1月12日(金) 天気:曇り時々晴れ 室温:16.7℃
先日 姫路へ行ったとき、FMゲンキのフリーマガジン”春号” (2024.1~3)を入手しました。
今回の ”気まぐれ途中下車 地域再発見 「ふるさと故事巡礼」 ー第10回ー” は ”豊富小中学校区” です。
JR播但線 仁豊野駅の東・北辺りで、市川、銀の馬車道周辺です。 今回も 簡単に紹介します。
1.生野道神西ルート:江戸時代の国絵図、元禄国絵図、神仁豊野村から 渡しで 市川東岸に渡り 陣東郡を北上する
ルートを太い線で表示し、市川を渡らずに 市川西岸の神西郡を北上するルートを 細い朱線で表示し
2.市川の流れ:江戸期の初め頃までは 市川の流路が一定せず、周辺集落にも大きな影響を与えました。
3.高瀬舟:河を上下して 荷物を運ぶ舟は 「高瀬舟」と呼ばれ、岸から岸へ 人や荷物を運ぶ舟は 「横渡し」と呼ば、
市川に高瀬舟が就航するようになったのは 寛永3年(1662)で、仁豊野村の開発にあたり、
4.渡し:元禄国絵図(1697年頃)でも 後の天保国絵図(1835年頃)でも 歩渡と表示されています。
5.薮田城:赤松則村(円心)が 白旗城で 足利尊氏を追う新田義貞と戦った時、薮田城主 後藤左馬頭は、太尾城主
太尾兵庫守と協力して 活躍したという記録があるそうです。
6.焼堂碑:南北朝時代の武将 塩治判官高貞の妻 顔世御前は 美人の誉れ高くこれに縣想した足利家の執事 高師直は
顔世を奪い取るため 高貞に謀反の疑いをかけ 討ち取ろうとします。・・お堂に立て籠もるも お堂が焼け落ち
7.甲八幡神社:甲山の名は 「播磨国風土記」で 伊与都比古の守と 宇知賀久牟豊富命が戦った時に 冑が落ちたこと
に由来。 伝承では 応神天皇が 重工の折、ここに登ったことで、甲八幡神社では 品太天皇を祭神としています。
8.生野道(但馬道)別ルート:生野道と接続する村道の三叉路に 「右 ひろみね ひめじ ひだり ごちゃく」という
道標が ありました。 御着から 生野方面へ行く人は 市川を渡らずに 御着から北上していました。
9.生野道・馬車道分岐点:生野鉱山の銀鉱石の高速輸送路として 明治9年に竣工した 「生野鉱山寮馬車道」。
播但鉄道の飾磨~生野全通までは 姫路と生野を結ぶ動脈として沿線地域の発展に寄与しました。
10.太尾城跡:太尾山上には 戦国期に 赤松氏の家臣 太尾兵庫頭興次が 城を構えていましたが、羽柴秀吉の中国攻
めで落城。 山麓の太尾祖霊社の境内に 五輪塔などがあり、城主一族の墓所とされています。
11.太尾北口の道標:正面「たんば ほうてう道」、左側面「ひめし ひろみね道」、背面「たしま しそう道」。
北条は 播磨と但馬、丹波、京などの諸地域を結ぶ 陸上交通の要衝で、北播磨の中心的な宿場町でした。
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