2月24日のロシアのウクライナ侵略開始以降、侵略が犯罪であるだけでなく、住宅、学校、病院など民間施設と民間人への攻撃がつづいていたが、ここにきてその残虐性が動かぬ証拠をもって明らかになった。
3月29日の停戦協議で、ロシアはキーウ攻撃の劇的縮小を表明した。同日、70台以上の装甲車がベラルーシの方向へ撤退した。4月2日、ウクライナ政府はキーウ全域解放を宣言した。
ロシア軍が撤退した後のキーウ近郊の人口3万のブチャに入ったAFP通信の記者は「静かな並木道には見渡す限り遺体が散乱」と報じた。両手を後ろに縛られた遺体、自転車に乗ったままの遺体、後頭部を撃たれた人、車の中で殺された人など。女性へのレイプもあった。
ブチャなどキーウ周辺での民間人の遺体は410人見つかっている。モーニングショーの玉川さんは、ブチャの映像はとても直視できない、テレビで放映できないものだという。放映されたのは、遺体の少ない場面でボカシのかけられたものだった。ブチャの映像は、家々、街並み、高層アパートがことごとく破壊され、つぶされた自動車が撃ち捨てられたものだ。ロシア軍の行為だ。一方、すでに赤茶けた戦車が放置されているのはロシア軍のものだ。ウクライナの反撃がいかに厳しかったかを想起させる。キーウ侵攻が失敗したことを浮かび上がらせている。
上に見た残虐行為は、戦時国際法=国際人道法に違反する戦争犯罪だ。この行為はキーウ侵攻初期からの犯行であることが初期のドローン映像で明らかになっており、撤退に際しての恐怖によるものではない。女性のイアリングを引きちぎったり、家から財産を奪うなどの略奪も行っている。虐殺を隠蔽するために教会の庭に穴を掘って埋めたケースもあるが放置された遺体が多い。問題は現場の暴走によるものなのか、上からの指示によるものかだ。現時点では断定はできない。
ロシア軍の残虐行為を考えるうえで参考になるのが、1937年から38年の日本軍による南京大虐殺だ。南京攻略軍は「糧を敵に求む」という作戦思想で補給なしに略奪をくり返して進撃した。郊外を含む南京市、さらに南京城内=旧市街に攻め入り、暴虐の限りを尽くした。農村部や郊外では穀物、家畜を奪って家人を殺害、放火する。ついでに女性を見れば強姦する。キーウ周辺でも補給がとどこおっていたことが知られている。南京市街地でも略奪をくり返し、国際連盟が認め日本軍も承認した国際安全区内でも強姦をくり返した。南京は首都のため、ふみとどまった外国人ジャーナリストや同盟国のドイツ人が蛮行を記録した。軍は兵士に戦時国際法の教育をし、違反した兵士を処分しなければならないが、旧日本軍には望むべくもなかった。
南京から85年も経った21世紀の今、ロシア軍では戦時国際法の教育はなされていないようだ。プーチンの軍隊は、皇軍といわれた旧日本軍とあまり変わっていない。戦争犯罪非難に対して、教育はしていたが一部の不心得者がいて残念だともいえず、やみくもに全否定する。「ロシア軍が町を占領している間、住民が暴力行為の犠牲になった事実はない。ウクライナが西側メディアのために演出したもの」と黒を白といいくるめる。だが、キーウを制圧し傀儡政権樹立を目指していたはずで、まさかロシア軍が敗北し、事実が暴露されるとは考えていなかったのだ。キーウ解放のときの演出のために、ウクライナ軍が自らの市民を虐殺、略奪し、強姦し、町を破壊しつくすという論理的必然性が全くない。ロシアのごまかしは子ども以下の屁理屈だ。ウクライナにそんなばかなことをやる余力があるなら、侵略への抵抗に総力を傾けるだろう。
虐殺行為で犯人が一番困るのは遺体処理だ。証拠隠滅が欠かせない。南京では、20万人前後の虐殺の大半は捕虜の殺害だった。もちろん捕虜は殺してはいけない。ウクライナでは捕虜は同数で交換している。日本軍は、兵の食糧も用意していなかったから、捕虜の食糧はもとよりない。だから捕虜は始末することになる。中島今朝吾・第16師団長は1937年12月13日の日記に「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる」(「中島今朝吾日記」)と記録している。しかし何万という数の遺体が問題になる。多くは揚子江河畔で処分し、あるいは大きな穴を掘って埋めて油で焼く、または揚子江につながる川に捨てた。
キーウでは、教会の庭にまとめて埋めたりしたが、そこまで気が回らず放置したケースが多い。それがいま、動かぬ証拠として映像になっている。