きょうは 公民館の歴史教室に出席しました。 今月は 元城郭研究室長 中川秀昭さん
の 映画「引っ越し大名!」 姫路藩主 松平直矩と結城松平家 です。 きょうは なぜか
出席者が 多かったようです。 けさは 黄砂のせいで まるで霧が立ち込めているようでした。
。。。。 映画「引っ越し大名!」 姫路藩主 松平直矩と結城松平家 。。。。
■”引っ越し大名” 松平直矩
1.なぜ ”引っ越し大名” といわれるのか?
・生涯で7回の国替え~藩主としては 5回
②越前大野 ⇒ ③出羽山形 ⇒ ④播磨姫路 ⇒ ⑤越後村上 ⇒ ⑥播磨姫路 ⇒ ➆豊後日田
⇒⑧ 出羽山形⇒ ⑨陸奥白川 ②、③は 父・直基の代での 転封
・異例の姫路藩主2回経験
・慶安元年(1648)~慶安2年(1649) 8か月間(7~8歳)
・父・直基が 出羽山形から播磨姫路へ転封の銘を受ける。 しかし、江戸で
熱病に冒され 姫路には 封命を受けたまま 入らず、45歳で 急逝。
・急遽、嫡子・直矩が 7歳で 家督相続し、姫路藩主に就く。 しかし、幼少のため、
江戸にとどまり 姫路に入らないまま、越後村上へ転封。
・寛文7年(1667)~天和2年(1682) 15年間(26~41歳)
・18年後、再び 姫路藩主に返り咲く。しかし、一門の越後高田藩 御家騒動
いわゆる「越後騒動」の調停・「不調法」につき 豊後日田へ転封(15万石→7万石)
2.映画 「引っ越し大名!」 (令和元年8月30日 公開)
・原作:土橋章宏作・小説『引っ越し大名 三千里』
・監督:犬童一心 脚本:土橋章宏
・主演:星野源(片桐春之介) 共演:高橋一生(鷹村源左衛門)、・・
・あらすじ:
・姫路藩主・松平直矩が 豊後日田へ国替え拝命(減転封)
・度重なる国替え(莫大な労力・費用)⇒藩の財政事情逼迫
・書庫番・片桐春之介を引っ越し奉行にと 白羽の矢。 引っ越し奉行として
春之介は、家財・人減らし、商人からの借金調達に奮闘・・・・
・ロケ地:姫路城、畑の棚田、彦根城、丹波篠山城、伊賀上野城、・・・
■越前松平家(結城松平家)・始祖 結城秀康(徳川家康 次男)
・結城秀康(天正2年(1574)~慶長12年(1607)没。 34歳
・越前松平家祖・越前北ノ庄藩 初代藩主(親藩・御家門)
・母は 側室・於万の方。 天正12年(1584) 小牧長久手の戦いの和睦条件
として、羽柴秀吉の養子(実際は人質)になり 羽柴三河守秀康を名乗る
・天正18年(1590)、秀吉の命で 下総・結城春朝養女 鶴子と結婚(婿養子)し
結城家の家督相続、結城領10万石を継ぎ、結城秀康を名乗る。
・関ケ原の戦いの後、越前・北ノ庄藩68万石に 加増移封。
・越前松平家(結城松平)の分家
・越前北ノ庄藩 ⇒ 福井藩
藩主:結城秀康(68万石)ー松平忠直(68万石)=松平忠昌(50万石)
・越前高田藩(改易)・・・津山藩(立藩)
藩主:松平忠昌(25万石)=松平光長(25万石)
・出雲松江藩
藩主:松平直政(18.6万石)-綱隆・・・・
・出羽山形藩・播磨姫路藩など
藩主:松平直基(15万石)-松平直基・・・・
越前大野藩・播磨明石藩
藩主:松平直良(5万石)-松平直明(越前大野→播磨明石8万石)
■越前騒動
・概要:越後高田 松平家25万石に生じた家中騒動
主席家老 小栗美作正矩派と 糸魚川城代荻田主馬本繁派に 家中が分かれて対立、
縁戚の姫路藩主松平直矩、出雲広瀬藩主 松平近栄が 相談役を勤め、事態の打開を
図るも 収拾はつかず、時の大老 酒井忠清に 松平直矩諮り、延宝7年(1679)
公儀評定による裁定が下る。 ただ、その裁定は 荻田主馬側5人が 大名預かりと
片方のみの処分下る。 このため、再審議の求めも高まり、再度、延宝9年(1681)に
5代将軍 徳川網吉の御前公儀(親裁)を受けて、越後高田 松平家は 改易、家中も両成敗。
・経緯:延宝2年(1674) 光長の嫡子・網賢が 42歳で 没(嗣子なし)
光長60歳と高齢のため 養子問題(世継問題)浮上
候補・万徳丸(光長の異母弟)・永見長頼遺子・元服し 網国(将軍・家綱から偏諱))
養子は 網国に決まるが、養子(世継)問題が 騒動の一つの誘因になる。
・越後騒動の発端と顛末
・延宝7年(1679) 家中の約1/3に当たる 700~800人が 主席家老小栗美作の
非と排除を求め 永見大蔵及び家老(糸魚川城代)荻田主馬本繁宛に 誓詞提出
・小栗美作球団の理由
・幕府から5万両を借財し、高田の区画整理、直江津港の築港、新田の開墾など
積極的な事業の推進により 藩の財政悪化
・新税の賦課、地方知行制から 蔵米制へ移行
・傲慢な性格や 贅沢好み、正室が 光長の異母妹・勘子
嫡子・大六を世継に 画策したとの噂 ・・・・家臣たちの反発
◇藩主松平光長の措置(姫路藩主 松平広栄は 相談役)
・光長の騒動打開策:小栗美作に 隠居を命じ、小栗大六長治が 家督相続
・しかし 家中騒動は収まらず⇒光長は 大老・酒井忠清に裁定訴え⇒幕府は
両者に和解申し渡し⇒和解頓挫⇒和解の命 無視と酒井忠清ら激怒⇒相談役・
松平直矩が 酒井忠清と相談⇒松平直矩・「講義評定」を決意
◇公儀評定(延宝7年(1679).10.19)
幕府評定所:将軍上位として 荻田朱馬方5人に処罰
越前松平家一門大名預け、荻田主馬方は お咎めなし
◆これに対し、越後騒動の再審を求め、荻田主馬方家中が 脱藩を繰り返す
-延宝8年(1680)に 将軍家網 没。 将軍網吉就任、酒井忠清大老辞任
◇御前工事(延宝9年(1681)(再審)
第5代将軍 徳川網吉 親裁
・6.21、綱吉の面前に 小栗美作、永見太蔵、荻田主馬が召し出され尋問
・6.22、評決:越後高田 松平家 改易、家中領家成敗の決定
・美作方、主馬方、中立方、松平家一門、幕府関係者47名に 処分
・小栗美作正矩・大六長治 切腹
・永見太蔵長良・荻田主馬本繁 八丈島遠島→元禄14年(1701) 餓死
・姫路藩主 松平直矩 閉門、豊後日田へ減転封(15→7万石)
広瀬藩主 松平広栄 閉門、1/2に 減封(3→1.5万石)など
・延宝7年の公儀評定に関わった大目付・渡辺網貞 八丈島遠島
■ 松平直矩(なおのり・従四位下大和守のち侍従)
寛永19年(1642) 越前大野生れ~元禄8年(1695) 陸奥白河 没(54歳)
・家族 両親:父・松平直基、 母・側室堀氏
正室:駒(出雲松江藩主 松平直政女)、継室:丁(東園基賢女)
子供:男7人、女5人
・文人大名(学問を好み、和歌を詠じた)
・「松平大和守日記」 (原本は 消失、写本(「若月本」、「五十嵐本」)が 現存)
・和歌:代表作「道たゆと いとひし越乃 しら雪も いま木すゑ二 花かとそ見る」
辞世 限りあれば 知らぬ昔に かへるなり あとは変わらぬ 世々の月花
・神仏に帰依:総社拝殿再興、男山八幡宮再建、刑部神社拝殿 修築
臨済寺再建(夢前町新庄・家老 根付源兵衛に命ず)
総社に 「軍八頭正一位惣社 伊和大明神」 扁額奉納、絵馬・羽子板奉納
石鳥居奉納(大歳神社(八代)、男山八幡宮)
・父・松平直基の墓建立(書写山円教寺、寛文10年)・・相模国最乗寺から分骨
※結城松平氏8松平直基祖)の系譜 および 参考文献は 省略します。
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