山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

大阪市廃止を再び否決、大阪市民の意思(2)

2020年11月05日 10時56分54秒 | Weblog
 港区が反対の率が一番多かったのには正直驚いた。スーパー前で連日宣伝をしていた実感からすると勝てると思っていた。しかし表には現れない維新支持者の強固な存在を考えると、そう簡単ではないとも思っていた。港区では勝てるが、全体では微妙だと思っていた。
  港区は、前回反対23,351票、賛成21,410票、票差は1,941だった。今回反対24,527票、賛成18,491票。投票率が下がるもとで、反対を伸ばし、賛成を大きく減らした。結果、票差は6,036票となった。票差では平野区8,377、住吉区8,045の方が大きいが、投票数に倍前後の差があるので、反対率では港区が57・02%とトップになった。逆に賛成率は42・98%と24区中最低となった。
 その要因を事実で証明するのは難しい。わたしの関係した範囲のことを紹介して考えてみたい。わたしは、地域の仲間と相談して、9月12日(土)からスーパー前で宣伝を始めた。連日やろうという計画だ。もちろん雨の日もあったし、人との約束でできない日もあったが、計43日おこなった。最後の1週間は1日2回やった。1回に付き、最初は1時間、だんだん伸ばして最後は2時間におよんだ。
ライフ、ドン・キホーテ、関西スーパー、サンデイの4か所を順繰りでおこなった。宣伝には、駅前、路地裏、そしてスーパー前と3つが考えられるが、JR弁天町駅は大阪市以外の人が半分以上、いやもっと多いと思われる。路地裏は大切だが、多くの人と接するという点でスーパー前を選んだ。路地裏はもっぱら女性グループが相当深く入り込んでくれた。スーパーの客は全員が地元の人だ。しかも週に最低1,2回は訪れる。多い人はもっとだ。マイクをもって訴えれば、居ながらにして効率よく多くの人と接することができる。人が多いのは午前10時半から12時、夕方4時から6時の2回ピークがある。当初、後半は路地裏に切りかえようと考えていたが、やはり勝利するためには、港区で少しでも前進しなければならない、そのためには宣伝の効率を重視しなければならないと考え、最後までスーパー前に徹した。1時間10回スポット演説をしたとして数えてきたところ、10月31日で621回のスポットとなった。600回くらいやれば勝てるかなあと思っていたので、まあ達成できたかと自己満足していたら、うれしいことに前進して勝利できた。
 手伝ってくれないとか恨みがましいを言わず、一人でもやると決めて、効率の上がらない日もあると割り切ってとりくんだ。地域の仲間が、土日など多い日は5,6人も来てくれて、にぎにぎしくやった。また東大阪や神戸の支援の人も並んでくれた日は首からぶらさげたポスターが華やかだった。
 特筆すべきは自民党系の人との交流、共闘ができたことだ。二人の女性と演説原稿で交流。白髪の紳士とは10月4日、ライフ前で宣伝の鉢合わせ。自民党の「都構想NO」の看板をもち、小さなマイクで一人でやる態勢だった。話し合ったら意気投合、一緒にやろうということに。これ以後、なんどもいっしょにやった。気持ちの良い関係ができた。とびいりで訴えをさせてくれという人もでてきた。ペットボトルの差し入れも2,3度受けた。
 反応が激変したのが10月4日の日曜だった。ハンドマイクで訴え、ビラを配って話しかけると、向こうから反対です、反対ですという人が次々現れた。これは5年前にも経験した。5年前は5月17日が投票日で、その2週間前の連休に反対、反対のシャワーを浴びた。5年前より早い4週間前に反対シャワーを浴びたことは運動に時間的余裕があることを実感させた。
 さらなる激変は、10月26日月曜から、反対の意思表明が怒りをともなって行われるようになったことだ。年老いた女性は、大阪市をなくすなんて許せないと泣きそうな表情で訴てきた。大阪市財政局が大阪市を廃止4分割すると行政コストが毎年218億円かかると発表し、それを松井市長らが糾弾して「謝罪」会見をしくんだことでいっそう反発がはげしくなった。ある日の夜、渡哲也風の男性が、わたしの横にずっと立って、訴えの区切りが来ると、この問題で怒りをぶちまけた。行政コストという根本問題を明らかにせずに投票日までもちこんでやり過ごそうという松井氏らのやり方は住民投票を冒涜するものだ。
 ハンドマイクの訴えでは、権限と財源が豊かな政令指定都市を投げ出し、都市格では一番下の特別区に格下げになる問題、それに伴う権限・財源の縮小とその結果としての住民サービスの低下、大阪市廃止4分割の一番の理由としてさんざん言い立ててきた二重行政がもうなくなったことなどを訴えてきた。加えて、港区の歴史と大阪市の関係も重視した。最後の10日間はこれを中心にするようにした。130年の大阪市の歴史の中では多くの苦難があったが、最大は大阪大空襲による戦災だ。戦争の出撃基地の港区は集中攻撃を受けた。1944年の11月には23万人の人が肩を寄せ合うように暮らしていたが(現在は80,500人)、終戦後の翌年9月にはなんと8,600人にまで激減した。それでも復興に立ち上がったが、戦後すぐに襲ったのが枕崎台風、5年後のジェーン台風だ。港区など湾岸地域は工業用水のくみ上げで地盤沈下が進み、海抜マイナス2~2・5だった。だから台風のたびに2m浸水し、2,3週間水が引かなかった。市岡高校の歴史が教える。コンクリの建物が区役所と市岡高校ぐらいだったもとでジェーン台風が襲い、地域住民が教室を占領し煮炊きをして住み着いた。生徒の授業は3週間たってもできなかった。この港区が全域水浸しの下で、救いの手を差し伸べたのが大阪市だった。大阪市が国に支援を要請したが國は断った。すると、大阪市は国がやる気がないならいい、大阪市単独でやると決断した。港区、大正区など湾岸被災地域を3mの盛り土かさ上げ工事をするというものだ。莫大な経費と長期の時間を要する。今、津波被害の宮城・岩手のかさ上げ工事をみればその大変さは想像を絶する。戦後5年10年も経つと、家を再建する人も多くなる。家の下にジャッキを入れレールで横にずらし、3mの盛り土をして、さらにジャッキを3mあげて元に戻す。それを一軒ずつ、すべてやりぬいたのだ。途方もない工事だ。これによって港区は救われた。水の底からよみがえった。演説をしたライフもドン・キホーテも、かつては水の底、今は海抜1メートル。港区民が今あるのは大阪市の決断によるものだ。大きい大阪市だからこそできた。港区民はその恩に報いなければならない。いま大阪市が存亡の危機だ。1週間後に、数日後になくされようとしている。ここで私たちがやるべきことは、大阪市に救いの手を差し伸べることではないか。かつて大阪市がやってくれたその恩返しだ。恩返しといってもお金ではない、気持ちだ。敬意と感謝の気持ちをもって大阪市廃止反対の票を投じること、これこそが港区民のなすべきことではないだろうか。若い人がこの盛り土かさ上げ工事の事実を知らないのは当然だが、知っているものは若い人にも伝えて、住民投票に向かわなければならないのではないか。このような訴えをした。やや長いゆえに、急ぐ人にはわからなかったと思うが、立ち止まって聞いてくれる人も目についた。心に訴えなければと思った。
 橋下氏は以前、反対派は高齢者の支持が多いから、やがてそれらの人は亡くなり反対が減るのは確実だというようなことを言っていた。たしかに前回反対してくれた、あるいは運動の中心だった高齢者で亡くなった方がたくさんいる。これは相当痛手だった。でも前進して勝った。「読売」によれば18~29歳の反対の率は70代に次いで高い。これは注目だ。
 港区で反対が57%にも達した要因として、運動面以外で考えられるのは、港区が新淀川区に組み込まれたことがある。港区は安治川と尻無川に囲まれている。港区は淀川に面していないのに新淀川区に入れられ、新北区の福島区、北区、都島区、旭区は淀川に面しているのに入れられないという理不尽への怒りもあった。
 このように、大変なたたかいだった。疲れた。だが大阪市民の良識が勝利した。
 


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