私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

三木美術館 と イーグレひめじ と・・

2022-04-30 14:56:13 | ギャラリー散策
 4月30日(土)   天気:晴れ   室温:21.2℃

 きょうは、姫路へ行きました。 まず 三木美術館へ行き アートスペースmikiで行わ
れている ”美籐康夫 陶展” を見ます。 次に イーグレひめじへ行き 市民ギャラリーの展示
を見ます。 駅へ戻ろうかと思いましたが、電車のタイミングが悪い・・。 二階町のギャ
ラリー祥栄は 閉まっているし‥。 35分の下り電車がなくなったので、便利が悪くなりま
した。 そろそろ12時になるので、 Quiet Holidayへ行って ”小田かおり 絵画展” を見る
ことにしました。 帰りに 山陽百貨店へ寄って ”大岩智之 陶展” を見て、駅に戻りました。

 まず 三木美術館へ行き、gallery アートスペースmiki で行われている ”回り続ける~Keep
spinnin' ~ 美藤 康夫 陶展” を見ます。  風のように優しく 風のように激しく 風のように
自由でありたい・・・  そんな思いで 作品を生み出しています    風之窯

 
◆”回り続ける~Keep spinnin' ~
 変化し続ける現代社会。 不安と希望が隣り合わせの日々。 確かなものは何もない状況の中で、
 我々は皆それぞれに回り続ける。ただひとつ自分の精神軸を信じて。無私無欲、執着の愚かさを
 説いた老子の言葉が独楽の回転の中からじわりと浮かび上がってくる。
 

◆作品制作にあたって
 老子の道徳経に出会い その思想性に真の自由を見い出し、いつか陶芸で具現化したいと構想を
 巡らしていました。 穴窯、自然釉という条件の下で 6年の月日を費やして 道徳経全81章を
 刻んだ大きさの違う81個の独楽を制作、全国で Exhibitionを展開してきました。  美藤康夫


<美藤さんにのプロフィール>
 東京都出身、1976年 大谷大学大学院修了(日本仏教史)、1989年 東大阪市
 大乗寺にて作陶を始める、1996年 木津川市現光寺に「風之窯」開窯
 2001年 鳥取県智頭町に移転、穴窯を築く
<個展>
 東京・日本橋 ギャラリー砂翁、大阪・なんば 南地ギャラリー、守口・京阪百貨店 美術画廊
 鳥取・ギャラリー槐、奈良・あーとさろん宮崎   他



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 イーグレひめじへ行き、市民ギャラリーの展示を見ます。 今週は 2つの展示がありますが、
”キルトサークル” の展示は 写真禁止。 第1展示室で行われている ”和藝(アート)篆”を見ます。


 
 
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 少し時間調整をして、12時からオープンの Quiet Holiday へ寄って、”小田かおり絵画展”
を見ます。 どこで入手したのか、案内状があります。 イーグレひめじの南西の路地にある
Quiet Holidayで行われている ”ーWork ここまでと ここからもー 小田かおり 絵画展” を見ま
す。 ここは ミュージック&ブックカフェ ギャラリーで、2階で 絵画展が行われています。

 ご挨拶 : この度は、お越しくださり 有難うございます。 子どもの頃から 絵は好きで
ずっと 描いていました。 一時期、体調不良を理由に 描かない時期があり 「描けない自分は
価値がない」 と 勝手自棄となり、周りは そんな自分に 「他に道もある」 と許容してくれました。
 新しい道を模索した結果、また描いています。   「これまでと これからも」  恩師か
らもらった 「焦らず 怠らず」  今日も 明日も 明後日も 続けたいと思います。 小田かおり



 
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 山陽百貨店の美術画廊では ”大岩智之 陶展” が行われています。 大岩さんは、1977年
兵庫県生まれ、2004年 備前陶芸センター終了、2005年 隠崎隆一に師事、2014年
独立、2015年 上郡町に 半地下式穴窯築窯、2018年 田部美術館大賞、以降 個展多数。

 ちょうど いい時間になったので、駅に戻りました。 12:49の電車に乗ろうと思いまし
たが、55分遅れ。 先に 13:05の赤穂行の電車が来るようなので、これに乗りましたが、
姫路始発なのに 超満員。 きょうは どこかで トラブルがあったようで、GWでもあり、JRは
混乱していました。 行きは よいよい、帰りは・・・。

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多肉植物・ベルゲランタスの花が咲きました

2022-04-29 15:20:51 | 日記
 4月29日(金) 昭和の日  天気:雨    室温:23.4℃

 きょうは 雨ですが、きのうはいいお天気で、夕方に ベルゲランタスが 咲きました。
6つも。 マミラリア 松霞も 6つ花を咲かせていましたが、夕方には しぼみ始めてい
ます。 きょうは 天気が悪いので、咲いていません。 もう一つのマミラリア 銀手毬は
花が咲きません。

 グラプトベリアの花も 残り少なくなってきましたが、まだ 少し咲いています。

 ハオルチアは、どれも花芽を伸ばし、花を咲かせますが、いまいちきれいではありません。


 ルビーネックレスは、黄色い花をたくさん咲かせましたが、花は終わりました。
逆光で ぶどうのような丸い葉を透かして見ると きれいです。  野うさぎの耳・
野兎耳(ノトジ)は、ウサギの耳のようで かわいい葉で、触るとふさふさして気
持ちいい。 花は 期待できないようです。

 オプンチアは、花が咲くのかと思いましたが、花芽?と思ったのは 葉になってしまいました。
どんどん芽が出ていますが・・・。 ふわふわで 触ると気持ちいい。
 右の写真のものは、寄せ植えの中にあったのですが、どんどん はびこってきたので、先端を
切って 挿し木にしましたが、どんどん増えて、白い小さな花を咲かせています。 ネットで調
べると、クラッスラ属の<ブロウメアナ>に似ていますが・・。 成長が早く、どんどん枝を伸ばし・・。

 カランコエは、花が終わったので 斬り戻しましたが、まだ 花が残っています。


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歴史鑑定 武蔵VS小次郎・・巌流島の真相

2022-04-26 15:31:45 | 歴史探索
 4月28日(木)    天気:晴れ    室温:24.2℃

 4月25日(月) BSーTBS ”にっぽん! 歴史鑑定” で、”武蔵VS小次郎・・巌流島の
真相” が放送されました。 2020.2.4 歴史教室で、”宮本武蔵の虚像と実像” を勉強
しましたが、宮本武蔵については、生まれた場所など 謎が多いのです。 江戸時代の歌舞伎
や 吉川英治の小説などで、歴史的事実とは異なることが 面白可笑しく語られたため、事実と
は 違うことが 信じられています。


 今回の番組は、歴史研究家・福田正秀さんの研究結果や 小倉にある 「宮本武蔵顕彰碑」
(小倉碑文)をもとに、武蔵と小次郎の巌流島の決闘に関する謎・事実が 明らかにされます。



 巌流島の決闘の謎・疑問は、5つあり、これが 解き明かされます。
 1.決闘の年が違う
 2.佐々木小次郎とは 戦っていない
 3.武蔵は 決闘には 遅れなかった
 4.武蔵は 船の櫂(かい)を削った木刀で 戦ってはいない
 5.小次郎は 決闘では 死んでいない


・巌流島の決闘は、慶長17年(1612)4月13日に 行われたと言われていますが、
 武蔵は 天正12年(1584)に生まれ、決闘が 慶長17年に 行われたのなら、武蔵は
 29歳。慶長5年に行われたのなら、19歳。
 歴史研究家・福田正秀さんは 決闘の時期を特定するのは、難しいと言われます。
 北九州市小倉にある 「宮本武蔵顕彰碑」(小倉碑文)は、宮本武蔵の養子・宮本伊織が
 武蔵の死から 9年後に建てた石碑ですが、事実が 漢文で 記されています。 これによると、
 武蔵の父(養父?)新免無二斎は 日下無双兵法術者で、武蔵に 二刀流を教えた。


・佐々木小次郎とは 戦っていない?
 碑文には、小次郎は 兵術の達人で、岩流の使い手。 細川家家臣の書いた 「沼田家記」
(17世紀後半)にも 記述があるが・・。 富田勢源に弟子入りしたという史料があり、
 これから 小次郎の年齢を推定すると、決闘のときには 60歳を超えることになる。
 天文2年(1737)上演の歌舞伎 「敵討巌流島」 に、佐々木巌流という名が出てきて、
 岩流の使い手から、巌流という名がつけられ、決闘が行われた 船島も 巌流島といわれるように。


・小倉藩の史料には、小次郎に関する記述がない。 小倉藩の剣術指南もウソ? 決闘場所も
 下関(長府藩)の許可が出ず、仕方なく 無人島の船島で 戦った。  公認の決闘ではなく、私闘。

・なぜ、小次郎と戦うことになったのか? 小次郎は 無二斎に 戦いを挑んだが、無二斎は
 辞退した。 無二齊が 逃げたと噂をたてられ、代わりに 武蔵が戦うことになった。

・武蔵は 決闘の時刻に贈れたか? 武蔵は 遅れなかった。 小倉碑文に 二人は 同時に到着
 したと刻まれている。 両雄同時に 相会す。

・武蔵は 船の櫂(かい)を削って 木刀にしたのか? 櫂の木刀で 戦っていない。 武蔵は
 決闘・戦いには 事前に準備した 木刀を使っていた。 決闘では 刀で 相手を殺す必要はなく
 優劣が付けばよい。 木刀の方が 軽く扱いやすい。 八代城主の松井寄行が 尋ねると、
 武蔵は 日ごろ使っている木刀(126.7cm)を見せた。 木刀は 今も残っている。



・決闘で 小次郎は 死んだのか? 小次郎は 生きていた。 武蔵は 小次郎が生きているのを
 確認して、その場を去った。 その後、武蔵の弟子たちが 小次郎を殺した。
 小次郎が生きていると、無二斎は また勝負を挑まれることを恐れ、小次郎を殺させた。
 武蔵は この決闘が 不名誉な戦いだったので、五輪書には 書き残していない。


 小次郎との決闘のあと、武蔵は 小次郎の弟子に襲われることを恐れ、門司城代に助けを求め
 無二斎のいる豊後国まで 護衛付きで送ってもらった。


 今回の ”歴史鑑定” と 以前 勉強した ”歴史居室” の資料などから 私なりに 武蔵の生涯を推理すると、
・宮本武蔵は、天正12年(1584) 現・高砂市米田町の田原家の次男として生まれた。 5歳
 の頃、美作大原の平田家(新免家)に養子にいき、養父・平田(新免)無二斎に 二刀流の指南を受ける。
・13歳の時、平福で、有馬喜兵衛と 最初の決闘を 行い、これに勝つ。
・14歳の頃、修行の旅に出る。 佐用の素戔嗚神社に 立ち寄り、たつのの圓光寺に逗留、修行する。
 関ケ原の合戦前、宇喜田氏から新免氏に 出陣要請があり、武蔵も 新免氏からの要請で、合戦に出陣、
 西軍として戦うも。敗戦。 圓光寺に逃げ帰る。
・京都の吉岡一門との試合に勝ち、圓光寺に帰った武蔵は、自分の兵法を 「二天一流」 に改める。
 武蔵は、生涯に 60回以上決闘をしたと言われていますが、有名なのは
 奈良の興福寺の宝蔵院に 宝蔵院胤栄との戦いを望んだが、胤栄は高齢で、一番弟子の奥蔵院道栄と
 二度試合をして 二度とも 武蔵が勝った。 
 宝蔵院から 江戸に向かう途中、伊賀で 鎖鎌の使い手・宍戸梅軒と勝負をし、これも倒すなどが 有名。
・慶長13年 武蔵29歳の時、小次郎と 巌流島で 決闘。
・慶長19年 大坂冬の陣、西軍に加わる。 夏の陣では、東軍・徳川方で戦う。
・元和3年 武蔵の兄・田原久光の次男・伊織を養子にする。 養子の宮本伊織は、15歳で、明石藩・
 小笠原忠真に 仕え、20歳で 家老に。 小笠原氏が 小倉に 入封、伊織も従う。 武蔵も 小倉藩・
 小笠原氏の食客となる。 島原の乱に 武蔵・伊織 出陣し、軍功をあげる。
・肥後熊本藩主・細川忠利に知遇を得て、客分として逗留。 正保2年(1645)「五輪書」を完成、
 「独行道」を残す。   5月19日 没、62歳。

 一つ疑問に思うことは、巌流島の決闘の5年後に、伊織を養子にしたので、 伊織は 決闘の詳細を
どの程度知っていたのか? 武蔵の顕彰碑(小倉碑文)の信憑性は? なぜ 伊織は 15歳の若さで
小笠原氏に仕えたのか。 20歳で 家老に。

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ヤッホの森・黍田富士 きびたふじ 166m

2022-04-26 11:31:51 | 山歩き
  4月26日(火)    天気:曇り    室温:25.1℃

 久しぶりの山歩きは、2003.12.21に登った 揖保川町のヤッホの森と 黍田富士
166mです。 冬場、初心者は 北の雪山は 歩けないので、南の雪のない低山は 陽だまり
ハイクの山として 重宝します。 が、登った日は、珍しく雪が 5センチくらい積もってい
ました。 これが また 楽しい。 誰も歩いていない 雪の上を さくさく歩くのは 気持ちが
いいのです。 北に見える山並みも白くなっていて いい雰囲気です。 ヤッホの森には 多
くの古墳が点在しています。


 神部小学校の前に 車を停めて、学校の東の登山口から 黍田富士に登り、景色を堪能し、
南へ降りて 東の宝記山193mの三角点を見て、分岐へ戻り、南西の黒屎池に降ります。
北へ歩き、大正池の傍を歩いて、北を回り、駐車場へ戻るルートです。



 201mピークの南の分岐から 東へ歩き、三等三角点の宝記山(ほうきやま)193mへ
行きます。 宝記山の名の由来は 山間の崩れやすい崖や、深い谷間を表わす地形地名 ホケや
ホキに、宝記の字が当てらたそうで、法華山一乗寺は 仏教語の法華の字が当てられそうです。






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きょうは 相生へ

2022-04-25 15:23:00 | ギャラリー散策
 4月25日(月)    天気:晴れて暑い    室温:25.2℃

 きょうは、相生へ行きました。 まず 山手2の自家焙煎珈琲・ぶどうの木へ行って、
コーヒー豆とモーニングをいただきます。 このあと 文化会館渚ホールへ行き、展示
を見ます。 1階の展示コーナーでは、スプリング カルチャー フェスティバルの美術
工芸作品部門の展示が行われています。 2階の展示コーナーでは、草木染工房チャー
美流の「草木染展」が行われています。



 文化会館へ行き、1階の展示を見ます。 スプリング カルチャー フェスティバルは、
市内・市外問わず、日頃から趣味でご活躍しているけれど「発表の場がない」「自分達
だけで やるには ハードルが高い」という個人・グループのための発表の場として開催
しています。 1階 市民ギャレリア(ロビー)では 作品展示を行います! 幅広いジャ
ンルの芸術・文化に触れることができますので、ぜひ足をお運びください♪ 






 

 2階の展示コーナーでは、草木染工房ちゃー美流 草木染ニット展 「草木の色を編
む暮らし」 が行われています。 相生市内の山間にある工房ちゃー美流。 工房の周り
にある草木で 毛糸を染めて 作製したオリジナルニットを展示しています。 自然からの
恵みを受けた 彩り豊かな色の不思議な力を体感してください。
 草木染工房ちゃー美流では、草木染めのオリジナルニットウェアを制作しています。
毛糸をはじめ、ストール等、小物もすべて草木染めの作品手す。 弘法のある矢野町は
歴史ある土地で、現在でも 自然が多く残った 古きよき日本の里山の風景が広がります。

 


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