私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

沙羅(ナツツバキ)を見る会

2012-06-29 14:21:54 | 日記
 6月29日(金)  天気:晴れ  室温:31.2℃

 きのうの新聞に ”ウチョウランと石目鉢展、沙羅(ナツツバキ)を見る会” 土、日 福崎町の
天台宗・慶徳山医王寺四方華亭 とあり 住職の松尾貫秀さんと 太子町の長岡龍聖さんが 鉢
植えした花100点が展示され ナツツバキも 見頃 とあります。 明日、明後日は お天気が 怪
しいので きょう 行ってきました。 住職さんが おられ ウチョウランなどの花も 見せていただ
きました。 住職さんは 今年は ナツツバキの花が少ないと 言われています・・・。
 ついでに 応聖寺へも寄り こちらのナツツバキも 鑑賞してきました。 応聖寺は 観光バスも
来て 多くの人で 賑わっていました。

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 ・・・・平家物語

 いにしへも 今もうつつも悲しくて 沙羅双樹の花 散りにけるかも ・・・・斉藤茂吉

 地に還す ほかなき沙羅の 落花を手に ・・・・出井哲朗



 9:30 出発。 姫路バイパスから 播但道に渡り 10:01 船津ランプ(300円)を降り 国道
312号線に出て 北へ向かい 西治南の信号で 左折。 ちょっと間違えましたが 西治の信号
へ出て 北へ。 医王寺の手前は 道が細い・・。 10:22 お寺の前に駐車。 ここまで 40.1
km。 左の花園?へ行きますが 咲いている花が少ない・・。 シライトソウだけ?
手前のナツツバキも 花は 3輪ほど・・。 白い花に 日が当たると 白が飛ぶので 帽子で 日を
遮って 撮りました。


 庫裏の中から ”中にもありますよ” と ご住職に 声をかけていただき ウチョウランなど
育てておられる山野草を 見せていただきました。 裏には ナツツバキの大木があり 朝 咲
いて 夕方には 散るという 儚いものの象徴といわれる花が 地面に たくさん落ちていまし
た・・。 地面が 苔に覆われていれば 京都の妙心寺塔頭の東林院のような 雰囲気になり
落ちた白い花も 映えるのでしょうが・・・。
 住職さんが ヤマシャクヤクを植えたそうなので 2、3年後には 花が 見られるかも・・。
クリンソウも ササユリも あるそうですが 花の時期が違うので・・・。







 11:08 医王寺を後にし 北の応聖寺へ行きます。 県道406号線を北へ 3.4km行くと
応聖寺。 多くの人で 賑わっています。 こちらのナツツバキも 咲いていますが 数が少ない
ようです。 まあ 写真が 2、3枚 撮れれば いいのですが・・。

 7月16日の新聞に 応聖寺 「中尊寺ハス 盛り」 という記事があり 800年前の種から開花
した中尊寺のハスが花を咲かせた とあります。 岩手県・平泉の中尊寺金色堂に安置された
奥州・藤原家4代目 泰衡の首桶から ハスの種が見つかり 800年の時を越えて 1998年に
開花した奇跡のハスだそうです。 ある縁から 今春 レンコン9本を分けてもらい 境内の3個
の大鉢に植えたものが 淡いピンクの花を咲かせた。 花の見頃は 4日間ほど・・。 






 11:44 帰路につきます。 帰りは 福崎駅の横の踏切を渡り 福崎北ICへ行き 11:59
播但道に入りました。 豊富SAに寄り ラーメンを食べ 12:28 花田ICを通り 姫路バイパ
スに入り 13:14 帰着。 今年は ヤマシャクヤクを 見ることができませんでしたが ナツツ
バキで 我慢しましょう。
本日の走行距離は 往路:医王寺まで 40.1km 応聖寺まで 3.4km 復路:45.6kmで
計:89.1kmでした。
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篠山 歴史 散策 (第二部)

2012-06-28 21:29:22 | 日記
 6月28日(木)  天気:曇りor晴れ  室温:27.2℃

 6月26日(火)の 「篠山 歴史 散策」 のページが長くなりましたので 後半戦は こちらのページで
書きます。
  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 多紀連山をはじめとする山々に囲まれた丹波篠山は 篠山盆地の中心にあり そこには 数千年
の昔より 人々の生活が営まれ 縄文・弥生時代の文化を物語る出土品も 数多く発見されています。
 大化年間に 法道仙人が 開創したと伝えられる大国寺と そこに安置されている五体の仏像からは
奈良時代から中世にかけて 仏教を中心と高度な文化が 栄えていたことが わかります。
 中世の終わりには 波多野氏が 八上城(高城山)を拠点として 丹波一帯に 勢力をもっていました
が 織田信長の命を受けて 丹波攻めを行った 明智光秀により 落城。
 慶長13年(1608) 徳川家康は 大坂城と 山陰・山陽路の連絡を絶ち 西国大名に対する抑えと
するため 実子・松平康重を 八上城に移し ただちに 新城の築城を命じました。
 慶長14年(1609) 西国15ヵ国、20の諸大名に 助役を命じ 突貫工事で 僅か6ヵ月で
笹山に 城を完成させ それを中心に 広がった城下町が 篠山です。
 篠山は 京文化の影響を 受けながら 丹波の都として栄えました。
  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 王地山公園に上がり まけきらい稲荷へ行きます。
王地山公園は 紅葉と山桜の名所として知られる。 奈良時代末期 遷都をの候補地の一つに選ば
れ 藤原黒智麻呂が 下検分に来たことから 「王地山」と 呼ばれるようになったという。
篠山城・築城の際にも 候補地のひとつに 選ばれた。

負けきらい稲荷神社は
 王地山公園の西側にあるお稲荷さんで、赤い鳥居が トンネルのように長く続き 幟がはためく。
 江戸幕府の老中をつとめる篠山藩主・青山忠裕が 大相撲で お抱え力士を 出場させたが
 連戦連敗。 おおいに 面目を失していた。
 ある年の春場所 篠山から来たという 王地山平左衛門ら 八名の力士が 江戸にあらわれ
 連戦連勝。 負けきらいの忠裕は おおいに喜んで 褒美をとらそうとした。
 しかし 彼らの姿はすでになく 後に 調べたところ 領内のお稲荷さんであった。
 忠裕は それぞれのお稲荷さんに 幟や絵馬などを 奉納して 感謝の意をあらわしたという。
 これが 「まけきらい稲荷」 の起こりだということじゃ・・・。 爾来 勝利守護の神として・・・。
 手水鉢の水の口は 龍でも亀でもなく ウサギですが 何か謂われが あるのでしょうか?


 王地山焼は 江戸時代末期の文政年間 当時の篠山藩主・青山忠裕が この王地山に築いた
藩窯です。 三田藩で 青磁焼成に成功した 京都の名工・欽古堂亀裕を 招いて 指導させました。
 嘉永年間の最盛期には 幾多の気品ある作品が焼かれましたが 明治の廃藩とともに 廃止・・。
王地山陶器所は 廃窯から 120年の時を経た 昭和63年に 同じ王地山の麓に復興されたの
です。 独特の緑色の青磁、染付、赤絵などの作品を 当時の技法を使って 製作している。
 きょう 火曜日は 休館。 入館料は 無料だったのですが・・・。


 王地山から降りて 西へ進み 黒岡川を越え 北へ行くと 東の馬出の向かい側に 
丹波杜氏酒造記念館があります。
 白壁に 本瓦の酒蔵か 城郭を思わす風格ある建物が 丹波杜氏酒造記念館。 館内の左手には
 展示室があり 丹波杜氏の由緒や 古くからの道具と 資料により 手造りでの酒の醸造が
 九つの過程にわけて 解説してありるそうですが・・・。
 全国一の灘の酒は 六甲の宮水と 播州の酒米と 丹波杜氏によって 作られるといわれるくらい
 丹波杜氏の名声は 古くから高く その歴史も古い。 明治後期には 数千人の冬季酒造出稼
 者があり 丹波の経済に大きく貢献したが 技術革新や 労働状況の変化により減少し・・・。


 市役所の横を北へ進むと 交差点の北東角が 歴史美術館。
市立歴史美術館は 城下町篠山に伝わる 武具、漆芸、絵画などの美術品をはじめ
 江戸時代末期に 篠山藩窯として開かれた 磁器窯・王地山焼の名品の数々、さらに
 古代の篠山の文化を物語る 埋蔵文化財を 一堂に集めて 展示しています。


 美術館本体は 明治24年 篠山地方裁判所として 建築されたもので 木造の裁判所と
 しては わが国最古の重要建造物です。 この貴重な明治建築の外観、旧法廷を 従来
 の姿で残しつつ 美術館に ふさわしい形に 内部を 改築したものです。
 ここも 有料なので 外から建物を眺め 次へ進みます。


東へ進み 赤い門前橋を渡ると 正面が 尊宝寺で 手前、左が来迎寺です。 まず 来迎寺へ。
清涼山来迎寺
 八脚三戸・薬医門の山門を入ると 見事な勾配の大屋根の本堂があります。
 戦国時代に 戦乱をさけて 波々伯部保に来ていた 京都四条寺町の永養寺誓誉上人に
 土地の土豪・中西政親が教えを受け 深く心を引かれ 不断寺を建てたという。
 永禄年間(1558~70) 波多野秀治が 厚い信仰をよせて この寺を 八上城下に移して
 阿弥陀寺と称した。
 篠山城 築城に際し 新しく城下町が 建設されるにあたり 鬼門除けとして 慶長15年(1610)
 現在地に移された。 その時の住職は 信誉行意上人で 特に 本山知恩院・満誉尊照大僧正
 から 清涼山 来迎寺の山号と 寺号をもらい 未寺四ヵ寺がつけられた・・。


 城下町の造営は 篠山城・築城と深いかかわりがあり 特に寺院は 信仰の場としてよりも
兵たちの参集施設、武官の陣所としての機能を 多分にもっていました。 旧八上城下から
名刹も 新城下の要所に 移築され 軍事的な効果をねらった寺院配置となっています。
 この前 出石城下を訪れましたが 出石も同様に 寺院が配置され 砦?櫓?のような
お寺もありました・・・。


嶺松山尊宝寺
 永正三年(1506) 波々伯部村の土豪加竹法印が 天台宗の尊宝院として創建し 子の印清
 雪隆が 開山となった。 八上城主・波多野氏が 崇敬を寄せ 八上城の鬼門除けの祈願所と
 なっていた。
 印清は 後に 本願寺九世実如上人の教えを受け 名を印西と改め 浄土真宗に 改宗した。
 波多野氏が 滅んだのち 慶長四年(1599) 八上村藤ノ木に移り
 さらに 篠山城が 築かれたのちに 鬼門除けとして 現在地へ移築された。
 山門上に 左甚五郎作という木彫の唐獅子があり 大火で 本堂が焼けたとき 炎を吹き消し
 て 山門を守ったとの話が 伝えられている。


 尊宝寺を後にして 西へ戻り 歴史美術館のある上二階町の交差点を直進し 次の路地を
右に曲がると 奥が 春日神社です。 赤い鳥居で 一礼して 参道を進むと 随身門。
 向かって右に 左大臣 藤原時平公、左に 右大臣 菅原道真公が 座っています。


 立派な随身門を入ると 清浄な境内が広がり 神の鎮座地にふさわしい小山と古木を後ろに
 地域の氏神の春日神社があります。
 貞観年間(859~77) 藤原基経・時平父子が 日置荘を所領していたことにより
 藤原氏の祖神を祀る 春日大社のご分霊を 当時の笹山の東側に 勧請した。
 その後 慶長十四年(1609) 築城のため 現在地に 遷座したのである。


 随身門の右に 絵馬殿があり 「黒神馬」と 「大盛彦七」 の絵馬が有名で 市の文化財。
「黒神馬絵馬」は 慶安二年 松平忠国が 明石へ転封の際 奉納したもので 狩野尚信
の筆による名作。 「大盛彦七絵馬」は 貞享四年 松平家の家臣 堀和佐内景広が 奉納
したもので 「大盛彦七南朝の雄魂に悩まされる図」。 足利尊氏の幕下である 大盛彦七が
湊川の合戦で 楠木正成に 詰腹を切らせた報いとして 南朝 諸雄の霊に 悩まされている図。


 境内には 文久元年(1861) 能楽愛好者であった 藩主・青山忠良公が 奉納した能舞台
があります。 贅をつくした立派な舞台で 特に 床板を踏むと 音を反響させるため 床下に
埋めた7個の大甕(かめ)の伏せ方の完全なことなど 全国屈指のもので 国の重文。
絵馬や能舞台に見とれて 本殿にお参りするのを忘れ・・。


 予定の個所は 全て廻ったので 車に戻ります。 二階町の交差点から 大正ロマン館の前を
進み 車に戻りました。 篠山の町は 平日にもかかわらず 大勢の観光客で賑わっています。
 皆さん 何を目当てに 歩かれるのでしょう。 駐車場も 来たときは ガラガラでしたが 観光
バスも 5、6台あり 車も多く 停められています・・。
 車で一息入れ もう一度 篠山城へ行きます。 まだ早いので 大書院を見学しましょう。
龍野城の本丸御殿は 無料ですが ここは 400円。


 大書院は 篠山城築城と ほぼ同時に 建てられ 約260年間に渡って 藩の公式行事などに
使用されました。 大規模な木造平屋造りで 昭和19年に 火災で焼失し 半世紀ぶりに 復
元されました。 一大名の書院としては 破格とも言える規模で 日本の代表的な建築物です。
 復元された大書院は 入母屋造り・杮葺きで 床面積740㎡で 八つの部屋があります。


 広縁を歩いて 一周しましたが 部屋に光が入らないようにするため 雨戸が閉められ
写真を撮るには 暗いのです。 展示室には 篠山城の模型などが 展示してあります。
 大書院を出て もう一度 お城の石垣を一回りしました。 朝は 雲で 篠山市街を取り
囲む山が はっきりしませんでしたが 雲が晴れ 山がくっきり見えますが・・。
二等三角点の白髪岳を 自信を持って同定することが できません。


 北に見える多紀アルプスの三嶽、西ヶ嶽は 多分 合っているでしょう。 ここから見える
山も 大体 登ったかな・・。


 13:22 車に戻りました。 篠山を5時間ほど 歩き、走り 少し疲れました。
帰路につきます。 監物橋を渡り 真っ直ぐ進み 13:31 国道372号線に出て 右折。
あとは デカンショ街道をひた走ります。 アクアがきて 初の遠出ですが エコモードに
しているからか 坂道を登るのに 力がない・・スピードが落ちます。 下りでも 今まで
のように Nで 慣性で 加速できない・・。 下りは Dで 充電しないと・・。 車が重いっ・・。
これで リッター30km走らないと 公称35.4kmの値打ちはないが・・。


 14:13 滝野社ICから 中国道(帰りは450円)に入り 14:27 福崎ICで 播但道に
廻り 14:38 花田ICを通過し 姫路バイパスへ。 15:22 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路:90.3km 復路:92.2kmで 計:182.5kmでした。

私の街歩きも 室津、赤穂、網干、たつの、林田町、神戸・大輪田の泊、出石、加古川、明石、篠山
ときましたが・・・。 あとは・・・。
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篠山 歴史 散策

2012-06-26 16:28:35 | 日記
 6月26日(火) 天気:曇り 後 晴れ  室温:30.4℃

 きょう 天気は まずまずの予報だったので 早く起きて 篠山へ行ってきました。 歩くのは
しんどそうなので 暑い時期でもあるし 自転車を使いました。 予定したところは 大体 訪れる
ことができました。
 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 「ひょうご 県民だより 中播磨版 6月月号」に載っていた みんなで体験! 「篠山城跡から城下町
への散策コース」を 調べてみました。 中播磨版には ”大書院から多彩な資料館を巡り 篠山藩
の歴史を訪ねてみよう” とあります。 また 「あいたい兵庫 2012 春・夏号」にもありますが どち
らも いまいちです。 篠山まで行くからには じっくり 調べ できるだけ いろいろ 歩かないと・・・。
 ネットで 調べると 篠山には 「丹波篠山五十三次」というのが あるようです。 旧篠山町が 選定
した丹波篠山53次は、地元の歴史・文化財にふれる大きな道標になっているそうです。
53ヵ所 全部回るのは 不可能なので 篠山城跡を中心に 城の周りを 反時計回りに 歩きたい
と思います。 「53次」 の20カ所くらい巡ることが できるでしょうか?
 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 概略順路として 篠山城跡(大書院)から 青山歴史村、北西の 誓岸寺、妙福寺、武家屋敷、
安間家史料館から 南へ廻り 南の馬出、53次歴史の散歩道を 東へ。 丹波古陶館、能楽資
料館、妻入商家郡から 王地山公園(まけきらい稲荷)へ上がり 降りて 観音寺、真福寺、酒
造記念館、尊宝寺、来迎寺、歴史美術館から 春日神社を廻り・・・・車に戻るというルートです。


 平日なので 姫路のラッシュを避け 早目の6:15 出発。 姫路バイパスは 車が多く 思うよ
うには 走れません・・。 6:41 花田ICから播但道に入り 7:50 福崎ICから 中国道に入ります。
中国道を 19.7km(350円)走り 7:04 滝野社ICを降りて 信号を 左へ左へ左へ 曲がると
国道372号線に入ります。 あとは デカンショ街道をひた走ります。 白髪を見ながら 福知山
線の踏切を越え 滝野社ICから 31.7km 7:42 小枕の信号で 左折。 監物橋を渡り 篠山
城跡の東を回り 篠山城の北の駐車場へ。 7:50 駐車。 駐車料200円。 家から 90.3km、
1時間35分かかりました。
 まず 篠山城へ行きます。 大書院は 9時からなので まだ入ることはできません。


篠山城跡は
 慶長14年(1609)徳川家康の命によって、大坂城攻めの備えと、西国地方への抑えの拠点とし
 て 交通の要衝の地である 篠山盆地中央部の「笹山」と呼ばれた小丘を利用して 築城された。
 築城は 約20諸侯の西国大名に 賦役を命じた、いわゆる天下普請によって行われ 普請総奉行
 に 池田輝政(姫路城城主)、縄張り奉行に あの藤堂高虎(津城主)があたった。
 笹山という小丘を利用した一辺約400mの平山城で 防御に徹した城構え。
 築城にあたって家康は、前年の慶長13年(1608) 家康の実子との伝えがある 松平康重を常陸
 の国から 丹波八上城へ転封を命じ 篠山に築城されることとなった。
 工事は 慶長14年3月に 始まり 9月中には 石垣の本体が ほぼ完成し 同年12月に 松平康重
 が 初代の城主として 入城している。 城の工事は その後 約1年続き、町並みの整備も進められた。
 石垣は 近江の穴太衆によるもので 「野面積み」と 出角は 「算木積み」の工法が用いてある。


 縄張りは 環郭式を基本とするもので、高石垣で囲まれた 本丸と二の丸を中心にして 犬走りと
 約20メートル馬場の内濠と 三の丸、外濠の順に 方形に配置されている。
 天守台は 約20m四方の広さがありますが 天守閣は 築かれず 北東隅に 二間四方の櫓が
 築かれました。 石垣の高さは 17mあり 東に 丹波富士・高城山(八上城跡)が望めます。
 城の虎口は 北と東、南の3カ所に 馬出(うまだし)が 造られ 厳重な備えとなっている。
 外濠周辺には、家臣の屋敷が 配置され、更に 屋敷地の東側から北側及び西側には 山陰道
 を引き入れた町屋筋が 取り巻いている。
 城主は 松井松平氏1代、藤井松平氏2代、形原松平氏5代、青山氏6代と続き 明治維新を
 迎えている。
 石高は 当初 5万石であったが、第12代篠山城主青山忠裕が 老中を30年間努めた功により
 文政10年(1827)1万石を 加増され 以後 6万石となっている。
 青山神社の祭神として祀られている 青山家10代 名君・青山忠俊は 家康の孫・竹千代を 厳
 しくいさめ 教育し のち 竹千代は 三代将軍・家光となり 徳川時代の基礎を築いた。
 なお 青山神社には 教育に尽くし 藩校「振徳堂」を充実させた青山忠裕が 合祀されています。


 廃藩後、城の建物は 大書院を残して 一部の門が 移築され 他は すべて取り壊された。
 大書院も1944年まで 残っていたが 焼失し 城の建物は まったくなくなってしまったが、
 本丸及び二の丸を構成する石垣と周辺の犬走りと内濠及び、三の丸、外濠、大手馬出を除く
 南と東の馬出など城郭の主体部を構成する遺構が よく残っており、昭和31年に 国の史跡
 指定を受けた。 「日本100名城」にも選ばれています。
 二の丸御殿跡には 古絵図をもとに 台所、厠、詰所などが 平面表示の工法で 復元され・・。
 二の丸の南に見える山並の丸い山は 愛宕山でしょうか? 『兵庫丹波の山』(下巻)の太平
 三山の項に 東から見ると ”豊満な女性の乳房のような双耳峰” とありますが 北から見る
 と ただの丸い一つの山で・・・。


 大書院は 後で行くことにして お城を出ます。 北の有料駐車場の脇にあった門は 元篠山藩
地方役所跡? 北の角にある「大正ロマン館」は 落成当時 篠山の町では 最もモダンな建物で
明治・大正の代表的な洋風建築です。 ロマン館の向かいが 観光案内所です。
地図 ”やすらぎの城下町ささやま” をもらい まず 「青山歴史村」へ向かいます。


青山歴史村は
 篠山藩主・青山家の別邸であった「桂園舎」と呼ばれた建物を中心に 3棟の土蔵と長屋門から
 成っています。 全国的にも 珍しい漢学書関係の版木1200余枚、篠山城石垣修理伺い図面など
 江戸時代の歴史文化を 物語る史料を 展示しています。
 また 内庭には 石造金櫃、和算学者「万尾時春」の顕彰碑、「篠山城惜別の碑」などを屋外展示。
 さらに 青山家ゆかりの品々や 篠山藩校「振徳堂」の蔵書なども所蔵し・・・。
 有料なので パスしました。


 次に 北西部にある誓岸寺へ行きます。 自転車なので あっという間に 着きました。
清浄山誓願寺(浄土宗)は
 城下町篠山の道路が T字型に交わる要所に 砦のように建っています。 二階建て構造の
 山門である楼門は 重層屋根、入母屋造り、本瓦葺きの四脚門で 釘は使わない組み合せ
 工法で 室町時代後期の様式を残しており、その彫刻は 見事です。
 ご本尊は、阿弥陀如来座像である。 三岳修験道の小金ヶ岳・廃福泉寺より 移したもので
 法道仙人作と伝えられている。
 室町幕府13代将軍・足利義輝の子である覚山天誉を開山として 高城山の山麓に創建された。
 覚山は 晩年、西紀町宮田の廃浄福寺に 隠棲し、そこで 亡くなった。
 篠山城が築城されると、当寺は 民心の安定と 城下町造りの拠点として この地に 移築された。
 本堂・山門は 当時のままで、秀治公の肖像画と 八上城合戦図絵が残り 「知新館」跡の碑がある。


 次に 南にある妙福寺へ行きます。 ちょっと 道を間違えましたが 南へ廻って・・。
宝乗山妙福寺は
 ご本尊は 久遠実成本師釈迦牟尼仏座像で、縁起によれば 永仁~正安(1293~1302)
 のころ 摂津国島上郡五百住村に 草創されていた一寺があった。
 荒廃していた同寺を 京都本國寺・蓮光院十四世日助上人が、松永某のために 日蓮宗寺院
 として 開基、再建したのが 妙福寺のはじめという。
 弘治元年(1555) 八上城を攻略した 松永久秀は 甥の松永孫六を 城主とした。
 後に 妙福寺に参詣し 尊崇を深めた孫六は 永禄五年(1562) 当時の住職日洞上人に
 請うて 八上城下に移した。
 天正七年(1579) 八上城が落城。 慶長14年 篠山城が築かれ 城下割りが行われ
 八上城下にあった 誓願寺などとともに 妙福寺も 現在地に 移築された。
 一帯は、篠山城下町の西の護りにも なっていたようである。
 寺宝の木造日蓮上人座像は 室町期の作で 市指定文化財となっている。


御徒士町通り武家屋敷群
 江戸時代、篠山城の外堀の周縁には、その身分によって 武家屋敷が 配置されていました。
 安間家は 通称「御徒士町(おかちまち)」と呼ばれる 武家屋敷群の一角にある 標準的な
 徒士住宅で 篠山藩主・青山家の家臣で 下級武士でした。 白壁の小林家長屋門もあった?
 安間家から寄付された 安間家史料館は 天保元年(1830)以降に 建てられた武家屋敷で
 全面的な改修を行い、史料館として 一般に公開したものです。


 茅葺で 曲屋形式の母屋と 瓦葺の土蔵が 残っており 当時の武家の暮らしを伝えています。
 内部には、安間家に伝来した古文書や日常に用いられた食器類や家具をはじめ 寄贈を
 受けた 篠山藩ゆかりの武具や史料を展示し 奥に 庭園もあります。
 有料なので ここも 軽くパス・・・。


 安間家史料館の南を東へ抜けると 外堀の南西部に出ます。 ここが 南の馬出で ここから
篠山城の三の丸に入ることもできます。
南の馬出
 馬出(うまだし)は 城門の外を守る施設で、城内への出入りを 複雑にする仕掛けである。
 篠山城には 北、東、南の 三ヶ所にあったが、現在、東と南の馬出が 残っています。
 戦いが始まると 城将は 敵状を偵察したり、兵馬を集めて 外へ出撃する拠点とした。
 この馬出が 発展して「馬出曲輪」、「出丸」となっていった・・・。
 大阪冬の陣で 有名な「真田丸」は、出丸の規模が さらに 大きくなったものである。
 南の馬出は 東西100m、凹字型の高さ約4mの土塁と 幅約40mの濠に囲まれ
 規模が 大きく、搦手(裏門)の防衛を 重視したと思われる。
 土塁が 残存し 築城時の姿をとどめ 現存している日本唯一の土塁馬出として、貴重な遺構で
 昭和31年  国史跡に指定された。
 一方、東の馬出は 南の馬出より 小ぶりだが 石垣造りのスマートなたたずまいを見せている。


 南へ下ると 武家屋敷・佐藤家があります。 この辺りに 篠山藩校「振徳堂」があったので
しょうか? 10代藩主・青山忠高公は 明和三年(1766) 振徳堂を創建、学規を定めたそ
うです。 東へ進むと 「歴史の散歩道」。 53次の標柱はありますが・・・。
歴史の散歩道
 篠山城南にある馬出の堀を隔てた南、東西に通じる小道が「歴史の散歩道」で もともとは
 川筋であった。 篠山城を築くとき 城地の東方を流れていた 黒岡川を西へ直角に曲げ
 南堀端に平行するように 流路を変え 外堀、内堀に 加えて 南方の防御に備えたのである。
 戦後になって 流れを昔に戻して 廃川とし 後に 遊歩道として 整備された。 篠山市内でも
 古い景観が残るエリアで 御徒士町武家屋敷群と 河原町の商家群を結ぶ道でもある。


 散歩道を歩くのは止めて 濠に沿って東へ歩きます。 この辺りにも 古い屋敷が並んでいます。
篠山城の天守台の石垣を見るため 篠山小学校の扉を抜け 校庭を横切って 濠の傍へ・・。
プールで 水泳の授業中でしたが 誰にも見付からず・・・。


 さらに東へ歩き 信号を渡ると 河原町妻入商家群。 少し進むと 丹波古陶館があります。
河原町妻入商家群
 旧街道の面影を残した街並みの河原町は 築城後 町造りが始められ 城下町篠山の商業の中心
 として栄えました。 篠山の中でも とりわけ江戸時代の風情を残し 妻入の商家が 立ち並ぶ
 家並みは 往時の姿を今に伝える素晴らしい景観を織りなしています。

丹波古陶館
 丹波焼は、平安時代末期に 窯の煙をあげて以来800年、途絶えることなく承け継がれ
 我が国・民陶の歴史を 語る焼物として 親しまれています。
 丹波古陶館では、丹波焼の創成期から江戸時代末期に至る700年間に 作られた代表的な品々を
 年代・形・釉薬・装飾等に 分類して 展示しています。 が 有料なので 軽くパスします。


能楽資料館
 この地域は 古くから京都の風俗習慣が色濃く伝わり また 神仏心信仰も厚かった。 その中で
 社寺猿楽の系統の丹波猿楽や 鎮魂のための 神事芸能として生まれた田楽も 農民大衆の間に
 広まっていった。 時代の脚光を浴びて 能が江戸幕府の式楽となると、歴代城主が 家紋・譜代
 大名であった篠山では 武家をはじめ 領民たちの間に 能楽の習得は 必修の教養の一つとされた。
 年間を通じて、城中や春日神社の能楽殿の他各所で演能が行われ 現在も その流れは続いている。
 能楽資料館では 能の発生期からの能面、装束、楽器など 歴史的・美術工芸的に 大変貴重な
 数々の名品が展示され、春日神社の能楽殿や 各地の演能にも使用されている。


普門山観音寺
 いかにも禅寺らしい観音寺。 本尊は 仏師春日または定朝の作という釈迦牟尼如来。
 永禄五年(1562) 波多野晴秀公は 崇敬していた 知足村の観音堂を 八上城下に 移築。
 観音寺を 創建したのが 当寺の始まりである。
 篠山に築城後 寛文十年(1670) この地に移された。 観音堂の木像十一面観音立像は
 平安期の作で もと東新町割場の宝寿院の観音堂にあったのを 奉安したものであり 古くは
 山岳の寺院にあったと言われている。 また 篠山城大書院の障壁画や 南画の平地藍岳の
 襖絵がある。 最近 山門と 観音堂が 立派に 改修された。



妙長山本経寺(日蓮宗)は 総本山は 身延山久遠寺
 慶長六年(1601) 城主・松平信吉公が 実母 菩提のため 茨城県に建立した寺で
 元和五年(1619) 松平信吉公が 篠山城主として 転封の折り 現在地に建立された。
 信吉公が亡くなると その子・忠国公が 跡を継ぐが 慶安二年(1649) 明石城へ転封となる。
 本経寺と王地山稲荷神社は 現在地にとどまることを 許された。
 次代・松平康信公、青山公と 歴代城主の帰依をうけた・・。
 
 白亜紀の湖の岸に 打ち寄せられたさざ波の跡や 貝の這い跡が 化石になって隆起したもの
が見られることから むかし この付近は 湖の南岸であったと 考えられる。


開法山真福寺
 文禄2年(1593) 誓願寺覚山天誉大和尚の高弟岸空本柳和尚を開山として 八上下村
 に 創建され 東林庵と称していた。 ご本尊は 阿弥陀如来立像である。
 昔 小多田村に 高聖寺という寺院があったが 明智光秀が 織田信長の命により 丹波攻めをし
 八上城を攻略し 天正6年(1578)ころ 兵火のため 焼失した。 岸空本柳和尚が その跡を
 尋ねると 法道仙人作という薬師如来像と阿弥陀如来像が 難を逃れて 岩上にお立ちになっ
 ておられた。 そこで 薬師如来像は 善導寺に安置し 阿弥陀如来像を奉安すべき 真福寺が
 建立されたという。 篠山城が築かれ 城主松平康重の指図によって この地に 移築された。


 商家群を抜け 篠山川の土手に上がると 京口橋があり ここは 見晴らしがいい。
引き返し 本経寺の石段を上がり 上の道路を 王地山へ上がります。 勿論 自転車を
押して・・。 急な登り坂の脇は 青いアジサイの並木道です。 王地山公園の上は 階段
なので 自転車をデポして 歩いて まけきらい稲荷へ行きます。


 このページも長くなり キーボードを叩く手も疲れてきたので ここらで 休憩したいと
思います。 王地山公園に上がってからの「つづき」は 第二部に 譲ります。
  。。。。。。。。。。。。。      第二部へ つづく       。。。。。。。。。。。
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三社めぐり

2012-06-25 13:27:54 | 日記
 6月25日(月)  天気:晴れ うす曇り  室温:28.6℃

 きょう 8時過ぎに 目が覚めると 意外と いい天気。 ご飯を食べて 近くの三社(吉福八幡神社、
石海神社、稗田神社)を 廻ってきました。 あれっ 老林神社へも行ったので 四社だった?

 少し前 新聞に 西播磨県民局 「歴史案内」パンフ作成 という記事があり 西播磨県民局は
旧体制を打破し 新しい時代を切り開いた武士(悪党)の赤松円心ら 西播磨地方で 活躍した武士
に焦点をあてたパンフレット「先進のACT回廊ー武士(もののふ)のこころ息づく西播磨」を 1万部
作成した とあり 歴史が好きな人には 格好の案内書になるはず・・・。
 すぐ 電話して 送っていただきました。 が 送られてきたパンフを見ると 12コースありますが
ほとんどのところは すでに 歩いています。
 室津、小野豆、上郡(赤松の郷)、佐用~相生(城跡)、太子町(武蔵)、赤穂、太子町(斑鳩)、佐
用(陰陽師の里)、坂越、宍粟市(たたらをめぐる)、宍粟(歴史景観・文化遺産)、宍粟市~赤穂市
(西播磨の風土記) の12コースですが・・・。
 きょうは この中の 特に ”宮本武蔵の青年期の軌跡を巡る道”の石海神社を中心に 近場の三社
を 訪れました。
 パンフレットの裏の地図は 大雑把なので 他の地図で 確認しないと 分からないでしょう。


 10:05 出発。 近場なので 自転車で 運動を兼ねて・・。 まず 西にある吉福の八幡神社へ。
10:23 八幡神社に着きました。 この辺りは 周りが 田圃で 高いものが何も ないので 北の
新竜アルプスを 眺めることができ 的場山と大倉山の間に 三足富士が 形良く見えます。


 八幡神社には 由緒など 説明が何もないので・・・。 なぜ パンフの地図に 描かれているのか?
拝殿には 絵馬がたくさん奉納してあり 「夜討曽我」とか「八幡太郎・・」など 内容が分かれば
面白いのでしょうが・・。 


 神社の前には 地図にない 新しい道路があります。 いつの間に・・。 西の土手に上がると
林田川に 新しい橋が架かっていて 真砂大橋? すこし南の下流で 林田川と揖保川が 合
流します。 ちょっと見ない間に 世の中 変わるものです。


 北へ行くと JR網干総合車両所へ突き当ります。 昔は 網干電車区といっていたような・・。
むかし 太子町の線路の北側に住んでいたので この辺りは 大変懐かしい場所です。 住ん
でいたころは 陸橋はなく 踏切を バイクで渡って 通勤していました。


 陸橋を北へ下ると 石海神社。 と思いこんでいました。 北の道路から神社へ入ろうとすると
消防隊員が 綱渡り訓練中で 往復のタイムを競っているようでした。 石海神社?は 老林神社
でした。 老林神社の前を 西へ突き当ると 石海神社。 思い出しました。


 石海神社の前の広場に 「宮本武蔵生誕之地」の碑があり 横に由来が描いてあります。
きょうの三社巡りの目的は これを 見るためだったのです。 他は おまけです。
 由来によると  剣聖・宮本武蔵の自筆の書 「五輪書」 の序文に 時、寛永20年10月の
ころ 生国播磨の武士・新免武蔵守藤原の玄信、年つもって 60 とあり また 平野庸修が
宝暦年間に書いた 『播磨鑑』 には 宮本武蔵 揖東郡鵤ノ荘 宮本村ノ産 とある。
 これらの記述から 当宮本は 武蔵生誕の地と 考えられるが 残念なことに 安永年間と
明治20年の大火で村の大半が 罹災し 系図や古文書が焼失した。 当時は よく生まれた
地名を姓にした・・。  ここに 宮本武蔵の顕彰碑を建て 永く武蔵の遺徳を讃える。
碑の書は 龍野藩主・脇坂研之です。 近くに 宮本武蔵産湯井戸 もあった?


 余談ですが 剣聖「宮本武蔵」は その伝記に不明な点が多く 多くの謎に包まれています。
最大の謎である出生地については 吉川英治著の名作長編小説「宮本武蔵」で 描かれて
いる 作州説(現・岡山県英田郡大原町)、武蔵の養子伊織により加古川市の泊神社に 献上
された 棟札等を根拠とする 播州高砂説などがあります。 さらに 原田夢果史著「真説宮本
武蔵」では 「武蔵は 大坂冬・夏の陣で・・・・大坂城が落城したのち 閑居した地が ここ宮本
村ではないか?」 と述べている。 
しかし その中でも 様々な根拠と記載、口承伝承から成り立っているのが 播州宮本説です。

 横の荒神さんに 「逆さ椋(むく)」の木があります。 推定樹齢500年と いわれる椋の木は
大火のとき 根元から 3.5mを残し焼けましたが 生き残り 新しい芽を吹き出し 今も生き
続け 再度の大火災を 物語っている・・。 宮本武蔵の実情を知るのは この椋の木である。

 石海神社の前の石鳥居の足元に 贈収賄で捕まった以前の町長の名が 刻んでありました。
下の写真の 龍の彫り物は どこにあったのか? 


 宮本武蔵が誕生した 太子町宮本にある 石海神社も 由緒書がないので 分かりませんが
創立年月 不詳。 氏神は 「日本書紀」を書いた舎人親王で 天保年間の絵馬も残っている
そうです。 宮本武蔵の絵馬は 平成20年のもの。
明治32年に 本堂を再建。 拝殿と幣殿は 昨年 再建されたそうで まだ新しい・・。


 石海神社から北の新幹線の高架に突き当り 高架に沿って 東へ進み さらに北へ。 旧国
道2号線を横断しますが 今は 北のバイパスが 2号線になり ここは ただの県道。
 東芝の横を北へ進み 右の路地へ入ると 稗田神社の鳥居の前に出ました。 参道を進み
稗田神社に お参りします。


 稗田神社は 祭神 稗田阿礼大神、素盞鳴大神。 境内には 摂社 豊受姫命、太安万侶、
品陀和気神、大物主命があります。
 西暦606年 推古天皇は 摂政の聖徳太子が 経典を講じた褒美に 佐勢の地(今の鵤荘)を
与えられた。 そこで 太子に仕えていた一族(今の奈良県大和郡山市稗田の辺り)が 移り住
んで この地を 管理し 調物を 斑鳩宮へ納めていた。


 やがて 猿田彦命、天鈿女命の子孫である稗田氏は 朝廷に 舎人(とねり)として仕え 聡明
で 記憶に優れた稗田(ひえた)阿礼は 国記や 帝記などをよく学び 日本の国が 生まれて以
来の古い事柄を よく聞き覚えていた。 元明天皇は その阿礼の記憶を 文字をよく知る太(お
おの)安万侶に 書きとらせ 和銅5年(712) 『古事記』全三巻ができあがった。
 やがて 当社では この日本最古の歴史書、神典とも言えるこの書を 言い残した稗田阿礼を
祭神として 祀るようになった。


 手水舎では 龍の口から水が流れ落ちて 気持ちがいいのですが 拝殿が コンクリート
造りなのです。 これには がっかり・・。 左の狛犬は 子持ちです。


 帰路に付きます。 結構 遠くまで来たものです。 南にある ”聖徳太子ゆかりの斑鳩寺” の
前を通りましたが 以前 訪問して レポートしたので 今回はパス。 旧国道を横切り 新幹
線下を潜り 12:20 家に帰りました。 今回は あまり面白くなかった?
 。。。。。。。。。。。。。。。  。。  。。  。。  。。  。。  。。  。。  。。。。。。。。。。。。。
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伊吹山 いぶきやま 1377m

2012-06-23 11:58:38 | 山歩き
 6月23日(土)  天気:曇り  室温:26.3℃ 涼しい

 お天気が 芳しくなく 山へは 行けません。 暇なので 9年前の 2003.7.27 に行った
「伊吹山」を アップします。 『日本百名山』の一座であり 一等三角点の山です。
 当時は フィルムカメラとデジカメの併用で デジカメは 230万画素で 写真も少ない・・。
せっかく 花の山へ行ったので もっと 花を採らなくては・・・。
 冬の季節風の影響を受けやすい地形で その吹き下ろす風の様子から 「息吹く山」とされ
山の名が 伊吹山となったそうです。 また 平安時代から 薬草の山として知られ 織田信長
が ポルトガルの宣教師に 薬草を植えさせたという話も伝わっている・・。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊吹山 1377m 登頂日:H15年 7月27日(日) 天気:曇り 後 晴れ  地図:関ヶ原

 きょうは 滋賀県の伊吹山へ行きました。 伊吹山のお花畑を見るのには 7月下旬から8月
中旬が いいようなので 昨日 梅雨が明け 今日の天気予報も まずまずなので 今しかない。
 有名な山なので 色々な本で 紹介されていますが 『日帰りハイキング関西』(JTBるるぶ情
報版)の地図が 大きくて 見やすいので この本を 参考にしました。 本では 一合目から歩い
て 登るようになっていますが 我々は 三合目まで ゴンドラで あがりました。


 5:55 出発。 山陽道・中国道・東名高速を走り 8:13 米原ICを降りる。 ここまで 2時間20分。
ICを出たところで 勘違いをして 西に進み 慌てて Uターンして 国道21号を 東に進む。
 左手前方に 雄大な伊吹山を見ながら 初めての道も何とか間違えず 三宮神社の前に来たが
人・車の多いのに びっくり。 登山口の近くの駐車場は どこも一杯。 通行止めの柵を動かして 車
で上に行く人もいたが 引き返して 道路を西へ行き 小学校の辺りで 駐車できる所を探すと 幸
い 道路脇に 停めてある後に 停めることができました。 目の前に 駐車禁止の標識があるが そ
れは12月~3月まで。 スキーに来る車も多いのか・・。 靴を履き ゴンドラ乗り場へ急ぐ・・。


 坂を登って 階段を上がると ゴンドラ乗り場。 ゴンドラ乗り場の前の駐車場は まだ 空きがある
のに・・。 往復1000円の切符を買い 8:56 のゴンドラに乗った。 ゴンドラから 琵琶湖が見える
が 霞んでいます。 10分ほどの空中散歩で 9:07 上に着き ゴンドラを降りて 人の多いのに びっ
くり。 3合目の広場一帯で マウンテンバイクの大会が 始まっています。 ロープを張って コース
が造られ 4合目辺りまで 登るらしい。 店が並び マイクの音量を上げて 実況放送をし・・。
 登山道は 右の方へ押しやられている。 お花畑の最盛期、暑い時期に レースをしなくても 9月
になって 少し 涼しくなってから・・ 思うのは 私だけ?


 3合目から4合目までは なだらかな草原で 黄色いユウスゲが 咲いている。 残念なことに
ユウスゲは 35mmカメラでしか 写してなかった。 前方の伊吹山山頂には 雲がかかっていて
西から雲が 流れてくる。 登山者は ちらほら。 四合目のスキーリフトの降り場から 右に曲がり
石ころの多い 急な道を登ります。
 9:12 三合目、四合目を 9:20 通過。 雲が出て 陽を遮り 風も吹いてきて 比較的涼しい。 
歩きにくい道も 傍の花を見ながら 写真を撮りながら ゆっくり登ります。


 五合目 9:30、六合目 9:17、七合目 10:00、八合目 10:15 と 順調に登ってゆきます。
木は ほとんどないので 後方の見晴らしはいい。 遠くは モヤで 霞んでいるが 三合目の建物
は よく見えます。 九合目の標識前を 10;32に 通過。 右に 山頂が見えていて なだらかな
道が伸びています。


 10:40 頂上に着きました。 といっても どこが 頂上なのか よく分かりません。 売店の
音楽は うるさいし 人の多いのにも びっくり。 歩いて登る人の 何倍もの人が 車で来る
ようです。 売店の横を通り 測候所の方へ進み やっと 一等三角点が 見付かりました。
 山頂には 周遊 歩行コースが あるらしいのですが どこが コースなのか 分からなかった。
 売店の裏の石垣の下に イブキジャコウソウが 群生しています。 しゃがみ込んで 写真
を 撮っている人が いたので 何かと見ると 後で 分かったのですが ジャコウソウでした。
香りを 嗅ぐのを 忘れました・・・。


 三角点から 北へ回り 下の駐車場が見える辺りから 日本武尊の像を回わり 売店の南の
ベンチが空いたので そこに座って 南の雲の流れを見ながら 弁当を食べました。
 登るとき 山頂に 雲がかかっていたが 登るにつれて 雲は晴れ 陽はささないものの 明
るい 曇りそらで 時々 雲・ガスが流れてゆく。 南斜面には シシウドや ギボウシ?が 群生
しています。 今年の花は 春からの気候のせいで 少し遅れているそうです。



 弁当を食べ 遊歩道を 西へ 歩いてみました。 本に書いてある お花畑は どこなのか分かり
ませんが 写真を撮っている人に 花の名前を聞いて イブキフウロ、キンバイソウ、シュロソウ、
イブキジャコウソウなどの写真を 撮ることができました。 20人位のグループが 狭い遊歩道で
通路をふさいで 説明を聞いているのも 迷惑なものです。



 西のお花畑から 九合目に降りて ここから下山する。 登るとき苦労した石、岩の道
は 降りるときも 苦労する。 おまけに 12時過ぎているのに 下から どんどん登ってきま
す。 登り優先なので 道を譲って 空くのを待ち・・・。



 登りに 1時間半かかったが 下りにも 1時間半かかってしまった。 四合目まで降りてくると
まだ マウンテンバイクの競争をやっています。 この辺りの登りは きついのか バイクを降りて
押している選手もいます。


 三合目から 13:23のゴンドラで 13:34 下に着き 13:43 車に戻りました。
帰路 国道を走っていると 三島池の標識が見えたので 道を探しながら 三島池まで 行き
ました。 幸い 風もなく 池の水は鏡のように 伊吹山を写しています。 周りに 邪魔なもの
がないので 裾野から 山頂まですっきり 見ることができました。 「関西の山あるき100選」
という本に ”水面に姿を映す三島池からの眺め” の写真があるので 撮りたかったのです。


 帰路も 渋滞はなく 道も間違えず スムースに帰り 14:20 米原ICに入り 16:30 家に
帰りました。 中国道の宝塚辺りで 上り車線では 事故があったらしく 渋滞していたが・・。
 伊吹山は 花は 色々咲いていて 良かったのですが 山登りとしては いまいちで 100名山
とは 思えなかったが・・・。 
 往路は 3時間足らず、復路も 3時間足らずかかった。 本日の走行距離は 480km。  
  。。。。。。  。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。。  。。。。。


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