山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

佐藤忠良生誕100年展(佐川美術館)に行く

2012年06月17日 11時05分11秒 | Weblog
 4月から滋賀県守山市の佐川美術館ではじまった「佐藤忠良生誕100年展」(6月24日まで)にやっと行くことができた。すいていてゆったりと鑑賞できた。作品によってはさわってもいいと表示してあり、彫刻の足や腰、ほおやあごに触れてひとあじ違う鑑賞もできた。
 この美術館は一代で財をなした佐川急便の創業者が琵琶湖の近くにつくったものだ。広い敷地に、水と葭原に浮かぶ平屋の美術館という風情だ。
 佐藤忠良(1912~2011)は宮城県生まれ、7歳から母の実家のある北海道夕張に移る。札幌の中学校から、のち東京美術学校で彫刻の道にすすむ。1944年に応召、シベリア抑留も体験し、1948年帰国。
 この展覧会は生前の佐藤も楽しみにしていたそうだが、その前に98歳で亡くなった。佐藤忠良の作品を収蔵展示している佐川美術館を皮切りに、北海道旭川美術館(7月4日~8月26日)、宮城県美術館(11月23日~2月24日)を巡回する。佐藤忠良の彫刻を展示している美術館は、その名を冠した施設だけで4つもある。佐藤以外に例がない。札幌、宮城県2か所、そして滋賀県佐川美術館・佐藤忠良館だ。宮城県美術館・佐藤忠良記念館は生誕地だけに、全作品を網羅している(佐藤は1986年に全作品を宮城県に寄贈すると表明)。地方都市はゆかりの芸術家・文学者を大事にしている。美術館や記念館がそれぞれの都市の存在証明にもなっている。誇りをもっている。それにしてもあわれなのは大阪の権力者だ。市場で生き残れない文化は消えていいと平然といってのける。文化への無知と敵意。大阪府の文化行政は幕を閉じ、つづいて大阪市の文化行政も同じ道をたどろうとしている。宮城県の心意気との格差。大阪発祥の文楽は権力者によって存亡の危機に立たされている。大阪生まれの佐伯雄三の百を超える作品群は倉庫に眠ったままだ。文化をつぶしてカジノを振興する。21世紀の都市像はどちらがふさわしいか。
 この展覧会では、ブロンズの作品だけで100をこえている。そのほか、絵画、スケッチ、絵本、美術教科書などもあり、佐藤の活動と見識の広さを示している。絵本「大きなカブ」も佐藤の挿絵だ。原画もある。展示作品のなかでひとつをあげるとすれば、「母の顔」(1942年)だ。生活の困窮と、苦悩と、愛が、凝縮表現されている。彫刻が形を写し取るものでないことをこれほど表した作品はないと思う。佐藤の評価を高めた作品として有名な「群馬の人」(1952年)、「常磐の大工」(1956年)などは、決して美男ではない働く人が、生活を語りだすのではないかと思わせる作品だ。たくさんある裸婦も存在感を示している。女優佐藤オリエは娘で、少女時代の彼女をモデルにした作品もいくつも展示されている。
 宮城県美術館学芸員の三上満良は、佐藤忠良の芸術は「リアリズムとヒューマニズム」に真髄があるといっている。ロダンにあこがれて彫刻の道に入った佐藤だ。佐藤は小学校から高校までの美術教科書(現代美術社)も監修・執筆している。やさしい、しかし味わい深い言葉が子どものために書かれれている。いくつかを図録から紹介しよう。

「ものには、見えるものと、見えないものがあります。人は、目に見えるものをかいたり作ったりしながら、実は、やさしさとか真実とかいっ
た、目には見えないものを表そうとしました。――見えるものを通して、見えないものを表現したかったのです。」『子どもの美術6』1994年度用
「ひとは、てと かんじる こころで、ものを つくります。しんけんに つくると、かんじる こころが するどく なります。」『子どもの美術2』1993年度用
「感性は、放っておけば鈍くなってしまう。学問と同じように、努力して獲得するものだ。獲得の方法を吟味して、努力を積まなければならない。」『美術・その精神と表現1』1980年度用
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