私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室 ”後藤又兵衛の生涯”

2016-12-06 15:48:04 | 歴史探索
 12月 6日(火)   天気:晴れ    室温:20.1℃

 きょう午後 公民館の歴史教室12月度に 出席しました。 今月は 元城郭研究室長 中川秀昭さんに
よる 「後藤又兵衛の生涯」 です。 いま 大河ドラマ 真田丸で 又兵衛が活躍しているので ちょうど い
いタイミングです。 中川先生は 又兵衛が 大好きだそうです。 昨晩 テレビを見ていると 鶴瓶の番組
に 又兵衛役の哀川翔が 出ていました。 驚いたのは つい最近 又兵衛が 夏の陣で 討ち死にするとき
の様子が書かれた書状が 出てきたことを 知っていました・・。
 私が 又兵衛のゆかりの地 山田町の福田寺と 加西市の多聞寺を訪れた時のページは 11月17日
の 後藤又兵衛ゆかりの地めぐり を ご覧ください。  南山田城跡や 春日山城跡の写真もあります。
 2014年4月に 歴史秘話ヒストリアで ”黒田長政” が 放送されましたが このとき 後藤又兵衛も 登
場しました。 4月24日のページ を ご覧ください。 この時 又兵衛と長政は ライバル関係です。


 ・ ・ ・ ・ ・ 後藤又兵衛の生涯 ・ ・ ・ ・ ・ ・

1.後藤又兵衛基次(もとつぐ)
  永禄3年(1560) 4月10日~慶長20年(1615) 5月6日 没 (大坂夏の陣・道明寺の戦い)
  6尺(約180cm)を越える巨漢。 「槍の又兵衛」 といわれた勇猛の武将
  黒田二十四騎、黒田八騎、大坂城五人衆の一人
 ※後藤又兵衛のルーツ
  ・藤原氏(藤原鎌足) の流れをくむ後藤氏
  ・鎌倉御家人となり 播磨に領地をえて 播磨に定住 (安田庄:兵庫県多可町)
  ・その後 赤松氏の配下になり 延元五年(1336) 春日山城 (福崎町八千種) を築く
   春日山城主:後藤基明ー基景-基利ー基阿ー基治ー基信ー尚基ー純基ー基信
   羽柴秀吉の播磨侵攻により 春日山城主・後藤基信 (又兵衛の叔父) は 城を退去し
   天正6年(1578) 5月11日 自刃。
  ・後藤氏系図によると 又兵衛基次は 7人兄弟 (女3人) の次男で
    又兵衛には 10人の子があり 女4人を除くと 上から 左門、弥八郎、佐太郎、又市郎、
    基芳、久馬之介。 家康の残党狩りで 長男と次男は 切腹しますが 4人は 生き延びた。


2.後藤又兵衛の生い立ち・その後
 (1)播磨国山田村の生まれ(一説に 加西郡山下村)・黒田官兵衛・光(てる)が 養育
    父:後藤基国(南山田城主)、母:藤岡氏女 (藤岡久兵衛姪・福崎町余田)
    父の基国は 別所氏の配下から 小寺政職の客分に。 又兵衛が 幼少の頃に 父病死
 (2)叔父・藤岡久兵衛が 官兵衛の有岡城幽閉謀略に関与。 又兵衛など一族追放。
    又兵衛は 19歳のとき 黒田家を離れ 秀吉家臣・仙石久秀に 預けられる。
 (3)黒田家に呼び戻され (天正13年 26歳)、幾多の戦いで 武勲
    知行100石で 栗山利安に預けられる
    黒田官兵衛・長政父子の戦いに 黒田家家臣として 参陣
 (4)関ヶ原の戦い後 大名並みの領地を拝領 (慶長6年(1601)・47歳)
    黒田長政 筑前52万石を 拝領、 しかし 東には 敵対関係の細川氏がいて・・。
    又兵衛は 福岡六端城の一つ大隅城(益富城) の城代となる。(16000石を拝領)

 (5)突然 一族そろって 黒田家を出奔(慶長11年(1601)・47歳)
    又兵衛の知勇を惜しみ 多くの大名から召し抱えの申し出 (福島正紀、前田利長、結城秀康など)
    しかし 長政が 「奉公構」 (他家への再仕官を禁ずる回状)の措置
    播磨国・南山田で 隠棲。 池田輝政から客分として 扶持 (1000人扶持)
 (6)天涯浪々の日々・京都で浪人生活 (慶長16年(1611)・52歳)
 (7)家康家臣が 又兵衛に 黒田家帰参を勧める書状を送る (慶長19年(1614)・55歳)
    -書状は 又兵衛に届かず
 (8)豊臣秀頼の召喚に応じ 大坂の陣に参陣 (慶長19年)
    ○大坂冬の陣(又兵衛:遊軍として 活躍)
    ◆鴫野・今福の戦い:又兵衛・木村重成の軍勢が 佐竹義宣軍を 撃破
     冬の陣の和議成立後 徳川家康から 徳川方へ味方するよう誘い・・・又兵衛 固辞
 (9)大坂夏の陣で 討死 (慶長20年(1615) 5月6日・56歳)
    ◆道明寺の戦い(5月6日)
     ・大和方面から郡山・国分を経て 大坂へ向かう徳川軍を迎撃するため道明寺へ
     ・又兵衛は 真田信繁・毛利勝永らの軍を待つが 濃霧で 両軍とも 到着が遅れる
     ・徳川軍は 水野勝成、本多忠政、松平忠政、伊達政宗など 国分に 既に 集結
     ・又兵衛、小松山に 進軍。 さらに 小松山を降り 孤軍奮闘するも 狙撃されて 討死

 (10)又兵衛は 生き延びたとの伝説
     ・又兵衛桜(奈良県宇陀市)
     ・大分県中津市耶馬渓の又兵衛の墓 (義刃智光居士)

3.後藤又兵衛の主な戦い
 ○大坂冬の陣(又兵衛:遊軍として活躍)
  今福の戦い 慶長19年(1614)11月26日
  ・佐竹義宣隊が 上杉景勝隊と呼応して 今福村を攻撃
  ・豊臣方の守将・矢野正倫と 飯田家貞が討ち死に
  ・豊臣方の木村重成・後藤基次隊が 城内から出撃。 木村・後藤隊に 佐竹隊が押しまくられ
   大将の佐竹義宣に 身の危険が迫る
  ・佐竹隊は 上杉隊に 応援要請するとともに 堀尾忠晴・榊原康勝の隊も 戦線に参加。
   佐竹義宣は ようやく危機を脱し 今福の制圧に成功
 ○大坂夏の陣(後藤又兵衛討死・慶長20年(1615) 5月6日・56歳)
  ・道明寺に戦い
   ・豊臣方の連係ミスで 後藤又兵衛が 激戦の末に 討死
   ・ようやく到着した真田隊、伊達政宗隊に 一矢報いて 撤退

 <史料1> 『駿府記』 慶長十九年十月五・十一・十二・十四条
 <史料8> 『大坂御陣覚書』 上
 <史料10> 『北側覚書』
 <史料13> 後藤助右衛門書状 慶長二十年五月十二日付 芥田五郎右衛門宛
 <後藤又兵衛討死之時> 2016.11.17 朝日新聞記事から

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