暘州通信

日本の山車

●109 高山市監査請求 西蓮門徒所有地の売買

2005年12月27日 | 高山市の不正
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第1 請求の要旨
1 高山市長土野守は平成12年3月、高山市下之切町の浄土真宗寺院・西蓮寺の門徒ら三十名が共有で所有する下記記載の物件(以下「賃借農地」という)を高山市長の名称を用いて賃借する契約を取り交わすとともに、以後、現在にいたるまで所定の賃料を支払っている。その金額は開示されないので不明であるが、平成12年度、13年度は年額20万円、14年4月よりは月額およそ20万円に増額され平成15年3月までの支払総額はおよそ280万円と推定される。
2 賃借農地は、契約と同じ月の平成12年3月21日、既に高山市土地開発公社が、門徒代表者の同意書添え農地法第5条に規定する農地の売買及び転用の許可を申請し、農林水産大臣と岐阜県知事の協議による許可を得て買い受けているから、その所有権者は高山市土地開発公社である。
3 前項1、2。高山市長土野守が賃借農地の賃貸契約を結ぶ相手は高山市土地開発公社でなければならず、無権者である西蓮寺の門徒との契約はあきらかに相手を取り違えている。
4 農地の賃貸借は、農地法により農業委員会の承認を得なければならないが、高山市農業委員会にその承認申請は出されておらず、承認もされていないから賃借契約はこれを禁じる農地法に違反する。
5 前各項。高山市長土野守の行為は違法であり、かつ不当な公金の支出に当たるから、
 農地の賃貸契約を即時解除するとともに、賃料の支払いを停止し、併せて支払い済みの賃料の返還を求める措置を講じるべきである。
6 地方自治法第242条第1項の規定により別紙事実証明書を添え必要な措置を請求します。

第2 物件の表示
1 所在地 高山市前原町13番地1
  地 目 田(農地)
  地 積 661平方メートル
2 所在地 高山市前原町13番地3
  地 目 田(農地)
  地 積 608平方メートル
3 所在地 高山市前原町14番地1
  地 目 田(農地)
  地 積 770平方メートル

第3 添付書類(事実証明書)
1 農地賃貸契約書(写し)                       1通

                                    以上



◆谷口與鹿 高山帰郷

2005年12月26日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 高山帰郷
 安政二年春。兄延儔から厳しい手紙が届いた。高山大新町「鳳凰臺組」から、「はやく屋臺を完成せよ」と迫られている。じつは本体はすでに完成し、下臺の彫刻のみとなっている。これは與鹿の仕事だが、とうとう祭には間に合わず、この部分を更紗の生地で覆って曳いたが、今年は完成させないと面目がたたない。兄の苦衷を察し、速やかに帰って彫刻を完成しておくれ。
という内容だった。

與鹿はすぐ手紙をしたため、使いに渡す。
高山をはなれてすでに五年。高山にいないので皆が屋臺の完成するのを待ち望んでいるという。
はやる気持ちはあったがこの年もはついに帰高できなかった。
あけて安政三年。與鹿に訃報が届いた。
兄、延儔の死去である。與鹿は愕然となった。
二月上旬、「かならずもどってきなはれや」のことばに約束しながら、與鹿は
見送られて高山へ帰った。必ずまた伊丹に戻ることを約束して。
高山に帰った與鹿は兄延儔の百箇日の法要を無事済ませるとさっそく大新町に赴いて
丁重にわびると、このとしの祭には間に合わせ「乱獅子渡浪図」を仕上げることを約束し、ついては今しばらくご猶予いただきたい。というのも、兄の延儔が請け負っていた上町神楽臺の改修がしかけとなったままで、春の山王祭が迫っている。
 町内のひとも案じておられるが、年老いた母にこれ以上の心痛をかけたくない。というので、この神楽臺のことは兄に代わって完工したい。

鳳凰臺組頭は「秋の祭には鳳凰臺を曳けるようさえしてくれたら、待ってもええ」と快く與鹿の言い分を聞いてくれた

 言うまでもなく、屋臺の曳き順は毎年籤で決まる。
しかし、神楽はつねに先頭、三番叟は歌舞伎など祝事の出番によって必ず二番目、この一、二は番外で籤とらず。実際には三番以下が曳順になる。 このの屋臺の先頭を曳く神楽臺を休臺にはできなかった。 未完成の下臺の仕上げにさっそくとりかかった。

神楽臺を仕上げると、さっそく次の鳳凰臺の下臺彫刻にとりかかった。
兄延儔の遺児、宗之を励まし、弟子の浅井和助に手伝わせて鑿をふるい、見事に仕上げたときは秋の八幡祭も目の前だった。

兄の遺志を全うして追善供養の志をはたした。與鹿は完成した鳳凰臺が曳かれる姿を見ることなく、すぐ摂津伊丹に向かって旅立った。

 このとし宗之は十六歳、母の於佐野は七四歳。
涙をこらえて宮村境の松橋まで見送った母ともここで別れたが、いかにも名残りのつきない、足の重い旅立ちだった。

伊丹郷町に飛騨高山以上の屋台を建造する。これが兄の意志であり、伊丹郷町との約束だった。


◆00007 岐阜県植物誌 ハガクレツリフネ

2005年12月26日 | 岐阜県植物誌
◆00007 ハガクレツリフネ

九州南部、四国南部、紀州南部。この地方は熊襲、速見、紀州と呼ばれるが、三地方の頭文字を取って〔ソハヤキ〕といっている。
カンラン、コウヤマキ、イワザクラなどの共通する植物に混じって、ハガクレツリフネがある。美濃の水鳥谷に自生がある。ソハヤキ要素の北上といっている。

◆00013 キバナノレンリソウ

2005年12月26日 | 岐阜県植物誌
◆00013 キバナノレンリソウ

 日本で自生が見られるのは伊吹山のみである。ヨーロッパに起源を持つ植物で、口碑では、織田信長がポルトガルの宣教師に許しを与え、伊吹山に薬草園を開かせたという。記録類がまったくないので伝説化しているが、キバナノレンリソウがその謎を語ってくれそうである。

●71 岐阜県植物誌 イブキフウロ

2005年12月26日 | Weblog
イブキフウロは伊吹山に産するとされる。しかしその花は縁辺が紋章の花菱のように凹入する。しかし現地で見かけることが稀なこともあって、種の固体上の変異と
解釈され、このごろは死語のようになっている。
筆者はヒマラヤからジェラニウム・ネパレンセの種子を入手したので播種し、栽培したところ、イブキフウロとおなじように花披の縁辺が凹入する花が開花した。
イブキフウロの再検討が望まれる。


◆谷口與鹿 名残月

2005年12月25日 | 日本の山車 谷口與鹿
安政三年。十月四日。

谷口與鹿は山口米女より橋本香坡とともに、山口大乙を偲ぶ俳諧の席に招かれた。香坡の妻益子死去半年のちのことである。場所は、伊丹の願成山正覚寺であった。このときの詠草はのちに「なこ里月」という書名で出版された。この俳書に跋文を書いたのは橋本香坡である。
全文引用する。

なこ里月

太乙業暇好俳偕並
嗜茶愛酒良展美景未
嘗廃賞□□一□之風
流人也以甲寅之歳九月歿
鴈実可惜哉  其室及
嗣子等諸友謀集平生所
作及四方唱和與其大祥祭
所奠諸家之句以為一巻
贈之同好開新巻□居士
之把杯念華欣然於雪
月花之間也可以想見矣矣
居士姓山口名恭伊丹人也
業醸酒太乙其号也
安政丙辰 □月香坡通 序

通印  大路

安政三年丙辰十月四日於願成山
大祥忌追善正式の俳諧

        太乙居士
名残りして雲もへだたぬ月夜かな
一羽遅れて声寒き雁 米女
塞がせる窓に菊のかこもるらん 梅賀
見習いもなき役をつとむる 喜久里
□□□□□の□しきのとうさに 曲阜
ぬるむにつれて淀む水おと 太丈
何時のまか土筆のたけて影を杲      糠人
思い出しては書す短冊          白雀女
不自由さは長き房の奥住まい       梅陰
綟子の蚊帳のにおいたちけり 春人
桶に輪を藤で曲げたる木曽土産 環春
呼べば畑から戻る飼鳩 古樵
小庇はくれぬうちにも月の澄む      鳴々
むかしめいたる大鼓念仏         元機
舟揚げの西瓜を山につみあげて 孝月
よき雨降りし八専の明 岳明
花つぼむ木々も静かな朝の内       可大
春まだ寒きはりまぜの文 桃雄
鴬の餌を摺るうちも舌つづみ 橙江
もろうた絹の名のしれぬなり       藤涯
言いしことの嘘にもならぬ気しんどさ   金陵
夢のここちぞ枕橋こす          梅賀
ちりかかるまでは□□□□雪の空     春人
□下げてくる□□の□ 糠人
毛羽織に頤の毛のもつれ合い       岳明
平家の筋は出さぬたしなみ 梅陰
道分けの石方□□建てらるる       藤涯
いのらば利生ありそうな楠        曲阜
夫れだけのかけには明るき三日の月    喜久里
雨戸を繰ればセキレイの啼く       鳴々
中殿の献上もはやしまいなり       古樵
手足あらえば気の楽になる 環春
する墨の音に閉まりし机もと       桃雄
日和定まる家普請の中          太丈
南無やなむ散りての後も匂う花      林曹
つらなりうかん苗代の露         □筆

この「むかしめいたる太鼓念仏 元機」とあるのが與鹿。元機は俳号である。

この翌月の十一月、橋本香坡は自ら生前の墓をたてた。



●66 谷口與鹿 益子の死

2005年12月25日 | 日本の山車 谷口與鹿
香坡が伊丹に移ってしばらくは平和な暮らしがつづいたが、あいついで父、母を野辺に送ることになった。
さらに、安政三年、急な病にかかり四十四歳の若さで死去した。
悲しみにくれる香坡は涙をふるってこの妻の葬儀は伊丹で行った、この葬儀の記録に興味ある記録がある。
夫である橋本香坡が書いたもので「松樹院葬式一条」という。
「平尾氏俗称益、于時四十有余才、橋本半助妻諱益、上州沼田藩平尾□の次女、橋本半助の妻なり、貞敏才識あり、事い処して精細、能く舅姑に孝う、勤めて家を納め、礼を以て人に接し、裁縫の暇はは常に夫を助け、句読を童蒙に授け、君飭可即な飭可則なり。
 安政三安政三年丙辰首夏望疾を以て没す。享年四十四、摂州伊丹黒墓地中舅姑の瑩側に葬る。
法諡は松樹院光月貞延大姉」

と。この葬式記録に次の記載がある。

位牌 輿附 輿  (舁夫六名略)
  上州沼田藩 同所住
  妹聟  平尾三司
 遠国付代 谷口與鹿

 妻の葬儀にああり、棺に一番ちかく侍る近親者として、妻の妹婿である平尾三司という人が、あたるべきであるが上州の沼田という遠方なので、谷口與鹿がそのかわりをつとめた。というのである。
 與鹿と香坡が兄弟以上の交わりであったことを如実に示している。