ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

子どもを祝福する

2012-11-25 20:40:20 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「マタイによる福音書」 19章13節~15節 でした。

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。 弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。
天の国はこのようなものたちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。




この当時、子どもというのは弱くて力なく、社会的生産力も無く軍隊で働くこともできない、社会の
お荷物的存在とみられていたそうです。
病気になっても満足な医療も受けられない子供のために、多くの親はユダヤ教の祭司などに、頭に手を
置いて祝福してもらうことをを望みました。

大祭司とも言えるイエスの祝福をいただこうと親たちは子供を連れてきたのでしょう。

この時のイエスは十字架の受難を前にして弟子たちを教育したり大勢の人を癒したりでとてもお疲れに
なっていたに違いありません。  それを気遣って弟子たちはイエスから子供を遠ざけようとしました。

しかしイエスは子供の頭にてい置いて祝福なさいました。

イエスが「天の国はこのような者たちのものである」といったのは、子供は純真無垢で嘘もつかず、世の中の
汚れも知らない、というような子供の「性質」を言ったわけではありません。

昨今のいじめの問題でもわかるように、子どもは決してピュアなだけではありません。
残虐で冷酷で無慈悲な面ももっています。

以前の口語訳聖書では子供を幼子(おさなご)と訳していましたが、多分12歳くらいまでを指すのでしょう。

幼子、子供は弱く、力もなく、親や周囲の大人に頼らなくては、一人では生きてゆけない「存在」です。
その事がわかっているので、子どもは無条件で親や周囲の大人により頼みます

私達もそういう幼子のように神にのみより頼む「存在」となるなら、天の国*)は私たちに開かれているということ
がここでは説かれているそうです。

    *)天の国(天国)とは空の上にあるものではなく神が支配なさる世界を指しています。

私はクリスチャンですが、原罪、十字架の赦し、イエスキリストの復活、命の甦りなどについて、信じているのですが、
そこに絶対の確信があるとは、残念ながら言えません。  苦しい所・・・・・・(^^;)

今日のお説教を聴いて、これからも聖書を読み、祈り、教会に繋がり、幼子のように神にのみ依り頼んで
生きてゆきたいものだとの思いを強くしました。

美竹教会のホームページに上田先生の説教全文が載ります。 ぜひ、そちらをご覧ください。





      赤ちゃん時代のポメラニアン、生後二か月でした。




今日、美竹教会では礼拝後、三本のクリスマスツリーの飾りつけをしました。
クリスマス礼拝は12月23日(日)午前10時半からです。
午後は子供たちを中心に楽しいクリスマス祝会があります。
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