社を見ます。 ここに
7社あります。 本殿の浦には 9つの古穴があり 九星の守護神が 鎮まってます。 私は 一白水星
です。 本殿の横には 力石も。 これで パンフレットの1番から 10番まで 廻りました。
 あとは 表参道を歩いて 番外の天祖父社へ行きましょう。 表参道の入口に 肥塚家があります。 

 肥塚家の庭から 姫路の町が いい眺めです。 残念ながら きょうは モヤが濃く 家島は 肉眼では
見えますが・・・。 ここから 天祖父社への表参道は 両側に古い土塀があり いい雰囲気です。
 後方には 白幣山が ひときわ高く 突き出ています。

 天祖父社を見て 参道を 車へ戻りました。 前に NTTの鉄塔があるので 見晴らしがいいかと
行ってみましたが 見晴らしは 良くありません。 車止めの少し上から 廣峯神社の方が 一望できます。


 12:51 帰路につき 来た道を戻り 13:44 帰ってきました。
本日の横行距離は 往路:19.4km 復路:20.2kmで 計:39.6kmでした。
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玄耀書道会 作品展

2013-12-23 14:48:00 | ギャラリー散策
 12月23日(月) 天皇誕生日  天気:晴れ 時々 曇り  室温:14.8℃

 きょうは 姫路を歩いてきました。 今年は これで 姫路歩きも 終わり? みゆき通りで 黒田屋官兵衛商店を
覗いて まず きのうの新聞に 載っていた 「黒田家の旗幟(きし) 再現して奉納」 を 見に 播磨国総社へ。
イーグレひめじへ行き 「玄耀書道会 作品展」 を 見ます。 次に ヤマトヤシキへ行き 特選ギャラリーで 「亀渕
明美 書 with デコパージュ」 を見て 3階の中井三成堂画廊で 「アトリエ マリコ 教室作品展」 を 見ます。
最後に 山陽百貨店へ戻り 美術画廊で 「倉敷ガラス 小谷眞三展」 を 見てきました。

 きょうは 月曜日ですが 休日です。 電車の時間が いつもとは 2分ほど違います。 9:57 の電車で姫路へ。
駅には マツダのAXELAが 展示されています。 みゆき通りを歩いて 黒田屋官兵衛商店へ。 この前 川のほ
とり美術館で もらった ”へらへら通信” に 半月庵さんの 「よりそい菓子」 のラベル。 どういうラベルになったか
は 『黒田屋官兵衛商店』 で 手にとって ごらん下さい。 とあります。 


 店の女性に 聞くと これですと 示されたのは 水色のビン。 どうも 違うようです。 後で 電話すると
「よりそい菓子」 は まだ 来ていません・・。 水色のビンも 岩田健三郎さんのデザイン? 紅白の水引を
イメージしたラベルを と思ったのですが ウーン・・・。 それで 官兵衛・お光さんを 紅白に見立てて・・・。


 国道2号線を 東へ行き 市民館前に差し掛かると 歩道に 鉄平石が敷いてあります。 帰りに 駅の案内所で
聞くと 総社門の跡だそうです。 鉄平石は 他にもある?
 総社の石造鳥居を潜って 総社へ。 石造鳥居は 榊原忠次が 慶安五年(1652) 寄進したものです。 


 新聞にある ”黒田家の旗幟(きし) 再現して奉納” された旗幟は 門の左の塀沿いに 設置されています。
風の向きによって 写真は 撮りにくくなります。 江戸時代に 貝原益軒が 編纂した 「黒田家譜」 を元に かつて
に近い形で こしらえた。 だが 黒・白・黒の幟は 何の変哲もなく 面白くもないものです。 たくさんの人に
歴史に思いをはせてもらい 姫路を盛り上げていきたい、そうですが・・・。 吹き流しも 作る?


 ついでに お参りしてきました。 境内には お正月用なのか 提灯が たくさん飾ってあります。 28日の
新聞に 護国神社で 新年を迎える 「新年万燈祭」 が行われる とあるので ここも その準備?
奥へ行くと 長壁神社があります。 西二階町にある 長壁神社は?


 イーグレ姫路へ行くと 冬のイルミネーション コンテスト 入賞作品の写真が 展示してあります。
きょうは 天気がいいので 3階へ上がって 天空の白鷺を 眺めてから 地下の市民ギャラリーへ。



 今回は 第1、第2、第3、第4展示室と 特別展示室 全て ”第十回 玄耀書道会 学生展・一般小作品展”
です。 特別展示室では 屏風展。 県内在住者を中心に 全国から公募した 作品を 展示 とあります。
 展示作品の多いこと・・・。 出品者名簿には 250人以上の名前が 書かれています。 とても 全部を見る気
にはなりません・・・。 特に 子どもの作品は。






 きょうは 月曜日なので ”カフェ・ゆうゆうゆう” は お休みです。 ヤマトヤシキへ 行きましょう。
7階の特選ギャラリーでは 亀渕明美 ”書 with デコパージュ展”。 家庭のリビングに飾ってもらえる作品を・・。
 書家が ヨーロッパ発祥の 「デコパージュ」 技法を用いて 自作を発表した、和と洋のコラボ作品を 一堂に 取り
揃え 約40点を 展示即売します。 書を枠から解き放ち 平面の書を 立体的に 飛び出させる挑戦。
 この前 歓創居で見た デコパージュは メルヘンチックで 絵本の挿絵風で 良かったが 書のデコパージュは
全然 面白くない・・・。 12月14日の ”リビング姫路” に 大きく載っていて 亀渕さんが 美人なので 期待してきた
のですが・・。 写真は 禁止ですが 撮りたくもありません。
 亀渕さんは 1963年 京都市 生まれの50歳。 若く見えます。 和紙の書作品を 木や 金属板などに 貼り付け
上塗り液を 重ねて 一体化させる 「書 with デコパージュ」 の制作を を始め 米国で グループ展を開くほか 国内
でも 2年に 1回のペースで 個展を開催。
 飾磨工業高校と 姫路北高校の 「書道」 非常勤講師。 自宅で 書道教室も。 姫路市在住。


 3階の中井三成堂画廊では 「アトリエ マリコ 教室作品展」 をしています。 簡単に言うと 粘土細工ですが
粘土細工というより クレイクラフト? 詳しく説明することが できませんので ”アトリエ マリコ” のページを
見てください。 島田 まりこさんは 広畑で 教室を 開いておられます。
 人形を見ていると この前 ルネッサンススクエアで見た 岡山の田村陽子さんの球体関節人形を 思い出しま
す。 あれも すごかった・・。 バラの花の花びらを作るには 粘土に油絵具を混ぜ 粘土をよくこねて へらなどで
薄く延ばして 形を作るのだそうです。


 人形を見ると 肌の質感や 髪の毛の細かい細工、服のひだなど 細かく 丁寧に作られています。 注意しないと
乾燥により ひびが入るかも・・。 ひびが入っても 修正できる? グロリオーサの花びらも 非常に薄い・・。




 山陽百貨店へ行きます。 美術画廊では 倉敷ガラス 「小谷 眞三展」。 倉敷ガラスの創始者 小谷眞三氏は
昭和5年生まれで 83歳。 クリスマスツリー用のガラスオーナメントを 作る仕事をしていましたが 故外村 吉之介
との出会いを きっかけに コップ作りを 始められました。 試行錯誤の末 一人で 吹き硝子のすべての工程を行う
「スタジオガラス」 のスタイルを 確立され 美しさだけを追うのではなく 一工人として 暮らしの中で 使うことを
第一に考えた ものづくりに 励まれました。  『健康で 無駄がなく 真面目で 威張らない』


 コップは 生活の中で 使われる道具だから 壊れにくく 丈夫で 使いやすく 他のものを邪魔しない そんな意合
いの教えを守りながら 民芸の精神にのっとり 50余年 ガラスと 向き合ってこられました。
 そもそも 吹き硝子というものは 個人で作るものではなく 集合体で作るものと 小谷先生は おっしゃられます。
現に 琉球ガラスなどを見ても ガラスの種を取る人、吹く人、成形する人、仕上げる人 などの分業制で作られてい
ます。 その方が 効率も良いし 大量に出来るので 価格も安く設定できる。 しかし 小谷先生は 分業制ではな
く 個人で作る吹きガラスの作り方、スタイルを 日本で 初めて 確立されました。


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