7月の毎週木曜日の夜に、特別講座が開催される。
今回は北前船についてだった。
「10人も来てくれれば良いかな。」とは小野寺先生。
しかも、受付などの手伝いも呼ばずに、一人で全部行うつもりだったこと。
嬉しいかな、倍の人数の参加者で部屋が狭いんですけど。
何故北前船と呼ばれているのか、諸説が3-4個もあった。
北前船に最も関連しているのが、最上川舟運で上杉藩を含めた内陸の米を酒田から全国へ。
また、庄内は最北の天領(幕府直属)の米を江戸に運ぶ目的で西廻り航路が開かれた。
また、庄内は最北の天領(幕府直属)の米を江戸に運ぶ目的で西廻り航路が開かれた。
蝦夷地にロシア船が来て上陸され、松前藩が幕府を通して庄内藩も含めた北東北の藩に応援依頼があり、鶴岡の武士たちが北前船をチャーターして蝦夷地へ向かった。
ロシア人達は、上陸すると物は盗むは建物を放火させるは、狼藉を働いたことは先の鐙谷古文書研究会で知る。
北前船に関した物のあれこれをスライド(ちょっと調子が悪くて時々消えちゃう)を使い説明して頂く。
昆布は北東北や北海道で採れるが、質の良いものは北海道だ。
北前船のお陰で、昆布の消費量No.1は富山県だそうだ。
さらに薩摩を経て中国(清)へ輸出(鎖国は建前)されていた。
薩摩とくれば琉球だが、ここでも昆布を使った料理は今でも健在だ。
薩摩とくれば琉球だが、ここでも昆布を使った料理は今でも健在だ。
蝦夷地と言うと、先日訪れた遊佐町の青山留吉がニシン漁で財をなしたが、ニシンは食べるだけでなく、干した物を田畑の肥料して重宝した。
ニシンの前はイワシだったのだが、ある時から不漁となり、ニシンが捕れだした。
ニシンの前はイワシだったのだが、ある時から不漁となり、ニシンが捕れだした。
そんな幸運が訪れて留吉は豊かになっていく。