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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

阿蘇の山岳仏教 古坊中 麓坊中 No495

2018-08-30 22:26:08 | 神霊界考察
阿蘇山の信仰について『阿蘇神界と火山神 No397』
『熊本霊ライン基点の御坊山の鯰と阿蘇国造神社の鯰 No361』等でいくらか述べているが、
阿蘇山の山岳仏教については不勉強でよく知らないでいた。
今回里山ギャラリーで「肥後の山岳信仰 阿蘇山と池辺寺〜龍伝説の残る山岳寺院〜」展示が
あったので観てきたのだが
その展示物の中になんと赤く塗られた乙護法小童子像があった。

 乙護法堂記載古文書  阿蘇に祀られていた乙護法童子

背振山だけでなく阿蘇山でも乙護法の祭祀が為されていたという事だ。
古い時代には例年1/28に阿蘇山上で乙護法祭が祭祀されていたというし
阿蘇山大峯修行も『大聖乙天童阿蘇大峯修業』と呼ばれていたという。

もはや記憶には残っていないのだがこのブログを検索で振り返ると
『二十一日祈願と忌服 No272』の記事の通り
2011年の6月1日から震災厄除21日祈願をしているが
これは『熊本霊ラインと熊本大災害 対策検討篇 No265』で示した通り
2008年より2010年まで益城で震災厄除をして布田川断層に対して成果を感じたので
場所を変えて今度は立田山断層に対しての祈願ということだった。

熊本大震災は2016年の4月14日に起こったのだが結構離れているはずの阿蘇でも
被害が大きかった。
歯切れが悪い書き方しか出来ないがこれには乙護法の祭祀が
廃れたことが関係していると思われる。
歯切れの悪さはそもそも地震の発生の因果にも関与が感じれれるからだ。
私もその御神名すら知らなかった。

世界各地の宗教遺跡が帰還される神霊のために
建造されているのではないかという仮説があるが
少なくとも帰還された乙護法神霊は祭祀の風化に少なからず影響された可能性がある。

いろいろと調べてみると阿蘇の山岳宗教は現在は西巌殿寺に残されている。
ここで「阿蘇山観音まつり」が行われているのだが
残念なことに近年乙護法の祭祀は大々的にされていないものと思われる。
祭りは毎年4月13日に行われるそうだがその次の日に祟られてしまった。
熊本大震災が2016年の4月14日に起こった。
特筆すべきは2016年4月13日にミャンマーのマンダレー地方で
M6.9の地震が起こっていることだ。
熊本の2回の地震は6.5と7.3で平均が6.9になる。
まるで倍返しである。

私がこのブログで記載している呉音霊や呉音神と乙護法童子は
同じ神霊ではないと思われるが
呉系姫氏の渡来以降での日本の姫氏の呉音霊祭祀に付随して
渡来してきた神霊だと思われる。
慈恵大師円仁感得の赤山明神との類似性を感じさせる。
現在は魔多羅神と同様に障礙神としての性質が強いが
徐々に落ち着いていただきたいものである。























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串間穀璧メモ  No494

2018-08-26 16:39:00 | 神霊界考察
串間市については以前より赤池渓谷にある赤池神社の
龍神がとても気になっていた。
 
赤池渓谷の起源は約2万5000年前におきた姶良大噴火で
発生した入戸火砕流の浸食にある。
ここを流れる川の名前は福島川というのだが
この地域を調査していて江戸時代にこの河川流域で
穀璧と呼ばれる玉璧が見つかっていたことを知った。
「串間子爵位穀玉璧」
ネット上では国宝と書かれていて
『国指定文化財等データベース』で調べてみたが
一致するものを見つけられないでいる。
分類は考古資料のはずだが見つからないので他の項目も調べているのだが
残念ながらやはり見つからないでいる。

箱書きは
「文政元年戊寅二月 日向国那珂郡今町農佐吉所有
地字王之山掘出石棺所獲古玉鉄器三十余品
一蓋日向上古之遺跡多矣所謂王之山亦必非尋常古塚
明治十年丁丑十二月
 湖山長愿題」

前田育徳会が所持しているというが
前田育徳会のウイキペディアの所持品の重文以上の項にも
この穀璧は記載がない。
しかしこの前田家由来のお宝類は国宝だけで22点も所有している。

またこの穀璧は紀元前2世紀という印象付けが為されているが
実際に中国の玉器の写真集を見ると
紀元前3世紀から紀元前2世紀と判断される。
なぜ紀元前2世紀に固定されたのかというと
漢の武帝は前156年生まれなのだが武帝が支配した朝鮮四郡に
下賜された玉璧が日本に渡来したという下書きがあるからだ。
天理参考館に穀粒文璧があるがこの年代は戦国~前漢 前3~前2世紀と
記載されている。
また漢に従属しながらも結局武帝に滅ぼされた南越王の
玉璧と類似しているとして時代を特定しているが
『西汉南越王墓01』
『西汉南越王墓02音楽付』
の中国サイトを見ても玉璧56枚の一枚であり
全てが同一の漢王朝由来という訳ではないようだ。
それ以前の旧来品の可能性も高い。

ただ日本に伝わったこの穀璧が日本に渡来した呉系の姫氏に
関係するのかについては良く分からない。
春秋の玉器や璧はもう少し武骨であり穀璧を見る限りは
戦国時代(中国語検索では战国)のものと思われる。

この赤池神社に眠る龍体は時と人とを待っているように思える。
しかし目覚めればそれなりの覚悟も求められるので
今しばらくはそっとしておいた方がいいのかもしれない。






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四山神社参拝記 No493

2018-08-17 00:04:13 | 神霊界考察
以前記載した『菊池市の神来貴船神社参拝記 No484』
神来貴船神社を創建した菊池則隆公が他にも
呉系姫氏祭祀の神社を創建して無いかを調査して
その一つに護此君神社=呉姫君神社を見つけたことを記載した。

その後の調査で熊本県荒尾市の菊池則隆公創設の「四山神社」を参拝した際に
呉系の御神霊の降臨を感じたので報告しておきたい。

  


実はここでは確実性のある伝承的なものは発見できていない。
しかし四山神社で有名な『福銭五円玉』は『呉縁』であるし
虚空蔵菩薩の降臨伝説は呉太伯を金星太白としたために
金星太白の虚空蔵菩薩が祀られる結果となったと思われる。

実はこの神社の前は何回か車で通っているのだが
以前鳥居の四山神社の文字を白山神社と見間違えていたことがある。
決して見間違うようなあいまいな文字ではないのだが
白山神社に見えたことが気になっていた神社である。

いろいろと調べていて菊池氏の栄枯盛衰が呉音霊の祭祀、
あるいは祭祀による実際の呉音霊の到来と逗留と帰還とに
深く係わることが分かってきた。
地方の一豪族が日本史に名を残すまでに影響力を持てたのには
呉音霊の威が振われた事が大きいようである。

ところで菊池武時は護良親王の命により、
一族を率い博多の北条探題邸に決死の覚悟で討ち入っているのだが
討ち入りに先立ち長男の武重を袖ヶ浦に呼び、
再起を図ることを命じて故郷菊池に帰している。
これは「袖ヶ浦の別れ」と呼ばれる。
そして打ち入った菊池武時らは全員討ち死にしている。

この件で「菊池武時は後醍醐天皇に一命を賭した忠臣第一の人」と
賞賛した楠正成も二年後には決死の湊川の戦いに赴いて戦死する。
その時に前例に倣いやはり子供の正行を引き返させている。
これが有名な「桜井の別れ」であるが、
日本人の決死の覚悟に表れる美学はこうやって熟成されていく。

ちなみに武時の「袖ヶ浦の別れ」での句は
「故郷に今宵ばかりの命とも知らでや人の我を待つらん」と
家族を思いやっている。そして辞世の句は
「もののふの上矢のかぶら一筋に思ふ心は神ぞ知るらむ」と潔い。

楠兄弟の湊川の戦いでの辞世の句は
楠木正李 「七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばや」 
楠木正成 「罪業深き悪念なれども、われもかように思ふなり。
     いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん」

日本人の潜在意識に残る「散る桜 残る桜も 散る桜」という句は
仏教の諸行無常の響きがあるが皆決して死に急いでいる訳ではない。

「七生報国」は日本の国防意識において強い防波堤ともなったが
実は菊池氏が奉斎した過去の呉音霊の演出である可能性が高い。
呉音神祭祀での日本の国防祈願の在り方を考えるときに
武に走りすぎることだけは控えるように祈願していきたい。



追記

今週は護比君神社にも参拝してきたのだが
地震の被害がかなりあって復旧も進んでいない状態だった。
鳥居も狛犬も倒れたままの状態で無残としかいいようがない。
扁額(神額)

同日(8/19)のことだが阿蘇の霜宮神社では御神体を火焚き屋に遷座して
乙女が火を焚き始める「乙女入り」の儀式があった。
筆者が儀式後に撮った写真なのだが面白いオーブもどきの写真が写っている。

  五色オーブ

オーブはダストと光の加減で映り込む光学現象なのだが
確かに神社仏閣での映り込みが多い気もする。
今回のように虹色五色というのは初めてである。
霜宮神社の神事は鬼八の霊を慰撫するものなのだが
この鬼八は貴船神社の仏国童子 牛鬼 舌家の家紋の菱印に八の字と
妙にかぶっているように思える。
鬼八の調査で訪れたのだがもう少し調べてからこの件は報告したい。





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特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP11

2018-08-16 22:07:14 | 神霊界考察
P10はコメント数220を超えていますのでP11での展開をお願いします。

『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP1』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP2』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP3』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP4』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP5』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP6』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP7』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP8』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP9』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP10』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP11』へのリンク

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砌霊剣の鋭さ No492

2018-08-04 23:12:31 | 神霊界考察
イザナギが火之軻遇突智神を斬った霊剣は天十握剣の「天之尾羽張剣」だとされるが
この剣は八岐大蛇退治の時に「蛇之麁正」と名付けられている。
この十握剣はいつの頃かイザナギの子のタケミカヅチが所持したのか
あるいは別のものなのかの詳細は分からないが、
のちに神武天皇が東征途上において熊野での敗北受難の際に
タケミカヅチから高倉下を通して十握剣の韴霊剣が授けられている。
その後石上神宮に預けられるのだがその時には布都御魂剣と呼ばれている。

さてイザナギが火之軻遇突智神(火之迦具土神)を斬ったというのは霊的に言うと
水の要素と火の要素を切り分けたということになる。
切った際に淤加美神=龗神 水の神霊と
建御雷神 雷の神霊などが産まれていると記紀に記載されているが
実際には純粋な火のエレメントである火産霊も産まれていると推察する。
火の神の名前は伏せられたままになっている。

過去においてその斬った時々で天十握剣は名前を与えられているが
カグツチを斬った際の天十握剣の名前を以前より探していた。

先日、香川県高松市一宮町の田村神社の由緒書に興味深い文を見つけた。
この田村神社は以前吉備津彦命の調査でかなり調べた神社で
香川県東かがわ市の大水主大明神とも呼ばれる水主神社と共に
倭迹々日百襲姫命を祀る神社で定水大明神とも呼ばれる。

この由緒書に「天隠山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し
神武天皇御東征の砌霊剣を奉っ て偉功を立て給ひ後
御子天五田根命(又の名を天村雲命(あめのむらくものみこと) )と共に
紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て
国郡の境界を分つなど開拓水利の基 を定められた。」

ここに『砌霊剣』とあるがこれは一般に言われる韴霊剣のことである。
砌みぎりの意味とは「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわのことである。
雨滴の雫が石畳に落ちて穴を穿つがその石畳も砌とよぶが
砌は水と水滴と、又水滴と石畳の境界をも意味する。
まさに火之軻遇突智神から火と水とを切り分ける霊剣を『砌霊剣』と呼ぶのは
切れ味鋭く妙味がある。



※さくら様から石切剣箭神社との関係についてコメントをいただいたので
砌という一文字の漢字が日本で石切から派生した可能性について探ってみたが
中国の説文新附には既に載っているので10世紀以前にすでに中国で
使われていたことは間違いない。
石切剣箭神社は物部氏の祖 伊香色雄命が建てたとも言われるが
この伊香色雄命が石上神宮に布都御魂剣を奉納しているので
この神社名の石切剣は砌霊剣の事で箭は天羽羽矢を意味することは間違いない。
ということは砌という一字の漢字を石切と読み間違えた可能性の方が高い。











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霧島高千穂峰で呉音神に感応した性空上人 No491

2018-08-02 16:20:38 | 神霊界考察
前回記載した『玉名の山田日吉神社内の乙護法童子』では
乙護法神は脊振山に関係した祭神であることが分かったが
それを祭祀する経緯には性空上人が深く関与している事が分かった。
性空上人の足取りをたどると呉音神の感応の初発は
どうも霧島高千穂峰であったように思える。

霧島といえば『呉音霊を考える No402』 で記載したように
謎の天逆鉾が高千穂峰の山頂に避雷針のごとく突き刺さっている。
当時はかなり貴重だと思われる青銅鉾を
わざわざあの足元が異様に悪い山頂に持っていくなどということは
よほどの故と思われるが
たぶん性空上人もあの逆鉾を目にし何か感じるものがあったのであろう。
霧島六社権現(霧島六所権現)を開山したとされる。


※江戸時代に薩摩藩が宮崎高千穂との天孫降臨の場所争いで
その根拠とするために
天沼矛の実物(偽装)として刺したという話があるが
半分事実で半分違うようである。
この逆鉾は二つに分かれ刺さった剣の平らな柄の上に
三本の刃を載せているのだがその刃が江戸時代に作られたのは事実らしい。
あの刺さっている側の柄の顔は天狗だというが
どうみてもそのようには見えない。

さて性空上人は俗名は橘善行であり父は従四位下橘善根である。
橘島田麻呂の河童伝承に始まり橘氏には呉系の渡来人との接点があり
性空上人もその秘密を知っていたのかもしれない。
橘氏と呉系との関わりについては以下を参照にしていただきたい。
『橘 禅譲の可能性 No341』
『八代の鎮宅霊符神 No337』
『香春の呉音霊 No403』


性空上人は延喜10年(910年)生まれであるが
36歳の時に慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。
康保3年(966年)には播磨国書写山に入山しているので
たぶん霧島に来ていたのは950年~960年頃ということになろう。

霧島神宮の公式HPには以下のように記載されている。
「旧記によると、本宮はもと高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間の
脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火のために悉く炎上し、
村上天皇の天暦年間(950年)天台宗の僧である性空上人が
高千穂河原に再興奉還しました。」以上

性空上人は広大な山域を修験道場として霧島六社権現を構築したと思われるが
そのうちの霧島岑神社はもとは霧島中央権現宮と呼ばれ
高千穂峰中腹の瀬多尾の高地に鎮座していたそうである。
現在高千穂峰に一番近い神社は霧島東神社で天逆鉾の所有神社であるが
高千穂峰中腹の瀬多尾越とは現在の高千穂河原の古宮址に比定されている。
だとすると霧島神宮の移動先との間には錯誤がありそうだが、
それはともかくこの高千穂河原の古宮址はとんでもない聖地である。



ちなみに高千穂峰の東側4kmほどの処に御池(みいけ)があるが
この池の「護摩壇港」には洞穴があり性空上人が護摩行をしたと伝わる。

『呉の太伯を祀るという鹿児島神宮に参拝 No406』
呉系姫氏の祭祀あるいは呉太伯の祭祀は韓国宇豆峯神社と思われると記載しているが
性空上人との繋がりが現在のところ見えていない。
この韓国は江戸時代までは辛國と記載されているものもあるので
韓国を意味するという訳ではない。
もっとも印刷版の延喜式神名帳では延長5年(927)大隅国贈於郡韓国宇豆峯神社 小
という記載となっている。
平安時代の原本は国宝となっている。どう書かれているかは確認できていない。
この古い時代の祭神は謎の神霊の辛國大明神とされている。
現在は韓国宇豆峯神社とされるがゆえに新羅に降臨した五十猛神となっている。
この構図は香春と似ているが意識的錯誤といえよう。
この件については金 達寿が「日本の中の朝鮮文化第11巻」で
吉野ヶ里 霧島 鹿児島という流れで古代朝鮮人が九州に国を開いていったと
記載している上に学会では過去にそれが支持されていたこともあったので
特別に注視している。
最近はDNA鑑定でその説はほぼ絵空事とされてきている。
再度添付しておくが吉野ヶ里の墳墓でも以下のように朝鮮経由は否定されている。
吉野ヶ里遺跡の考察
江南の長江流域文明からダイレクトに技術が渡来している可能性の示唆
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejge/68/4/68_621/_pdf
金達寿に関しては国賊の上田正昭が裏で暗躍している。
今や崩壊寸前の神社庁であるがここに朝鮮系を招き入れたとも噂されている。
あるいは解放運動に朝鮮系を招き入れたとも噂されている。
津田左右吉支持の左翼が歴史を捻じ曲げ神社本庁に潜り込み
日本神霊界を侮辱しその結果勲二等瑞宝章を授与され
韓国から修交勲章崇禮章を受ける様は戦後日本の象徴ともいえる。
ただし大正期の津田左右吉の主張はなかなかの気骨があり傾聴に値する。
『建国の事情と万世一計の思想』
http://aozora.binb.jp/reader/main.html?cid=53726

『歴史の矛盾性』
http://aozora.binb.jp/reader/main.html?cid=53742


ちょうど今日本ボクシング連盟の山根明会長(旧名:文甲明)のニュースを
見たのだがこれも構図が同じでやはり戦後日本の象徴といえる。
※上記内容は独り言に近いものと捉えていただきたい。


霧島の高千穂峰での祭祀の真実にはまだ分厚い封印が掛けられているようだが
現地調査で見えてくるものがないか期待している。

さくら様からとても興味深い情報をいただいた。
それは高千穂蛇という特殊な蛇についての情報なのだが
鱗が虹色に輝く夜行性の蛇でなかなか見ることが少ない蛇である。
この蛇が呉(長江流域)から渡来した外来種なのは間違いない。



ちなみに高千穂で発見されたから高千穂蛇と呼ばれているわけではない。
1883年に豊前英彦山の座主高千穂家を継いだ高千穂宣麿が
1888年に英彦山で発見し学会に報告している。

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