前回の記事で青銅の来歴の新発見について述べたが
鉄に関してはどうだろう。
古代日本の製鉄技術は朝鮮半島から渡来したとされている。
その中で特筆されるのは刀剣の分野である。
石上神宮に伝来した鉄剣で七支刀と呼ばれる国宝がある。

前ブログ記載の上田正昭によれば、
朝鮮からもたらされたという石上神宮の七支刀も
日本に献上されたのではなく文化・技術の発展した朝鮮より
未開の日本へ下賜されたものだという。
『東アジアの銘文刀剣一覧』
調べてみるとそもそも朝鮮では銘文入り大刀に関して
6世紀初頭の大刀は2振り発見されているのだが
それ以前のものは一振りも見つかっていない。
従って3世紀あるいは4世紀の製鐵技術を証明するものとしては
この日本伝来の七支刀頼りとなっている。
百済の文化財、遺物を集めた韓国の扶余博物館には
日本へ下賜したものとして七支刀のレプリカが誇らしく展示されている。
下賜したのは近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)で
百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり第11代の比流王の第2子とされる。
日本の『古事記』では応神天皇の治世に照古王の名が記されている。
『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、
百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が
日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、
友好を願ったと書かれている。
孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。
ところが肝心な七支刀の銘文には
泰■四年と記載されている。
西晋の暦には泰始があり泰始四年=269年となる。
しかしこれでは近肖古王の時代とつじつまが合わない。
それで東晋の太和4年=369年というようにつじつま合わせが為されている。
ただどんなに理屈をこねても泰は太ではない。
さらに調べてみると銘文は以下のように書かれている。
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世
百練 百兵 百□王 百が続く文章なのだが
百□王を百済となぜ確定するのかが疑問だ。
今なら百□王は子供に聞けば百獣王で私に言わせれば百越王となる。
また百が続くことを考慮すれば
故為倭王旨造も故為倭王百造とも考えられる。
七支刀詳細図面 拡大して確認のこと
拡大して自分の眼で見ないと真実にはたどり着けません。
上記図の百□部分拡大図

□の部分はどうみても済とは読めない。
王も実際には于となっている。
つまり素人考えではあるが
百越于という主張だって成り立つかもしれない。
※于とは為 仲がいいこと 友于で兄弟という意
百が並ぶ理由も呉人関与であれば
呉のトーテムの呉公=虫呉虫松=蜈蚣=百足ムカデとなる。
あるいは卑弥呼であれば倭迹迹日百襲媛命説にも百襲媛だし
魏志倭人伝「卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百歩。殉葬者百人余り」
とやはり百の連呼となっている。
『くだらない』という言葉がある。
歴史学者によると
日本に農作を伝えたのは現在の朝鮮にあたる百済の人々であり
百済の人々を頭の良い人としていたため、
頭が悪く話の通らない人を「百済ではない人」と呼び、
略され「くだらない」となったとする説、
あるいは
百済の朝鮮文明がとても発達していて、
百済にはありとあらゆる物があり、
もし百済にない物があるとすれば、つまらないもの、
つまりくだらないものだということが語源となるという。
百済渡来とされたこの七支刀も弥勒菩薩半跏思惟像も百済観音も
国宝制度発足の2年で百済渡来故に早々に指定されたのだが
百済観音などは百済とは縁もゆかりもないことが解っている。
まさに『くだらない』話だと思う。
後記
この記事を読まれる方の数は限られていると思うのだが
霊的にはこのブログの影響は大きい。
七支刀を調べろとの啓示で検索してみると
九州国立博物館で百済との交流展で展示されたとのこと。
HPの中にやはり七支刀の役割の終焉を感じさせる記事を発見した。
七支刀の実物と出会える最後のチャンスかもしれないと書かれているのだ。
たぶん九州国立博物館では非破壊検査をしていると思う。
いつの日か七支刀が日本で作られたことが
新発見としてニュースとなるかもしれない。


201909 追記
「くだらない」という語源についての話だが
筆者はあくまで皮肉で『歴史学者によると』と記載していたのだが
国語学者の見解を教えてくださった方がいらっしゃった。
この説は京都伏見や灘の酒は江戸人は『下り物』と言ってありがたがった。
それに対して現地でも美味しくないものは
下ることなく現地で消費されるので当然ながらわざわざ江戸には下らない。
つまり下らないものはツマラナイものという短絡的結論で
下らないという言葉が生まれたという。
これの伏線は『下り酒』や『下り諸白』という単語は
江戸時代の記録に見られるからである。
ただ下り物が良いものということには異論がないが
下り物でないものを短絡的につまらないといい
それが現代にまで残るほどに周知されたかということに関しては
いくらか疑義がある。
まず仮定する日本酒で良いものは全て将軍が居る江戸に集まるものという
天下の大江戸という自信と自慢が無いと
下らない物がつまらないとはならないという前提条件がある。
しかしながら江戸時代においても江戸庶民に
みやびの京ものにはかなりの憧れが見られる。
そう簡単には下らないもの=ツマラナイには至らないという問題がある。
鉄に関してはどうだろう。
古代日本の製鉄技術は朝鮮半島から渡来したとされている。
その中で特筆されるのは刀剣の分野である。
石上神宮に伝来した鉄剣で七支刀と呼ばれる国宝がある。



前ブログ記載の上田正昭によれば、
朝鮮からもたらされたという石上神宮の七支刀も
日本に献上されたのではなく文化・技術の発展した朝鮮より
未開の日本へ下賜されたものだという。

調べてみるとそもそも朝鮮では銘文入り大刀に関して
6世紀初頭の大刀は2振り発見されているのだが
それ以前のものは一振りも見つかっていない。
従って3世紀あるいは4世紀の製鐵技術を証明するものとしては
この日本伝来の七支刀頼りとなっている。
百済の文化財、遺物を集めた韓国の扶余博物館には
日本へ下賜したものとして七支刀のレプリカが誇らしく展示されている。
下賜したのは近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)で
百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり第11代の比流王の第2子とされる。
日本の『古事記』では応神天皇の治世に照古王の名が記されている。
『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、
百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が
日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、
友好を願ったと書かれている。
孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。
ところが肝心な七支刀の銘文には
泰■四年と記載されている。
西晋の暦には泰始があり泰始四年=269年となる。
しかしこれでは近肖古王の時代とつじつまが合わない。
それで東晋の太和4年=369年というようにつじつま合わせが為されている。
ただどんなに理屈をこねても泰は太ではない。
さらに調べてみると銘文は以下のように書かれている。
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世
百練 百兵 百□王 百が続く文章なのだが
百□王を百済となぜ確定するのかが疑問だ。
今なら百□王は子供に聞けば百獣王で私に言わせれば百越王となる。
また百が続くことを考慮すれば
故為倭王旨造も故為倭王百造とも考えられる。

拡大して自分の眼で見ないと真実にはたどり着けません。


□の部分はどうみても済とは読めない。
王も実際には于となっている。
つまり素人考えではあるが
百越于という主張だって成り立つかもしれない。
※于とは為 仲がいいこと 友于で兄弟という意
百が並ぶ理由も呉人関与であれば
呉のトーテムの呉公=虫呉虫松=蜈蚣=百足ムカデとなる。
あるいは卑弥呼であれば倭迹迹日百襲媛命説にも百襲媛だし
魏志倭人伝「卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百歩。殉葬者百人余り」
とやはり百の連呼となっている。
『くだらない』という言葉がある。
歴史学者によると
日本に農作を伝えたのは現在の朝鮮にあたる百済の人々であり
百済の人々を頭の良い人としていたため、
頭が悪く話の通らない人を「百済ではない人」と呼び、
略され「くだらない」となったとする説、
あるいは
百済の朝鮮文明がとても発達していて、
百済にはありとあらゆる物があり、
もし百済にない物があるとすれば、つまらないもの、
つまりくだらないものだということが語源となるという。
百済渡来とされたこの七支刀も弥勒菩薩半跏思惟像も百済観音も
国宝制度発足の2年で百済渡来故に早々に指定されたのだが
百済観音などは百済とは縁もゆかりもないことが解っている。
まさに『くだらない』話だと思う。
後記
この記事を読まれる方の数は限られていると思うのだが
霊的にはこのブログの影響は大きい。
七支刀を調べろとの啓示で検索してみると
九州国立博物館で百済との交流展で展示されたとのこと。
HPの中にやはり七支刀の役割の終焉を感じさせる記事を発見した。
七支刀の実物と出会える最後のチャンスかもしれないと書かれているのだ。
たぶん九州国立博物館では非破壊検査をしていると思う。
いつの日か七支刀が日本で作られたことが
新発見としてニュースとなるかもしれない。


201909 追記
「くだらない」という語源についての話だが
筆者はあくまで皮肉で『歴史学者によると』と記載していたのだが
国語学者の見解を教えてくださった方がいらっしゃった。
この説は京都伏見や灘の酒は江戸人は『下り物』と言ってありがたがった。
それに対して現地でも美味しくないものは
下ることなく現地で消費されるので当然ながらわざわざ江戸には下らない。
つまり下らないものはツマラナイものという短絡的結論で
下らないという言葉が生まれたという。
これの伏線は『下り酒』や『下り諸白』という単語は
江戸時代の記録に見られるからである。
ただ下り物が良いものということには異論がないが
下り物でないものを短絡的につまらないといい
それが現代にまで残るほどに周知されたかということに関しては
いくらか疑義がある。
まず仮定する日本酒で良いものは全て将軍が居る江戸に集まるものという
天下の大江戸という自信と自慢が無いと
下らない物がつまらないとはならないという前提条件がある。
しかしながら江戸時代においても江戸庶民に
みやびの京ものにはかなりの憧れが見られる。
そう簡単には下らないもの=ツマラナイには至らないという問題がある。