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タクヤ、ミズキと談笑するたっちゃんの陰でなにやら黙々と竹を削るおじいちゃん。
できあがったのは竹とんぼとゆらりとんぼ。
ゆらりとんぼはこれ
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タクヤとミズキの「うわぁーすげー」の賞賛に、はにかんだような笑顔を浮かべ、また、おじいちゃんたちの焚き火の輪に戻って行った。
「おーい、みんな、竹とんぼの作り方教えてやるぞー」もなにもなく現れ、「なぁ、すげぇだろ、おじちゃんと作ってみるか」もなにもなく去っていったおじいちゃん。
こういう関わり方は本当にありがたい。
あるプレーパークでは、剣玉名人おじさんが関わり始め、手取り足取り子どもたちに教えるようになったら、子どもたちの足が遠のいてしまったらしい…。
この「ゆらりとんぼ」の後日談⇒「ゆめ・まち・ねっと日誌」
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ま、いっか。
それは「出来る→〇・出来ない→×」「上手→◎・下手→×」という意識。
「何か」が「出来るようになる」という目的があるから教える。
そして教えた結果について「評価」が生まれる。
もちろん「教える=悪」「教えない=善」であるはずが無い。
だらだら長くなるから結論。
「できる」も「できない」も、「上手」も「下手」も同等の価値として遊び場には存在してる。
「できない」「下手」の価値がわからなければ、少なくとも遊び場では教えて欲しくない。
ただものじゃないと見た。
このゆらゆらトンボ、竹工作としてかなり高度。
それをサラリと作り、何も語らず去るとは・・・。
遊びの中のカッコよさとはどういう事か心得ていらっしゃる。
むしろ、なおさら、教えていただきたくなる。