私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室 「大坂の陣」

2016-09-06 10:57:34 | 歴史探索
 9月 6日(火)  天気:晴れ   室温:34.5℃

 きょうは 久しぶりに 公民館の歴史教室に 出席しました。 4月に 元城郭研究室長の中川先生
の 「世界遺産 姫路城」 の講義が行われ 5月は 先生の案内で 実際に 姫路城を歩く 「姫路
城探訪」 がありましたが 私は不参加。 6月は 「魚吹八幡神社関連史」 でしたが 欠席。
 7月、8月は 休講で 5ヵ月ぶりの歴史教室です。 今月も 中川先生で 「大坂の陣」 です。
大河ドラマ 「真田丸」 に 時期を合わせての講義です。
下記が 配布された資料の概要です。 写真は OHPの映像を 撮ったので 非常に見にくくなって
います。
      「大坂の陣 (冬の陣・夏の陣)」

1.関ヶ原の戦い(慶長5年(1600)9月15日)
  ・東軍(徳川家康方)の勝利で 徳川家康の覇権が決定的
  ・豊臣秀頼は 一大名に(摂津・河内・和泉の65万石)。 しかし 大坂城に君臨。

2.江戸幕府開府(慶長8年(1603)2月)
  ・徳川家康 征夷大将軍となり 江戸に幕府を開く。
  ・同年7月 豊臣秀頼(11歳)と 千姫(7歳)の結婚:豊臣家=徳川家の政略結婚

3.徳川秀忠(27歳)が 2代将軍に(慶長10年(1605)4月)
  ・将軍職は 徳川家の世襲とする

4徳川家康(70歳)と 豊臣秀頼(19歳)が 二条城で会見(慶長16年(1611)3月
   聡明な秀頼を見て 自分の存命中に 始末しなくては・・・家康は思った

5.方広寺鐘銘事件(慶長19年(1614)7月)
 ・大仏殿完成(慶長17年)、梵鐘完成(慶長19年)
 ・同年7月末 梵鐘の銘に 不穏当な語句がある。
  梵鐘の銘文:「国家安康」 「君臣豊楽」 (南禅寺・清韓文英長老の銘)
   家康、徳川家を冒涜、豊臣家の繁栄を祈願?
   徳川方と豊臣方 全面対決へ (徳川方;全国の諸大名へ出陣を命じる。
                       豊臣秀頼:浪人衆 召し抱え)

6.大坂冬の陣(慶長19年(1614)10月~12月22日)・・旧暦
  徳川軍20万:大坂城を包囲  豊臣軍10万:大坂城に籠城
 ・主な戦い
  ○徳川軍 大坂城外の砦を落とす。・・豊臣軍 諸砦を放棄して 大坂城へ撤収
  ・木津川口の戦い(11月19日)
  ・鴫野(しぎの)の戦い(11月26日)
  ・今福の戦い(11月26日)
  ・博労ヶ淵の戦い(11月29日)
  ・野田・福島の戦い(11月28~29日) 豊臣水軍 あっけない敗北

  ○徳川軍が 大坂城に籠城する豊臣軍を包囲(同年12月頃)
      家康本陣:茶臼山  秀忠本陣:岡山
  ・真田丸の戦い(12月4日)・・徳川軍を 手玉に取った真田信繁の活躍、徳川の大軍を撃退。
  ○砲撃戦で揺さぶりをかけた家康・・砲弾が大坂城の天守の柱を直撃
 ・和睦(慶長19年12月22日)
  ・和睦交渉:徳川方:阿茶局、本多正純、 豊臣方:常高院(浅井三姉妹の次女・初)
  ・条件:本丸を残し 二の丸・三の丸は 廃却、 秀頼の本領安堵
  ・誓書交換・・・徳川方・豊臣方 和議成立・・・冬の陣終わる

7.恐るべきスピードで 大坂城を裸城に
  ・和睦成立の翌日から 徳川方は 堀の埋め立てに着手
  ・徳川方 惣堀(三の丸)に続き 豊臣方分担の二の丸堀も埋め立て(慶長20年1月19日終了)
     家康 次の戦いの準備を着々と

8.徳川方から 豊臣方へ無理難題な要求と 家康・秀忠 西上の途へ
  ・豊臣方は 受け入れがたく やむを得ず 再戦の道を選択、 家康 駿府城を出発、西上の途へ
  ・家康 同年4月18日に 二条城、 秀忠 4月21日に 伏見城に入る

9.大坂夏の陣(慶長20年(1615)4月26日~5月8日)・・旧暦
   徳川軍 15.5万、豊臣軍 5.5万・・両軍 大坂城近郊で 激突
  ・主な戦い
   ・大和郡山の戦い(4月26日)
   ・堺焼き討ち(4月28日)
   ・樫井の戦い(4月29日)
  ○5月5日 家康、秀忠が出陣・・河内方面軍と 大和方面軍に 分かれて大坂へ
   ・道明寺の戦い(5月6日)
     徳川軍の進軍が 予想より早く 槍の後藤又兵衛は 孤軍奮闘するも 小松山で討死
   ・若江の戦い(5月6日)
   ・八尾の戦い(5月6日)
   ・天王寺・岡山の戦い(5月7日)≪ 豊臣×徳川最終決戦 ≫
    徳川方は 天王寺口(家康)、岡山口(秀忠)の2方面から 大坂城へ向かって 進軍   
  ○真田信繁・大助の活躍
   ・家康本陣めがけて 真一文字に 三度の突撃、徳川軍と死闘を繰り広げ 玉砕、討死。
  ○大坂城落城と豊臣秀頼・淀殿自害(豊臣家滅亡)
   ・大坂城炎上(5月7日)・・・徳川方内通者(台所頭)の放火、千姫の脱出

10.豊臣家の名残を ことごとく抹殺(全国各地で 豊臣の残党狩り)
  ・豊臣秀頼の遺児・国松・・六条河原で 斬首(5月23日) 
            奈阿姫・・千姫の助力で 鎌倉・東慶寺の尼に
  ・長曾我部盛親:京都で捕縛され 六条河原で 斬刑(5月15日)
  ・大野治胤:京都で捕縛され(5月21日) 後に 火あぶりの刑に
  ・細川興秋:(細川忠興の次男)伏見で 自殺させられた。(6月6日)
  ・古田織部:切腹を命じられる(6月11日)

11.暴徒となって 民衆を襲った徳川軍
  ・大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵・黒田家伝来)に 描かれた惨劇

 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
 10月6日(木) 夜10時から BS朝日で ”日本の城見聞録” で 「大坂の陣」 が放送されました。
歴史教室と同じような内容でしたが 最後に 黒田長政が 描かせた ”大坂夏の陣図” が紹介され こちらは
TVなので OHPとは違い かなり鮮明でした。 夏の陣は 豊臣と徳川の戦いですが 市街戦だったため
多くの市民が被害を受け 略奪、暴行などがあったようで 死者も多かった・・。




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