私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

兵庫の近代歴史遺産150

2018-10-10 17:12:18 | 歴史探索
 10月10日(水)   天気:小雨    室温;25.5℃

 少し前 新聞に 「近代の歴史遺産 県教委がマップ」 との見出しで 150マップが
発行されたことが 載っていました。 「明治150年」、「県政150周年」 を記念し
県教委は 「今こそ巡りたい 兵庫の近代歴史遺産150マップ」 を作成したそうです。
 先日 ある人から これを いただきました。 今回は この150マップの西播磨地域
の遺産を 紹介します。
 明治150年の今年、兵庫県も 県政150周年を迎えます。 それにちなんで このマッ
プは 県内の近代歴史遺産 150箇所を紹介しています。 明治以降、日本は 近代化の道
をたどり、諸技術を海外から導入し 発展させてきました。 これらの技術が、今の日本の
基盤となっています。 今回、「近代歴史遺産」 として 明治~昭和20年頃までに 造ら
れた物件を選び、地域ごとにまとめて 掲載しています。
              発行者 兵庫県 歴史文化遺産 総合活用推進実行委員会
              文化庁 平成30年度 文化遺産 総合活用推進実行委員会

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歴史教室 「西郷隆盛とたどる幕末から明治へ・その3」

2018-10-02 15:51:42 | 歴史探索
 10月 2日(火)    天気:晴れ    室温:26.8℃

 きょうは 公民館の ”歴史教室” に 出席しました。  今月は 元城郭研究室長
中川 秀昭氏による 「西郷隆盛とたどる幕末から明治へ・その3」 ー徳川幕府の終焉
と戊辰戦争ー」 です。 次回は 西郷隆盛と大久保利通の話を 予定されているそうで
すが いつになるのか・・。 きょうは 館長さんは 都合により 不在。
 また OHPの調子が悪く OHP映像はなし。 ノートPCの画面を 直接 見せて
いただきました。 ある人から 県政150周年記念 「兵庫の歴史遺産150マップ」
を持ってきて いただきましたので また後日 紹介したいと思います。


1.長州藩追討の勅命(元治元年7.23)
 ・禁門の変⇒朝敵 長州。 長州藩追討の朝命が 慶喜に下る。

2.第一次 長州征討(元治元年7月~同.12)
 ・前尾張藩主 徳川慶勝が 征長軍総督に就任、西郷は 征長軍参謀を 拝命。
 ・西郷、勝海舟と 大坂で 会談(元治元年9.15)・・勝海舟の意見に感銘を受ける
 ・西郷、征長総督 徳川慶勝と会談、長州問題での 周旋を依頼される。
  -西郷、岩国で 岩国藩主 吉川経幹と会談、3家老の処分等申し入れ 同意を得る。
 ・諸藩に 撤兵命令。(同.12.28)
   
3.四国艦隊 下関砲撃事件(元治元年8月5日~同.8.14)
 ・長州藩の関門海峡封鎖の解除を求め 英・仏・蘭・米 四国連合艦隊が 下関・前田
  砲台めがけ 艦砲射撃。 上陸し砲台等破壊。 講和条約締結

4.第二次 長州征討
 ・将軍徳川家茂、大軍を率い 進発布告(慶応元年4.19)、大坂城へ入る。
 ・慶喜、長州再討の勅許要請。 勅許(慶応元年9.21)
 ・幕府は 32藩に出兵を命じたが 応じたのは 14藩。 有力藩は 出兵を拒否
 ・大久保利通、老中板倉勝静へ 薩摩藩 出兵拒否の建白書提出
 ・幕府軍、周防大島郡の屋代島を 砲撃開始。 戦端が開かれる。
 ・幕府軍 戦況不利の中、将軍徳川家茂 没。(慶応元年7.20)
 ・幕府と長州藩で 休戦協定成立(慶応元年9.2)・・見えた幕府の末路

5.薩長誓約
 ・薩摩の長州支援(出兵拒否、長州支援)
  -坂本龍馬の仲介で 薩摩の名義で 武器・汽船を購入、長州へ引き渡す。
 ・薩長誓約(慶応2年1.22)
   小勝帯刀・西郷隆盛(薩摩)ー坂本龍馬ー木戸孝允(長州)

   四侯(島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城):朝廷、幕府を母体としない
   新しい政府の創設を 企図⇒大政奉還が その一歩。
   <土佐:平和裏に大政奉還を実現する⇒大政奉還の建白書提出。慶応3年10)>
   <薩摩:政変方式による新政府創設 ⇒ 薩・長・芸 出兵協定(慶応9年9~ )>

6.討幕の密勅と大政奉還
 ・「討幕の密勅」 薩摩藩、長州藩に下る。
 ・徳川慶喜、在京40藩 重臣を二条城に招集。大政奉還を 諮問
 ・慶喜、大政奉還を上表(慶応10年10.14)、朝廷勅許(同.10.15)
 ・朝廷、討幕の密勅を取り消す。朝廷、諸侯上京まで 慶喜に庶政委任する。

7.王政復古の大号令
 ・薩摩・長州・芸州 藩兵が 続々と 上京(慶応3.11.20頃)
 ・徹夜の朝議(慶応3.12.8 ) 長州藩主父子の赦免、岩倉具視の蟄居解
 ・王政復古のクーデター:薩摩、安芸、越前、尾張、土佐藩兵が 出動、御所を取り囲む、会津・桑名兵追い払う
 ・王政復古の大号令を下す(岩倉具視・大久保利通・玉松操が 文案作成) 摂政・関白の廃止・・
 ・新政府(総裁:有栖川宮熾仁親王、議定:公卿及び5藩主・全藩主、参与:公卿及び5藩主代表)
 ・小御所会議:慶喜養護派と慶喜排斥派で 紛糾)、慶喜の「辞官・納地」決定、幕府領400万石の返上
 ・徳川慶喜、会津・桑名藩兵などとともに 大坂城へ

8.薩摩藩(西郷画策)による江戸市中攪乱ー幕府を徴発
 ・大坂城の慶喜、強気。 慶喜擁護派の巻き返し ⇒ 討幕派にとって不利な展開
 ・三田の薩摩藩邸に 浪人たちを集め、江戸市中に略奪や放火を繰り返す
 ・幕府、庄内藩に命じ、三田薩摩藩邸を焼き払い(慶応3.12.25)
 ・慶喜、「討薩の表」 を発し、幕府・諸藩連合軍15000の京都進軍を命ず

9.鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争のはじまり)(慶応4年1.3)
 ・入京と討薩を目的に進軍する旧幕府軍、迎える新政府軍5000。
 ・淀藩、津藩(山崎に展開)の新政府軍への寝返り
 ・慶喜、密かに大坂城を出る。 軍艦開陽丸で 江戸へ。 慶喜を朝敵とし 追討令出る。(慶応4.1.7)
  同行は 松平容保(会津藩)、松平定敬(伊勢桑名藩主)、酒井忠惇(姫路藩主)、板倉勝静など
  徳川慶喜、江戸城を出て、上野・寛永寺内・大慈院で 謹慎 (慶応4.2.12)
 
10.西郷・勝 会談と江戸城無血開城
 ・新政府軍、東海道、中山道、北陸道の3方から 東征開始。
 ・東海道は、有栖川宮熾仁親王を 東征大総督に任じ、西郷は 同下参謀を拝命。
 ・勝海舟の書簡持参した山岡鉄舟と 駿府で会談、西郷、7か条の降伏条件示す。
 ・西郷隆盛・勝海舟、薩摩藩邸(蔵屋敷)で 会談。(慶応4.3.13、14)英公使パークスの圧力
 ・江戸城 無血開城(慶応4.4.11)  五か状の御誓文発布(慶応4.3.14)

11.戊辰戦争の展開(上野戦争・東北越列藩同盟・箱館戦争)
 ・上野戦争:彰義隊(旧幕臣など)が 上野・寛永寺に集結、新政府軍と交戦し 敗退。
 ・東北戦争
  ・新政府:九条道孝を 奥羽鎮撫総督、世良修蔵(長州)を 参謀に任命
  ・会津藩と 薩摩藩邸焼討事件を起こした庄内藩に対し、新政府軍は 東北諸藩に征討を命じた
   -参謀・世良修蔵は 武力征伐と 松平容保の斬首に固執。 仙台藩士十数名が 世良を斬殺
  ・会津戦争:白河口突破、二本松落城、母成峠突破、白虎隊、飯盛山で自刃。会津若松城 籠城戦
  ・庄内藩の降伏・・・西郷、黒田清隆に命じ 寛大な処置
 ・箱館戦争
  ・旧幕府海軍 副総裁 榎本武揚など 軍艦開陽丸など率い。品川沖を脱走。
       大鳥圭介率いる陸軍も 仙台から 蝦夷地へ向かう、五稜郭占領、
       松前城攻略、軍艦開陽丸 座礁、箱館政権誕生
  ・新政府軍、乙部上陸、箱館総攻撃、降伏


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 ※慶応4年9.8、明治に改元
 ※会津藩は、戊辰戦争終了後、会津を追われ 最果ての北辺の地・下北半島へ移封された。
   斗南藩(23万石⇒3万石)(廃藩置県まで)
 ※出典・参考文献は 省略します。


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室海道を行く

2018-09-19 14:40:48 | 歴史探索
 9月19日(水)   天気:晴れ    室温:29.9℃

 8月28日に 「室津海道」 を紹介しましたが きょうは この室津海道(室海道)を
歩いてきました。 大分涼しくなったかと 思いましたが まだまだ暑い一日でした。
 以前 室街道を歩いて 姫路の備前門跡から 揖保川の八十大橋まで 一応 歩いたことに
していますが きょうは 大津区天満辺りで 室津道と別れ 南ルートの ”室海道” を 歩
きます。   天満から 西へ行き 長松、平松、大江島を通り 網干の街に入り 東雲橋
を 渡り 一番街を通り 本町橋を渡り 浜田を抜けて 御津町との境界の中川(中川橋)
までを 自転車で 歩きます。  スタート地点は 汐入川公園です。


 スタ-ト地点の汐入川公園の西洞川にかかる築切橋を渡り 南へ行くと 室街道と室海道
との分岐点に出ます。 上のFMゲンキ・フリーマガジンの地図の「8」です。

 神明神社は 寛政7年(1795)の天満村明細帳には 「大神宮」 とあり 一社 村東
同断(松林)とあり 明治に至って 現在の名称になった。
 「天満の力石の力持ち」 は 民俗芸能として 無形文化財にしてされています。 魚吹八幡
神社の秋祭りの宵宮の日に 石担ぎで力持ちを行う。 力石は 7個あり 五斗石は 19.5貫
(73kg)、七斗石は 26貫(97.5kg)あります。


 神明神社の前は 室海道で 昔の面影が残っています。 直進すると 蛭子神社へ出ます。

 蛭子神社は 寛政7年(1795)の天満村明細帳には 「恵比寿 一社 村西松林」とあり
明治に至って 現在の名称になった。 境内には 切付のない4個の力石が 保管されている。
 力持ちや無形文化財は 神明神社と同じです。


 さらに 西へ進むと 武大神社へ出ますが ここには 何も書かれていません。
ここの狛犬は 面白い顔をしていて 思わず笑ってしまいます。


 長松公民館の前を進むと 西汐入川にかかる長松橋に出ます。 さらに 西へ進みます。

 今度は 大津茂川に架かる大平橋の袂に出ます。 県道を横断して 南側へ。 川の
西岸を下り 山陽電車の踏切を越え 国道250号線も越えて 南へ進みます。 東西の
道に突き当り 左折。 この辺りの大江島の道も 昔の雰囲気が 残っています。

 古川のそばに 大江島のお地蔵さんがあるので 挨拶していきましょう。 大江島の地蔵は
台石に 「文化十三年丙子九月 施主 肥塚栄心建立」 とあるので この地蔵は 肥塚和泉守
らの霊を弔うため 文化十三年に 栄心尼が建てたものと思われます。

 西へ進むと 網干川にかかる東雲橋にでます。 橋を渡ると あぼし一番街で
赤いレンガが敷かれた居ます。 北へ入ると 旧網干銀行本店の建物があります。
洋服屋さんでしたが 店を閉めた?

 海道の南側に 網干神社があります。 350年以上の歴史を持つお社で 主祭神は
事代主神(ことしろぬしのみこと)。

 善慶寺は 浄土宗西山禅林寺派。 明応元年(1402) 勧空善慶上人の開基と伝えられ
八世空和和尚を 中興開基とする。 墓地には 幕末に稲香村舎(のち誠塾)を開いた河野東馬
の墓があり 寺には 東馬の書画が多く遺されています。

 鶴立山 大覚寺は 浄土宗西山禅林寺派。 天福元年(1233)隆禅上人が 余子浜の古網干
に 光接院を建立したのが 始まり。 浜田の龍門寺開祖の盤珪国̪師や 林田藩校の教授 河野鉄兜
も 幼少のころ 当寺で学んだという。

 海道を西へ進み 片岡家住宅、山本家住宅などを見ます。

 山本家住宅の前の四つ角には 境橋があります。 昔 丸亀藩と龍野藩の境界でした。
北側には 金刀比羅神社があります。 修理は終わったようで 銅板葺きの屋根は 変わ
った色になっています。 神社は 丸亀藩の京極氏が 四国から 連れてきた?

 陣屋門跡は 江戸時代 龍野藩主であった京極家が 丸亀藩に移された後も 網干村に
陣屋を置き 奉行を派遣し 成務を行っていた。 明治3年(1870) 建物は 取り壊
された。 現在の建物は 昭和62年に 復元改築され 往時をしのぶ貴重な遺構である。

 陣屋門の横には 「田捨女の碑」 があります。 捨女は 丹波の柏原の眼池の生まれ。
後に 盤珪国師に出会い 出家。 貞閑尼と改名し 龍門寺に移り 後に 不徹庵を創立。
 土手を上がると 揖保川に架かる本町橋。 最近 新しくなりましたが いつの間にか
古い本町橋は 無くなっています。

 西方寺は 浄土宗西方禅林寺派のお寺で 天文2年(1533)、慶雲が 基礎を作り
盤珪禅師の兄・寿伝上人が さらに立派にした。 池田輝政や徳川家代々 「朱印」 が
与えられている。 本堂には 徳川家の位牌が 安置されている。

 天徳山龍門寺の開山は 江戸時代初期の禅僧・盤珪永琢で 寛文元年(1661)に
創建。 臨済宗妙心寺派の禅刹。 人々が 生まれながらに持つ仏心に気づくよう呼び
かけ 「不生禅」 を説いた。 主要伽藍は 江戸時代初期から中期の建物で 禅堂は
市指定文化財。

 やっと 終着点 中川に架かる 中川橋に着きました。 この先は 御津町です。

 帰る途中 浜田の義徳院に寄りました。 仁弘山義徳院は 盤珪国師の生誕地で 誕生の地
の石碑があります。 母・尼公の入寂されたところで 後に 盤珪の妹・寿清尼によって 僧業。

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夢前町 上菅地区ぶらり

2018-09-17 15:27:18 | 歴史探索
 9月17日(月) 敬老の日   天気:曇り 一時 霧雨    気温:29.9℃

 きょうは 夢前町の南部へ ドライブしてきました。 いつぞやの新聞に ”岡本太郎の
世界 播磨で堪能して” という記事があり 播磨地方に 岡本太郎の立体作品が 4点ある
そうですが 最後の一つが 夢前町護持にあるのです。 その他の3つは 既に訪れました。
 それと 7月1日付の 「自治ひめじ」 のぶらり探訪シリーズ ”上菅地区をぶらり” と
いうのがあり その中にも 太郎の作品が 載っています。 きょうは それらを 合わせて
訪れました。 訪れたのは 「塚本の千体地蔵」、「固寧倉」、「泉證寺」、「落岩神社」、
「太郎作・若い泉」、「本誓寺」、二百余神社」 です。
きょうは 曇り空で 一時 霧雨も降りましたが たいしたことはありませんでしたが 撮っ
た写真は どれも暗く 霧雨のため 遠景はボヤけています。

 県道80号線を北上し 上菅公民館に車を停めます。 ここから歩いて 塚本の千体地蔵
と固寧倉を見ます。 上菅公民館の駐車場わきに 上菅地区のマップがありました。

 公民館の100mほど北の県道脇に 「塚本の千体地蔵」 がありました。 千体地蔵は
高さ110cm、幅51cmの板石の中央 やや上に 高さ51cmの地蔵菩薩像を 中肉彫
りし これを 囲むように 高さ4cm、幅1cmの小さな地蔵像を 20段に 千体彫して
いる。 板碑の背面中央に 「南無地蔵大菩薩4体」、その右に 「現世安穏後生善処祈攸
也 善阿也」 左に 元和6年(1620) 夷中九月吉日 と刻んだ きわめてめずらしい
千体地蔵である。 市指定文化財。 お堂の前には 天保10年(1879)の石灯籠が
あります。


 公民館の裏側に 固寧倉があります。 これは 江戸時代に 災害時の備蓄倉庫として
建てられたものです。 泉證寺の近くにも 固寧倉があるそうですが どこにあるのか
分かりません・・。

 護塚端を渡り 右折して 芦田地区にある 「長峰山泉證寺」 へ行きます。
泉證寺は 真言宗大谷派。 はじめ 天台宗長顕寺であったが 文明8年(1473)
第十世法円のとき 浄土真宗に改宗したという。 寛永8年(1631) 現在地に移り
寺号を泉證寺に改めた。 長峰山泉證寺は 集落中央にあり 鎌倉幕府守邦親王ゆかりの
お寺です。 須弥壇には 室町時代に作られたと伝わる 黒ぶつさんと呼ばれる阿弥陀如
来像が 安置され 明治初期 庵主の加持祈祷が 評判を呼び 遠方からの参拝者で にぎわいました。 

 境内に うす紫色の菊のような花が たくさん咲いていましたが 紫苑(シオン)?
背丈より高く伸びています。 きょう 何かの法要があるそうで 住職さんは 忙しそう
でした。


 少し北にある落岩神社へ行きます。 集落の道を行きましたが 鳥居を見落とし・・。
山側にある鳥居を見落とさないよう。 落岩神社のご祭神は 武甕槌神(タケミカヅチノカミ)。
 大昔 天から落ちてきた岩を 神体として祀り 石が落ちてきたところは 「石が坪」。 祠を
建て 祀る。


 次に 護持のバーズタウンの入り口にある 岡本太郎の立体作品 「若い泉」 へ行きます。
新聞には 住宅街の開発会社の社長が 親交があった 岡本に依頼して 74年に完成した。
 住宅街の入り口にあり 大阪万博の 「太陽の塔」 に似た顔が ほおづえをついた姿に
愛嬌がある。 ポンプが壊れるなど 老朽化が進み 地元自治会が補修を計画している・・。


 県道80号を進むと 左手に 江戸中期から 幕末のころまで 教育施設であり 多くの逸材を
世に送り出した 「瑞雲山 本誓寺」 があります。 本誓寺は 浄土真宗本願寺派。 境内には
親鸞上人の銅像があります。 門の横には 石庭がありますが・・。


 更に県道を進み 右に行くと ほ「二百余神社」 の大きな鳥居があります。 鳥居を潜り
車がやっと通れる細い登り坂を進み 「二百余神社」 へ。 自治ひめじには 後醍醐天皇が
1333年に 隠岐の島から脱出され この神社で 二百余りの神様を祀り 京都まで無事に
ご帰洛されるよう祈願されたことから この神社の名がつき この辺りの地名・護持 を賜っ
たといわれています。
 神社に残っていた木製彩色狛犬は 鎌倉時代のもので 県の重要文化財に指定されている。

ネットで調べると
 この護持という地名は、古くは 鍋倉村と呼ばれていたそうです。 後醍醐天皇が 隠岐の島から
の帰路、勅使を この村の多聞寺に遣わし、豊国安民護持の大護摩祈願をされたことから 「護持」
になったと伝えられています。
 このような山奥の 誰も来ないような神社の手水鉢に きれいな水が流れているのには 驚きました。



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歴史教室 西郷隆盛とたどる幕末から明治へ・その2

2018-09-07 16:14:29 | 歴史探索
 9月 7日(金)    天気:曇り   室温;31.5℃

 きょうは 公民館の歴史教室へ行きました。 火曜日に行われる予定でしたが 台風21号
の影響で 本日に延期されました。 今月は 4月に続き 元城郭研究室長の中川秀昭さんの
”西郷隆盛とたどる 幕末から明治へ・その2 -尊王攘夷運動の高まりと 薩摩・長州ー” です。
 今回は その2ですが 前回のその1は 4月17日 に行われました。  その3は 10
月に行われる予定です。

 今回の幕末から 明治への背景には ”泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず”
と詠われた 嘉永6年(1853)のペリー来航、嘉永7年(1854)の日米和親条約、安
政5年(1858)の日米修好通商条約、安政7年(1860)の安政の大獄・桜田門外の変
などがあります。 今回は 西郷隆盛が 奄美大島や沖永良部島に流されていたこともあり 西
郷隆盛とは すこし離れた内容になります。
 きょうの講義の資料は 詳細なため ここでは いただいた資料の抜粋だけ 記しておきます。

1.和宮降嫁(公武合体の象徴)
 ・幕府四老中連書の申入 ⇒ 関白九条尚忠 (将軍徳川家茂と皇女和宮の婚姻願い出)
 ・皇女和宮・将軍徳川家茂の婚姻(文久2年(1862))

2.薩摩・長州の国事周旋活動
 ・長州藩主毛利慶親の使い・直目付長井雅楽が 「航海遠略策」を 議奏・正親町三条実愛に
  建書。(文久元年)
 ・島津久光(薩摩藩・国父)の上洛・・小松帯刀、大久保利通らとともに藩兵1000人を
  率いて 上洛するため薩摩発。  京都着、近衛忠房邸参上。 幕府趣意書提出(文久4年)
 ※寺田屋事件(文久2年)
  薩摩藩過激派が 関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義の襲撃を計画、寺田屋に集結。・・

3.文久の幕政改革
 ・島津久光の趣意書を受け 朝廷、大原重徳を勅使に任命。
 ・幕政改革
  ・「安政の大獄」処分者の赦免
  ・参勤交代制度の緩和
 ※生麦事件(文久2年)
  島津久光ら一行が 江戸から帰路、生麦村で 大名行列一行に イギリス人4人と遭遇。
  薩摩藩士に切られ リチャードソンは即死、2名は重傷。  文久3年 幕府、謝罪と
  賠償金10万ポンド支払、薩摩藩は 拒否。

4.京都・尊攘運動の高まり(「天誅」)
 ・文久2年~文久3年 尊王攘夷運動の高まり ー各地から尊攘志士たちが京に集結ー
  「天誅」:急進的尊攘派が テロ(暗殺)、脅迫行為を繰り返す。

5.破約攘夷督促の勅使派遣と将軍徳川家茂の上洛
 ・諸大名の上京
  文久2年:薩摩、長州、土佐、仙台、熊本、福岡、芸州など 14藩 上京。
 ・将軍・徳川家茂、約3000の随員を従え 江戸を出発(文久3.2)、⇒ 二条城(同3月)

6.攘夷祈願の行幸と攘夷期日決定(幕府)
 ・孝明天皇 ⇒ 賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)に行幸
 ・攘夷決行期日(5月10日にしたいと 天皇に回答)(文久3.4)
   通商条約を結んだ外国に 条約の解消・破棄を通告することの期日。

7.下関事件(文久3年(1863))
 ・長州藩、馬閑海峡を通る外国船に砲撃を実施。
 ・米・仏軍艦の報復攻撃

8.薩英戦争(文久3年(1863)7.2~7.4)
 ・生麦事件の犯人処刑と死者の親族への賠償金を薩摩藩に要求 ← 薩摩藩拒否
 ・猛烈な台風の中、天保山砲台から 砲撃 ⇒ 薩摩の砲台は 破壊され、鹿児島城下炎上。
 ・横浜・イギリス公使館で 談判開始(文久3年9月8日)、講和交渉妥結(同10月5日)
  -薩摩藩、イイギリスに 25000ポンド支払(幕府から借用)

9.八月十八日の政変(文久3年8月)
  朝廷に絶大な信頼を得ていた長州藩は 突如、会津、薩摩両藩により 京を追われる。、
 ・孝明天皇は 尊攘強硬論者を 朝廷から一掃を決意。

10.池田屋事件(元治元年(1864)6月5日)
  京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏の長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を
  京都守護職配下の新選組が襲撃した事件。
 ・古高俊太郎(炭薪商)に 新選組が押し入り 壬生の屯所に連れ去り 尊攘派志士らの
  計画を自白?
 ・新選組・近藤勇率いる新選組が 旅館・池田屋を急襲。
 ・熊本藩士 宮部鼎蔵、長州藩士 吉田稔磨、林田藩士 大高又二郎など 9名討死。
 ・桂小五郎は 屋根伝いに 難を逃れる。

11.禁門の変(蛤御門の変)(元治元年(1864)7月19日)
  京都を追われた長州藩勢力が 「藩主の免罪を帝に訴える」 「藩主の免罪を雪ぐ」名目で
  御所に向かって 進軍
 ・元治元年7月 来島隊は 蛤御門へ進軍、会津と交戦、蛤御門を抜き、禁裏へ迫る。
  薩摩藩が 援軍、劣勢を挽回し 長州勢を退却に追い込む。
 ・どんど焼け 禁門の変で 町屋に火が燃え広がり、北風にあおられて 拡大、約3万軒焼失。
 ・尊王攘夷運動の巨星たち落星:久坂玄端、平野国臣、真木和泉・・

出展・参考文献:省略
幕末思想
 ・尊王攘夷論 : 天皇が 心から望む破約攘夷を 実現して 屈辱を晴らし 日本を真の
  独立国家に立ち直らすため 力を尽くす。

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